パティシエは眠れない

野洲たか

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11、不思議だね。ぼくも同じことを思っていた。

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 お願い、サンドロに伝えて。
 私の美しさを永遠に残してと……

 末松ほしみは、美術館の年代物の床を軋ませながら歩いた。
 凍った湖の上を歩くみたいに。
 闇から解放されたばかりで、明るさに目が慣れておらず、バランスを失って転んでしまいそうだった。
 次第に視力が回復してきて、
「あぁ、美しい…」
 とほしみは言葉を漏らす。
 そうとしか、表現しようがなかった。

 広くて、天井の高い装飾的な館内の白い壁には、サンドロ・ボッティチェリの数々の絵画と共に、『ヴィーナスの誕生』と『春』が並べられている。
 しばらく、ほしみはそこに立ち尽くした。
 そして、気付いたのである。
 これは現実ではない。
 実際にはあるはずの、保護ガラスがないのだ。
 この世界では、絵画は反射や映り込みに邪魔されることなく、本来のあるべき美しい姿で展示されている。
 一歩、一歩、ほしみは『春』にゆっくりと近づいて行き、作品の正面に設置された木製の小さなベンチに腰を下ろした。

 もう一度、じっと眺める。
 勇樹が愛した本物の藝術を……

 冬が終わった。
 西の風が、
 土の中に眠っていた精霊を誘惑する。
 精霊は春の女神となって、
 森を花々で埋めつくす。

 ガイドブックによれば、『春』はイタリアン・ルネサンスを代表する傑作でありながら、美術史上、最も難解で、神秘的な作品だと言われている。ほしみは、そのことを理解できたような気がした。

 そして、
 その時がきた、
 と思った。

 覚悟は出来ていたのだ。
 黒いポシェットから、薄い水色の封筒に入った勇樹の手紙を取り出す。
 丁寧に開けて、読もうとする。
 すると突然、誰かの手が伸びてきて、手紙をさっと取りあげてしまう。
 気配が背後にあった。
 期待は高まり、ほしみは振りかえる。
 あぁ、会いたかった……
 と声にならない声で言う。

 そこには、末松勇樹が立っていた。
 ほほ笑んでいる。
 黒い麻の長袖シャツ、白いコットンのカーゴパンツ、茶色いローファー…
 最後に会った時と同じ格好で。

 あぁ、愛おしい…
 今すぐ、キスしたい。
 もっと、大切にするべきだったの。
 そう、わたしは、あまりにも自分を優先してしまったから。
 彼は許してくれるだろうか?

「この手紙、破いてもいいかな?」
 と勇樹が言った。
 懐かしい声だった。
「あなたが書いたのだから……好きにしたらいいわ」
 とほしみは興奮を抑えながら答えた。
「内容は覚えてる?」
「もちろんよ。あんなことを書かれて、忘れられるはずがないじゃない」
「傷ついた?」
 ほしみは頷いた。
「ごめん、ずっと後悔してたんだ」
 勇樹は手紙を縦半分に破り、さらに何度も何度も細かくちぎった。
 それは紙吹雪となって、床にばら撒かれた。
「美術館のひとに叱られるわよ」
 とほしみが笑った。
「ここは、きみだけのための場所なんだ。だから、叱られたりしないよ」
 と勇樹は言った。
「夢なのね」
「そう、夢だよ」
「悲しいわ」
「夢であることが?」
「えぇ、現実ではないことが」
「いつだって、死者は夢の中なのさ」
 ほしみは頷いた。
 それから、勇樹も小さなベンチに座って、ほしみとぴったりとくっついた。
「ねぇ、ぼくは謝りたかったんだ。大切なことが分かっていなくて、ずっときみを支配しようとしていた。愛は育てなければならないのにね」
「ふふっ、そんなキザなことを言うの……勇樹らしいな」
「ゲーテの言葉だよ」
「わたしも悪かった」
「ほしみは悪くない。いつも正しいんだ」
「ありがとう。優しいのね」
「許してくれる?」
「許してあげる」
「キスしたいんだけど」
「……」
 ふたりは、そうした。
「あなたに話したかったことがたくさんあったはずなのに、ひとつも思いだせない」
「不思議だね。ぼくも同じことを思っていた」

 それから、勇樹はそっと立ち上がって、ほしみの前に立った。手を伸ばし、彼女の右手に重ねて、優しく言った。
「ほしみ。ぼくにとって、きみほど魅力的で輝いているひとはいない。女性としても、人間としても、本当に尊敬してるんだ。才能だってあるし、普通のひとの何十倍も努力している。きみなら、なにか特別なことを成し遂げられるだろう。ぼくは、そんな気がしてるんだ」
 ほしみは、ハッとした。
 それは、いつかの夜に聞いた言葉とまるで同じだった。
 そう、やはり、これは夢なのだ。
「そろそろ、きみは起きたほうがいい。ここは、じきに爆発するのだから」
 と勇樹が言った。
「爆発?」
「誰かが爆弾をしかけたんだよ」
「ニュースで見たわ」
「人間は素晴らしいのに、愚かだね」
「『嵐が丘』にも、そう書かれてあった」
「その通りだよ、ほしみ……その通りだ」
 勇樹は、ほしみをしっかりと抱き寄せた。

 冷たくて、こわばっていた。
 生きているのは、彼女のはずなのに。

「目を閉じて」
 と勇樹が言った。
「さよなら」
 とほしみは言った。

 起きなければ、
 とほしみは目を閉じる。

 涙が流れる。
 そして、まっ暗闇……
 彼方で爆発音が聞こえた。



 そこは、白い病室だった。
「あぁ、ほしみ、よかったね」
 気がつくと、アメデオ・フェラーリがそばにいた。
 真っ赤なポロシャツを着ている。
「きみは井戸に落ちたんだ。そして、ジュリアーノと一緒に救出された」
 ほしみは、頭の中が混乱した。
 ジュリアーノ・デ・メディチ……サンドロ・ボッティチェリ……シモネッタ・ヴェスプッチ……ソフィ・クレメンティ……嵐が丘……ゲーテ……
 それから、わたしの愛しい夫……
「アメデオさん……あなた、キプロス島に行ったんじゃなかったの?」
 ほしみは、かすれた声で聞いた。
「麻子から連絡があって、慌てて戻ってきたのさ。丸々二日間も、きみは眠っていたんだよ」
 とアメデオが言った。


 ほしみは、ぼんやりと壁の染みを見た。
 染みは、夢に見たクラゲの形だった。
 浮かんでいる……
 そこに、ただ浮かんでいる。
 やっと、わたしは眠れたのだ。

 その時、ドアがガチャッと開いた。
 ほしみは現実に戻る。

 麻子デッラ・スカラが入ってきて、
「やっと、目が覚めたのね」
 と喜ぶ。
 けれど、すぐに表情が暗くなってしまった。
 アメデオは心配になって、
「麻子、顔が真っ青だよ。どうかしたのかい?」
 と訊ねる。
 一瞬、麻子は躊躇っていたけれど、
「たった今、ウフィツィで爆破事件があったの」
 と答えたのだった。


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