パティシエは眠れない

野洲たか

文字の大きさ
8 / 12

8、それは、夢ではなかったの。

しおりを挟む

 その夜も、末松ほしみは眠れなかった。

 滞在四日目の朝、フィレンツェ市は、ウフィツィ美術館の爆破予告があったことを発表。起爆時間は二週間以内と記されており、市警察が不審物の徹底的な捜索を続けている……
 それは、あらゆるメディアを通じて、国際的なニュースとなった。
 もはや、帰国までに、ほしみがボッティチェリの『春』を目にすることは不可能に思われた。
「ほしみ、これも運命なのよ…」
 エクセルシオール・ホテルのラウンジで、イタリアの新聞『ラ・スタンパ』をめくりながら、麻子デッラ・スカラが言う。しかし、決して、納得している表情では無い。
「麻子さん……もう一度、聞きます。勇樹の夢の話は、本当だったんですか?それとも、わたしに休暇をとらせようと思って、作り話をしたのですか?」
 スプーンでカプチーノの泡をかき混ぜ、ほしみは聞いた。
「あなた自身はどう思うの?」
「分かりません。でも、麻子さんは、何かを隠していると思います」
 麻子は、ほしみをじっと見つめ、そっと手を伸ばして、彼女の右手を握った。
 それは、冷たくて震えている。
「本当はね……夢なんかではなかったわ。あの朝、わたしは、実際に勇樹と話をしたのだから」
「そんな……」
「ほらね。信じてもらえるはずがないもの。だから、仕方がなかった」
「すべてを話してください」
 麻子の手を払い、ほしみは難しい顔で腕を組んだ。

 ほしみさん、信じなくてもいいのよ。
 独りごとだと思ってくれたって。
 あのことは、忘れられない。
 夜明け前、ホテルの部屋の暖房が切れたみたいに寒くなって、わたしは目を覚ましたの。
 吐く息が真っ白だった。
 バスルームのドアが半分開いていて、向こう側に、誰かが裸で立っていた。
 わたしには、すぐに弟だって分かった。
 勇樹は言ったわ。
 姉さん、ここは寒いよ。
 あまり、長くはいられない。
 すまないけれど、頼みがあるんだ。
 わたしは聞いた。
 頼みって、なあに?
 わたしに出来ることかしら?
 すると、勇樹はこう答えた。

 姉さん、
 春になったら、
 ほしみにウフィツィへ来るよう伝えてくれ。
 それから、ぼくが渡した手紙をボッティチェリの『春』の前で読むようにって。
 ぼくたちにとって、大切なことなんだ。

 春……
 ウフィツィ……
 ボッティチェリ……
 手紙……

 それは、夢ではなかったの。



 ボッティチェリとシモネッタが眠るChiesa di Ognissanti は、十三世紀、オンニサンティ広場に建造された。フィレンツェではあまり見かけない、バロック風ファザードが特徴的な教会だった。
 それは偶然にも、麻子の滞在するエクセルシオール・ホテルの正面にあった。
 ひと気のない教会の中は、うす暗く、空気が湿っていた。ほしみは麻子の後ろを歩きながら、理由の分からない存在の重苦しさを感じていた。

 春を信じなければ。
 そうしないと、わたしたちだって、ここに眠る青ざめた亡霊たちと大して変わらない……


「きょう、アメデオが急に来れなくなったのは、タロットカードのせいなのよ」
 灯りの付いた主祭壇の前まで来て、しばらく黙っていた麻子が口を開く。
「タロットカード?」
 とほしみが聞いた。
「昨夜、死神のカードをひいてしまったんですって」
 と麻子が答える。
「それって?」
「とにかく、わたしたちには、もう二度と会えないだろうと言っていたわ」
「どうしてですか?」
 ほしみは驚きの声をあげた。
「タロットカードのせいなのよ」
 と麻子が繰り返す。
「信じられません。せっかく、アメデオさんと友達になれたと思ったのに」
 ほしみは困惑していた。
「今朝、キプロス島に旅立ってしまったわ」
「キプロス……地中海の?」
「えぇ、向こうで永住するって」
「急にですか?」
「えぇ、突然だった。タロットカードの死神は、終わらなければ始まらないという意味だそうよ。それが、どういうことなのか、わたしには想像もつかないけれど」
「芸術家らしいですね…」
「まさに、あのひとは自由猫。わたし、ふと考えたのよ。もしかしたら、あなたの運命と関わったことで、アメデオは何かの真実に目覚めたんじゃないだろうかって」

 背の曲がった年老いた神父が、ふたりの横を無表情に通り過ぎていった。
 教会の壁面には、二枚の絵画があった。一枚は、十五世紀後半にフィレンツェで人気を博したドメニコ・ギルランダイオ作の『聖ヒエロニムス(古代キリスト教の神学者)』。もう一枚は、サンドロ・ボッティチェリ作の『聖アウグスティヌス(古代キリスト教の神学者)』。そして、暗がりに浮かびあがる、ジョット・ディ・ボンドーネ作の青い十字架、『キリスト磔刑図』。

 小さな礼拝堂へと行き、ふたりはボッティチェリとシモネッタの墓を見た。歴史的にも重要な、ルネサンスの偉大な画家が眠っているとは思えないほど、派手さの無い、ひっそりとした墓だった。

 Ognissantiは、聖人のすべてを意味する。

 ほしみは思った。運命に導かれてやって来たはずなのに、ここでは何も驚くようなことが起こらなかった。結局、勇樹との約束を果たせず、じきに帰国してしまうのだ。そもそも、わたしは何を期待していたのだろうか?

 やがて、黒い鉄の扉を開け、教会の外に出ていく。
 あぁ……
 太陽の強烈なひかりで、視覚を奪われてしまう。
 一瞬の闇の世界。
 何処からともなく、氷のように冷たい風がさぁっと吹き抜ける。
 目を同時に開けたふたりは、気味が悪くなって、顔を見合わせる。
「鳴いてるわ」
 と麻子が言う。
 そこは、雑草が伸び放題の中庭だった。
 朽ちたマリア像が転がっている。
「ジュリアーノ……」
 ほしみは、無意識にそう呟いてしまう。
 大きなオリーブの木の下に、古い井戸がある。
 どうやら、猫の鳴き声は、その中から反響して聞こえていた。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇 ☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

10年引きこもりの私が外に出たら、御曹司の妻になりました

専業プウタ
恋愛
25歳の桜田未来は中学生から10年以上引きこもりだったが、2人暮らしの母親の死により外に出なくてはならなくなる。城ヶ崎冬馬は女遊びの激しい大手アパレルブランドの副社長。彼をストーカーから身を張って助けた事で未来は一時的に記憶喪失に陥る。冬馬はちょっとした興味から、未来は自分の恋人だったと偽る。冬馬は未来の純粋さと直向きさに惹かれていき、嘘が明らかになる日を恐れながらも未来の為に自分を変えていく。そして、未来は恐れもなくし、愛する人の胸に飛び込み夢を叶える扉を自ら開くのだった。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

あまりさんののっぴきならない事情

菱沼あゆ
キャラ文芸
 強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。  充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。 「何故、こんなところに居る? 南条あまり」 「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」 「それ、俺だろ」  そーですね……。  カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...