パティシエは眠れない

野洲たか

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3、そして、心に思う。わたしはパティシエなのよ。

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 四月の最初の週だというのに、ホテル・メディチの部屋はひと晩中蒸し暑かった。
 あぁ、眠れない。
 末松ほしみは、オレンジ色のカーテンを端に寄せ、旧式の重い木の窓を苦労して開けてみたが、ほんの少しの風も吹いていなかった。
 仕方なく、はだかになって、かたいベッドで寝ころがり、空港で買った『嵐が丘』の文庫本を読み始めた。
 そのうちに眠れるだろうと思った。しかし、どんどんページをめくってしまい、やっと、うとうとしたら、鳥たちの鳴き声が聞こえ、空が白くなってきた。
 せっかく、花の都に来たのだから、徹夜明けの顔で出かけるのは避けたかったのに…
 結局、眠るのはあきらめ、水圧の弱いシャワーを浴びる。
 まったく化粧をしないで、紺の麻のノースリーブ・ワンピースを着る。
 そして、珈琲を求め、二階のラウンジへ向かう。

 十七世紀の建物を改造したプチホテル。
 歩くたび、廊下や階段がきしむ音がした。
 ほしみは、友好的な亡霊があちこちに潜んでいるのを空想して、挨拶したくなった。ボンジョルノと心の声で呼びかけ、子どもみたいに楽しんだ。
 誰もいないラウンジの席に座って、ほしみは背の高い窓の外を眺める。いつか、ヘレナ・ボナム・カーターが主演のイギリス映画で観た風景だった。
 堂々とそびえる大聖堂が、異星の文明に建造された宇宙船のようで、遠い過去か、未来にでも迷いこんだ気分になってしまう。
 まもなく、初老の無表情なウェイターが、ふたつの白い陶器のポットを運んでくる。ひとつには珈琲、もうひとつにはスチームミルクが入っている。自分の好みの量でブレンドして、ひとくち飲んでみる。それから、塩気のない硬いパンにチョコレートスプレッドをたっぷり塗り、突然、ほしみは幸せを感じて、悲しくなる。
 どうして、勇樹がいないのかしら、と思う。
 ここはフィレンツェなのよ。
 彼の第二の故郷。
 目を閉じて、さっき読んだ『嵐が丘』の言葉を頭の中で丁寧に再現してみる。


 キャサリン・アーンショー、わたしが生きているあいだは、決して安らかになんか眠らせないぞ。お前は、わたしのせいで死んだのだろう。ならば、あの世から化けてでろ!恨みを晴らせばよかろう。きっと、たましいはあるのだ。さぁ、取り憑け。どんな姿でもかまわないから。わたしを狂気に走らせろ。だが、どうか、ひとりぼっちにだけはしないで欲しい。神よ、何と言えば、分かってもらえるだろう。わたしから、たましいを奪うな。たましいを奪われたら、生きられるわけがない。


 ソウルメイト…という言葉をふと思いつき、ほしみは目を開ける。
 世界がほんの少しだけ明るくなり、永遠の何かが冷たく背中に触れたような気がして、大粒の涙がながれる。


「セニョリーナ、ケ・コーザ・スッチェーデ?」
 あのウェイターが近づいてきて、優しく訊ねた。
 ほしみは言葉の意味が分からず、
「ノー・イタリアーノ」
 と答える。
「ユー、オーケー?」
 とウェイターが聞きなおす。
「オーケー。サンキュー」
 とほしみが答える。布ナプキンで涙を拭く。
 ウェイターは、可哀想にという顔になって、
「ジャスト・モーメント」
 と言い、ラウンジの奥へと引っ込んでしまうが、すぐに戻ってくる。
 彼が嬉しそうに皿で運んできたのは、ひとつが三センチくらいの小さなシュークリームたち。ピラミッドのように重なりあって、闇色のチョコレートソースが美しくかかっている。プロフィッテ・ロール、またはビニエと呼ばれるイタリアのお菓子だった。
「プレゼント・フォー・ユー」
 とウェイターはイタリア語なまりで言った。
 一瞬、戸惑ったけれど、ほしみの顔がパッと明るくなった。
「grazie!(ありがとう)」
 そして、心に思う。
 わたしはパティシエなのよ。

 ちょうど、七時になった。
 東から西から、南から北から、街中の鐘が一斉に鳴り始める。
 すぐ近くにあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のジョット鐘楼の音は、特に神々しく響きわたった。
 ここはフィレンツェだ。


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