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5、この世界には、何かを真剣に究めようとする人にしか見えてこない素敵なものがある。
しおりを挟む北の空を見上げると、おおぐま座がはっきりと分かった。
宇宙が近くにある。
その夜、末松ほしみ、麻子デッラ・スカラ、それから、麻子の芸術家仲間のアメデオ・フェラーリは、オルトラルノ地区で集まることになった。
三人は、アルノ川沿いのサント・スピリト聖堂の近くにある『カサリンガ』へ行った。本物のトスカーナ料理を味わえる、フィレンツェの庶民でにぎあう食堂だ。
注文したのは、パンツァネッラ・サラダ、旬では無かったがアドリア海の天然ムール貝のミルク煮、辛いトマトソースと黒キャベツのパスタ・ファジョリ、ポルチーニのオーブン焼き、ビステカ・アッラ・フィオレンティーナ(フィレンツェ風ステーキ)。
「それで……ぐっすり眠れた?」
キャンティ・クラシコを小さなグラスに注ぎながら、麻子が訊ねた。
ほしみは、いいえと首を横に振る。
「変よね、睡眠薬が効かないなんて」
「睡眠薬?」
アメデオが、完璧な日本語の発音で驚く。
彼は、鎌倉に九年住んでいたことがある。
「ほしみは頭がいっぱいで眠れないのよ。あらっ、呼び捨てにしちゃった。構わないわよね?わたしたち、姉妹だもの」
そう言って、ほしみの右頬にキスした。
軽く、触れる感じで。
それくらいなら、嫌じゃなかった。
もちろんです、ほしみは頷き、気分よくワインを飲み干す。東京では、あまりお酒は飲まないけれど。
鮮やかなサラダが運ばれてきて、赤ワインビネガーと黒胡椒をかけ、みんなで食べ始める。トマト、オリーブ、トスカーナパン、ペコリーノ・チーズ、バジル、紫タマネギ、人参、セロリ、キュウリ、ニンニク。
結局、昼間、ふたりはウフィツィ美術館に入場できなかった。臨時休館だったのである。理由は分からない。エントランスでは、何十人もの観光客たちが抗議していた。
仕方なく、シニョーリア広場のpizzeriaで生ハムのパニーニとブラッドオレンジジュースのランチを済ませ、ホテル・メディチに戻った。
麻子は、サンマルコ修道院でフラ・アンジェリコの『受胎告知』を見せたかったのだけれど、ほしみは日暮れまで部屋で休みたいと言ったのだった。
次々、シンプルで豪快な料理が運ばれて、テーブルが狭くなっていく。
「ほしみ……ほしみ……美しい名前だね。確か、北海道の駅の名前にあったな」
とアメデオが言った。
この人には好感が持てる、とほしみは思う。
五十代前半、長身で痩せ型、白髪混じりのハンサムで、明るいイタリア人。そのグリーンの瞳の奥には、真っ直ぐな誠実さと知性を認めることが出来た。初めて会ったのに、なぜか信じられる……温かさ。
「アメデオさんも画家なんですか?」
ほしみが、赤くなった顔で質問する。
「いやぁ、まいったな。きみは、あの偉大なる芸術家、アメデオ・フェラーリを知らないのかい?」
ひどく傷ついたよと言わんばかり、大げさなジェスチャーで手を心臓に当てて、アメデオは笑う。
「アメデオは有名な写真家よ。五年前、フィレンツェの野良猫たちを撮った写真集が四十万部も売れたの。だいぶん、印税は使ってしまったみたいだけど」
「違う、違う。五十万部だよ。それに、ぼくの被写体は野良猫なんかじゃない。ガット・リベロ、自由猫さ!」
アメデオが、ほしみにウインクする。
「なのに、アメデオは動物が大の苦手なの。犬も猫も、撫でることが出来ないくらい。信じられないでしょう?好きなのは、美しい女性だけ。だから、独身貴族。ほしみも、気をつけたほうがいいわ」
と麻子は意地悪そうに笑った。
「ぼくが独身なのは、きみがあの三十歳も年上の、いつだって上の空な物理学者と離婚するのを待っているからなんだ」
「アメデオ、ありがとう。わたし、本気にしてしまいそうだわ」
アメデオは、麻子にもウインクする。
「麻子さんの旦那様、物理学者なんですか?なんだか、意外です」
とほしみが言う。勝手に、芸術関係のひとだと思っていたのだ。
「そう。しかも、夫は国宝級の天才だわ。毎年、ノーベル賞の候補にあがっているの」
「すごい、ノーベル賞ですか!」
「ふん。ぼくの才能に比べたら、そんなのは大したことないね。なんてったって、ぼくは芸術のために悪魔にたましいを売った男なんだから」
「Bravo, アメデオ!」
突然、麻子は立ち上がると、アメデオを優しく抱きよせた。
彼も戸惑っていない。
ふたりは、場所もかまわず、本当に情熱的な、濃厚なキスをする。
周囲の客たちが気付き、一斉に冷やかしの声をあげる。
陽気な黒人のウェイトレスは、口笛を吹く。
ほしみは呆気にとられてしまう。
なんて、自由な人たちだろう。
アルコールのせいか、それとも、まだ睡眠薬が残っているからか、ほしみは自分がどこにいるのか分からなくなってしまう。
やがて、三人は満腹になり、たくさんの空いた皿が手際よく片付けられて、カプチーノとティラミスが運ばれてきた。
麻子は、ほしみがフィレンツェを訪れた理由をアメデオに説明する。
つまり、勇樹の死、あの冬の朝の夢、サンドロ・ボッティチェリの『春』に会わなければならないことを。
アメデオは腕を組んで、瞬きもせずに熱心に聞いていたが、
「実は、テロの予告があったんだ」
と、小声で喋りだした。
「きょうの昼、偶然、ぼくはウフィツィの学芸員と一緒だった。まだ公式発表されていないが、昨夜、マフィアが館内に爆弾を仕掛けたらしい。安全が確認できるまで、美術館は一般公開されないだろう」
「あぁ、神さま、なんてこと。また、あの悪夢が蘇るのね」
と麻子は言った。
「蘇る?」
とほしみが訊ねる。
酔いが、一気に覚めてしまいそうだった。
「あれは、九十三年の五月だったわ。五人が亡くなったの。ひとりは赤ん坊だった。その時の深い悲しみを忘れないため、ウフィツィの裏通りには一本のオリーブの木が植えられているのよ」
「なぜ、マフィアが美術館を狙うんです?」
とほしみ。強い憤りを感じている。
「イタリア政府への脅かしだよ。我々を甘くみると、痛い目にあわせるぞってね」
とアメデオが諦めたように答えた。そのことに対して、わたしたちには何もできないのだと。
ふと、ほしみは勇樹の眠る墓のことを考える。
そこにあるはずの無い、一本の古いオリーブの木を想像する。
そして、あのひとが死んでしまったということが分からない、
「この国では、誰もが分かる形で、法律よりも闇社会のルールが優先されることがあるんだ。大物政治家の汚職だって、めずらしいことではない……あぁ、こんな話、せっかくのdolceが不味くなるね」
とアメデオは話を終わりにした。
「とにかく、ほしみの滞在中にウフィツィ美術館が開館することを祈るよ」
突然、ほしみは、きょう一日、ずっと曖昧だった気持ちを言葉にしてみたいという衝動にかられた。
「わたし、フィレンツェが好きです。明るいところも、暗いところも。夫が愛したこの街が好き。なんだか、長いトンネルを抜けた感じだわ。この感じは……うまく言えないけど……これは、新しい希望なのかしら?」
ほしみは、いつもの癖で下唇を噛んだ。
自分でも酔っているな、と思う。
「ぼくと握手してくれないか?」
さっと席を立ちあがり、アメデオが言った。
「ほしみは、本物のパティシエなんだね。この世界には、何かを真剣に究めようとする人にしか見えてこない素敵なものがある。きみは、それを発見したのかも知れない」
ほしみも右手を差し出す。
アメデオの言葉は理解を超えている。
でも、彼が信頼できる人物であることが分かる。
カプチーノを飲みながら、麻子が遠い目でふたりを見ていた。
三時間後、月明かりの下、ホテル・メディチの部屋のベッドで、ほしみは麻子と一緒だった。
生まれたままの姿で、タバコを交代で吸いあっていた。性的な交渉は一切なかったが、双子のように、ふたりはぴったりと寄り添っていた。
「ねぇ、麻子さん…」
ほしみが、寝言のように話しかける。
「本当に勇樹の夢を見たんですか?」
「どちらでもいいじゃないの」
と麻子は答える。
「でも、確かに、わたしは導かれてる感じがあるんです」
麻子の白い腕に包まれながら、ほしみはまた眠れない予感があった。
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