パティシエは眠れない

野洲たか

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6、たまごは世界なのだ。

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 滞在の二日目。
 音もなく、細かな雨が降っていた。
 午前中、末松ほしみは、ホテルでむらさき色の傘を借り、麻子デッラ・スカラに連れられて、もの静かな住宅街へ遠出した。念願のパティスリー・クエルチを訪れるためだった。
 数年前、敬愛する尾山台のパティシエが、ラジオのインタヴューの中で、クエルチのシュークリームを食べると、たましいが浄化されると話していたのである。
 大きなショーケースに並んだシュークリームは、いろいろなフレーバーがあった。ほしみは、店員から一番人気だと教えてもらったヘーゼルナッツクリームを選ぶ。麻子は、オレンジクリームを…柑橘類で気を発散させたいのだと言う。
 壁際のテーブルに座り、エスプレッソと共に一口食べた途端、ほしみは驚きと恥ずかしさで、頬を赤く染めてしまった。
 完敗だった。
 どうしたら、こんな魔法のようなスイーツが作れるのだろうか?
 誕生日のロウソクの火のように、これまでの自信は吹き消された。
 わたしは……プロフェッショナルなんかじゃない。
 急に黙り込んでしまった彼女を見て、麻子はヘルマン・ヘッセの言葉を思い出す。

 たまごから、鳥が出ようとしている。
 たまごは世界なのだ。
 生まれる者は、その世界を壊さなければ。

 四年前、勇樹から麻子を紹介されたとき、ほしみは彼女の独特の性格が理解できず、戸惑うばかりだった。いや、恐怖さえ感じていた。芸術家に常識は通用しない、なるべく距離を保たなければ、住む世界が違うのだから。
 だが、ある日、航空会社の会員誌に特集された麻子デッラ・スカラの記事を見てからは、ほしみの受け止め方が変わった。
 表紙に掲載されていたのは、裸の西洋人の老婆が、鏡に映った自身を睨んでいる灰色の絵画だった。鏡の中の老婆は少女の頃の姿である。老婆も少女も美しいわけではなく、ごく普通の人物として描かれていた。
 麻子は、その作品『泥棒(ラードゥラ)』について、テーマは常に時間との闘いなのだと答えていた。
 ほしみは、麻子と繋がった気がした。本能で分かり合えたような気がした。
「もし、人あたりの良さや、そのひとの利用価値だけで付き合いを選んでいたら……それこそ、人生は味気ないものになってしまう」
 と勇樹も言っていた。

 それから、アメデオ・フェラーリのこと。
 ほしみは、もし夫を愛していなかったら、年齢がもっと近かったなら、あのハンサムな写真家にきっと恋していただろうと思う。
 アメデオは永遠と瞬間を同時に生きている。映画に登場する悲しい吸血鬼のように。自由奔放なボヘミアン、情熱的でロマンティックな詩人。なにより、バーネット女史の『小公女』の父親のような包容力を感じさせる。それは、男性と女性がはっきりと違う生きものであることを深く理解しており、さらにその上で、女性という怪物を尊敬しているからなのだろう。


 滞在三日目の午前中、アメデオは、ホテルの部屋が殺風景なのが良くないと、アイリスの花束とガレ風の花瓶、そして、遠慮がちに自由猫の写真集を届けてくれた。
「アイリスは確かフィレンツェの紋章だったかしら」
 とほしみが訊ねたら、
「アイリスは、アイリスさ」
 と彼は答えた。

 気持ち良く晴れた午後、麻子はエクセルシオール・ホテルでスパの予約があったため、ほしみはアメデオと一緒に、アカデミア美術館に行くことにした。アメデオはミケランジェロのダヴィデ像を退屈な大理石のかたまりだと言ったが、ぜひ見ておきたかったのである。
 結局、アメデオの言った通り、ほしみもダヴィデ像を退屈だと思った。もしかしたら、彼の暗示にかかってしまったのかもしれない。

 そのあと、ふたりはフィレンツェ美術学校の前でピスタチオのジェラートを食べた。
 日差しは強く、肌は焼けていき、夏の扉が開いたようだった。
 勇樹は決して海で泳がないくせに、夏を愛するひとだった、ほしみはそんなことを思い出していた。
 突然、
「Mamma mia!(神さま!)」
 とアメデオが、びっくりするような声をあげた。
 街灯に止められた黄色い自転車の下から、一匹の黒い猫がふたりを見ている。
 エメラルド色の瞳。ふわふわとした、ぬいぐるみのような毛並み。
 あの猫だ!
 ほしみにも、一目で分かった。
 あれは、アメデオ・フェラーリの写真集の表紙に写っていた自由猫である。
「アメデオ、あの子ですよね?」
「そう、彼がジュリアーノさ」
「すごい偶然だわ」
「運命だよ」
「美しい」
「だけど、ここでは黒猫は不吉だという迷信があって、容赦なく殺されてしまうんだ。年間に六万匹以上が被害にあっている。本当に良かった……生きのびてくれて」
「……」
 なんて野蛮な国だろう。
 ほしみは言葉を失う。
「ジュリアーノは、なかなか賢いから」
「飼い主がいないのに、どうして彼には名前があるのですか?」
「出逢ったとき、そう自己紹介してくれたんだ。芸術家にしか通じない神秘的な言葉でね。おやっ、何か喋ったぞ。どうやら、ぼくたちを何処かへ案内したいみたいだ……」
 ジュリアーノはのそりと立ちあがると、日陰を選んで石畳の道を歩き始める。
 そっと後ろを追いかけてみる。
 長い尻尾を優雅にふって、右へ左へ曲がり、坂を上ったり下ったり、複雑な路地をさ迷っていく。
 そのうち、何処からともなく、氷のように冷たい風がさぁっと吹き抜ける。
 気味が悪くなって、ふたりは顔を見合わせる。

 そこは、道路工事中のフューメ通り。
 砂ぼこりが舞っている。
 気付けば、ジュリアーノは古い写真館の入口に寝そべっていた。
 錆びたアルミの看板には、FOTO STUDIOと紅く書かれてある。
 ふたりは近寄ってみた。
 そして、ほしみの目はショーウィンドウに飾られた、たくさんの白黒写真のうちの一枚に釘付けになってしまう。
 見間違えるはずがない。
 そこに写っていたのは、十代の頃の末松勇樹だったのである。



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