パティシエは眠れない

野洲たか

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エピローグ

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 フィレンツェ市の発表により、爆破事件の被害が明らかになる。破壊されたのは、ウフィツィ美術館からアルノ川の向こうのピッティ宮殿を結ぶ通路『ヴァザーリの回廊』の一部分……それから、かつてメディチ家所蔵だった数枚の肖像画、枢機卿やシエーナの画家等。人的な被害は無かった。美術館は、秋にも再開を目指している。


 その日の昼ごろ、末松ほしみは、ほぼ空っぽのスーツケース(買い物はしなかった)を引っぱって、高速鉄道でローマのフィウミチーノ空港(別名、レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港)に到着した。
 帰国したら、翌日には店を開けよう。
 昼前には成田だから、うんと頑張って仕込みをすれば、なんとか間に合うはずだ。

 アリタリア航空のターミナル1には、麻子デッラ・スカラが見送りに来てくれていた。
 全身黒ずくめで、誰かの葬式に参加する途中みたいだった。
「これ、買ってきたわ。機内で食べて」
 と言って、麻子は小さな紙の箱を渡した。
「テルミニ駅の近くで百年以上やっている、パネッラという老舗のパン屋があってね……ぜひ、そこのパルミジャーノ・クッキーを食べさせたかったの。素朴な味なんだけど、どこか、あなたのシュークリームを思わせるわ」
「そういうのって……すごく、うれしいです」
 ほしみはお辞儀して受け取り、肩からさげたレモン色のトートバッグへ大切に仕舞う。
「結局、あの手紙は見つからなかったの?」
 と麻子が訊ねる。
「はい。たぶん、本当に勇樹が破いてしまったんです」
 ほしみは、ほほ笑む。
「きっと、そうね…」
 麻子も、ほほ笑む。
「麻子さん、わたし、月曜日を定休日にしようと思うんです」
 ほしみは言う。
「美容院に行ったり、映画を観たり、仕事以外のことを楽しみます」
「勇樹にそうしろと言われたの?」
 と麻子が聞く。
 ほしみは首を横にふる。
「いいえ、自分で決めました」
「確かに、ほしみは働きすぎよ。だけど、そんなこと、性格的に出来るのかしら?」
 と麻子が言う。
「でも、わたしはやってみたいんです。慣れるまで、時間がかかるかも知れません」
 ほしみは答える。
 麻子は黙ってうなずき……
 遠い視線で、
「もうすぐ、夏だわ」
 と思い出したようにつぶやく。
「麻子さん、また東京に来てくださいね」
 とほしみが言う。
「えぇ。今年のクリスマスは子どもたちを夫に任せて、日本で過ごすつもりなのよ。東北の温泉へ行こうかと……アメデオも誘ってみようかしら」
 と麻子は答える。
「わたしも一緒にいいですか?」
「もちろんだわ。美味しいもの、苦しいくらい、いっぱい食べましょう」
 ふたりは笑う。
 そろそろ、行かなければならない。
 ひとが増えてきて、チェックイン・カウンターが慌ただしくなってきた。
 別れを惜しみ、ほしみは麻子の姿をじっと見る。
 どことなく、目元が勇樹に似ている。
 顔の輪郭も。
 やはり、兄弟なのだ。
 すると、突然、
「あなたにキスしてもいいかしら?」
 と麻子が言い、ふんわりとほしみを抱きつつむ。
 その言葉は、まるで握手を求めるくらいに、何のためらいもなかった。
「またですか?」
 もちろん、ほしみは驚いた。
「急に愛おしくなったの」
 麻子はそう答えて、ほしみの右頬にそっと人差し指をのせた。
「ねぇ、構わないでしょう?」
 それは、あまりにも唐突だったので、ほしみは頭の中が真っ白になり、そこに勇樹が立っているような気さえして、自然に頷いてしまった。

 二人は、唇を寄せあった。
 長い、長いキスだった。
 ほしみの瞳の中で、
 時間と空間がぼんやりと霞んでいき、
 ひとすじだけ涙が流れた。


 The End
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