パティシエは眠れない

野洲たか

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9、辺りは、死のにおいが立ちこめている。

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 猫が鳴いている。
 井戸の底で……
 これは兆しだ、
 末松ほしみは思った。

 わたしは勇樹に呼ばれている…

 麻子デッラ・スカラは、もう一つの世界の入国審査官のように、ほしみの言葉を黙って待っていた。
「あれは、ジュリアーノです」
 とほしみはきっぱりと言った。
「どうして分かるの?」
 と麻子が訊ねる。
 蒼いトンボが二匹、ふたりの間をジグザグに飛んでいく。
「分かるんです。助けなければ」
 とほしみは答えた。
「助けるって?」
 そう聞いたけれど、麻子はその返事を知っている。
 ほしみは井戸を指さす。

 くたびれた縄ばしごが、地面に打たれた杭に結ばれて、地下の闇へ垂らされている。
「やめなさい。危ないわ」
 麻子が、ほしみの手をギュッとにぎる。
 けれども、彼女はやめない。
 もちろん、やめないのだ。
 しっかりと縄をつかむと、ほしみは縁をまたいで、真っ暗な井戸の中へと入っていく。
 微塵も怖がっていない。
 一段、一段、慎重に縄ばしごを下りる。
 身体のバランスをとるのが、難しい。
 ふらふら、振り落とされそうになる。
 神経を集中して、ゆっくりと進み、止まり、明るい空を見上げる。井戸のくっきりとした円の中、麻子が険しい顔で覗いている。
 それから、さらに深く、深く、下りていく。
 背中に冷気が伝わる。
 だんだん、調子がつかめてきた。
 それにしても、深い。
 下りる。下りる。
 下りる。
 ところが……
 腐っていたのだろう。
 突然、縄ばしごが……切れてしまう。
 ほしみは落下した。
 一瞬、ドサッという音が聞こえたが、何が起こったのか、麻子には分からなかった。


 まっ白い世界…。
 ほしみ、もう起きないと。
 久しぶりに、よく眠ったね。
 それにしても、きみは歯ぎしりがひどい。
 がんばり屋さんは、みんな、そうなんだって?
 夢の中でも、やっぱりシュークリームを作っているのかな?
 たまには、ぼくも登場させてくれよ。
 こんな風にさ。
 ありがとう。
 ぼくのために休暇を取ってくれて。
 あぁ、きみを愛している。
 ぼくは、これ以上の幸せになる自信がない。

 まぶしい……。
 目を開けたら、真っ暗闇だった。
 気を失っていたのだ。
 空気は冷たく、湿っている。

 ほしみは、草の生えた土の地面に手をつき、そっと立ち上がってみた。
 痛みはなく、怪我はなさそうだった。

 何も見えなかった。
 ここは井戸の底のはずだ。
 なのに、見上げても空が見えない。
 まるで、蓋をされてしまったみたいに。

「麻子さん!」
 ほしみは叫んでみた。
 が、返事はない。
 猫の鳴き声も聞こえない。

 恐る恐る、両手を暗がりに伸ばしてみた。
 壁のありそうなほうに。
 ……触れられなかった。
 何歩か、前に歩いてみる。
 さらに、進んでみる。
 ぶつからない。
 ありえなかった。
 壁がないのだ。
 そんなに広いはずがない。
 どこまでも、闇は広がっているようだった。
 ほしみを恐怖が襲う。

 ここは何処?
 筋肉が緊張して、呼吸が浅くなる。
 しばらく、じっと無を見つめる。
 あっ……。
 なにかが、足にあたった。
 きゃっ、と避ける。
 ネズミの鳴き声が遠ざかっていく。
 身の毛がよだった。

 ほしみは、ゆっくりと息を吐く。
 こめかみが、ドクドクしていた。
 気持ちを落ちつけなければ…。
 パニックしてはいけない。

 頭の中で、謎の数字が浮かんだ。

 いち、よん、なな、ろく…。

 タロットカードの死神か……

 ほしみは、自分の意識が次第にぼんやりとしていることに気付く。


 それは、眠気とは違った。
 ここが地下だとしたら、危険なガスが充満しているのかもしれない。

 逃げないと……
 ほしみは歩き始めた。
 方向も分からないまま。
 足が痺れている。
 何も見えないから、全然、前に進んでいる感じがしない。
 それでも、歩く。
 歩く。
 歩く。
 やがて、バランスを失い、足が絡んで転んでしまう。
 冷たい地面へ、うつ伏せに倒れてしまう。

 もう、歩けない。
 歩きたくない。
 突然、耐え難いだるさを感じて、ほしみは動くことが出来なくなった。
 あきらめて、目を閉じる。
 闇の中、目を閉じる。
 暗黒が、さらに暗くなる。

 すぐそばに、誰かがいた。
 自分の影みたいに。
 こちらを見ている、とほしみは思う。
 コホッ、コホッとかすれた女性の咳が聞こえる。
 それは、苦しげで、病的な音だった。

 ほしみは直感した。
 シモネッタ・ヴェスプッチだ……

 いち、よん、なな、ろく……。
 ガイドブックで読んだ数字だった。
 1476……
 1476年、二十三歳の若さで、彼女は肺結核で亡くなっていた。
 辺りは、死のにおいが立ちこめている。



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