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5、こういうの、奇遇っていうのかしら。
しおりを挟むガラス窓の向こう側は、人造人間に命を吹き込むような、激しい嵐だった。
容赦ない稲妻が何度も光って、隣のビルの白い壁に不気味な怪物の影を描いた。
雷鳴は、その唸り声だった。
薄暗くて、誰もいない待合室、緑色のビニールソファに座り、わたしは女をぼんやりと待っていた。
なぜ、わたしが女の娘の病室にいたのか。
すっかり酔いは覚めていたが、説明するのは簡単ではなかった。
やましいことは何もないのに、不自然に早口になってしまった。
まるで、自分が作り話をしているような気分だった。
確かに、偶然にしては出来すぎていたのだ。
やがて、十分くらいすると、女が申し訳なさそうに待合室にやってきた。
化粧をしていない。
紺のブレザーとロングスカートという格好で、まるで女学生に見えた。
左肩から、ブラウンの革のバレルバッグをかけていた。
「お待たせして、ごめんなさい。でも、不思議よねえ。本当、こういうの、奇遇っていうのかしら」
「娘さんは、もういいのかい」
「帰るところだったから、九時で消灯なの」
女は、わたしのすぐ近くに腰かけた。金木犀の匂いがした。
「あれから、旦那のことが気になっていたのよ」
と言い、女はバッグから舶来物の煙草を取り出した。
「おいおい、病院だよ」
とわたしは止めた。
「大丈夫、誰もいないもの」
と女は言った。
「それもそうだ」
わたしも煙草に火を付け、一緒に吸った。
「逮捕されたんですか?」
と女は聞き、煙を美しく吐く。
「いいや。現金と腕時計を盗られたけどね」
「ひどい野郎ね。どっちが犯罪者だか。でも、旦那、前科にならなくて、幸いだったわよ」
何処か、遠くの方でカミナリがドスンと落ちた。
怖いのか、女は何度も瞬きをした。
「きみは被害なしか」
「ふふっ。川に飛び込んで、あいつがいなくなるまで、じっとしてたのよ。凍死するかと思いました」
「それはそれで、ご苦労だったな」
「必死だったわ。次に捕まったら、何ヶ月も出てこれないもの」
「監獄はいけない。かわいい娘が頼りにしているのだから」
すると、女は少し考えてつぶやいた。
「あの子、そんなに長く生きられないんですよ」
わたしは、余計なことを言ってしまったかなと思った。
「どこが悪いんだい」
「免疫不全。何十万人にひとりの難病なんですって。治療費なんかは、お国が全部払ってくれるんだけど」
「かわいそうに」
しばらく、ふたりは無言になって、強い雨の音を聞いた。
「旦那、夕食はまだなんでしょう。鰻を食べましょうよ。あたしが奢るから」
と女が言った。
「なんで、きみが奢るんだ」
とわたしは言った。
「やっぱり、あれはあたしが悪かったのよ。ねぇ、奢らせてちょうだい。それとも、鰻は嫌いかしら?」
「好きだよ」
「なら、行きましょうよ」
その時だった。
今度はかなり近くで、ドスンと大きなカミナリが落ちた。窓ガラスが、ミシッと揺れた気がした。
「きゃっ」
と女は声をあげて、わたしの左腕にしがみ付き、
「カミナリと地震だけは苦手なの。他は何も怖くないのにさ。ありきたりでしょう」
と照れていた。
松鹿町の鰻屋までは、タクシーで十五分かかった。女は、娘の病状について詳しく話してくれた。胸骨の後ろにあるリンパ器官の異常が原因で、全身の筋肉が次第に麻痺していき、最後は呼吸まで出来なくなって死ぬのだという。日々、悪化しており、娘はすでに歩けなかった。
「何の祟りかしらね」
と女は言った。
途中、嵐は通り過ぎてしまった。
雨もあがり、下車した時には、まぶしいくらいの満月が頭上にあった。
髪の毛が凍るような風が吹いていて、わたしたちは反対車線から店まで一気に駆けこんだ。
五卓だけの小綺麗な店内には、わたしたちだけだった。
「鰻は焼きあがるまで、四十分ほどかかります」
と小声で案内され、全然構わないよとわたしが答えると、太った店員はつらそうな顔になった。
歓迎されていない。
閉店間際だったのである。
申し訳ないから、二段になった特上の重を注文しておいた。もちろん、勘定はわたしが払うつもりである。
この店の名物の肝焼きは四本で一人前で、大きさが鳥のレバーほどもある。
山椒をたっぷりと振り、これをつまみにして、土佐の南幻里という辛口の酒を冷で飲んだ。女はグイグイと気持ち良く飲み、真っ赤になった。
わたしの方は、酔うには酔うが、あまり顔に出ない性分である。
「旦那、ご職業は?」
「働いてない」
「まだ、お若いのに。呑気なご身分なのね」
「そうでもないさ。長年、悩みもなく勤めていたが、ある日、急に嫌気が差した。心が壊れたから、止む得ずだよ」
と胸に手をあてた。
「思った通り、繊細な方ね」
「思った通り?」
「えぇ、なんだか、旦那は雰囲気が変わってるもの。最初、学者かと思った。英文学とか、ロシア文学とか、そういうのを大学で講義してる感じ」
「きみ、文学が分かるのかい」
「あたし、女学校の時は優等生だったのよ」
「へぇ」
「今でも、毎晩、必ず十ページだけ、図書館で借りてきた本を読むの。外国の小説が好き。知らない言葉は、面倒でも国語辞典で調べるわ」
「やるねぇ」
「文学を読めば、少しは上等な人間になれる気がするから。日進月歩。違うかしら?」
「その通りだよ。文学はいい。それで、きみは何を読んでいるのだね?」
「フランスの作家の【春を信じなければ】っていう、眠るようなロマンスなの」
わたしは息を呑んだ。
この世には偶然なんかないのですよ、というのが、妻の口癖であった。
なにもかも、起こるべくして起こるのだと。
ただ、人は頭で考えるから、その繋がりが見えないだけなのだと。
「きみ、住まいは?」
とわたしは話題を変えた。
相応のタクシー代を出してやって、ここで別れてしまおう。
わたしは、急に怖気づいたのである。
好意以上の、宿命を女に感じている自分に気づいてしまったのだ。
年甲斐もなく、みっともないことにはなりたくない。
「龍加賀の団地に住んでるの。ここから、地下鉄で四十分くらい。これもご縁だから、今夜はうちで泊まってくださいな。古くて狭いけど、掃除はきちんとしてあるのよ」
と、女は気軽に言う。
「ずいぶん、無防備だね。連れてかえって異常者だったら、大事じゃないか」
「旦那は平気。顔に書いてあるもの」
「人畜無害かな」
「ねぇ、いいでしょう」
「止しておく。近ごろ、薬を増やしたせいで、そっちのほうはサッパリなんだ」
「何もしないでいいの。添い寝してくれれば。なんだか、あたし、空っぽな感じがして、ひとりが嫌なんですよ」
返事に困っていると、タイミング良く、さっきの店員がお待たせしましたと言って、松葉の柄の立派な漆器の器と朱塗りの椀を奥から運んできた。
わたしたちは丁寧に蓋を開け、江戸時代からの伝統の技で調理されたという、見事な鰻に小さな歓びの声をあげた。
「大抵の鰻屋は、異常気象のおかげで、小ぶりなのを出すようになったけれども、ここのは、むかしと変わらない」
「本当、立派だわねぇ。あたしなんかでも、はっきりと違いが分かるわ」
「さぁ、冷めないうちに」
わたしは、山椒の瓶を先に女にすすめた。
「ありがとう」
しばらく、わたしたちは黙って食べた。申し分なかった。
「あぁ、幸せ。あたし、妙なジンクスがあってね、いつだって鰻をご一緒したひとを好きになってしまうの」
と女は言った。
「調子のいいことを言うね。鰻に誘ったのはきみのほうじゃないか」
とわたしは言った。
「だったかしら」
「お決まりでそう言うのかい」
「意地悪ね」
それから、女は急にアンニュイな表情になって、
「やっぱり、旦那、うちに寄ってくださいな」
と箸を置き、煙草を一本、わたしの口にくわえさせて、火をつけた。
「ひとりで帰ったら、ひどく落ちこんでしまうわ。楽しいのはいいのだけれど、その後が怖いのよ。波にさらわれる感じ。あたし、気の病なのかしら」
と女は言った。
「この時代、気の病にならない人間がおかしいのさ」
とわたしは煙を吐いた。
「旦那も死にたくなる?」
「なるよ」
「本気で?」
「あぁ」
「娘が死んだら、あたしが心中してあげましょうか?」
壁の染みを見つめ、わたしは軽く頷いた。
「約束ですよ」
女は冷たい手を伸ばして、わたしに指切りをさせた。
「だいぶん、飲んだね」
「えぇ、酔いました」
そう言い、女はまた酒をひとくち飲んだ。
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