パティシエは眠れない

野洲たか

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7、この旅は、最初からそういう風に決められていたのだから。

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 ガシャーン!
 背後の工事現場から、金属がぶつかり合うような大きな音が聞こえた。
 しかし、末松ほしみは、そんなことを気にしていられなかった。
「アメデオ、これは、麻子さんのアイデアですか?」
 そう言って、彼女は下唇を噛む。
 冷たい水を浴びせられたような気分だった。
「麻子のアイデアだって?」
 アメデオ・フェラーリは驚いていた。
「ひどい悪戯だわ」
 とほしみが、さらに抗議する。
 アメデオは慌てた。
「待ってくれよ。何のことだか、ぼくには全然分からない」
 ほしみが、勇樹の写真を指差す。

 少年、末松勇樹は、黒いタートルネックを着て、三十度くらい首を右に傾け、噴水のある公園のベンチに座っている。大人になってから、愛する妻によくそうしたように、少し悲しげに……

「なぜ、勇樹の写真があるの?」
 薄っすら、彼女の目には涙があった。複雑で、混乱した気持ちだった。
 数秒のあいだ、アメデオは理解しようとする。
「ふむ。つまり、この美しい少年が、きみの旦那さんだってことなのかい?」
 そう言われて、ほしみは気付く。
 アメデオは本当に知らなかったのだ…口調から、嘘を言っていないことが分かった。

 太陽のひかりが痛い。
 額に汗が流れる。
 ほしみは助けを求めるような表情で、その通りだと頷いた。
「面白くなってきたぞ」
 とアメデオが言う。
 そして、ふたりは、ジュリアーノがどこへ消えてしまったのかと辺りを見回した。


 その百年の歴史がある写真館の女主人、マルタ・クレメンティは、薄暗い室内でも真っ黒なサングラスをかけていた。三年前から角膜潰瘍を患い、今年になって、遂には失明してしまったのだ。
「残念だわ。半年早く訪ねてくれたら、勇樹の奥さんの顔を見ることが出来たのに。あなたは天使みたいに綺麗な声をしていますね。私には、日本語は分からないけれど」
 見るからに上品な、初老の美しいグレイヘアの婦人は、店のカウンター横のロッキンチェアに揺られながら、突然やってきた二人をあたたかく迎えてくれた。
「ありがとう。あの子を愛してくれて」
 とクレメンティ婦人がほほ笑んだ。
「どうか、夫の話を聞かせてください」
 アメデオの通訳があまりにも自然で滑らかだったので、ほしみは自分がイタリア語を理解しているような気になってしまう。
 アルバイトの学生が、奥からエスプレッソを三つ運んできた。
「もしかしたら、こんな話をするべきではないのかもしれない。でも、これも巡り合わせですものね」
 クレメンティ婦人はそう話し始めた。
「私には、ソフィという美しいひとり娘がおりました。末松勇樹は、娘のボーイフレンドだったのです。二十年も昔のことだから、気になされないで」
「わたしは平気です。続けてください」
 とほしみは笑い、アメデオが訳した。
「十四歳の夏、娘は学校の検診で胸に腫瘍が見つかりました。大きくなりすぎていて、ローマの大学病院でも摘出は無理だと診断されました。仕方なく、抗ガン剤を試したのですが、つらい副作用だけで、ほとんど効果はありませんでした」
 アメデオは、なるべく分かりやすい通訳を心がけながら、どんどん心が沈んでいった。
「結局、八ヶ月、郊外のホスピスに入院しました。髪の毛はすべて抜け、体重だって三十キロもありませんでした」
 サングラスを通して、クレメンティ婦人は遠い過去を覗いているようだった。泣いているのかどうか、分からなかった。
「それでも、娘は幸せだったのですよ。一日も欠かさず、勇樹がバスに乗って見舞いに来てくれたのだから。本当に毎日です。花を届けてくれたり、本を読んでくれたり、歌ったりしてくれました。最期まで、精いっぱい道化を演じて、ソフィを慰めてくれたのです」
 そんなことがあったなんて…
 あのひとは愛をまっとうしたのだ。
 ほしみは、胸が熱くなった。
「今でも、私は勇樹に感謝しています。あの子たちはまだ子どもだったけれど、真実に愛し合っていたのです。娘が逝ってしまうと、勇樹は深刻なうつ病になりました。治療のため、両親がベネツィアの施設に入れたと聞きました」
 誰も、エスプレッソを飲まなかった。
 クレメンティ婦人の話には驚かされたが、ほしみは落ちこまなかった。むしろ、夫を誇らしく思った。
 それから、三人は握手を交わした。

 別れを告げ、写真館から出て行くとき、アメデオが急にすすり泣いた。
 悲しみからではない。それは、理解を超えた感動だった。
「ねぇ、ほしみ」
 とアメデオが囁くように言う。
「なんとしても、きみはウフィツィ美術館へ行かなければ。そして、勇樹との約束を果たすのだ。この旅は、最初からそういう風に決められていたのだから」
 ほしみは、フューメ通りを中央駅に向かって歩きながら、もう一度、クレメンティ婦人から貰ったあの写真を見た。
 それは、ソフィ・クレメンティが生涯たったひとり、人生で最愛のひとを捉えた永遠だった。
「勇樹、かっこいい」
 とほしみは言った。
「きみが愛した男だからね」
 アメデオの目から涙が消え、表情は限りなく穏やかだった。
「何か書いてあるわ」
 ふと、ほしみは気付き、写真の裏面をアメデオに見せた。

 Ognissanti
 と鉛筆で書かれてあった。

「オンニサンティ…教会の名前だよ。ボッティチェリとシモネッタの墓があるんだ」
 とアメデオが答える。

 ボッティチェリ、シモネッタ……。
 確か、旅行ガイドにこうあった。
 フィレンツェ一の美女と讃えられた、シモネッタ・ヴェスプッチは、サンドロ・ボッティチェリの『ビーナス誕生』や『春』のモデルだと言われてきた…

「これも、偶然なの?」
 おそるおそる、ほしみが口に出した。
 すると、アメデオは答えた。
「しかも、シモネッタは偉大なるロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリアーノの愛人だった。そう、ジュリアーノだよ」
 黒猫の鳴き声が、聞こえたような気がした。




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