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10、いつだって、死者は夢の中だわ。
しおりを挟む「ローソクは点けないでほしい。ひかりが耐えられないから」
と若い女の声が、弱々しく言った。
それは、イタリア語だった。
なのに、どういうわけか、末松ほしみには自然と理解できたのである。
「あなたが、誰なのかを知っている…」
と女が言う。
恐ろしさから、ほしみは何も言い返すことが出来ない。
暗闇の中で、じっと目をこらす。
「あなたは、死神なのでしょう?私を迎えにやってきたのね」
と女が続ける。
それから、ひどく咳こんだ。
しばらく、止まらない。
コホッ、コホッ……コホッ……
ほしみは感じた……怖がっているのは、わたしではなく、むしろ、彼女のほうなのだ。
なるべく音をたてないようにして、ゆっくりと立ちあがる。
そして、
「死神ではありません」
とほしみは否定して……自分の言葉に驚く。
発せられたのは、完璧なイタリア語。
喋ったことの無い、美しく、澄んだ響きだった。
「では、あなたは、大天使ミカエルさま?」
と女が小さな声で聞き返す。
「天使でもありません」
とほしみは答える。
すると、
「なんだ……その声は、ダニエッラじゃないの。驚かせないで」
と女は、ほっとしたように言う。
そう、ダニエッラだ。
ほしみは、
「はい、ダニエッラでございます。シモネッタさま、そろそろ、夕食の時間ですが、お持ちしてもよろしいでしょうか?」
と、勝手にイタリア語が……すらすらと出てくる。
別の人格があるみたいに。
自分の意思に関係なく。
「石灰のスープは、もううんざり……お医者さまには内緒で、梨を持ってきてちょうだい。のどが渇いて、仕方ないの」
と女が答える。
「果物は禁じられております」
と、ほしみは、申し訳なさそうに言う。
「ねぇ、梨くらい、食べさせてくれてもいいじゃない。どうせ、今年の冬は越せないわ。あぁ、何もかも、つまらないのね……ジュリアーノさまも、あれっきり会いにこられない。まぁ、お気持ちは分からないでもないけれど。だって、私、髪の毛は抜け落ちてしまったし、痩せすぎて、骸骨のお化けみたいだもの。無理して会っても、お互いにつらいだけ」
そう言い、また、苦しい咳をする。
可哀想に。
ほしみは言葉を詰まらせる。
「ダニエッラ、お水をちょうだい」
と女が、あきらめた声で言う。
「水ですか?」
どうしたらいいか、分からない。
「あなた、持っているじゃない」
と女が言う。
いつの間にか、ほしみの手には陶器のコップがひんやりとあった。
そうだ、ぼんやりしていた。わたしはシモネッタさまに水をお持ちしたのだった。
ほしみは、声のする辺りをじっとみた。
闇より暗い影が揺れている。
シモネッタさまの影だ。
二歩、三歩、近付いて、コップの水をそっと差し出す。
こぼさないように。
井戸までは遠いのだから。
井戸までは……本当に遠い。
「どうぞ」
と声をかける。
「ありがとう」
と女が受け取る。
わずかに手が触れ合う。
女の手は、氷のように……
死のように冷たい。
女が、水を飲む。
おいしそうに飲む。
すぐそばだから、はっきりと音が聞きとれる。
「もう愛されていないのよ…」
と女が独りごとのようにつぶやく。
闇がさらに深まって、
「いいえ、そんなことはありません。ジュリアーノさまは、シモネッタさまの美しさを後世に残すと約束されました。実際、あのサンドロ・ボッティチェリさまへ肖像画の依頼をされたのだから」
とほしみ……
いや、ダニエッラはなぐさめようとする。
「ダニエッラ、それは真実なの?サンドロが、私の肖像画を?」
と女の声が大きくなる。
「ギルランダイオさまのご紹介だとか」
「嘘だったら、承知しませんよ」
「はい、確かです」
しばらく、沈黙があり、
女のすすり泣きが聞こえてきた。
喜びなのか、悲しみなのか?
長いあいだ、ほしみは無言で立っていた。
シモネッタ・ヴェスプッチと思われる女の側で。
闇で、気が遠くなる…
遠くなる。
辺りは、死のにおいが立ちこめていた。
それは、枯れた花のにおい。
アイリスの花……
そのうち、突然、その女は笑い始めた。
あははははは……
しばらく笑い続け、そして、咳こんだ。
コホッ、コホッ……コホッ……
「お医者さまを呼びますか?」
とほしみが心配そうに訊ねた。
すると、女は、こう答えたのだ。
「ふふふ、お医者さまなんか、役に立ちません。だって、死んでいるのだもの。それにもう、シモネッタ・ヴェスプッチはここにいないわ」
ほしみは、ゾッとした。
わたしは、気がふれてしまったのだろうか?
「ねぇ、ダニエッラ……いいえ、末松ほしみさん、あなたには、私が誰だか分かるかしら?私も勇樹のことを愛していたの。あなたに負けないくらい。ごめんなさい……でも、先に出逢ってしまったのだから、仕方がないでしょう?どうか、許してちょうだい」
まるで、友だちにむかし話をするみたいに、優しくて、親しげな話し方……このひとは、ソフィだ。
ほしみは、暗がりで首を振った。
「許すも、許さないも無いわ」
ソフィ・クレメンティ……わたしは、あなたに感謝しています。最期まで勇樹を愛してくれて、ありがとう。あなたに出逢わなかったら、勇樹は、わたしの知る、わたしの勇樹ではなかったのだから。
ソフィが、苦しそうに咳をする。
コホッ、コホッ……コホッ……
それから、陶器のコップを床に置いた。
カタッ。
その音は、どこまでも奇妙に反響した。
太古の洞窟に響くみたいに。
「あなたは夢なの?」
とほしみは訊ねた。
「夢?いつだって、死者は夢の中だわ。さぁ、末松ほしみさん、行きなさい。彼が待っています」
とソフィが言う。
突然、近くでドアが開き、明かりが差した。
一瞬だけ、白い可憐な少女が見えたけれども、すべての闇と共に消えてしまった。
ふたたび、ひかりが支配する。
そこは、ウフィツィ美術館だった。
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