作家きどりと抽象的な真如

野洲たか

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7、それは、半音階主義的で不安定なメロディだった。

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 粉雪が舞っていた。
 円形の公園に人の影は無かった。
 黒くて痩せた野良犬が、噴水の周りを彷徨っている。
 大晦日の昼ごろ、わたしはふらふらになって自分のアパートメントへ帰った。
 カーテンを開け、窓辺にぐったりと座りこんで、何日も洗っていなかったグラスにウィスキーを注いだ。
 あぁ、本当に参ってしまった。
 ひとり、酔っ払うしか無い。
 明日から新年なのに。
 こんな酷いことが、この世にあって良いはずがなかった。
 さっき、わたしは聖十字病院を訪ねてきたのだ。
 ノックしてハナの病室へ入ると、そこは空室になっていた。
「あの子どもなら、一昨日に亡くなりましたよ。そりゃあ、騒動でした。母親が半狂乱になりましてね。大暴れしたものですから」
 青いつなぎを着た、ひどく腰の曲がった清掃員の老女から、早口にそう告げられた。
 病室の窓ガラスは派手に破られ、冷たい風が吹きこんでいた。
 錯乱した母親が、パイプ椅子を投げたのだと言う。
 可哀想なハナ、お前は本当に死んでしまったのか。
 わたしは何かの間違いだと信じたくて、急ぎ足でナースステーションへ向かい、病棟の婦長を呼びだしてもらった。
 だが、十五分も待たされたあげく、やけにゆっくりと喋る、山羊のような人相の婦長からは、
「ご家族で無い方には、何もお教えすることが出来ません」
 と、言われてしまった。
「しかし、あなた、わたしとは何度も面識があるじゃないか」
 とわたしは抗議した。
 見舞いに来たときなど、気を利かせ、担当の看護婦たちにウズラ餅の差し入れまでしていたのだから。
「病院の規則なので」
 と婦長は頑なだった。
「ハナは、亡くなったのだね?」
 とわたしは構わずに訊ねた。
「申しあげられません」
 婦長は少しも表情を変えなかった。
 今さらだが、わたしはあの親子の何者でも無い。こちらで何か運命的な繋がりがあるかのごとく勝手に妄想していただけで、現実にはどのような関係も無かった。
 なら、仕方があるまい。
 わたしは財布から一番大きな札を一枚取りだして、何の躊躇いもなく、婦長にさっと手渡した。
 瞬間、婦長の山羊のような顔が、羊のように変化したのは気のせいだったろうか。
「神埼ハナちゃんが息を引きとったのは、二十九日の午前二時過ぎでした。死因は呼吸器不全。前日の夜九時には、母親のユメさんが到着されて、最期の瞬間まで付きっきりだったのです」
 婦長は形だけのいたわりをこめて言った。
「ハナは苦しまなかっただろうか?」
 とわたしは祈るように聞いた。
「はい、自然に眠るようでした。先週から次第に呼吸が浅くなっておりましたから、二酸化炭素ナルコーシスで、ほとんど意識の無い中、亡くなられたのです」
 婦長は、まるで自分の手柄のように答えた。


 眼下の寂しい公園を眺めながら、わたしは窓際でウィスキーを注ぎ続ける。
 二杯、三杯、四杯と飲んだ。
 いつの間にか、黒い野良犬が真っ白に変わっていた。
 もの凄い勢いで、突然年老いてしまったみたいに。
 北風が乱舞して、窓ガラスにぶつかる。
 激しく、何度もぶつかる。
 いっそ破れてしまえばいい!
 なんともやり切れない。
「ねぇ、あなた。こちらへ来て」
 と寝室からわたしを呼ぶ声が聞こえる。
 かすれた、弱々しい、けれど美しい声だった。
 きっと、あれは亡くなった妻なのだろうと思い、行くべきかどうか迷った。
 怖くはなかった。
 寝室のドアが開いている。
 さっきまで閉まっていたのに。
 気のせいだったかもしれない。
 七杯。いいや、八杯目のグラスを空けてしまうと、わたしはなんとか立ち上がることに成功して、壁の助けを借りながら斜めに歩き、うす暗い寝室の中を覗いてみたのだった。
 そこには、亡くなった妻が若いときのままの姿で、ベッドに静かに座っていた。
 みず色の浴衣に白い帯をしめ、姿勢良く、ポートレート写真のように。微塵も動かない。橋口五葉の耽美な浮世絵を思わせた。
 可憐だ。
 わたしはそれが夢であるのだ、と直ちに理解したので、何の躊躇いもなく、
「ハナ、久しぶりだね」
 と話しかけてみた。
「久しぶりもなにも。まだ、あなたとは出会っておりませんよ。私は二十二歳なのです」
 と妻が答えた。
「そうか、きみはそんなに若いのか…」
 とわたしは奇妙に納得した。
「夏の終わり、海軍の士官さんに求婚されたのだけれども、不健康を理由に両親がお断りしました。それからは読書ばかりの日々。もう、結婚はしないものだと諦めていたの。ねぇ、あなた、あなたが神戸に訪ねてくださるのは、私が二十六歳の冬でした。だから、それまでは辛抱して待っておりますわね」
 早く逢いたいものだ。
 あと、三年も待たなければならないのか…
 とわたしはひどく沈んでしまう。
 その途端、
「私が死んだあとも、女性におもてになって、結構なことですわねえ」
 と妻がつぶやいた。
 心臓が冷たくなった。
「それは、どういう意味だね?」
 とわたしは承知しているような、していないような心持ちで聞いてみた。
 妻はこちらをチラリとも見ようとしない。
 これ以上の会話を避けたいのか、白い壁をじっと見つめている。
 犬のような大きな影が映っていた。
 しばらく、わたしも黙ってしまう。
「さっさと行ってあげたら、どうなんですか」
 妻が口を開いた。
 遠くで犬の鳴き声がする。
「行くって、何処へ?」
 とわたしは訊ねた。
「もちろん、神埼さんのところに決まってるじゃないですか」
「神埼?」
「惚けないでください。神埼ユメさんですよ。ハナちゃんのお母さんです」
 わたしは息をのんだ。
「怖いのですか?」
 と妻が聞いた。
「怖いって?」
「死ぬのが、ですよ」
「ああ、そうだった。わたしは、あの女と確かにそんな約束をしたのだったね」
 娘が死んだら、あたしが心中してあげましょうか?約束ですよ…あの女は冷たい手を伸ばして、わたしに指切りをさせたのだった。
「死ぬ気になれないのなら、思いきって、そこにあるレコードをかけて聴けばよいのですよ。そういう気持ちに自然になれますから」
 と妻は言った。
 もちろん、彼女はカフェ『サントラ』のレコードのことを話している。
 有無をいわせない迫力があった。
 妻らしかった。
『ブラックホールのような女』か…。
 笑わないでください。このレコードを聴いた人間は、必ず自殺してしまうというのです。
 カフェの亭主は、少しずれたロイド眼鏡を左手の薬指で直して、そう言ったのだ。
 覚悟を決めて、わたしはレコードに針を落とす。
 パチ、パチ。
 ゆっくりとしたテンポで、彷徨う感じのピアノ曲が流れ始める。
 それは、半音階主義的で不安定なメロディだった。



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