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第6話-1 5番目の天使
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――1488年8月末日。
波打つ金糸のような髪に澄んだ蒼の瞳、珠のような肌。
その目鼻立ちは、神の最高傑作。
並んでしまえば、ここオルキデーア城の裏庭に庭師が丹精込めて造り上げた庭園の花々もただの道芝と化し。
この宝島が誇る最高級の宝石――オルキデーア石ですら価値を失う。
そこにいるだけで老若男女の目を奪い、心を奪い。
微笑みかけれた者は、蕩けるように腰を抜かし。
心身を痛め、涙を落としてしまえば戦の勃発。
そんなこの国の絶世の美少女――5番目の天使こと、国王フラヴィオ・マストランジェロの長女ヴァレンティーナ王女(10歳)。
その愛らしく柔らかな小さな手にしかと握られているは、これまた小さく華奢な手。
その持ち主――7番目の天使のベルことベルナデッタ(来月で15歳)は本日からヴァレンティーナの侍女で、早速宮廷の中――現在4階(最上階)――を連れ回されていた。
正直なところ、この城の使用人になってから半月が立つのでほとんどの部屋は把握している。
しかし、やって来たばかりだと思っているらしいヴァレンティーナがあまりにも嬉しそうに案内してくれているので、何も知らない振りをしている。
(ああ……まるで天国に来たよう)
このベルもヴァレンティーナと同様、フラヴィオに選ばれた『天使』だが、とてもではないが同じ生物には見えなかった。
この本物の天使は老若男女の目も心も奪い、ベルに至っては先ほど――初対面のとき――意識すら奪われてしまった。
視界にはほんのりローザ色の靄が掛り、足元はふわふわとして雲の上を歩いているような感覚がする。
「それでね、ここがランド兄上――王太子オルランド兄上のお部屋でね、そのとなりが第二王子コラード兄上のお部屋よ。ランド兄上の向かいのお部屋は、フェーデ叔父上の長男リナルド――私と同い年のいとこのお部屋なの。でね、そのとなりがフェーデ叔父上の次男ガルテリオのお部屋よ」
まるで小鳥の囀りのような声に、ベルは「はい」と相槌を打ったり、「そうなのですね」や「そうでしたか」と返しながら聴き入ってしまう。
「さっき来たから知ってると思うけど、ここが私のお部屋なの。となりが弟の第三王子レンツォのお部屋で、さらにそのとなりは第四王子ティートのお部屋。私のお部屋の向かいはフェーデ叔父上の三男エルネストのお部屋で、となりがフェーデ叔父上の長女――6番目の天使ビアンカのお部屋よ。まだ赤ちゃんだから、アリー叔母上か乳母のところにいるけれど。それで、ここから先はまだ空き部屋でね…………」
ヴァレンティーナの言葉が切れた。
「どうされたのですか、ヴァレンティーナ殿下」
「あ、ティーナってよんでほしいわ。あと『殿下』はかた苦しくて嫌」
「よろしいのですか? では……ティーナ様、どうされたのですか?」
ヴァレンティーナの顔が、少し沈んでいる。
「ここから先の空き部屋はね、これから出来る私の弟や妹、いとこのお部屋になると思うの」
「スィー」
「でも、いとこはいとこでも、フェーデ叔父上とアリー叔母上の方のいとこだけなのかもしれなくって……」
今さらだが、ベルは気付く。
ヴァレンティーナにとってフェデリコとアリーチェは『父方』の叔父と叔母。
しかし、『母方』の叔父と叔母――アドルフォとベラドンナのあいだには、子供がいない。
「使用人さんたちがひそひそと話しているのを聞いたことがあるわ。ベラ叔母上はまだドルフ叔父上の子をさずからないのか、国の大きな支えになるドルフ叔父上の子を産めないなんて……って。ベラ叔母上はいつも元気に見えるけれど、ときどきひとりで泣いているのよ」
ベルが初めて知る話だった。
ベラドンナは、ベルに趣味の狩りの仕方を教えてくれたり、馬の乗りこなし方を教えてくれたり、1日3食1kgの肉を平らげたりと食欲も旺盛。
ヴァレンティーナの言う通り、とても元気に見えていた。
絶世の美女と持て囃される一方で、城の中でそんな風に陰口を叩かれ悩み悲しんでいたことなど微塵も気付かなかった。
ヴァレンティーナが「ところで」と話題を変える。
「ベルのお部屋って、どこになったの?」
「あそこの角部屋です」
「私と同じ4階なのね! うれしい!」
国王夫妻やその親近の部屋、その専用浴室、国王の仕事部屋、頑丈な扉と厳つい衛兵付きの国庫などがある4階を案内し終わると、ヴァレンティーナはベルの手を引っ張って3階へと下りていく。
ここにも貴族――ヴィットーリア・ベラドンナ姉妹の両親、つまりヴァレンティーナの祖父母や、アドルフォの母の部屋がある。
また使用人たちの部屋は主に1階だが、ヴァレンティーナの侍女となったベルの唯一の上司――家政婦長ピエトラ(60歳)と、執事ファウスト(62歳)の部屋もこの階だ。
その2人は夫婦だそうで、同室だった。
王子たちやフェデリコの子供たちもそうだが、ヴァレンティーナはピエトラのことを『ばあや』、ファウストのことを『じいや』と呼んでいる。
「あのね、ばあやとじいやは、父上とフェーデ叔父上が生まれたときからずっとお世話になっているんだって。だからとっても大切にしているのよ。ばあやとじいやの間には2人の娘さんがいて、その部屋も結婚するまでここの階にあったんだって」
また初めて知る話が出て来て、ベルは「そうだったのですね」と少し声高に返した。
ファウストは頭が3分の2以上白く、所作が美しい一方ゆっくりとしていて、『じいや』の愛称がしっくり来るように思える。
基本は「ファウスト」と呼ぶフラヴィオとフェデリコも、時々子供たちと同じように「じいや」とか「じい」と呼んでいるのも聞いたことがある。
つまり2人にとっても、ファウストはそういう存在のようだった。
しかし、ベルはピエトラの『ばあや』には違和感を覚えてしまう。
フラヴィオ・フェデリコもそう呼んでいるのは聞いたことなく、『第二の母上』だと言っていた。
ピエトラは顔には流石に皺は多少あるものの、いつもきゅっと結い上げた焦げ茶色の髪に白は混じっていないし、一度だけ風呂で一緒になったことがあるが、その腹筋はくっきりと6つに割れていて目を疑った。
全部屋の鍵束を腰からぶら下げ、ベルが小走りになってしまう速度でジャラジャラと音を立てながら城の中を歩き周り。
国庫を含む全ての部屋を管理し、『家政婦長』だから女の使用人たちは当然のこと、男の使用人たちも容赦なく躾けている。
ベルはひとりを除く同格の使用人からは『ベルちゃん』、格下の使用人からは『ベルさん』または『ベル様』なんて呼ばれている。
しかし、侍女を含む女の使用人すべてを纏め上げる家政婦長ピエトラは当然、『ベル』と呼び捨て。
「ティーナ殿下の身の回りのお世話だけではいけないよ。ティーナ殿下を守るのも、あんたの仕事だ」
――そう言って、ベルにナイフ投げや短剣の使い方を叩き込んだ。
それ故、ヴェスティートで隠されたベルの左太ももにはコルテッロが4本、右太ももには短剣が一本装備されている。
「それから、家庭教師の先生たちはみんな貴族でね、上級使用人だからお部屋もここの階よ。私は今日、昼餉のあとからレオーネ語のお勉強なの。そのあいだ、お別れね」
とヴァレンティーナが、頭半分ほど背の高いベルの顔を見て残念そうにする。
「家庭教師の先生方には、レオーネ語の他にはどんなことを教わっているのですか?」
「アクアーリオ語とサジッターリオ語もなの」
アクアーリオ島は東隣、サジッターリオ島は北隣だ。
どちらともそこそこの交流があるらしい。
「あとは計算とか、礼儀作法とか、絵とか、音楽とか、舞踏とか、刺繍とか……いろいろよ」
ベルは、読み書きや計算、絵画、レオーネ語を中心とした外国語はフェデリコから習い――一応、フラヴィオ・アドルフォからも――、礼儀作法はピエトラに叩き込まれた。
音楽や舞踏はまだ習っていなかったが、ヴィットーリアやアリーチェが得意なようで、時間の空いている時に教えてくれるようだった。
ならばそれらのことをより学び、身に着けて、ヴァレンティーナの家庭教師も出来るようになろうかと考えた。
しかし、現在の家庭教師たちが職を失ってしまうことを考えると無理そうなので、ヴァレンティーナが困った時の補助になれるよう努力することにした。
「あ、このおっきな扉はね」
と、ヴァレンティーナが立ち止まってそれを指差した。
「何だと思う? 玉座よ。全部のお部屋の中で、いちばん広いの。あっちの朝廷も広いけれど。朝廷は朝議だけじゃなくって、『さいばん』? とかにも使われているみたいなんだけど…………父上や文官のみんなって、どんなことをお話ししてるのかしら」
とさも疑問そうに言ったヴァレンティーナは、その辺りのことを何も知らないようだった。
13歳の王太子を始め、王子たちやフェーデの息子たちは、父たちから直々に教えられているようだったが。
「このお部屋はね、ヴェスティートがたくさんあるのよ! ほら!」
と、ヴァレンティーナが喜々としながらその扉を開けた。
ベルも何度か入ったことのあるこの衣裳部屋には、ヴィットーリアやベラドンナ、アリーチェ、の他、ヴァレンティーナ用のヴェスティートも沢山あった。
侍女のベルは、ここでヴァレンティーナがその日身に着けるヴェスティートや靴、装飾品を選んで持って行くのも仕事になる。
尚、隣にはフラヴィオたち男用の衣裳部屋もあるが、こっちの方が圧倒的に部屋が広く、また数が多かった。
「ベルはちっちゃ可愛いからね、私のヴェスティートも着られると思うの! 本当は今日から着せ替えしたかったけれど……ベルの今日のそのヴェスティート、母上のお気に入りだから着替えさせちゃダメだって」
とさっき、ヴィットーリアがヴァレンティーナに言い聞かせていた。ベルの身体の痣が、まだ消えていない故に。
「でも、明日からは着せ替えしていいみたい。ふふ、楽しみ!」
とヴァレンティーナに抱き付かれたベルは、気をたしかに持って失神を防止した。
「あと、ここの二部屋は客間よ。1階にも客間はあるけれど、こっちは仲良しのレオーネ国の王族専用って感じ。明日もレオーネ国の王太子殿下が来たら、ここのお部屋にお泊りするのよ」
他には舞踏室や、よく談話室になっている居間が3階にある。
ベルが2階へと引っ張られていくと、そこにはベルが毎日来ている図書室がある。
図書室も大きく、この国のものだけではなくレオーネ国を中心とした他国のものも多く集められている。
昔のものは羊皮紙で、紙のものは最近できたとフェデリコが言っていた。
図書室の隣は美術室になっていて、扉を開けるなり油絵の臭いがする。
中にはイーゼルや画板、顔料、油、筆などがたくさんあって、ベルはフェデリコが絵を描くとき傍らにカヴァッレットを置き、教わりながら一緒に描いている。
また、フラヴィオの趣味に絵画収集があり、城のあちこちに絵画が飾られている。
フラヴィオお気に入りの画家作のもあるが、半分以上はフェデリコが描いたものだという。
「フェーデは絵の天才なんだ」
――フラヴィオのその言葉に嘘偽りも買い被りも無く、ベルも最初からそこそこ描けて今は驚かれるほどになったが、フェデリコには永遠に追い付かない気がしている。
「料理長のお部屋もここにあるのよ。父上とフェーデ叔父上は料理長にも子供の頃からお世話になっていて大切にしてるし、家庭教師の先生といっしょで上級使用人なのに、どうして3階じゃないの? って料理長にきいたら、ここの方が1階にある厨房に行くのが楽でねぇ、って言ってたわ」
料理長のフィコ(53歳)は、ベルとほぼ同格の使用人で、その中で唯一「ベル」と呼び捨てにしている。
外見の特徴としては、大変逞しい腕をしていた。
それをベルが褒めると、フィコは誇らしげに力瘤を作ってみせ、寝る前に毎日欠かさず鍛えているのだと言った。
料理人なのに何故だろうとベルが思っていると、フィコはその理由をこう話した――
「いざこの宮廷に、敵が侵入して来たとするだろう? そんときゃあ、将兵に任せるだけじゃなく、俺ら使用人も総出で城を守んなきゃなんねぇのよ」
感心したベルにフィコは包丁を持たせると、「やってみな」と言って、包丁による必殺技をいくつか披露してみせた。
それは独特で、大胆で、曲芸的で、技によってはまな板を使わなかったりで……。
やってみろと言われたところで、「そんなこと言われても」と返したくなったベルだったが、この10年間で包丁捌きを含む家事全般が完璧なまでに鍛え上げられていたことが幸いした。
3日掛かったが、何とか会得してみせたらすっかり気に入られ、フィコはベルのことを「俺の一番弟子」と絶賛して可愛がってくれるようになった。
フェデリコがベルの『先生』だとしたら、こっちのフィコは『師匠』といったところ。
ちなみにフラヴィオ・フェデリコは、生まれた頃からこの男の料理を食べて育って来ている故に、2人にとって『第二の父上』らしい。
波打つ金糸のような髪に澄んだ蒼の瞳、珠のような肌。
その目鼻立ちは、神の最高傑作。
並んでしまえば、ここオルキデーア城の裏庭に庭師が丹精込めて造り上げた庭園の花々もただの道芝と化し。
この宝島が誇る最高級の宝石――オルキデーア石ですら価値を失う。
そこにいるだけで老若男女の目を奪い、心を奪い。
微笑みかけれた者は、蕩けるように腰を抜かし。
心身を痛め、涙を落としてしまえば戦の勃発。
そんなこの国の絶世の美少女――5番目の天使こと、国王フラヴィオ・マストランジェロの長女ヴァレンティーナ王女(10歳)。
その愛らしく柔らかな小さな手にしかと握られているは、これまた小さく華奢な手。
その持ち主――7番目の天使のベルことベルナデッタ(来月で15歳)は本日からヴァレンティーナの侍女で、早速宮廷の中――現在4階(最上階)――を連れ回されていた。
正直なところ、この城の使用人になってから半月が立つのでほとんどの部屋は把握している。
しかし、やって来たばかりだと思っているらしいヴァレンティーナがあまりにも嬉しそうに案内してくれているので、何も知らない振りをしている。
(ああ……まるで天国に来たよう)
このベルもヴァレンティーナと同様、フラヴィオに選ばれた『天使』だが、とてもではないが同じ生物には見えなかった。
この本物の天使は老若男女の目も心も奪い、ベルに至っては先ほど――初対面のとき――意識すら奪われてしまった。
視界にはほんのりローザ色の靄が掛り、足元はふわふわとして雲の上を歩いているような感覚がする。
「それでね、ここがランド兄上――王太子オルランド兄上のお部屋でね、そのとなりが第二王子コラード兄上のお部屋よ。ランド兄上の向かいのお部屋は、フェーデ叔父上の長男リナルド――私と同い年のいとこのお部屋なの。でね、そのとなりがフェーデ叔父上の次男ガルテリオのお部屋よ」
まるで小鳥の囀りのような声に、ベルは「はい」と相槌を打ったり、「そうなのですね」や「そうでしたか」と返しながら聴き入ってしまう。
「さっき来たから知ってると思うけど、ここが私のお部屋なの。となりが弟の第三王子レンツォのお部屋で、さらにそのとなりは第四王子ティートのお部屋。私のお部屋の向かいはフェーデ叔父上の三男エルネストのお部屋で、となりがフェーデ叔父上の長女――6番目の天使ビアンカのお部屋よ。まだ赤ちゃんだから、アリー叔母上か乳母のところにいるけれど。それで、ここから先はまだ空き部屋でね…………」
ヴァレンティーナの言葉が切れた。
「どうされたのですか、ヴァレンティーナ殿下」
「あ、ティーナってよんでほしいわ。あと『殿下』はかた苦しくて嫌」
「よろしいのですか? では……ティーナ様、どうされたのですか?」
ヴァレンティーナの顔が、少し沈んでいる。
「ここから先の空き部屋はね、これから出来る私の弟や妹、いとこのお部屋になると思うの」
「スィー」
「でも、いとこはいとこでも、フェーデ叔父上とアリー叔母上の方のいとこだけなのかもしれなくって……」
今さらだが、ベルは気付く。
ヴァレンティーナにとってフェデリコとアリーチェは『父方』の叔父と叔母。
しかし、『母方』の叔父と叔母――アドルフォとベラドンナのあいだには、子供がいない。
「使用人さんたちがひそひそと話しているのを聞いたことがあるわ。ベラ叔母上はまだドルフ叔父上の子をさずからないのか、国の大きな支えになるドルフ叔父上の子を産めないなんて……って。ベラ叔母上はいつも元気に見えるけれど、ときどきひとりで泣いているのよ」
ベルが初めて知る話だった。
ベラドンナは、ベルに趣味の狩りの仕方を教えてくれたり、馬の乗りこなし方を教えてくれたり、1日3食1kgの肉を平らげたりと食欲も旺盛。
ヴァレンティーナの言う通り、とても元気に見えていた。
絶世の美女と持て囃される一方で、城の中でそんな風に陰口を叩かれ悩み悲しんでいたことなど微塵も気付かなかった。
ヴァレンティーナが「ところで」と話題を変える。
「ベルのお部屋って、どこになったの?」
「あそこの角部屋です」
「私と同じ4階なのね! うれしい!」
国王夫妻やその親近の部屋、その専用浴室、国王の仕事部屋、頑丈な扉と厳つい衛兵付きの国庫などがある4階を案内し終わると、ヴァレンティーナはベルの手を引っ張って3階へと下りていく。
ここにも貴族――ヴィットーリア・ベラドンナ姉妹の両親、つまりヴァレンティーナの祖父母や、アドルフォの母の部屋がある。
また使用人たちの部屋は主に1階だが、ヴァレンティーナの侍女となったベルの唯一の上司――家政婦長ピエトラ(60歳)と、執事ファウスト(62歳)の部屋もこの階だ。
その2人は夫婦だそうで、同室だった。
王子たちやフェデリコの子供たちもそうだが、ヴァレンティーナはピエトラのことを『ばあや』、ファウストのことを『じいや』と呼んでいる。
「あのね、ばあやとじいやは、父上とフェーデ叔父上が生まれたときからずっとお世話になっているんだって。だからとっても大切にしているのよ。ばあやとじいやの間には2人の娘さんがいて、その部屋も結婚するまでここの階にあったんだって」
また初めて知る話が出て来て、ベルは「そうだったのですね」と少し声高に返した。
ファウストは頭が3分の2以上白く、所作が美しい一方ゆっくりとしていて、『じいや』の愛称がしっくり来るように思える。
基本は「ファウスト」と呼ぶフラヴィオとフェデリコも、時々子供たちと同じように「じいや」とか「じい」と呼んでいるのも聞いたことがある。
つまり2人にとっても、ファウストはそういう存在のようだった。
しかし、ベルはピエトラの『ばあや』には違和感を覚えてしまう。
フラヴィオ・フェデリコもそう呼んでいるのは聞いたことなく、『第二の母上』だと言っていた。
ピエトラは顔には流石に皺は多少あるものの、いつもきゅっと結い上げた焦げ茶色の髪に白は混じっていないし、一度だけ風呂で一緒になったことがあるが、その腹筋はくっきりと6つに割れていて目を疑った。
全部屋の鍵束を腰からぶら下げ、ベルが小走りになってしまう速度でジャラジャラと音を立てながら城の中を歩き周り。
国庫を含む全ての部屋を管理し、『家政婦長』だから女の使用人たちは当然のこと、男の使用人たちも容赦なく躾けている。
ベルはひとりを除く同格の使用人からは『ベルちゃん』、格下の使用人からは『ベルさん』または『ベル様』なんて呼ばれている。
しかし、侍女を含む女の使用人すべてを纏め上げる家政婦長ピエトラは当然、『ベル』と呼び捨て。
「ティーナ殿下の身の回りのお世話だけではいけないよ。ティーナ殿下を守るのも、あんたの仕事だ」
――そう言って、ベルにナイフ投げや短剣の使い方を叩き込んだ。
それ故、ヴェスティートで隠されたベルの左太ももにはコルテッロが4本、右太ももには短剣が一本装備されている。
「それから、家庭教師の先生たちはみんな貴族でね、上級使用人だからお部屋もここの階よ。私は今日、昼餉のあとからレオーネ語のお勉強なの。そのあいだ、お別れね」
とヴァレンティーナが、頭半分ほど背の高いベルの顔を見て残念そうにする。
「家庭教師の先生方には、レオーネ語の他にはどんなことを教わっているのですか?」
「アクアーリオ語とサジッターリオ語もなの」
アクアーリオ島は東隣、サジッターリオ島は北隣だ。
どちらともそこそこの交流があるらしい。
「あとは計算とか、礼儀作法とか、絵とか、音楽とか、舞踏とか、刺繍とか……いろいろよ」
ベルは、読み書きや計算、絵画、レオーネ語を中心とした外国語はフェデリコから習い――一応、フラヴィオ・アドルフォからも――、礼儀作法はピエトラに叩き込まれた。
音楽や舞踏はまだ習っていなかったが、ヴィットーリアやアリーチェが得意なようで、時間の空いている時に教えてくれるようだった。
ならばそれらのことをより学び、身に着けて、ヴァレンティーナの家庭教師も出来るようになろうかと考えた。
しかし、現在の家庭教師たちが職を失ってしまうことを考えると無理そうなので、ヴァレンティーナが困った時の補助になれるよう努力することにした。
「あ、このおっきな扉はね」
と、ヴァレンティーナが立ち止まってそれを指差した。
「何だと思う? 玉座よ。全部のお部屋の中で、いちばん広いの。あっちの朝廷も広いけれど。朝廷は朝議だけじゃなくって、『さいばん』? とかにも使われているみたいなんだけど…………父上や文官のみんなって、どんなことをお話ししてるのかしら」
とさも疑問そうに言ったヴァレンティーナは、その辺りのことを何も知らないようだった。
13歳の王太子を始め、王子たちやフェーデの息子たちは、父たちから直々に教えられているようだったが。
「このお部屋はね、ヴェスティートがたくさんあるのよ! ほら!」
と、ヴァレンティーナが喜々としながらその扉を開けた。
ベルも何度か入ったことのあるこの衣裳部屋には、ヴィットーリアやベラドンナ、アリーチェ、の他、ヴァレンティーナ用のヴェスティートも沢山あった。
侍女のベルは、ここでヴァレンティーナがその日身に着けるヴェスティートや靴、装飾品を選んで持って行くのも仕事になる。
尚、隣にはフラヴィオたち男用の衣裳部屋もあるが、こっちの方が圧倒的に部屋が広く、また数が多かった。
「ベルはちっちゃ可愛いからね、私のヴェスティートも着られると思うの! 本当は今日から着せ替えしたかったけれど……ベルの今日のそのヴェスティート、母上のお気に入りだから着替えさせちゃダメだって」
とさっき、ヴィットーリアがヴァレンティーナに言い聞かせていた。ベルの身体の痣が、まだ消えていない故に。
「でも、明日からは着せ替えしていいみたい。ふふ、楽しみ!」
とヴァレンティーナに抱き付かれたベルは、気をたしかに持って失神を防止した。
「あと、ここの二部屋は客間よ。1階にも客間はあるけれど、こっちは仲良しのレオーネ国の王族専用って感じ。明日もレオーネ国の王太子殿下が来たら、ここのお部屋にお泊りするのよ」
他には舞踏室や、よく談話室になっている居間が3階にある。
ベルが2階へと引っ張られていくと、そこにはベルが毎日来ている図書室がある。
図書室も大きく、この国のものだけではなくレオーネ国を中心とした他国のものも多く集められている。
昔のものは羊皮紙で、紙のものは最近できたとフェデリコが言っていた。
図書室の隣は美術室になっていて、扉を開けるなり油絵の臭いがする。
中にはイーゼルや画板、顔料、油、筆などがたくさんあって、ベルはフェデリコが絵を描くとき傍らにカヴァッレットを置き、教わりながら一緒に描いている。
また、フラヴィオの趣味に絵画収集があり、城のあちこちに絵画が飾られている。
フラヴィオお気に入りの画家作のもあるが、半分以上はフェデリコが描いたものだという。
「フェーデは絵の天才なんだ」
――フラヴィオのその言葉に嘘偽りも買い被りも無く、ベルも最初からそこそこ描けて今は驚かれるほどになったが、フェデリコには永遠に追い付かない気がしている。
「料理長のお部屋もここにあるのよ。父上とフェーデ叔父上は料理長にも子供の頃からお世話になっていて大切にしてるし、家庭教師の先生といっしょで上級使用人なのに、どうして3階じゃないの? って料理長にきいたら、ここの方が1階にある厨房に行くのが楽でねぇ、って言ってたわ」
料理長のフィコ(53歳)は、ベルとほぼ同格の使用人で、その中で唯一「ベル」と呼び捨てにしている。
外見の特徴としては、大変逞しい腕をしていた。
それをベルが褒めると、フィコは誇らしげに力瘤を作ってみせ、寝る前に毎日欠かさず鍛えているのだと言った。
料理人なのに何故だろうとベルが思っていると、フィコはその理由をこう話した――
「いざこの宮廷に、敵が侵入して来たとするだろう? そんときゃあ、将兵に任せるだけじゃなく、俺ら使用人も総出で城を守んなきゃなんねぇのよ」
感心したベルにフィコは包丁を持たせると、「やってみな」と言って、包丁による必殺技をいくつか披露してみせた。
それは独特で、大胆で、曲芸的で、技によってはまな板を使わなかったりで……。
やってみろと言われたところで、「そんなこと言われても」と返したくなったベルだったが、この10年間で包丁捌きを含む家事全般が完璧なまでに鍛え上げられていたことが幸いした。
3日掛かったが、何とか会得してみせたらすっかり気に入られ、フィコはベルのことを「俺の一番弟子」と絶賛して可愛がってくれるようになった。
フェデリコがベルの『先生』だとしたら、こっちのフィコは『師匠』といったところ。
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※但し、他人から見たら無自覚にイチャイチャしているだけ。
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
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