パティシエは眠れない

野洲たか

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4、あなたは、スピリチュアルなひとなのね。

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 朝食のあと、末松ほしみは、三十分くらい部屋で仮眠した。そして、海に浮かぶクラゲになった夢を見た。起きてからも、ふわふわとした感覚は残った。
 九時になり、ロビーへ下りていく。
 勇樹の手紙は、黒いポシェットに入れてある。
「ほしみさん、ようこそ!」
 麻子デッラ・スカラが、コンシェルジェ窓口のミルク色のソファから、さっと立ち上がった。昆虫のようなGUCCIのサングラス、シルバーに染めたベリーショートの髪、ピンクのスプリングコートを着て、白いスニーカーを履いている。
「一週間、お世話になります」
 とほしみがお辞儀した。
 すると、麻子はすたすたと近づいてきて、彼女の唇にキスした。ごく当たり前に。リップが、ネクタリンのフレーバーだった。
「困ります…」
 ほしみは顔を真っ赤にして、麻子から何歩か離れてしまった。
「あら、ごめんなさい。この前は嫌がらなかったから、平気だと思ったの」
 と麻子はサングラスを外して、満面の笑みを浮かべた。青い、カラーコンタクトを付けていた。
 魔女みたいだ、とほしみは思った。
 麻子さんは女性が好きなのかしら。
 でも、結婚しているし、子供だって二人いるはず…


 ふたりは、昨夜何時に着いたとか、今週の天気はどうなるだろうとか、そんなことを立ち話したあと、ホテルを出発して、ウフィツィ美術館をめざした。


 腫れぼったい太陽の下、中国人観光客で溢れるドゥオモ広場を抜ける。
 中世の美しい街並みを楽しむどころか、ほしみは呼吸困難になりそうだった。ひどい人混みを避けるため、交通規制が行われているプロコンソロ通りを歩くことにする。
「あなた、大丈夫?顔色が悪いわ」
「ずっと、寝不足なんですよ。旅で興奮しているせいですね」
「睡眠薬をわけてあげる。わたし、あれが無いと一睡も出来ないの」
「睡眠薬ですか……飲んだことありません。興味はあります」


 未完の館(ノンフィニート宮)の横を通ったとき、麻子は、このゴシック様式の窓跡こそが純粋芸術の理想的な例なのだ、と力説した。また、フィレンツェ最古の教会(バディア・フィオレンティーナ)の前では、そこで七百年前に起きたと伝わる喜劇のような惨事について、今朝見たニュースみたいに活き活きと語った。
「どう?この街の印象は?」
 歩きタバコを吸いながら、麻子が得意げな口調で訊ねた。
「……」
 ほしみは答えられない。
「ねぇ、ほしみさん、街全体が美術品みたいでしょう。わたしは、こんな特別な場所に生まれ育った人たちが心からうらやましいと思う。でも、実際、ほとんどの若いフィレンツェ市民たちはルネサンスに興味が無いそうよ。一生のうち、一度もウフィツィ美術館やピッティ宮殿に足を踏み入れない人だって珍しくないのですって。彼らは、ニューヨークやロンドン、東京で暮らすことに憧れてるのよ」
「わたしは……」
 とほしみは言葉を探す。
「正直、まだ分からない。心から好きになれるかどうか。疲れているからかも知れません。もっと、ゆっくり時間を過ごせば、はっきりすると思います。確かに、この街は美しい。それは誰にも否定できないでしょう。だけど……」
「だけど?」
 麻子が、煙を吐く。
「わたし……なんだか、この街にたましいを吸い取られていく気がするんです」
「面白い意見だわ。あなたは、スピリチュアルなひとなのね」
「変なこと言って、ごめんなさい」


 それから、ふたりはしばらく会話しなかった。
 昔は監獄だったバルジェッロ美術館、革製品やくだものを売る露店が並ぶサン・フィレンツェ広場を過ぎ、レオーニ通り、カステッラーニ通り、サポナイ通りに沿って行き、遂には、カプチーノのような色の静かな川にたどり着いた。
「アルノ川よ」
 立ち止まり、麻子が言った。
 いつのまにか、ほしみの息苦しさは消えていた。
 疲れていなかったし、眠くもなかった。
 からだが不思議に軽い。
 それは、これまでに感じたことのない軽さだった。
 心地よい、みず色の春風が吹いている。
 右手には、有名なヴェッキオ橋……そして、すぐ近くにウフィツィ美術館が見えた。



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