9 / 12
9、辺りは、死のにおいが立ちこめている。
しおりを挟む猫が鳴いている。
井戸の底で……
これは兆しだ、
末松ほしみは思った。
わたしは勇樹に呼ばれている…
麻子デッラ・スカラは、もう一つの世界の入国審査官のように、ほしみの言葉を黙って待っていた。
「あれは、ジュリアーノです」
とほしみはきっぱりと言った。
「どうして分かるの?」
と麻子が訊ねる。
蒼いトンボが二匹、ふたりの間をジグザグに飛んでいく。
「分かるんです。助けなければ」
とほしみは答えた。
「助けるって?」
そう聞いたけれど、麻子はその返事を知っている。
ほしみは井戸を指さす。
くたびれた縄ばしごが、地面に打たれた杭に結ばれて、地下の闇へ垂らされている。
「やめなさい。危ないわ」
麻子が、ほしみの手をギュッとにぎる。
けれども、彼女はやめない。
もちろん、やめないのだ。
しっかりと縄をつかむと、ほしみは縁をまたいで、真っ暗な井戸の中へと入っていく。
微塵も怖がっていない。
一段、一段、慎重に縄ばしごを下りる。
身体のバランスをとるのが、難しい。
ふらふら、振り落とされそうになる。
神経を集中して、ゆっくりと進み、止まり、明るい空を見上げる。井戸のくっきりとした円の中、麻子が険しい顔で覗いている。
それから、さらに深く、深く、下りていく。
背中に冷気が伝わる。
だんだん、調子がつかめてきた。
それにしても、深い。
下りる。下りる。
下りる。
ところが……
腐っていたのだろう。
突然、縄ばしごが……切れてしまう。
ほしみは落下した。
一瞬、ドサッという音が聞こえたが、何が起こったのか、麻子には分からなかった。
まっ白い世界…。
ほしみ、もう起きないと。
久しぶりに、よく眠ったね。
それにしても、きみは歯ぎしりがひどい。
がんばり屋さんは、みんな、そうなんだって?
夢の中でも、やっぱりシュークリームを作っているのかな?
たまには、ぼくも登場させてくれよ。
こんな風にさ。
ありがとう。
ぼくのために休暇を取ってくれて。
あぁ、きみを愛している。
ぼくは、これ以上の幸せになる自信がない。
まぶしい……。
目を開けたら、真っ暗闇だった。
気を失っていたのだ。
空気は冷たく、湿っている。
ほしみは、草の生えた土の地面に手をつき、そっと立ち上がってみた。
痛みはなく、怪我はなさそうだった。
何も見えなかった。
ここは井戸の底のはずだ。
なのに、見上げても空が見えない。
まるで、蓋をされてしまったみたいに。
「麻子さん!」
ほしみは叫んでみた。
が、返事はない。
猫の鳴き声も聞こえない。
恐る恐る、両手を暗がりに伸ばしてみた。
壁のありそうなほうに。
……触れられなかった。
何歩か、前に歩いてみる。
さらに、進んでみる。
ぶつからない。
ありえなかった。
壁がないのだ。
そんなに広いはずがない。
どこまでも、闇は広がっているようだった。
ほしみを恐怖が襲う。
ここは何処?
筋肉が緊張して、呼吸が浅くなる。
しばらく、じっと無を見つめる。
あっ……。
なにかが、足にあたった。
きゃっ、と避ける。
ネズミの鳴き声が遠ざかっていく。
身の毛がよだった。
ほしみは、ゆっくりと息を吐く。
こめかみが、ドクドクしていた。
気持ちを落ちつけなければ…。
パニックしてはいけない。
頭の中で、謎の数字が浮かんだ。
いち、よん、なな、ろく…。
タロットカードの死神か……
ほしみは、自分の意識が次第にぼんやりとしていることに気付く。
それは、眠気とは違った。
ここが地下だとしたら、危険なガスが充満しているのかもしれない。
逃げないと……
ほしみは歩き始めた。
方向も分からないまま。
足が痺れている。
何も見えないから、全然、前に進んでいる感じがしない。
それでも、歩く。
歩く。
歩く。
やがて、バランスを失い、足が絡んで転んでしまう。
冷たい地面へ、うつ伏せに倒れてしまう。
もう、歩けない。
歩きたくない。
突然、耐え難いだるさを感じて、ほしみは動くことが出来なくなった。
あきらめて、目を閉じる。
闇の中、目を閉じる。
暗黒が、さらに暗くなる。
すぐそばに、誰かがいた。
自分の影みたいに。
こちらを見ている、とほしみは思う。
コホッ、コホッとかすれた女性の咳が聞こえる。
それは、苦しげで、病的な音だった。
ほしみは直感した。
シモネッタ・ヴェスプッチだ……
いち、よん、なな、ろく……。
ガイドブックで読んだ数字だった。
1476……
1476年、二十三歳の若さで、彼女は肺結核で亡くなっていた。
辺りは、死のにおいが立ちこめている。
0
あなたにおすすめの小説
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
☘ 累計ポイント/ 180万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
~後宮のやり直し巫女~私が本当の巫女ですが、謂れのない罪で処刑されたので後宮で人生をやり直すことにしました
深水えいな
キャラ文芸
明琳は国を統べる最高位の巫女、炎巫の候補となりながらも謂れのない罪で処刑されてしまう。死の淵で「お前が本物の炎巫だ。このままだと国が乱れる」と謎の美青年・天翼に言われ人生をやり直すことに。しかし巫女として四度人生をやり直すもののうまくいかず、次の人生では女官として後宮入りすることに。そこで待っていたのは後宮で巻き起こる怪事件と女性と見まごうばかりの美貌の宦官、誠羽で――今度の人生は、いつもと違う!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる