魔女の生まれた日

シマノ ワタオ

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1.持たざる者

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 水の揺れる音がする。鼻をつくのは湿った土と苔のにおい。ぬかるんだ地面を踏みしめながら先へ進んでいると、自分を呼び止める声が聞こえてきた。振り返り、映り込んだ姿にジュードはうんざりする。湖のほとりで、少女が動けなくなっていた。脚の半分までが泥に浸かり、顔のあちこちには枯れ草が貼りついているが、知っている顔だった。
「だからついてくるなって言ったんだ。そんな足取りじゃ、いつまでかかるか分かったものじゃない」
「だって、こんなに泥まみれになるなんて思わないじゃない!」
 自分よりも遥かに後ろで動けなくなっているジェナは、泥だらけの身体をはたきながら恨めしそうな視線を送ってくる。どうやら手を貸せということらしい。歩み寄って片手を差し出すと、両の手がジュードの手のひらを掴んだ。
「まったく。ここは湖というより沼ね。靴のなかに泥が入っちゃったわ」
「自分の不注意が原因だろ。おかげで僕の手まで泥まみれだ」
 湖に近づいて手をすすぐと、ジェナはギョッとした顔を見せる。
「信じられない! ばちが当たるわ!」
 凍りついた顔の幼馴染にジュードは笑いかけた。
「番人の特権さ。ばちは当たるまい」

 ジュードたちが暮らす集落のそばには、悪しきものを遠ざけるといわれる魔除けの湖があった。ジュードが湖の番人を任されたのは、ジェナの兄であるアレックが役目を終えたからだった。アレックは番人から戦士となり、今は集落を守っている。湖を見てまわる役目はジュードのものとなった。
「ねえ、なにが見えた?」
「いつもと変わらない、自分の顔さ」
「私は今よりも大人になっていたような気がする。目が大きくなって、顎もシュっと細くなっていたの」
 湖で泥を落としたジェナは、笑みを浮かべて水面を覗き込んだ。
 この湖にはたくさんの言い伝えが存在するが、そのどれもが都合のいい思い違いから生まれたものだということは、番人になってみれば分かることだ。ジェナがとくに気に入っている「湖に未来の真実がうつる」言い伝えも例に漏れないが、そのことをわざわざ口にする気はなかった。
 ジュードはもったいぶってもう一度湖を覗き込んだ。湖の周りの土地は泥だらけだが、湛える水はいつ目を向けても澄みきっている。
 残念ながら、水面にはつまらなさそうな自分の顔がうつり込んだだけだった。

 湖のほとりを一周するだけでも、のんびりしていれば日が暮れてしまう。足をとられないように注意して、ジュードは先を急いだ。ほとりを歩き続け、しきりに辺りへ目玉を動かしながら空気のにおいを嗅ぐ。異変をすぐに感じとるためにアレックから教えられた方法だったが、背後ではジェナが可笑しそうに肩を揺らしていた。手伝う気はないらしい。
 光に照らされてきらきらと波打つ湖の風景を眺めていると、唐突に嫌なものを感じた。この感覚は何度か経験したことがある。
「ジュード、あれって……」
 異変を感じ取ったジェナがふらふらと歩き出すのを制止し、ジュードは腰に差さった短剣を引き抜いた。
「まやかしだ。無闇に近づくな」
 よく見ると、周辺の樹木に見たこともない言葉の書かれた紙切れが貼られている。風に揺られて不気味な模様をひけらかす紙切れに、ジュードは湖の水を打ちつけた。文字の滲んだ紙切れを短剣で引き裂いていく。「まやかしは呪い。絶対に触るな」、ジュードはアレックからそう教えられていた。
「あいつらだ。ここのところ、よく周りをうろついているらしい」
 この紙切れの出どころは見当がついている。
「忌々しい魔法使いどもめ……」
 ジェナがぎりぎりと奥歯を鳴らした。

「持てる者」と「持たざる者」が存在するこの世界では、自分たちは「持たざる者」に振り分けられる。指先に火を点したり、浮かびあがらせたスプーンで紅茶を混ぜたりする芸当ができる者は、この集落にはひとりもいない。ジュードは「持てる者」の姿を近くで目にしたときから、彼らは自分たちとは違う生き物だと感じていた。
「魔法使いがやって来ていたのよ! 湖を狙ってる。どうにかしなくちゃ!」
 息を荒げるジェナをなだめてから、ジュードは集落へと引き返した。樹木から引き剥がした不気味な紙切れは崩れ落ち、いつの間にか姿を消していた。
「オーサ、伝えたいことがあって来ました」
 集落の首長の住まいを訪れると、彼女は静かにジュードたちを迎えいれた。事情を説明しているあいだ、オーサの黒い瞳は一度も揺れることなく、ジュードに注がれていた。
「胸騒ぎがしたのです。二人とも、手は触れていませんね?」
 ジュードがうなずくと、ジェナが思いきり口を開いた。
「首長さま! 魔法使いたちは私たちの湖にまやかしを振りまいています。追い払わなければ、どんな厄災が降りかかることか!」
「落ちついてちょうだい。まずは、ジュードと話をしたいわ。二人きりにしてもらえるかしら」
 以前から、あのような不可解な紙切れはときおり発見されていたが、ジェナにはそのことを知らされていない。おそらく、それについても話をしたいのだろうとジュードは考えた。
「先に帰って待っていてくれ」
 ジュードが促すと、ジェナはうなずいて家へ帰っていった。
「彼女のことは許してあげてください」
「構いません。それよりも、私はあなたに話さなくてはならないことがある」
 二人きりになった途端、オーサの瞳からふっと光が失われた。急に何十年も歳をとったような彼女の様子にジュードは背筋が冷たくなる。
「アレックが出ていくことになりました」
「……なんだって?」
「言葉の通りです。アレックが集落から出ていくことを決意しました」
 アレックはこの集落で唯一、魔法使いと対峙することのできる戦士だ。身寄りのなくなったジュードを引き取って育ててくれた人で、憧れの対象でもある。
「なぜ、……アレックはそんなことを?」
「私たちを見限ったわけではありません。むしろ、えぇ、私たちのためにそうすることを決めたのです。彼は私たちを想って……」
 オーサはこの集落の首長だ。それは決断力に優れていること、大勢を導く能力があることを皆から認められた証でもある。そんな彼女が重たく口を開く姿はジュードの胸をざわつかせた。
「カゲロウ病に襲われたものが現れました」
 カゲロウやまい。それはジュードにとって絶対に忘れることのできない言葉だった。その病に触れた者は食事をとる力が失われていき、じわじわと衰弱していく。ジュードの両親はその病によって命を落とした。
「幸いなことに、今のところ発症者はひとりしか現れていません」
 カゲロウが空を舞うように、カゲロウ病は人へと舞い降り、いつの間にかその地を去っていく。発症した者はカゲロウのように薄命になることからその名がつけられていた。五年前に集落を襲ってからは一度も牙をむくことがなかったというのに、なぜ今になって生じたのだろうか。
「アレックが発症したわけではないのですよね?」
「ええ。彼はその者の治療薬を得るために出ていくのです。魔法使いの蔓延る、西の地へ。どんな病も治すことのできる薬草があると話を聞きました」
「そんな無駄なことを……」
 カゲロウ病を消し去ることのできる薬は存在しない。それはジュードだけではなく、この集落で生活する人間なら誰もが理解している。以前、カゲロウ病が集落を襲ったとき、発症した者は誰ひとり助からなかった。あらゆる薬も治療法も効果をあげることはなく、家族が力尽きる姿を皆見ていることしかできなかったのだ。今になって、子供の描いたような奇跡に縋りつこうとは思わない。
「彼に祈りましょう。あなたは引き続き湖を見守っていてください」
 首長の張りつめた声にジュードは顔を上げた。
「オーサ、魔法使いたちはなぜ湖に近づくのですか?」
 オーサははじめて情けない顔を見せた。
「分かりません。私は『持たざる者』なのですから」
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