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仮面卿外伝【第二章 太陽が沈んだその後に】
第五話 大脱出
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オーギュストは秘密の通路を使い、王城への侵入を果たしていた。国王だった父親から教えてもらったものだ。ハインリヒは知らないので、もし自分がここからいなくなれば、この通路を使う者はいなくなるのだろう。
オーギュストは闇に乗じて警備兵をやり過ごし、夫婦共用の寝室へと辿り着く。が、残念ながらもぬけの殻だった。部屋を移されたに違いない。
一体どこへ……
ブリュンヒルデの居場所が分からず、やきもきする羽目となる。
秘密の通路を使って城内を歩き回り、彼女の情報を集めた。使用人達の話に耳をそばだてれば、そこここからブリュンヒルデの噂話が入ってくる。
曰く、王太子だった自分をそそのかし、王家乗っ取りを企んだ悪女、だの。それが失敗に終わったので、今度はハインリヒに取り入り、ちゃっかり王妃の座を射止めた食わせ者、だの。実は滅びの魔女の血を引いていた魔女だった、というような悪口まで……
オーギュストの眉間に皺が寄る。
謀反人として自分がとらえられた直後にハインリヒと通じた、という噂が主流のようだが……何故ヒルデがここまで悪し様に言われるのか分からない。城の者達との関係は良好だったはずだ。ああ、自分が謀反人として処刑されたからか? だから、彼女まで悪く言われる? 何ともやりきれない。
そこでふっと、オーギュストの胸に不安がよぎる。
離縁書にサインをしたのがひと月半前だ。
なので、たとえヒルデが他の男の手を取ったとしても、こんなに早く妊娠が発覚するのはおかしいと考え、自分の子だと思ったのだが……。もし、ハインリヒと通じたのが、噂通り冤罪をかけられた直後の四ヶ月前だとしたら? いや、しかし……それでは心変わりをするのが早すぎる。まさか、乱暴された?
嫌な予感にひやりとなる。
「ブリュンヒルデ様は妊娠四ヶ月?」
「いや、七ヶ月だって聞いたぜ?」
侍女と使用人の会話だ。厨房の外で芋の皮むきをしている。
「なら、計算が合わないじゃない。ハインリヒ陛下に取り入ったのが、オーギュスト殿下が捉えられた直後よね? だったら、妊娠四ヶ月のはずよ?」
「そんなん、殿下が謀反を企てる前から通じてたに決まってるだろ?」
男の無責任な台詞に、オーギュストは猛烈に腹が立った。はははと笑った使用人の首を絞めたくもなる。ヒルデを一体どんな女だと思っているのか……
しかし、妊娠七ヶ月? あ……
謀反人として捉えられる直前、ブリュンヒルデが体調を崩していた。あれは、つわり? あの時、妊娠三ヶ月だとしたら計算が合う。
その後、オーギュストはブリュンヒルデの世話をしている侍女を見つけ、彼女の会話から部屋を特定し、そこへ急いだ。牢でなくて良かったと安堵する。
外から部屋の窓を見上げれば明かりが漏れていた。
起きているのだろう。オーギュストは二本のナイフを交互に石壁の隙間にねじ込み、直立する壁を上り、部屋に続くバルコニーに侵入した。
窓から中を覗き込めば、寝室にいるのは侍女のアンバーとブリュンヒルデの二人だった。ブリュンヒルデの姿を見て、オーギュストは無事であることに安堵するも、声をかけることは躊躇してしまう。彼女の反応が分からない。
エクトルと同じか? それとも……
自分を裏切った者達と同じなら、自ら死にに戻ったことになる。彼女に騒がれて警備兵に取り囲まれる羽目になるだろう。ブリュンヒルデが立ち上がれば大きくなった腹が目に入り、オーギュストは食い入るようにその姿を見つめた。
妊娠七ヶ月なら、自分の子のはずだ。
この大きさならどう見ても……
オーギュストは口笛を吹いた。ブリュンヒルデなら気付くだろう。いつもこうやって、相手の注意を引いていた。ブリュンヒルデの碧い目が窓に向き、そして動きを止めた。
「オーギュ……」
「ブリュンヒルデ様、どうし……」
悲鳴を上げそうになったアンバーの口を、ブリュンヒルデがすかさぐ塞ぐ。しっ、静かにと言った彼女の言葉を確かに、確かにオーギュストは聞き取った。驚きに目を見張っていた彼女の顔が、泣き笑いの顔になり、オーギュストは理解する。ヨルグの言葉は嘘だったのだと……
窓を開け、オーギュストがそっと内部に入り込めば、ブリュンヒルデが両手を広げて抱きついてきた。喜びと不甲斐なさと愛おしさが混ざり合って、胸が詰まって言葉にならない。抱きしめれば懐かしい香りがする。永久に失ってしまったものとばかり……
「生きて……」
「そうだ。私はこうして生きている」
ブリュンヒルデの柔らかな唇を奪い、思う存分味わった。
ああ、ヒルデ、ヒルデ……愛している。誰よりも君が愛おしい……
彼女を今一度抱きしめると、ブリュンヒルデがぽつりと言った。
「でも、処刑されたところを見せられたわ」
「……ボドワンが身代わりになったんだ」
オーギュストの返答に、ブリュンヒルデが驚く。
「ボドワン……ボドワン・バークレア伯爵が?」
「そうだ」
「どう、して……」
「冤罪だと彼だけが信じた」
「それで身代わりに?」
頷けば、ブリュンヒルデがはらはらと涙をこぼした。
「なんと言えばいいのか分からないわ」
「素直にありがとうと……」
オーギュストがそう口にする。
今自分がしてやれるのはそれくらいだ。
こんなに自分を非力だと思ったことがかつてあったろうか? バークレア伯爵家を守ってやることも、息子達の行く末を気にしてやることも、今の自分には出来ない。
「ええ、そうね、いくら感謝してもしたりないくらいよ」
ブリュンヒルデの手が、オーギュストが首に掛けていたペンダントの鎖に触れ、彼女は嬉しそうに微笑んだ。ヨルグが獄中で放ってよこした青いガラス細工のペンダントだ。
「これ……身につけていてくれたのね?」
「ん? ああ……何故これを私に贈ったんだ?」
オーギュストが問うと、ブリュンヒルデがくすりと笑った。
「何故って、聞いていないの? 愛しているわというメッセージを添えた筈だけれど……。あなたの命を助けてもらう代わりに離縁書にサインをしたのだけれど、その……あなたに誤解されたくなくて、子供の頃、初めて贈られた贈り物をこうして届けてもらったのよ。ずっと大事に取っておいたものだから、きっと気持ちが通じると、そう思ったの」
オーギュストの胸に熱いものが込み上げ、泣き笑いのようになってしまった。ああ、本当に自分は大馬鹿だと思う。自分の目で見たものだけを信じればよかったんだ。ただそれだけ……
「ふ……ああ、そうか。そうだったのか。それは聞いていなかった」
ブリュンヒルデの白い手が、オーギュストの頬を撫でた。
「兄が伝え忘れたの? 酷いわ」
「逆の事を言われたんだ」
「逆?」
「獄中でヨルグにこれを放られて……必要ないから返す、と。もう愛していないからと……そう聞かされた。けど、未練がましくこうして身につけている」
ブリュンヒルデは驚きに目を見開いた。
「そんな……違う、違うわ! 離縁書にサインしたのだって、そうすればあなたの命を助けてやるからと、そう言われて。だから泣く泣くそうしたのよ!」
狼狽えるブリュンヒルデに、宥めるようにキスをした。
「ああ、分かっている。いや、違うな。今知ったんだ。少しでも君を疑った私を許して欲しい」
「でも、でも何故、ヨルグお兄様はそんなことを?」
「さあな。もう妹と関わるなと、そう言いたかったのかもしれない」
「酷いわ! 問い詰めて……」
「いや、駄目だ。私が生きていることを知られたくない」
ブリュンヒルデの口を手でそっと塞ぐ。
「子供が?」
オーギュストが大きく膨らんだ腹に手を当て、ブリュンヒルデが笑う。
「ええ、七ヶ月目になるわ。あなたの子よ。その……」
オーギュストが目を細めて笑う。
「ああ、嬉しいよ。こんな状況でよく頑張ったな。体調は? 少し痩せたか?」
「ええ、食欲がなくて……」
「誹謗中傷のせいです!」
すかさずそう口を挟んだのは侍女のアンバーだ。うえぇと今にも泣き出さんばかりである。
「ブリュンヒルデ様に袖にされたからって、ハインリヒ陛下が自分の子だと吹聴して回っています! ブリュンヒルデ様に対する誹謗中傷を広めているんです! そのせいでブリュンヒルデ様は肩身の狭い思いを!」
アンバーの訴えに、オーギュストは舌打ちを漏らした。
それで妙な噂が蔓延していたのか……
「事実無根ですのに! 酷いですわ! あの方はブリュンヒルデ様に執着なさっています! そのせいでここから出してもらえません! 自分の妻にするのだと息巻いています! オーギュスト殿下、お願いします。何とか国へ帰れるように手伝って下さい! ヨルグ殿下はてんで頼りになりません!」
「ヴィスタニア帝国から迎えは?」
オーギュストの問いにアンバーが泣きながら首を横に振る。
「ブリュンヒルデ様の手紙は、途中で全部握りつぶされているようです。ヨルグ殿下が動いて下さっているようですが……時間がかかるとそればっかりで、らちがあきません。交渉に入ってからもうひと月ですよ! このままではブリュンヒルデ様が無理矢理妻にされそうで怖くて……」
無理矢理妻に……。そうなると子供も危ない。
オーギュストが言う。
「……一緒に来るか? 君をヴィスタニア帝国へ連れて行こう」
ブリュンヒルデの顔がぱっと明るくなった。
「ええ、行きますわ」
「な、ならわたくしも参ります!」
侍女のアンバーがそう決意表明をする。アンバーはヴィスタニア帝国から付いてきたブリュンヒルデの専属侍女だ。当然のように自分も一緒に故郷へ帰ると言う。
荷物を急いでまとめ、バルコニーからロープを垂らす。
腹の赤ん坊に圧がいかないよう、シーツを裂いて作った抱っこ紐で、オーギュストはブリュンヒルデと体をしっかり繋げ、下へ降ろすことにする。ブリュンヒルデを無事下へ降ろし、戻ってきたオーギュストが、アンバーを同じように抱え上げると、彼女は狼狽えた。
「ちょ、待って待ってください! 殿下!」
ブリュンヒルデの時と同じように、シーツを裂いて作った抱っこ紐で二人の体をしっかり繋げているので、密着度が凄い。アンバーが慌てた。慌てまくった。
「お、恐れ多い! 他の方法は!」
「ない。我慢しろ。一人で降りられないだろう?」
オーギュストがロープを掴み、バルコニーから外へと身を躍らせると、ひょえっと声にならない声がアンバーの口から漏れた。
「で、でんでんでん……」
アンバーの顔が真っ赤だ。
「……高所恐怖症か?」
下を見なければいい、オーギュストにそう言われ、アンバーは首を横に振った。
「ちがちがちが! 顔が近い!」
「しっ、静かに……見付かる……」
慌ててアンバーは口を閉じる。無事下へ辿り付くと、アンバーはオーギュストから飛び退くようにして離れた。ご無礼を致しましたと必死で頭を下げる。
その後、オーギュストの背を追い、ひっそりと移動開始だ。止まれ、進めというオーギュストの合図通りに動けば、監視の目をかいくぐれてしまう。アンバーは感心してしまった。
「……もしかして殿下は警備兵の動きを全部覚えているんですか?」
「ああ、そうやって警備に穴がないか探るんだ」
本当なら、近々警備の配置換えをする予定だったと、オーギュストが言う。城に張り巡らされた秘密の通路の入り口に辿り付けば、アンバーは更に目を丸くした。
「こんな通路があったんですね」
「……外部へ漏らすな? 王族でもほんの一部の者しか知らない秘密の通路だ」
「ブリュンヒルデ様の名にかけて、口外致しません」
アンバーが真面目くさった顔で断言した。
オーギュストは闇に乗じて警備兵をやり過ごし、夫婦共用の寝室へと辿り着く。が、残念ながらもぬけの殻だった。部屋を移されたに違いない。
一体どこへ……
ブリュンヒルデの居場所が分からず、やきもきする羽目となる。
秘密の通路を使って城内を歩き回り、彼女の情報を集めた。使用人達の話に耳をそばだてれば、そこここからブリュンヒルデの噂話が入ってくる。
曰く、王太子だった自分をそそのかし、王家乗っ取りを企んだ悪女、だの。それが失敗に終わったので、今度はハインリヒに取り入り、ちゃっかり王妃の座を射止めた食わせ者、だの。実は滅びの魔女の血を引いていた魔女だった、というような悪口まで……
オーギュストの眉間に皺が寄る。
謀反人として自分がとらえられた直後にハインリヒと通じた、という噂が主流のようだが……何故ヒルデがここまで悪し様に言われるのか分からない。城の者達との関係は良好だったはずだ。ああ、自分が謀反人として処刑されたからか? だから、彼女まで悪く言われる? 何ともやりきれない。
そこでふっと、オーギュストの胸に不安がよぎる。
離縁書にサインをしたのがひと月半前だ。
なので、たとえヒルデが他の男の手を取ったとしても、こんなに早く妊娠が発覚するのはおかしいと考え、自分の子だと思ったのだが……。もし、ハインリヒと通じたのが、噂通り冤罪をかけられた直後の四ヶ月前だとしたら? いや、しかし……それでは心変わりをするのが早すぎる。まさか、乱暴された?
嫌な予感にひやりとなる。
「ブリュンヒルデ様は妊娠四ヶ月?」
「いや、七ヶ月だって聞いたぜ?」
侍女と使用人の会話だ。厨房の外で芋の皮むきをしている。
「なら、計算が合わないじゃない。ハインリヒ陛下に取り入ったのが、オーギュスト殿下が捉えられた直後よね? だったら、妊娠四ヶ月のはずよ?」
「そんなん、殿下が謀反を企てる前から通じてたに決まってるだろ?」
男の無責任な台詞に、オーギュストは猛烈に腹が立った。はははと笑った使用人の首を絞めたくもなる。ヒルデを一体どんな女だと思っているのか……
しかし、妊娠七ヶ月? あ……
謀反人として捉えられる直前、ブリュンヒルデが体調を崩していた。あれは、つわり? あの時、妊娠三ヶ月だとしたら計算が合う。
その後、オーギュストはブリュンヒルデの世話をしている侍女を見つけ、彼女の会話から部屋を特定し、そこへ急いだ。牢でなくて良かったと安堵する。
外から部屋の窓を見上げれば明かりが漏れていた。
起きているのだろう。オーギュストは二本のナイフを交互に石壁の隙間にねじ込み、直立する壁を上り、部屋に続くバルコニーに侵入した。
窓から中を覗き込めば、寝室にいるのは侍女のアンバーとブリュンヒルデの二人だった。ブリュンヒルデの姿を見て、オーギュストは無事であることに安堵するも、声をかけることは躊躇してしまう。彼女の反応が分からない。
エクトルと同じか? それとも……
自分を裏切った者達と同じなら、自ら死にに戻ったことになる。彼女に騒がれて警備兵に取り囲まれる羽目になるだろう。ブリュンヒルデが立ち上がれば大きくなった腹が目に入り、オーギュストは食い入るようにその姿を見つめた。
妊娠七ヶ月なら、自分の子のはずだ。
この大きさならどう見ても……
オーギュストは口笛を吹いた。ブリュンヒルデなら気付くだろう。いつもこうやって、相手の注意を引いていた。ブリュンヒルデの碧い目が窓に向き、そして動きを止めた。
「オーギュ……」
「ブリュンヒルデ様、どうし……」
悲鳴を上げそうになったアンバーの口を、ブリュンヒルデがすかさぐ塞ぐ。しっ、静かにと言った彼女の言葉を確かに、確かにオーギュストは聞き取った。驚きに目を見張っていた彼女の顔が、泣き笑いの顔になり、オーギュストは理解する。ヨルグの言葉は嘘だったのだと……
窓を開け、オーギュストがそっと内部に入り込めば、ブリュンヒルデが両手を広げて抱きついてきた。喜びと不甲斐なさと愛おしさが混ざり合って、胸が詰まって言葉にならない。抱きしめれば懐かしい香りがする。永久に失ってしまったものとばかり……
「生きて……」
「そうだ。私はこうして生きている」
ブリュンヒルデの柔らかな唇を奪い、思う存分味わった。
ああ、ヒルデ、ヒルデ……愛している。誰よりも君が愛おしい……
彼女を今一度抱きしめると、ブリュンヒルデがぽつりと言った。
「でも、処刑されたところを見せられたわ」
「……ボドワンが身代わりになったんだ」
オーギュストの返答に、ブリュンヒルデが驚く。
「ボドワン……ボドワン・バークレア伯爵が?」
「そうだ」
「どう、して……」
「冤罪だと彼だけが信じた」
「それで身代わりに?」
頷けば、ブリュンヒルデがはらはらと涙をこぼした。
「なんと言えばいいのか分からないわ」
「素直にありがとうと……」
オーギュストがそう口にする。
今自分がしてやれるのはそれくらいだ。
こんなに自分を非力だと思ったことがかつてあったろうか? バークレア伯爵家を守ってやることも、息子達の行く末を気にしてやることも、今の自分には出来ない。
「ええ、そうね、いくら感謝してもしたりないくらいよ」
ブリュンヒルデの手が、オーギュストが首に掛けていたペンダントの鎖に触れ、彼女は嬉しそうに微笑んだ。ヨルグが獄中で放ってよこした青いガラス細工のペンダントだ。
「これ……身につけていてくれたのね?」
「ん? ああ……何故これを私に贈ったんだ?」
オーギュストが問うと、ブリュンヒルデがくすりと笑った。
「何故って、聞いていないの? 愛しているわというメッセージを添えた筈だけれど……。あなたの命を助けてもらう代わりに離縁書にサインをしたのだけれど、その……あなたに誤解されたくなくて、子供の頃、初めて贈られた贈り物をこうして届けてもらったのよ。ずっと大事に取っておいたものだから、きっと気持ちが通じると、そう思ったの」
オーギュストの胸に熱いものが込み上げ、泣き笑いのようになってしまった。ああ、本当に自分は大馬鹿だと思う。自分の目で見たものだけを信じればよかったんだ。ただそれだけ……
「ふ……ああ、そうか。そうだったのか。それは聞いていなかった」
ブリュンヒルデの白い手が、オーギュストの頬を撫でた。
「兄が伝え忘れたの? 酷いわ」
「逆の事を言われたんだ」
「逆?」
「獄中でヨルグにこれを放られて……必要ないから返す、と。もう愛していないからと……そう聞かされた。けど、未練がましくこうして身につけている」
ブリュンヒルデは驚きに目を見開いた。
「そんな……違う、違うわ! 離縁書にサインしたのだって、そうすればあなたの命を助けてやるからと、そう言われて。だから泣く泣くそうしたのよ!」
狼狽えるブリュンヒルデに、宥めるようにキスをした。
「ああ、分かっている。いや、違うな。今知ったんだ。少しでも君を疑った私を許して欲しい」
「でも、でも何故、ヨルグお兄様はそんなことを?」
「さあな。もう妹と関わるなと、そう言いたかったのかもしれない」
「酷いわ! 問い詰めて……」
「いや、駄目だ。私が生きていることを知られたくない」
ブリュンヒルデの口を手でそっと塞ぐ。
「子供が?」
オーギュストが大きく膨らんだ腹に手を当て、ブリュンヒルデが笑う。
「ええ、七ヶ月目になるわ。あなたの子よ。その……」
オーギュストが目を細めて笑う。
「ああ、嬉しいよ。こんな状況でよく頑張ったな。体調は? 少し痩せたか?」
「ええ、食欲がなくて……」
「誹謗中傷のせいです!」
すかさずそう口を挟んだのは侍女のアンバーだ。うえぇと今にも泣き出さんばかりである。
「ブリュンヒルデ様に袖にされたからって、ハインリヒ陛下が自分の子だと吹聴して回っています! ブリュンヒルデ様に対する誹謗中傷を広めているんです! そのせいでブリュンヒルデ様は肩身の狭い思いを!」
アンバーの訴えに、オーギュストは舌打ちを漏らした。
それで妙な噂が蔓延していたのか……
「事実無根ですのに! 酷いですわ! あの方はブリュンヒルデ様に執着なさっています! そのせいでここから出してもらえません! 自分の妻にするのだと息巻いています! オーギュスト殿下、お願いします。何とか国へ帰れるように手伝って下さい! ヨルグ殿下はてんで頼りになりません!」
「ヴィスタニア帝国から迎えは?」
オーギュストの問いにアンバーが泣きながら首を横に振る。
「ブリュンヒルデ様の手紙は、途中で全部握りつぶされているようです。ヨルグ殿下が動いて下さっているようですが……時間がかかるとそればっかりで、らちがあきません。交渉に入ってからもうひと月ですよ! このままではブリュンヒルデ様が無理矢理妻にされそうで怖くて……」
無理矢理妻に……。そうなると子供も危ない。
オーギュストが言う。
「……一緒に来るか? 君をヴィスタニア帝国へ連れて行こう」
ブリュンヒルデの顔がぱっと明るくなった。
「ええ、行きますわ」
「な、ならわたくしも参ります!」
侍女のアンバーがそう決意表明をする。アンバーはヴィスタニア帝国から付いてきたブリュンヒルデの専属侍女だ。当然のように自分も一緒に故郷へ帰ると言う。
荷物を急いでまとめ、バルコニーからロープを垂らす。
腹の赤ん坊に圧がいかないよう、シーツを裂いて作った抱っこ紐で、オーギュストはブリュンヒルデと体をしっかり繋げ、下へ降ろすことにする。ブリュンヒルデを無事下へ降ろし、戻ってきたオーギュストが、アンバーを同じように抱え上げると、彼女は狼狽えた。
「ちょ、待って待ってください! 殿下!」
ブリュンヒルデの時と同じように、シーツを裂いて作った抱っこ紐で二人の体をしっかり繋げているので、密着度が凄い。アンバーが慌てた。慌てまくった。
「お、恐れ多い! 他の方法は!」
「ない。我慢しろ。一人で降りられないだろう?」
オーギュストがロープを掴み、バルコニーから外へと身を躍らせると、ひょえっと声にならない声がアンバーの口から漏れた。
「で、でんでんでん……」
アンバーの顔が真っ赤だ。
「……高所恐怖症か?」
下を見なければいい、オーギュストにそう言われ、アンバーは首を横に振った。
「ちがちがちが! 顔が近い!」
「しっ、静かに……見付かる……」
慌ててアンバーは口を閉じる。無事下へ辿り付くと、アンバーはオーギュストから飛び退くようにして離れた。ご無礼を致しましたと必死で頭を下げる。
その後、オーギュストの背を追い、ひっそりと移動開始だ。止まれ、進めというオーギュストの合図通りに動けば、監視の目をかいくぐれてしまう。アンバーは感心してしまった。
「……もしかして殿下は警備兵の動きを全部覚えているんですか?」
「ああ、そうやって警備に穴がないか探るんだ」
本当なら、近々警備の配置換えをする予定だったと、オーギュストが言う。城に張り巡らされた秘密の通路の入り口に辿り付けば、アンバーは更に目を丸くした。
「こんな通路があったんですね」
「……外部へ漏らすな? 王族でもほんの一部の者しか知らない秘密の通路だ」
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