パティシエは眠れない

野洲たか

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2、あなたは春を信じなければ。

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 十二月の中旬、画家の麻子デッラ・スカラ、四十歳がローマからやってきた。わずか二日間の短い滞在で、すぐに香港に発ってしまう。彼女の参加するグループ展が、ペニンシュラホテルで開催されるからだ。
 今回の東京での目的は、月島の倉庫街の大火事で十月に急死した実の弟、末松勇樹の墓参りであった。
 氷のような風が吹く火曜日の朝、麻子は弟の妻の末松ほしみに案内されて、台東区の光真寺を訪れた。
 勇樹の墓は黒色の自然石を使った上品なものだったので、麻子はほしみの趣味の良さに感謝した。ほしみもまた、麻子が持ってきた薄い紫色の仏花の美しさに心打たれた。


 翌日の夕刻、東京は粉雪が舞っていた。
 空港に向かう途中、麻子はシュークリーム専門店『オフィーリア』をふらりと訪ねてみたくなった。ミッドタウンのホテルからは、タクシーで三十分くらいだった。
 もう一度、ほしみさんに会って、何か大切なことを伝えなければいけない。
 しかし、その何かは考えても分からなかった。
「麻子さん、電話をくれれば、わたしがホテルに行ったのに」
「お店、空けられないでしょう。急にお邪魔して、ごめんなさいね」
「この天気だから、全然暇なんですよ。そろそろ、閉めようかと思ってたくらい」
「温かいもの、いただけるかしら?」
「もちろんです。どうぞ、おかけになってください」
 麻子は、初めて訪れた、狭いけれどセンスの良い店内を温かい眼差しで見渡した。ひとりも客はいなかった。
 オーダメイド家具らしい、ウォールナット材の二人がけテーブル・セットが三席。セピア色の優しい照明や、ライトグリーンのウィリアム・モリスの壁紙、BGMにかかっているサティのピアノ曲も心地よかった。
 ほしみがシュークリームを三つ白い皿に並べて、麻子にはロイヤルミルクティー、自分には珈琲を用意する。
 二人は窓際の席に座った。
「わたし。ずっと食べたかったのよ。勇樹が絶賛してたもの。芸術的なシュークリームだって。子どもの頃から、あの子の舌は誰よりも肥えてたわ」
 と麻子が言った。
「彼は一番厳しい批評家でした」
 とほしみは言った。
 麻子は笑顔で返して、親指と中指でシュークリームを丁寧につまみ、その半分だけを食べてみる。カスタードが下唇にわずかに垂れ、ピンクの舌がさっと舐めた。
「うん、これは素晴らしい。もうひとつ、食べてもいいかしら?」
「ありがとうございます」
 薄っすら、ほしみの目に涙が浮かぶ。素直にうれしかったのだ。
「ほしみさんが妥協しないで、本気で作っていることが伝わってくる」
 ミルクティーを一口飲み、麻子が言った。
「そのせいで、勇樹を死なせてしまったのかもしれません。麻子さん、わたしたちが別居したのは、このお店が原因だったんです」
 とほしみは言った。
「知ってるわ。あの子から、電話で相談されてたのよ。勇樹は、あなたの健康を心配してた。ワーカホリックじゃないだろうかって」
「ワーカホリック?」
「そう、仕事中毒」
 ほしみは返す言葉がなくて、皿の上のシュークリームを見た。そして、思った。
 たかがシュークリーム。
 それは十分すぎるほど分かっている。
「アルコール依存症と同じでね、仕事も量が過ぎると、自分の意志でコントロールが出来なくなって、心身ともに蝕まれていくのよ。ほしみさん、きちんと眠れてる?」
 ほしみは、首を横に振った。
「仕事していないとき、ひどい不安に襲われたりしない?」
 と麻子は、さらに聞いた。
 一瞬、ほしみは困ったような顔になったが、少し間をおいて、
「それでも仕方ないんです」
 と答えた。
 麻子は腕を組み、彼女をじっと見た。
 胸に熱いものがこみあげてくる。
「あなた、自分で分かっているのね?」
「はい」
 とほしみは認めた。
「勇樹が死んでからも、一日だって店を休んでいません。自分でおかしいと思いながら、そうしなければ、気がすまないんです」
 麻子は、ほしみの唇が微かに震えていることに気付いた。
 なんて、彼女は強いんだろう。
 やはり、弟が心から愛した女性だ。
「わたし、勇樹を愛していました。ふつうの愛し方じゃなかったかもしれない。それでも愛していました」
 ほしみは、外が見えない磨りガラスの窓を見つめている。目には涙がにじんでいた。
「弟は、まだそばにいるのよ。あなたには、それが感じられるかしら?」
 と麻子が言った。
「はい、心の中に」
 とほしみは答えた。
「いいえ、そうじゃないの。思い出とか、記憶ではなくて、あの子にははっきりとまだ意識がある。肉体は葬られてしまった…だけど、ほしみさんに大切なことを伝えてほしいって、朝方の夢に現れたわ。わたし、危うく忘れてしまうところだった」
 大真面目な表情だった。
 麻子は、勇樹の夢を実際に見たのだろう。それが、あまりにも現実みたいだったから、そんな風に感じてしまったのかもしれない。
 ほしみは、とにかく夢の話を聞くことにした。
「ほしみさん、弟には夢があったのよ。いつか、そうしたいと願っていたのに、叶わなかった夢が。それは、あなたをフィレンツェのウフィツィ美術館に連れていって、一枚の有名なルネサンス絵画を見せることだった」
 疲れたのか、麻子の声はかすれてきた。
「ボッティチェリの『春』ですね。勇樹のパソコンの壁紙でした」
 ほしみは、彼女に話を合わせているようだと思いながらも、そう言った。
 麻子が頷いた。
 高校を卒業するまで、勇樹はフィレンツェで家族と暮らしていた。姉が弟のお気に入りの絵画を知っていたって、何ら不思議はない。
「弟は、わたしに言ったわ。来年の春、あなたにウフィツィ美術館へ行くように伝えてくれって。それから、あの絵の前で、手紙をもう一度読んでほしいって」
「手紙?」
 とほしみは聞いた。
「あなた、手紙をもらわなかった?」
 あの手紙…心臓が震えた。
 勇樹は、手紙のことまで麻子さんに話したのだろうか?
「はい、もらいました」
 とほしみは正直に答えた。
「ほら、間違いないわ。ほしみさん、あの子の望み通りにしてあげて。信じられないかもしれないけれど、わたしは確かに託されたのだから」
「そんな、イタリアだなんて」
 ほしみは困惑した。
 麻子はほほ笑み、三つめのシュークリームに手を伸ばした。
「ローマから三時間くらいだし、わたしも付き合ってあげるから」
「ごめんなさい、麻子さん。無理です。やっぱり、わたしは行けません。そんなこと、ありえないもの」
 ほしみは、申し訳なさそうに言った。
「気持ちは分かるわ。でも、すぐに決めなくてもいいの。ゆっくりと考えて。これは、あなたたち二人にとって、とても重要なことなんだから」
 しばらく、二人は黙りこんだ。
 お互い、もう話すことはないように思えた。
 すると、突然、
「あなたにキスしてもいいかしら?」
 と麻子が言い、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
 その言葉は、まるで握手を求めるくらいに、何のためらいもなかった。
「どうして?」
 もちろん、ほしみは驚いた。
「急に愛おしくなったの」
 麻子はそう答えて、ほしみの肩にそっと左手をのせた。
「ねぇ、構わないでしょう?」
 それは、あまりにも唐突だったので、ほしみは頭の中が真っ白になり、そこに勇樹が立っているような気さえして、自然に頷いてしまった。
 二人は、唇を寄せあった。
 長い、長いキスだった。
 ほしみの瞳の中で、時間と空間がぼんやりと霞んでいき、ひとすじだけ涙が流れた。
「春にいらっしゃい」
 と麻子が言った。
「一週間はお店を休むのよ。きっと素晴らしい旅行になると思う。たくさんのスイーツショップを一緒にまわりましょう。マロングラッセやズコット、カンノーロ…ジェラートやティラミスだってある。何か、新しいアイデアが閃くかも知れない」
「わたし、なんだか怖いんです」
「弟がついているわ」
「勇樹は本当に喜んでくれますか?」
 とほしみは訊ねた。
「あなたは春を信じなければ」
 麻子がそう答えると、ほしみはその言葉の深い意味を理解しようと感覚を研ぎすませた。
「春を信じる…」
「そう、信じるのよ。Primavera …」
 麻子は、そうイタリア語で発音した。

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