酒池肉林王と7番目の天使

日向かなた

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第13話ー4

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 厨房から漂ってくる匂いに引っ張られるように、ナナ・ネネが「美味そう」と涎を垂らしながら大手門を潜り、城の出入り口へ向かって行く。

 他の一同もそれに続いていく中、ベルとフラヴィオは立ち止まったままだった。

 ベルが動かないのは、フラヴィオが動かないからだ。

「フラヴィオ様?」

 とフラヴィオの顔を覗き込むように見上げたとき、ふとその手に顔を包み込まれた。

「まったく、一時は本当に寿命が縮む思いだったが……やってくれたものだ、7番目の天使は」

「え?」

 と小首を傾げたベルの目線の先、フラヴィオのいつもの優しく明るい微笑が浮かんだ。

「よくやったな、ベル。本当に、よくやってくれた」

 耳から入って来たその言葉を、ベルの頭が理解するまでに数秒ほどの時間を要した。

「――…あ……」

 理解したら、じんと胸に染み込んで、全身に広がっていったら、身体が震えた。

 初めての感情に包まれる。

 それは奴隷時代には知る由もなかったもので、今ようやっと手にしたのだと分かる。

 フラヴィオに忠誠を尽くし、フラヴィオのために努力し、成長していくと共に欲するようになっていたそれは、とてもあたたかく、身体の芯から力強く漲り、この世に生まれて来たことへの悦びで溢れ返りそうだった。

(私は、私が、誇らしい……)

 顔を包み込んでいるフラヴィオの手を握り、頬を摺り寄せながら「スィー」と返事をした。

 頭の中で木霊する主の声を聞きながら、その顔を見つめて幸せを噛み締める。

 ふと、フラヴィオが「お?」と瞬きをした。ベルの顔を、食い入るように見つめる。

「――…ベル……」

 それは、ほんの僅かではあった。

「笑っているのか」

 その自覚のないベルの一方、フラヴィオの言葉に反応したハナが駆け寄って来た。

 ベルの顔を覗き込み、「おおっ」と声を上げる。

「そうだ、ベル! 頑張れ、ベル! もっとだ! もっとこう、口の端をぐいっと持ち上げるんだ!」

 とハナがベルの両頬を摘まんで、引き上げる。

「分かったな、こうだぞ!? このままだぞ!? いいな!?」

 ベルが頷いて承知の返事をすると、ハナが手を離した。

 すると引き上げられていたベルの口は、いつも通りの場所へと戻っていく。

 ハナが「あー」と言いながら、落胆していった。

「も、申し訳ございません……」

「良い」

 とフラヴィオが、少し赤くなったベルの頬を撫でた。

「余の見たいものが、少しだけ戻って来た」

 ついさっき見たそれを、頭の中に思い浮かべる。

 ベルはこのフラヴィオの顔を、その栗色の瞳を揺れ動かして見つめ、たしかに笑っていた。

 目も、口元も、本当に僅かだったが、幸福そうに笑んだのだ。

「愛らしいな……――」

 そう独り言のように言ったフラヴィオが微笑したとき、その手にベルの頭が引き寄せられた。

 民衆から丸見えの大手門の手前ということを忘れてか、それとも構わずか、はたまた酒池肉林王のもともと緩い理性が吹っ飛んだのか。

 現在、その視界を支配しているらしい天使の唇に、恍惚としたフラヴィオが吸い付いた。

 途端に王都オルキデーアに黄色い声が響き渡り、自身の目前で起きた出来事にハナが真っ赤になる。

 一方、目を開けたまま立ち尽くしていてるベルは、きっと今、何をされているのか理解できていない。

 民衆の女たちのあまりの叫喚ぶりに、はっとしたハナが慌てて「長いよ!」とフラヴィオに手刀を2回入れることで、ベルに吸い付いていたそれは、ようやく剥がされた。

「すまん、ついだ」

 と言った酒池肉林王のその顔は、でれんでれんになっている。

「『つい』じゃないよ! 大変なことになったじゃないか!」

 とハナが城下を指差すので見てみたら、次から次へと女たちが崩れ落ちていく。

 また、一部が将棋倒しになりかけてさらに悲鳴が上がり、「おい、大丈夫か!」と狼狽したフラヴィオが坂を数歩駆け下りたときのこと。

 ハナから「待った!」と呼び止められて振り返ると、何やら斜め下を指差している。

「フラビーはこっちを頼む」

 腰抜けがいた。

 大地の上にぺたんと座り込み、「え?」と首を傾げたベルが自身の膝に目を落とす。

 きっと腰が抜けたのは初めてなのだろう。

 何が起こったのかまるで分かっていない様子で、また「え?」と言って立ち上がろうとするが、またぺたんと座る。

 再びの「え?」には焦りの色が混じり、今度は地面に両手を付いて立ち上がろうとするが、やっぱりぺたんとなる。

 いよいよ本気で焦ったのか、またまたの「え?」は声高だった。

「ハナ、ホンファさんはもしかして私に時間差で効く魔法を……!?」

「ないない、腰抜け魔法なんて」

「治癒魔法をお願いします……!」

「効かない効かない、腰抜けになんて」

 じゃあ、どうすれば良いのか。

 ベルはもう一度足を踏ん張らせて、立ち上がろうと試みる。

 しかし力が入らず、やはりすぐにぺたんとなってしまう。

「え、ちょ…待っ……ちょ…………」

 何を思ったのか、錯乱と恐怖の色に染まった黒色の瞳にじわじわと涙が浮かんでいった――

「どうか私をお助け下さい、フラヴィオ・マストランジェロ様っ!」

 返って来たのは、盛大な哄笑だった。

 その腕に抱き上げられた時、ベルは恐怖で涙目だったが、フラヴィオは真逆の意味で涙目だった。

「わ、悪かった、ベル。でも大丈夫だ、少し経てば元に戻る。次はせめて、そなたの心の準備を待ってからにする。いやいや、悪かった悪かった」

 と、フラヴィオがまた白い歯を見せて笑い出しながら、大手門を潜って城の中へと入って行く。

 同じく腰を抜かしている民衆の女の方へは、ハナが助けに向かって行った。

 フラヴィオの腕の中、愉快そうなフラヴィオの顔を見ながら、ベルはようやく安堵する。

 どうやら現在、フラヴィオの魔法に掛かっているらしい。

 それならば、もう少しで戻るということだし、おとなしく掛かっておくことにした。

 なんだか、不思議な気分に包まれていく。

「あの……フラヴィオ様?」

「うん?」

 と返したフラヴィオは、まだ笑壺にはまっている。

「さっきのは、キスバーチョですか?」

「うん?」

 と、階段を上っていたフラヴィオが立ち止まった。

 ようやく笑壺から抜け出し、今度は眉を寄せてしまう。

 一体ベルは、バーチョ以外のなんだと思ったのだろうか。

 フラヴィオの反応を見て、ベルが「申し訳ございません」といった。

「不快感にも、吐き気にも襲われなかったもので」

「いや、当たり前ではないか。余は天使にそんな反応されたら3年は泣くぞ」

 と大衝撃を受けたフラヴィオが、何故そんなことを言うのかと問おうかときに、ふと察する。

 ベルは10年間の奴隷生活の中で、唇なんてきっと何度も奪われている。

 嫌悪感しかない男らに、望んでいないし、望みたくなるわけもないのに、強引に問答無用で奪われてきた。

 つまりベルは、そういうバーチョとは言えないものしか知らなかったのだ。

ファースト・キスプリーモ・バーチョを経験したような、不思議な気分です」

 そう言ったベルの頬が、少し染まった。

 腕に伝わって来る鼓動と、小躍りしている小さな爪先が、その心境を物語っている。

「――……心の準備をするのだ、ベル。良いか、1秒以内にだ」

「え」

「はい、ゼロ」

 短すぎる猶予時間のお陰で、ベルの戻りかけていた足腰からまた力が抜けて行った。
 

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