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4、こんな偶然ってあるのかな。
しおりを挟む今度こそ、最後まで書き終えて、命を絶つつもりである。
夏ごろより、わたしは、【作家きどりと抽象的な真如】という風変わりな小説に取りくんでいた。英語の題名は、The affectation and the abstract truth という。完成したら、小説を英文に翻訳しようと考えているのだ。
二十代の頃、英文学を集中して学んだおかげで、英作文には何の不自由もない。古典を読まなくなったネイティブになど、負ける気がしないのである。もちろん、日本語の美しさは格別なものであるが、世界の四分の一が英語人口なのだから。
屋形船の一件のあと、わたしは主治医に頼んでハーデス錠の量を増やしてもらった。輪をかけて、頭がぼんやりとして、眠くなった。
気がついたら、もう十二月中旬である。
正午過ぎ、窓の外は雪のような雨が降っていた。部屋の床はスケートリンクみたいに冷たかったが、スリッパの片方が見つからなかった。一歩も外へ出かける気にはなれなかった。食べるものが無かったので、ビールばかり飲んだ。毛布をかぶったまま、寝たり起きたりを繰り返した。
そのうち、カラフルな短い夢を見た。
妻と一緒に、逆回転するメリーゴーランドに乗っている夢だった。音楽も逆だった。ふたりで壊れたみたいに笑い、楽しんでいた。なのに、夢から覚めた途端、胸がいっぱいになって、涙が溢れてきた。
洗面所で顔を洗った。
鏡に映った自分を見て、ずいぶん老けたな、と感じた。そして、ふと、思いたった。久しぶりに聖十字病院に行ってみようか。
何故か、呼ばれているような気がするのだ。
わたしは、妻が長いあいだ入院していた病室の様子を思いだした。
壁に貼ってあったのは、ふたりがボストン美術館で買ってきた、ブレンダーガストのポスターで、ヴェネチアを描いた水彩画だった。小さな黒い冷蔵庫の上には、黄色いアフリカン・デイジーが三本、赤い花瓶にさしてあった。
ベッドに座った妻が、わたしをじっと見つめていた。
幾何学的に整った顔、神秘的なブラウンの瞳。薄い、グリーンの寝間着を着ていた。
わたしは胸が痛んだ。
三度の抗がん剤治療で、すっかり抜け落ちてしまった体毛。頭髪だけではなく、眉毛まで、完全になくなっていた。肥大した腫瘍によって、栄養をすっかり吸収され、もはや、性別の区別がつかないほど、やせ細っていた。当時の体重は、二十七キロを切っていたはずだった。
「こんな姿でごめんなさい。わたしには、どうしようも無いことなの」
と妻が言った。
「きみは、きみだよ」
とわたしは答えた。
心からの言葉だった。
天候は悪化していた。
タクシーのワイパーが、激しく雨をはねのけた。
「その信号を右だ」
とわたしは言った。酒のせいで、少し滑舌が悪かった。
「八時以降、正面入り口は閉まっているよ。反対側に回らないとね」
と運転手は答えた。
「もう、そんな時間なのか」
とわたしは言い、いつもの癖で左腕を見た。
しかし、妻から貰った腕時計はなかった。
やがて、車が聖十字病院の裏側に到着すると、料金を払った。
建物の向かいの道路には、救急車が一台、赤色灯を点滅させ、エンジンをかけたままで止まっていた。
どしゃ降りの中、わたしは傘も持たずに、夜間専用出入口に走りこんでいった。
鉄のドアの内側には、太った金髪の警備員の男がパイプ椅子に座っていて、汚れた壁にもたれかかり、目を閉じていた。夢を見ているのだろうか?
病院のエントランスは、化石のように静かで誰もいなかった。暖房は止められていて、吐く息が白くなった。わたしは、非常灯だけの薄暗いホールをふらふらと横切った。
それから、旧式のエレベーターに乗り、七階のボタンを押して、深呼吸した。珈琲の匂いがする。わたしは、頭の中でゆっくりと数字を数えた。
二階、三階、四階。五年前のことが思いだされた。
毎日、欠かさず通っていたのだ。あれから、一度もここには来ていない。病室から出られない妻のために、カフェで珈琲を買い、届けたものだった。妻は、夜カフェインをとると、眠れなくなることを心配していた。ほとんど、一日中、眠っていたのだけれど。
そして、七階。
エレベーターのドアが開くと、心臓の鼓動が早くなった。
わたしは、長く、暗い廊下を見わたした。
以前と、少しも変わっていなかった。
壁はクリーム色で、床は薄いピンクのカーペット。
壁際には、大きな水槽が置いてあって、むらさき色の熱帯魚がたくさん泳いでいた。
七階は、東病棟と西病棟に分かれており、妻が入院していたのは西側だった。
わたしは、そっちに歩いていった。
七階の西。
ナースステーションにさえ、誰ひとり、見かけなかった。ナースコールの音だけが、病棟のあちこちから鳴り響いていた。
703号室。
わたしは、丸い覗き窓のついたスライディング・ドアの前で立ちどまって、息をのんだ。
病室から、明かりがこぼれていた。誰かが、中にいるのだ。
軽くノックしてみた。
そして、おそるおそるドアを開け、わたしは病室の中に一歩だけ、足を踏みいれた。
大胆だな、と自分の行動に驚いていた。
あの部屋だった。
ここで、妻は亡くなったのだ。
窓際のベッドには、水色の寝間着姿の少女がいて、こちらを見ていた。鼻にチューブが繋がれていた。美しい、子どもだった。長くて、真っ直ぐな黒い髪。少女の肌は青白く、瞳が異様に大きかった。
「おじさん、誰?」
と少女が聞いた。
細くて、消えてしまいそうな声だった。
「ごめんよ。部屋を間違えてしまったようだ」
わたしはそう答えた。
「ハナっていうの」
と少女が言った。
「きみの名前なのかい?」
少女が返事をしないで微笑んでいるので、わたしはもう一歩近づいて、何かを伝えようとした。
「……」
背後で、ドアが静かに閉まった。
言葉が出てこなかった。どうしてか、妻の名前を思いだせなかったのだ。そして、急にはっきりとした。
「おじさんの奥さんもハナっていうんだ」
「ハナは、わたしの名前だわ」
と少女は困ったような顔になった。
「こんな偶然ってあるのかな」
わたしは、頭から血の気がひくのを感じた。
少女は近くにあったインド柄のクッションを抱き、わたしをじっと見た。
そして、
「おじさん、誰?」
ともう一度、聞いた。
「誰でもないよ。お邪魔して、悪かったね。さようなら」
と言って、わたしは出ていこうとした。すると、ドアが開いて、いきなり後ろから、
「どちらさま?」
と声をかけられた。
振り返り、わたしは本当にゾッとした。
あの時の女が、信じられないという顔で立っていたのである。
こちらだって、信じられなかった。
間違いなく、屋形船の女だった。
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