パティシエは眠れない

野洲たか

文字の大きさ
10 / 12

10、いつだって、死者は夢の中だわ。

しおりを挟む


「ローソクは点けないでほしい。ひかりが耐えられないから」
 と若い女の声が、弱々しく言った。
 それは、イタリア語だった。
 なのに、どういうわけか、末松ほしみには自然と理解できたのである。
「あなたが、誰なのかを知っている…」
 と女が言う。
 恐ろしさから、ほしみは何も言い返すことが出来ない。
 暗闇の中で、じっと目をこらす。
「あなたは、死神なのでしょう?私を迎えにやってきたのね」
 と女が続ける。
 それから、ひどく咳こんだ。
 しばらく、止まらない。
 コホッ、コホッ……コホッ……

 ほしみは感じた……怖がっているのは、わたしではなく、むしろ、彼女のほうなのだ。
 なるべく音をたてないようにして、ゆっくりと立ちあがる。
 そして、
「死神ではありません」
 とほしみは否定して……自分の言葉に驚く。
 発せられたのは、完璧なイタリア語。
 喋ったことの無い、美しく、澄んだ響きだった。
「では、あなたは、大天使ミカエルさま?」
 と女が小さな声で聞き返す。
「天使でもありません」
 とほしみは答える。
 すると、
「なんだ……その声は、ダニエッラじゃないの。驚かせないで」
 と女は、ほっとしたように言う。
 そう、ダニエッラだ。
 ほしみは、
「はい、ダニエッラでございます。シモネッタさま、そろそろ、夕食の時間ですが、お持ちしてもよろしいでしょうか?」
 と、勝手にイタリア語が……すらすらと出てくる。
 別の人格があるみたいに。
 自分の意思に関係なく。
「石灰のスープは、もううんざり……お医者さまには内緒で、梨を持ってきてちょうだい。のどが渇いて、仕方ないの」
 と女が答える。
「果物は禁じられております」
 と、ほしみは、申し訳なさそうに言う。
「ねぇ、梨くらい、食べさせてくれてもいいじゃない。どうせ、今年の冬は越せないわ。あぁ、何もかも、つまらないのね……ジュリアーノさまも、あれっきり会いにこられない。まぁ、お気持ちは分からないでもないけれど。だって、私、髪の毛は抜け落ちてしまったし、痩せすぎて、骸骨のお化けみたいだもの。無理して会っても、お互いにつらいだけ」
 そう言い、また、苦しい咳をする。
 可哀想に。
 ほしみは言葉を詰まらせる。
「ダニエッラ、お水をちょうだい」
 と女が、あきらめた声で言う。
「水ですか?」
 どうしたらいいか、分からない。
「あなた、持っているじゃない」
 と女が言う。
 いつの間にか、ほしみの手には陶器のコップがひんやりとあった。
 そうだ、ぼんやりしていた。わたしはシモネッタさまに水をお持ちしたのだった。
 ほしみは、声のする辺りをじっとみた。


 闇より暗い影が揺れている。
 シモネッタさまの影だ。
 二歩、三歩、近付いて、コップの水をそっと差し出す。
 こぼさないように。
 井戸までは遠いのだから。
 井戸までは……本当に遠い。


「どうぞ」
 と声をかける。
「ありがとう」
 と女が受け取る。
 わずかに手が触れ合う。
 女の手は、氷のように……
 死のように冷たい。
 女が、水を飲む。
 おいしそうに飲む。
 すぐそばだから、はっきりと音が聞きとれる。

「もう愛されていないのよ…」
 と女が独りごとのようにつぶやく。
 闇がさらに深まって、
「いいえ、そんなことはありません。ジュリアーノさまは、シモネッタさまの美しさを後世に残すと約束されました。実際、あのサンドロ・ボッティチェリさまへ肖像画の依頼をされたのだから」
 とほしみ……
 いや、ダニエッラはなぐさめようとする。
「ダニエッラ、それは真実なの?サンドロが、私の肖像画を?」
 と女の声が大きくなる。
「ギルランダイオさまのご紹介だとか」
「嘘だったら、承知しませんよ」
「はい、確かです」

 しばらく、沈黙があり、
 女のすすり泣きが聞こえてきた。
 喜びなのか、悲しみなのか?


 長いあいだ、ほしみは無言で立っていた。
 シモネッタ・ヴェスプッチと思われる女の側で。

 闇で、気が遠くなる…
 遠くなる。

 辺りは、死のにおいが立ちこめていた。
 それは、枯れた花のにおい。
 アイリスの花……
 そのうち、突然、その女は笑い始めた。

 あははははは……

 しばらく笑い続け、そして、咳こんだ。

 コホッ、コホッ……コホッ……

「お医者さまを呼びますか?」
 とほしみが心配そうに訊ねた。

 すると、女は、こう答えたのだ。
「ふふふ、お医者さまなんか、役に立ちません。だって、死んでいるのだもの。それにもう、シモネッタ・ヴェスプッチはここにいないわ」
 ほしみは、ゾッとした。
 わたしは、気がふれてしまったのだろうか?
「ねぇ、ダニエッラ……いいえ、末松ほしみさん、あなたには、私が誰だか分かるかしら?私も勇樹のことを愛していたの。あなたに負けないくらい。ごめんなさい……でも、先に出逢ってしまったのだから、仕方がないでしょう?どうか、許してちょうだい」
 まるで、友だちにむかし話をするみたいに、優しくて、親しげな話し方……このひとは、ソフィだ。
 ほしみは、暗がりで首を振った。
「許すも、許さないも無いわ」

 ソフィ・クレメンティ……わたしは、あなたに感謝しています。最期まで勇樹を愛してくれて、ありがとう。あなたに出逢わなかったら、勇樹は、わたしの知る、わたしの勇樹ではなかったのだから。

 ソフィが、苦しそうに咳をする。
 コホッ、コホッ……コホッ……
 それから、陶器のコップを床に置いた。

 カタッ。
 その音は、どこまでも奇妙に反響した。
 太古の洞窟に響くみたいに。

「あなたは夢なの?」
 とほしみは訊ねた。
「夢?いつだって、死者は夢の中だわ。さぁ、末松ほしみさん、行きなさい。彼が待っています」
 とソフィが言う。

 突然、近くでドアが開き、明かりが差した。

 一瞬だけ、白い可憐な少女が見えたけれども、すべての闇と共に消えてしまった。
 ふたたび、ひかりが支配する。
 そこは、ウフィツィ美術館だった。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

あまりさんののっぴきならない事情

菱沼あゆ
キャラ文芸
 強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。  充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。 「何故、こんなところに居る? 南条あまり」 「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」 「それ、俺だろ」  そーですね……。  カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇 ☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

処理中です...