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8、それは、夢ではなかったの。
しおりを挟むその夜も、末松ほしみは眠れなかった。
滞在四日目の朝、フィレンツェ市は、ウフィツィ美術館の爆破予告があったことを発表。起爆時間は二週間以内と記されており、市警察が不審物の徹底的な捜索を続けている……
それは、あらゆるメディアを通じて、国際的なニュースとなった。
もはや、帰国までに、ほしみがボッティチェリの『春』を目にすることは不可能に思われた。
「ほしみ、これも運命なのよ…」
エクセルシオール・ホテルのラウンジで、イタリアの新聞『ラ・スタンパ』をめくりながら、麻子デッラ・スカラが言う。しかし、決して、納得している表情では無い。
「麻子さん……もう一度、聞きます。勇樹の夢の話は、本当だったんですか?それとも、わたしに休暇をとらせようと思って、作り話をしたのですか?」
スプーンでカプチーノの泡をかき混ぜ、ほしみは聞いた。
「あなた自身はどう思うの?」
「分かりません。でも、麻子さんは、何かを隠していると思います」
麻子は、ほしみをじっと見つめ、そっと手を伸ばして、彼女の右手を握った。
それは、冷たくて震えている。
「本当はね……夢なんかではなかったわ。あの朝、わたしは、実際に勇樹と話をしたのだから」
「そんな……」
「ほらね。信じてもらえるはずがないもの。だから、仕方がなかった」
「すべてを話してください」
麻子の手を払い、ほしみは難しい顔で腕を組んだ。
ほしみさん、信じなくてもいいのよ。
独りごとだと思ってくれたって。
あのことは、忘れられない。
夜明け前、ホテルの部屋の暖房が切れたみたいに寒くなって、わたしは目を覚ましたの。
吐く息が真っ白だった。
バスルームのドアが半分開いていて、向こう側に、誰かが裸で立っていた。
わたしには、すぐに弟だって分かった。
勇樹は言ったわ。
姉さん、ここは寒いよ。
あまり、長くはいられない。
すまないけれど、頼みがあるんだ。
わたしは聞いた。
頼みって、なあに?
わたしに出来ることかしら?
すると、勇樹はこう答えた。
姉さん、
春になったら、
ほしみにウフィツィへ来るよう伝えてくれ。
それから、ぼくが渡した手紙をボッティチェリの『春』の前で読むようにって。
ぼくたちにとって、大切なことなんだ。
春……
ウフィツィ……
ボッティチェリ……
手紙……
それは、夢ではなかったの。
ボッティチェリとシモネッタが眠るChiesa di Ognissanti は、十三世紀、オンニサンティ広場に建造された。フィレンツェではあまり見かけない、バロック風ファザードが特徴的な教会だった。
それは偶然にも、麻子の滞在するエクセルシオール・ホテルの正面にあった。
ひと気のない教会の中は、うす暗く、空気が湿っていた。ほしみは麻子の後ろを歩きながら、理由の分からない存在の重苦しさを感じていた。
春を信じなければ。
そうしないと、わたしたちだって、ここに眠る青ざめた亡霊たちと大して変わらない……
「きょう、アメデオが急に来れなくなったのは、タロットカードのせいなのよ」
灯りの付いた主祭壇の前まで来て、しばらく黙っていた麻子が口を開く。
「タロットカード?」
とほしみが聞いた。
「昨夜、死神のカードをひいてしまったんですって」
と麻子が答える。
「それって?」
「とにかく、わたしたちには、もう二度と会えないだろうと言っていたわ」
「どうしてですか?」
ほしみは驚きの声をあげた。
「タロットカードのせいなのよ」
と麻子が繰り返す。
「信じられません。せっかく、アメデオさんと友達になれたと思ったのに」
ほしみは困惑していた。
「今朝、キプロス島に旅立ってしまったわ」
「キプロス……地中海の?」
「えぇ、向こうで永住するって」
「急にですか?」
「えぇ、突然だった。タロットカードの死神は、終わらなければ始まらないという意味だそうよ。それが、どういうことなのか、わたしには想像もつかないけれど」
「芸術家らしいですね…」
「まさに、あのひとは自由猫。わたし、ふと考えたのよ。もしかしたら、あなたの運命と関わったことで、アメデオは何かの真実に目覚めたんじゃないだろうかって」
背の曲がった年老いた神父が、ふたりの横を無表情に通り過ぎていった。
教会の壁面には、二枚の絵画があった。一枚は、十五世紀後半にフィレンツェで人気を博したドメニコ・ギルランダイオ作の『聖ヒエロニムス(古代キリスト教の神学者)』。もう一枚は、サンドロ・ボッティチェリ作の『聖アウグスティヌス(古代キリスト教の神学者)』。そして、暗がりに浮かびあがる、ジョット・ディ・ボンドーネ作の青い十字架、『キリスト磔刑図』。
小さな礼拝堂へと行き、ふたりはボッティチェリとシモネッタの墓を見た。歴史的にも重要な、ルネサンスの偉大な画家が眠っているとは思えないほど、派手さの無い、ひっそりとした墓だった。
Ognissantiは、聖人のすべてを意味する。
ほしみは思った。運命に導かれてやって来たはずなのに、ここでは何も驚くようなことが起こらなかった。結局、勇樹との約束を果たせず、じきに帰国してしまうのだ。そもそも、わたしは何を期待していたのだろうか?
やがて、黒い鉄の扉を開け、教会の外に出ていく。
あぁ……
太陽の強烈なひかりで、視覚を奪われてしまう。
一瞬の闇の世界。
何処からともなく、氷のように冷たい風がさぁっと吹き抜ける。
目を同時に開けたふたりは、気味が悪くなって、顔を見合わせる。
「鳴いてるわ」
と麻子が言う。
そこは、雑草が伸び放題の中庭だった。
朽ちたマリア像が転がっている。
「ジュリアーノ……」
ほしみは、無意識にそう呟いてしまう。
大きなオリーブの木の下に、古い井戸がある。
どうやら、猫の鳴き声は、その中から反響して聞こえていた。
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