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8、空っぽだわ。もう、なんにもないの
しおりを挟む二度、三度、玄関をノックした。
女は別段驚いた様子もなく、
「なんだ、旦那じゃないの。静かに入ってくださいね。娘が眠っているから」
と小声で言って、部屋に通してくれた。
むらさき色のビロードの部屋着で、胸もとが少しはだけていた。
わたしは靴を脱ぎながら、
「病院で聞いたんだが…」
と言いかけたが、女が人さし指を口許にあてて、声が大きいわ、と止めた。
泣いて腫れたのか、女の目付きが違って見えた。
何か、憑かれている雰囲気だった。
うっ。
一瞬、わたしは息を止めた。
魚が腐ったような異臭が部屋中にたちこめていたからだ。
理由はすぐに分かった。
怖ろしいものが、薄いレースのカーテン越しに見えた。
寝間着姿の少女が、仰向けでベッドに寝かされてあった。
すっかり、表情が土色になっている。
額や頬が崩れかけていた。
じっと直視することは出来ない。
「もう、三日だろう…」
残酷だと思いながらも、わたしはそう訊ねた。
「はい、三日になります。お医者が年末年始くらいは自宅で過ごしなさいって。久しぶりの親子水入らずなんですよ」
と女はつぶやいた。
わたしは返事に困ってしまう。
女は狂ってしまったのか。
「あらっ、なんだか臭いますね」
女はそう言うと、くたびれた茶色いカーテンを片寄せて、錆びた窓ガラスをちょっと苦労して開けた。
室温が一気に下がった。
「ほらっ、冷たいけれど、とても良い夜風が吹いておりますわ。雪は止んだのですか?」
「うむ、止んだ」
窓の外には、真っ暗闇の中、ラジオの電波塔の赤いランプが不気味に点滅しているのが見えた。
ふと、将来、無線を使って死者と交信できるような時代が来ないものだろうか、とわたしは馬鹿げたことを考えてしまう。
女はみどり色の座布団を床に置き、わたしをそこに座らせた。それから、自分は窓の敷居に腰かけて、ふわふわと虚ろな視線で煙草を吸い始めた。
わたしも自分の煙草に火を点けた。
「ねぇ、神埼ユメさん」
覚悟を決めて、わたしは話しかけてみた。
「そんな風にしていたって。つまり、きみはハナのことを分かっているのだろう」
「どうして、あたしの名前をご存知なの?」
「婦長に教えてもらったんだ」
「不公平だわ。あたしは旦那の名前を知らないのに。ねぇ、教えてくださいな」
わたしは名前を教えた。
「普通なのねぇ。つまらない」
と女は言った。
確かにその通りだった。
何の印象もない名前なのである。
しかし、こんな時に名前なんてどうでもいいじゃないか。
名前なんて。
わたしは苛立ちを覚えた。
すると、
「貯金ならあったの」
と女が真顔になって言った。
「そりゃあ、人様には言えない仕事だけど、あたしは一生懸命働いてきました。どんなに嫌なお客だって断らないで、我慢して…我慢に我慢して…稼いできたのです。あたし、お医者に頼んだのよ。金なら幾らでも払いますからって。そしたら、そういう問題じゃありませんって。死は、みんなに平等に訪れるとかなんとか。ふんっ、笑わせるわ。今さら、平等なんて言われたってねぇ。あたしたちが味わった地獄はなんだったの」
「きみは立派な母親だったよ」
とわたしは心から言った。
「この子だけは絶対に守りたかった。他には、何もありゃしない。旦那、あなただって、何にもなくなったら生きていけないでしょう。何のために?ねぇ、何のために?あたし、どうすればいいの?」
わたしの頭の中で、半音階主義的で不安定なメロディが聞こえた。
「だから、来たんだよ。きみと約束しただろう?」
とわたしは言った。
「約束したわね」
「あぁ、約束したよ」
「だけど、旦那は、もともと精神が病んでるじゃありませんか」
と女は言った。
「きみだってそうだろう」
とわたしは言った。
「いいわ、あたしは一向に構わない。だけど、そうしてしまう前にお願いがあるんです。近所に屋台が出ているから、一緒に年越し蕎麦を食べましょう。あたし、さっきからお腹が空いてるのよ」
そう笑うと、女は急に粋な鼻唄をうたい始めた。荒妙寺もののようだったが、わたしは音楽を詳しく知らない。
「こんな年寄りの道づれで良いのかい?」
とわたしは訊ねた。
女はうたうのを止めて、窓の外をじっと見詰めた。
今のは、退屈な質問だったろうか?
わたしは、吸いかけの煙草を灰皿で消そうとしたが、なかなか消えてくれない。
「始めから、旦那とは決まりだったのです」
こちらを向いた女の無表情さを見上げたら、雨月物語の亡霊のように儚げで、何とも、阿片でも吸った心持ちになった。
「神埼ユメさん、きみは美しいよ」
とわたしは言った。
「こんなものは、ただの脱け殻。あたしはたましいを亡くしてしまった。空っぽだわ。もう、なんにもないの」
と女は答えた。
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