文字サイズ
小
中
大
特大
86 / 93
仮面卿外伝【第二章 太陽が沈んだその後に】
第十四話 変化の兆し
「愛している、ケイトリン」
鏡を見ながら何度そう言っただろう。まるで呪詛のようだとオーギュストは思う。いや、実際呪いだ。愛という名の呪い……。暗示を掛けるように言い聞かせるように、今日もまた口にするのだ。愛している、ケイトリンと……
「愛している、ケイトリン」
「愛している、ケイトリン」
いや、違うと心の深奥が叫び、オーギュストは咄嗟に拳で鏡を割っていた。微笑む自分の顔に吐き気がする、うんざりだった……。いつまで耐えなければならないのか、自害をした方が遙かに楽だ。
「ジャック様!」
ザインの声が聞こえ、手を取られていた。
「手を、手を開いてください」
手? ああ……
言われて初めてオーギュストは気が付いた。
鏡の破片を握り込んでいたのか。血が滴っている。
「大丈夫だ」
「大丈夫なわけがありません! お願いですから……」
指を一本一本開かされる。思ったより深く切っていたらしい。縫わないと血が止まりそうにない。
◇◇◇
「……御身を大切に」
手当てをしつつザインが言う。
「そうだな」
上の空で答えるオーギュストに、ザインは腹を立てた。どうでもいい、そんな風に言っているように聞こえてしまうからだ。
無頓着にも程があります!
「本当に分かっていらっしゃいますか? ジャック様は時々、自分を痛めつけるような行動をなさいます」
「……怒りで前後不覚になると、制御出来ないんだ」
やはり上の空だ。凪いだ緑の瞳はどこか遠い。
「……あの魔女のせいですか?」
ため息交じりにザインが言った。ザインもまた、アンバーと同じようにほぼ全ての事情を把握している。ケイトリンという女が不死身であることも、オーギュストの最愛だったブリュンヒルデを殺した仇だと言うことも……
オーギュストが冤罪で処刑寸前まで追い詰められたことを知り、ザインはその場に自分がいなかったことを悔やんだが、裏を返せば、任務で国を離れていたからこそ、彼は魔女の血を口にしなかったともいえる。その場にいたなら、他の仲間と同じように魔女の血に操られ、オーギュストを裏切っていたに違いない。
オーギュストの瞳がどこを見ているのか分からず、ザインがため息をつく。
「他に方法は……」
「ない。もう仕事に戻れ」
そっけなく返され、仕方なくザインが立ち上がる。
「ジャック様、どうか御身を大切に。あなた様のお命は、あなた様だけのものではありません。国民があなた様の帰りを待っています。王座に返り咲くその日を……」
今一度そう声を掛け、ザインは立ち去った。
◇◇◇
「オーギュ、手をどうしたの?」
食事の席でケイトリンが不思議そうに言う。オーギュストが笑った。やはり艶やかだ。
「ああ、うっかり鏡を割ってしまってな」
「もう、気を付けて? オーギュの綺麗な顔に傷が付いたらあたい悲しいしぃ」
そう言って、ケイトリンが口を尖らせる。
「この傷も……オーギュの顔を殴るなんて信じられない。そいつを見つけ出してずったずたにしてやりたいよ」
ハインリヒとやりあって、近衛兵に殴られた時の傷が、オーギュストのこめかみにある。焼けた火かき棒はオーギュストに酷い裂傷と火傷を負わせたが、エヴリンのエリクサーのお陰で、今やその傷は殆ど目立たない。うっすらとした痕が残る程度である。それでもケイトリンは誰にやられたのかと憤慨した。
「ね、本当に相手を覚えていないの?」
「血が目に入って、よく見えなかったんだ」
「そっかー……残念、っつ!」
「どうした?」
オーギュストは平静を装ったが、痛がったケイトリンを見て、内心目を見張っていた。
痛い? 痛覚の麻痺したこの女が? まさか……いや、ありうる。痛覚が戻ったのなら……
「ううん、何でもない。よそ見をしていたら、ナイフで指をついちゃった」
「そうか、見せてごらん?」
優しく手を握り、ケイトリンの切った指先を口に含む。
「オーギュ、ほんっと優しいね。あたい嬉しい」
オーギュストは目を見張った。
苦い……血が苦いと言うことは……
オーギュストは歓喜した。心の底から。この女を殺せる合図にほかならない。秘薬の力が反転し、毒の血が薬に変わっている。
「オーギュ? どうしたの?」
「いや、そうだ、いつもの採血を早めたい。いいか?」
週に一度、研究の為と称して、血の変化を調べるために採血している。甘い血が苦く感じるその時を、待って待って待ってこうして待ち続けた。毒の血が薬に変わったのなら、いまこそ反撃の時だ。研ぎ澄まされた牙がようやく、ようやく役に立つ。
「採血を? いいけど、どうして?」
「研究に必要なんだ」
「ふうん? うん、いいよ。オーギュの頼みだもんね。その代わり、今夜はうんとサービスして?」
オーギュストの口角が上がる。
ああ、いいとも。役立たずのこの体で良ければ……
一度として機能したことがない。流石にここまでは誤魔化せなかった。何度試しても反応しない。殺しに喜びを感じる殺人狂ならまだ反応したかもしれないが……。何度も何度もお前を殺す幻覚を見た。殺意を押し隠すのに必死で……その分、おぞましさから目をそらすのに役立った。殺したいほど憎い女と寝るのがどんな気分か、誰にも分かるまい……
「オーギュ、嬉しそうだね?」
「そうだな、最高の気分だ」
笑いが込み上げる。は、はは、既に、どこかおかしいのだろうが……ああ、構わない。ローザを取り戻せる。抜き取った血をローザに……いや、毒味が必要か。
聖王リンドルンの手記には無害だと書いてあったが、念のため水槽に注いでみる。魚が無事であることを確かめ、オーギュストは自分も口にした。
魔女の血は自分には効かないらしいが、これも念のため……
ローザ、待っていろ。もう少し、もう少しの辛抱だ。
十分時間をおいてから、オーギュストはローザに血を与えるよう指示を出した。
手記を信じるなら、直ぐに効果が現れるはず……
ローザが血を混ぜた飲料を口にするのを確認し、オーギュストは子供部屋へそっと足を踏み入れた。ローザと距離を取る生活を続けてからもう三年近い。期待と不安がどうしても入り交じる。
「ローザ様、ほら、お父様ですよ?」
自分が入り口に姿を見せると、アンバーがそう言ってくれたが、ローザは近付こうとしない。どことなく怯えているようにも見える。
ひやりとした。 まさか、薬の効果がなかったのか? 喜んで飛びついてくる、とまでは思っていなかったが、流石にこれは反応が悪すぎる。
「ローザ? パパだ。どうした? ほら、おいで……」
その場に膝をつき、オーギュストがそう呼びかけても、アンバーの後ろにさあっと隠れてしまう。これではらちがあかない。苛立ったオーギュストが、強引にローザを抱き上げようとすれば、ふえっと泣かれてしまい狼狽えた。
「あ、あの、殿下、申し訳ありません! 多分、見ず知らずの大人は怖いんだと思います。もうすこしゆっくり……」
アンバーが慌てて取りなし、オーギュストはその言葉を理解する。
見ず知らずの大人……ああ、そうか、そうだな。ローザとは殆ど顔を合わせたことがない。私が傍にいると嫌がって泣き出すから、食事も一緒に取らなかった。ローザから嫌悪感が消えても、今の私はほぼ垢の他人も同然か……
アンバーがローザを抱き上げれば、ようやく泣き止む。
子供部屋から出たところで、オーギュストはザインに指示を出した。
「ケイトリンに見張りをつけ、邸から出さないように」
どうせ私の傍から離れないだろうが、念のため……必要な分量の血を採取するまでは、どこぞで勝手に死なれても困る。
「かしこまりました」
ザインが頭を下げた。
もう、機嫌を取る必要もあるまい。おぞましい恋人ごっこはここで終わりだ。
その後、何度かお茶会の真似事を繰り返し、ローザに父親だと認識させるよう努力する。以前のような嫌悪感むき出しの表情がローザから消えていて、これだけでも喜びだった。
「おとうしゃま?」
「そうですよ、ジャック様はローザ様のお父様です。お膝に乗ってみますか?」
アンバーがそう言って促すと、ローザはじっとオーギュストの顔を見上げた。深海のように碧い瞳はブリュンヒルデに生き写しだ。何度その瞳に見惚れたか分からない。
オーギュストの口元が自然と綻んだ。
ローザ、唯一無二の光……私の宝……
オーギュストが笑いかければ、ローザの顔がきゅうっと赤くなる。恥ずかしそうにもじもじとし、ローザはくるりと後ろを向いてしまった。耳まで赤くした顔をアンバーの胸に埋めて動かない。
まだ無理か……
オーギュストはそっとため息をつく。
だが、時間はたっぷりある。これからはなるべく時間を取るようにしよう。二人の時間を……
ゆるゆると時は流れ、はっきりとした変化が現れたのは、ローザが三才の誕生日を迎えた翌日のことである。
「お、おとうしゃま、あの、これ……」
そろそろと食堂へ入ってきたローザが差し出したのは、一本の白い薔薇だった。ローザの方から話しかけられたのは初めてである。見ると、食堂の入り口付近でアンバーが「がんばってください」と口パクだ。
「おかちと、おにんぎょうの……おれい、でしゅ」
恥ずかしそうにうつむき、そっと薔薇を差し出すローザを見て、オーギュストは目を細めた。
こんなに喜びで心が満たされるのはいつ以来だろう。きっとローザが手渡したものなら、雑草でも嬉しかったに違いない。
「ありがとう」
オーギュストがローザの小さな手が差し出した花を受け取れば、ローザの顔がぱっと輝いた。その笑顔があまりにも眩しくて胸が詰まり、涙が一つ二つと頬を伝う。
「おとうしゃま?」
どこか痛いの? 大丈夫? 心配そうに、怪訝そうに顔を覗き込むローザもまた愛らしい。そっと手を伸ばし、金の頭を撫でた。まだまだ小さくてあどけない。守ると誓った命だ。ブリュンヒルデの忘れ形見……守ってみせる。絶対に……
「何でもない。嬉しいだけだ」
そう、嬉しくて仕方がない。
そんな幸福感を引き裂いたのは、耳障りな甲高い声だ。
「この、泥棒猫! なにやってんのさ!」
オーギュストが目を向ければ、ケイトリンが怒り心頭で、ずかずかと食堂に踏み込んで来るところだった。手袋をはめた手には剪定ばさみを握っている。
また赤い薔薇を温室から持ってきたのか……
ため息しか出ない。何もかもがうんざりだった。
彼女の行動が逐一癇に障ってどうしようもない。花屋へ足繁く通われるよりはと温室に赤い薔薇を用意させたが、これも止めさせるか……。そこいら中が赤い薔薇の花だらけだ。
「オーギュはあたいのもんなんだ! ガキのくせに色気づいて!」
ケイトリンが詰め寄った先はローザである。
一体何の真似だ?
オーギュストは椅子から立ち上がり、ローザを後ろへ下がらせた。
「お戯れを……二人は実の親子ではありませんか」
冷めた口調でそう告げたのは給仕をしていたザインである。
ケイトリンがまなじりを吊り上げた。
「親子ったって、女は女だよ! オーギュにまとわりついて鬱陶しいったら! 最近オーギュが冷たくなったのは絶対こいつのせいだ! 殺してやる!」
ケイトリンの叫びで、視界が真っ赤に染まったように思う。
――殺してやる!
誰を?
ローザに向かって剪定ばさみを振り上げたケイトリンの動きが、オーギュストには酷く緩慢な動作として目に映った。まるでスローモーションのよう。オーギュストはほぼ反射的にそれを手の甲で殴り、ケイトリンの暴挙を止めていた。
吹っ飛ばされるようにして、ケイトリンがもんどり打って転がったが、オーギュストの心にその光景は映らない。何の意味もないからだ。そう、彼女がどうなろうと知ったことではない。ガンガンと頭が痛み、耳鳴りがする。全身の血が沸騰したかのようだった。
鏡を見ながら何度そう言っただろう。まるで呪詛のようだとオーギュストは思う。いや、実際呪いだ。愛という名の呪い……。暗示を掛けるように言い聞かせるように、今日もまた口にするのだ。愛している、ケイトリンと……
「愛している、ケイトリン」
「愛している、ケイトリン」
いや、違うと心の深奥が叫び、オーギュストは咄嗟に拳で鏡を割っていた。微笑む自分の顔に吐き気がする、うんざりだった……。いつまで耐えなければならないのか、自害をした方が遙かに楽だ。
「ジャック様!」
ザインの声が聞こえ、手を取られていた。
「手を、手を開いてください」
手? ああ……
言われて初めてオーギュストは気が付いた。
鏡の破片を握り込んでいたのか。血が滴っている。
「大丈夫だ」
「大丈夫なわけがありません! お願いですから……」
指を一本一本開かされる。思ったより深く切っていたらしい。縫わないと血が止まりそうにない。
◇◇◇
「……御身を大切に」
手当てをしつつザインが言う。
「そうだな」
上の空で答えるオーギュストに、ザインは腹を立てた。どうでもいい、そんな風に言っているように聞こえてしまうからだ。
無頓着にも程があります!
「本当に分かっていらっしゃいますか? ジャック様は時々、自分を痛めつけるような行動をなさいます」
「……怒りで前後不覚になると、制御出来ないんだ」
やはり上の空だ。凪いだ緑の瞳はどこか遠い。
「……あの魔女のせいですか?」
ため息交じりにザインが言った。ザインもまた、アンバーと同じようにほぼ全ての事情を把握している。ケイトリンという女が不死身であることも、オーギュストの最愛だったブリュンヒルデを殺した仇だと言うことも……
オーギュストが冤罪で処刑寸前まで追い詰められたことを知り、ザインはその場に自分がいなかったことを悔やんだが、裏を返せば、任務で国を離れていたからこそ、彼は魔女の血を口にしなかったともいえる。その場にいたなら、他の仲間と同じように魔女の血に操られ、オーギュストを裏切っていたに違いない。
オーギュストの瞳がどこを見ているのか分からず、ザインがため息をつく。
「他に方法は……」
「ない。もう仕事に戻れ」
そっけなく返され、仕方なくザインが立ち上がる。
「ジャック様、どうか御身を大切に。あなた様のお命は、あなた様だけのものではありません。国民があなた様の帰りを待っています。王座に返り咲くその日を……」
今一度そう声を掛け、ザインは立ち去った。
◇◇◇
「オーギュ、手をどうしたの?」
食事の席でケイトリンが不思議そうに言う。オーギュストが笑った。やはり艶やかだ。
「ああ、うっかり鏡を割ってしまってな」
「もう、気を付けて? オーギュの綺麗な顔に傷が付いたらあたい悲しいしぃ」
そう言って、ケイトリンが口を尖らせる。
「この傷も……オーギュの顔を殴るなんて信じられない。そいつを見つけ出してずったずたにしてやりたいよ」
ハインリヒとやりあって、近衛兵に殴られた時の傷が、オーギュストのこめかみにある。焼けた火かき棒はオーギュストに酷い裂傷と火傷を負わせたが、エヴリンのエリクサーのお陰で、今やその傷は殆ど目立たない。うっすらとした痕が残る程度である。それでもケイトリンは誰にやられたのかと憤慨した。
「ね、本当に相手を覚えていないの?」
「血が目に入って、よく見えなかったんだ」
「そっかー……残念、っつ!」
「どうした?」
オーギュストは平静を装ったが、痛がったケイトリンを見て、内心目を見張っていた。
痛い? 痛覚の麻痺したこの女が? まさか……いや、ありうる。痛覚が戻ったのなら……
「ううん、何でもない。よそ見をしていたら、ナイフで指をついちゃった」
「そうか、見せてごらん?」
優しく手を握り、ケイトリンの切った指先を口に含む。
「オーギュ、ほんっと優しいね。あたい嬉しい」
オーギュストは目を見張った。
苦い……血が苦いと言うことは……
オーギュストは歓喜した。心の底から。この女を殺せる合図にほかならない。秘薬の力が反転し、毒の血が薬に変わっている。
「オーギュ? どうしたの?」
「いや、そうだ、いつもの採血を早めたい。いいか?」
週に一度、研究の為と称して、血の変化を調べるために採血している。甘い血が苦く感じるその時を、待って待って待ってこうして待ち続けた。毒の血が薬に変わったのなら、いまこそ反撃の時だ。研ぎ澄まされた牙がようやく、ようやく役に立つ。
「採血を? いいけど、どうして?」
「研究に必要なんだ」
「ふうん? うん、いいよ。オーギュの頼みだもんね。その代わり、今夜はうんとサービスして?」
オーギュストの口角が上がる。
ああ、いいとも。役立たずのこの体で良ければ……
一度として機能したことがない。流石にここまでは誤魔化せなかった。何度試しても反応しない。殺しに喜びを感じる殺人狂ならまだ反応したかもしれないが……。何度も何度もお前を殺す幻覚を見た。殺意を押し隠すのに必死で……その分、おぞましさから目をそらすのに役立った。殺したいほど憎い女と寝るのがどんな気分か、誰にも分かるまい……
「オーギュ、嬉しそうだね?」
「そうだな、最高の気分だ」
笑いが込み上げる。は、はは、既に、どこかおかしいのだろうが……ああ、構わない。ローザを取り戻せる。抜き取った血をローザに……いや、毒味が必要か。
聖王リンドルンの手記には無害だと書いてあったが、念のため水槽に注いでみる。魚が無事であることを確かめ、オーギュストは自分も口にした。
魔女の血は自分には効かないらしいが、これも念のため……
ローザ、待っていろ。もう少し、もう少しの辛抱だ。
十分時間をおいてから、オーギュストはローザに血を与えるよう指示を出した。
手記を信じるなら、直ぐに効果が現れるはず……
ローザが血を混ぜた飲料を口にするのを確認し、オーギュストは子供部屋へそっと足を踏み入れた。ローザと距離を取る生活を続けてからもう三年近い。期待と不安がどうしても入り交じる。
「ローザ様、ほら、お父様ですよ?」
自分が入り口に姿を見せると、アンバーがそう言ってくれたが、ローザは近付こうとしない。どことなく怯えているようにも見える。
ひやりとした。 まさか、薬の効果がなかったのか? 喜んで飛びついてくる、とまでは思っていなかったが、流石にこれは反応が悪すぎる。
「ローザ? パパだ。どうした? ほら、おいで……」
その場に膝をつき、オーギュストがそう呼びかけても、アンバーの後ろにさあっと隠れてしまう。これではらちがあかない。苛立ったオーギュストが、強引にローザを抱き上げようとすれば、ふえっと泣かれてしまい狼狽えた。
「あ、あの、殿下、申し訳ありません! 多分、見ず知らずの大人は怖いんだと思います。もうすこしゆっくり……」
アンバーが慌てて取りなし、オーギュストはその言葉を理解する。
見ず知らずの大人……ああ、そうか、そうだな。ローザとは殆ど顔を合わせたことがない。私が傍にいると嫌がって泣き出すから、食事も一緒に取らなかった。ローザから嫌悪感が消えても、今の私はほぼ垢の他人も同然か……
アンバーがローザを抱き上げれば、ようやく泣き止む。
子供部屋から出たところで、オーギュストはザインに指示を出した。
「ケイトリンに見張りをつけ、邸から出さないように」
どうせ私の傍から離れないだろうが、念のため……必要な分量の血を採取するまでは、どこぞで勝手に死なれても困る。
「かしこまりました」
ザインが頭を下げた。
もう、機嫌を取る必要もあるまい。おぞましい恋人ごっこはここで終わりだ。
その後、何度かお茶会の真似事を繰り返し、ローザに父親だと認識させるよう努力する。以前のような嫌悪感むき出しの表情がローザから消えていて、これだけでも喜びだった。
「おとうしゃま?」
「そうですよ、ジャック様はローザ様のお父様です。お膝に乗ってみますか?」
アンバーがそう言って促すと、ローザはじっとオーギュストの顔を見上げた。深海のように碧い瞳はブリュンヒルデに生き写しだ。何度その瞳に見惚れたか分からない。
オーギュストの口元が自然と綻んだ。
ローザ、唯一無二の光……私の宝……
オーギュストが笑いかければ、ローザの顔がきゅうっと赤くなる。恥ずかしそうにもじもじとし、ローザはくるりと後ろを向いてしまった。耳まで赤くした顔をアンバーの胸に埋めて動かない。
まだ無理か……
オーギュストはそっとため息をつく。
だが、時間はたっぷりある。これからはなるべく時間を取るようにしよう。二人の時間を……
ゆるゆると時は流れ、はっきりとした変化が現れたのは、ローザが三才の誕生日を迎えた翌日のことである。
「お、おとうしゃま、あの、これ……」
そろそろと食堂へ入ってきたローザが差し出したのは、一本の白い薔薇だった。ローザの方から話しかけられたのは初めてである。見ると、食堂の入り口付近でアンバーが「がんばってください」と口パクだ。
「おかちと、おにんぎょうの……おれい、でしゅ」
恥ずかしそうにうつむき、そっと薔薇を差し出すローザを見て、オーギュストは目を細めた。
こんなに喜びで心が満たされるのはいつ以来だろう。きっとローザが手渡したものなら、雑草でも嬉しかったに違いない。
「ありがとう」
オーギュストがローザの小さな手が差し出した花を受け取れば、ローザの顔がぱっと輝いた。その笑顔があまりにも眩しくて胸が詰まり、涙が一つ二つと頬を伝う。
「おとうしゃま?」
どこか痛いの? 大丈夫? 心配そうに、怪訝そうに顔を覗き込むローザもまた愛らしい。そっと手を伸ばし、金の頭を撫でた。まだまだ小さくてあどけない。守ると誓った命だ。ブリュンヒルデの忘れ形見……守ってみせる。絶対に……
「何でもない。嬉しいだけだ」
そう、嬉しくて仕方がない。
そんな幸福感を引き裂いたのは、耳障りな甲高い声だ。
「この、泥棒猫! なにやってんのさ!」
オーギュストが目を向ければ、ケイトリンが怒り心頭で、ずかずかと食堂に踏み込んで来るところだった。手袋をはめた手には剪定ばさみを握っている。
また赤い薔薇を温室から持ってきたのか……
ため息しか出ない。何もかもがうんざりだった。
彼女の行動が逐一癇に障ってどうしようもない。花屋へ足繁く通われるよりはと温室に赤い薔薇を用意させたが、これも止めさせるか……。そこいら中が赤い薔薇の花だらけだ。
「オーギュはあたいのもんなんだ! ガキのくせに色気づいて!」
ケイトリンが詰め寄った先はローザである。
一体何の真似だ?
オーギュストは椅子から立ち上がり、ローザを後ろへ下がらせた。
「お戯れを……二人は実の親子ではありませんか」
冷めた口調でそう告げたのは給仕をしていたザインである。
ケイトリンがまなじりを吊り上げた。
「親子ったって、女は女だよ! オーギュにまとわりついて鬱陶しいったら! 最近オーギュが冷たくなったのは絶対こいつのせいだ! 殺してやる!」
ケイトリンの叫びで、視界が真っ赤に染まったように思う。
――殺してやる!
誰を?
ローザに向かって剪定ばさみを振り上げたケイトリンの動きが、オーギュストには酷く緩慢な動作として目に映った。まるでスローモーションのよう。オーギュストはほぼ反射的にそれを手の甲で殴り、ケイトリンの暴挙を止めていた。
吹っ飛ばされるようにして、ケイトリンがもんどり打って転がったが、オーギュストの心にその光景は映らない。何の意味もないからだ。そう、彼女がどうなろうと知ったことではない。ガンガンと頭が痛み、耳鳴りがする。全身の血が沸騰したかのようだった。
感想 1,157
あなたにおすすめの小説
初夜のあとに愛する人がいると言われたので祝福で身体の時間を一日戻しました
夫婦となって初めて迎えた夜、セレンティアは夫リオールから「俺には、愛する人がいる」と告げられる。
彼が初夜を済ませた理由は、三年後に白い結婚として婚姻無効を申し立てられないようにするためだった。
けれどリオールは知らなかった。セレンティアの祝福《一日回帰》が、自分自身の身体にも使えることを。
セレンティアは自分の身体の時間を一日前へ戻し、三年間、侯爵家の妻として務めを果たすことを決める。
夫に愛されるためではない。三年後、白い結婚としてこの家を出ていくために。
【完結】私の出産日に初恋の人を選んだ夫、あなたを彼女に返品します
「子供っぽい嫉妬はやめろ」私が命懸けで出産した日、夫のヴィンセント侯爵は初恋の人の所へ行ってしまった。理由を説明して欲しいと言うと、子供っぽい嫉妬をやめろと厳しい声で言われてしまう。しかも初恋の相手がいきなりやってきて「侯爵様は昔から私を命懸けで助けてくれるんです」と悪びれもせずに言い放った。妻よりも初恋相手を優先する夫は必要ないので私は夫を初恋相手へ返品した。すると生まれてから一度も人に頭を下げたことのないヴィンセントが、ボロボロになって私に頭を下げてきて⋯⋯。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
妹ばかり愛した家族へ。私が王太子妃になった日、皆さんは謝りました。けれど、もう遅いのです
幼い頃から妹の引き立て役として生き、婚約者まで奪われて家を追放された侯爵令嬢エレナ。
傷ついた彼女が助けた青年は、身分を隠した王太子だった。
一年後、王太子妃となったエレナの前に現れたのは、今さら「家族だから」と擦り寄ってくる両親と妹。
けれど彼女は、もう二度と振り返らない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
一夜の過ちで懐妊したら、幼なじみの冷酷皇帝に溺愛されました
没落貴族の娘・柳月鈴は、宮廷で医官見習いとして働いていた。
ある夜、皇帝即位の宴で酒に酔い、幼なじみだった皇帝・李景珩と再会する。
遠い存在になったはずの彼。
けれど、その夜をきっかけに月鈴の運命は大きく動き出す。
冷酷と恐れられる皇帝が、なぜか彼女だけには甘すぎて――。
幼馴染しか見えない婚約者と白い結婚したので、夜明け前にさよならしました
公爵令嬢レティシアは、家同士の都合で伯爵アルフレッドに嫁ぐ。
けれど夫は結婚後もずっと幼馴染のシルヴィばかりを優先し、婚礼の夜から夫婦として触れ合おうともしなかった。名ばかりの妻として伯爵家を支え、領地経営まで立て直しても、彼にとってレティシアは“都合のいい伯爵夫人”でしかない。
やがて結婚一周年の夜、アルフレッドが自分を手放す気はない一方で、幼馴染を屋敷に迎え入れようとしている会話を聞いてしまったレティシアは、ついに決意する。
――もう、この結婚には見切りをつけよう。
夜明け前、彼女は離縁の準備を整え、伯爵邸を出奔。
身を寄せた北の港町で薬舗を手伝いながら、自分の力で生きる穏やかな日々を手に入れていく。そこで出会ったのは、身分ではなく一人の女性として彼女を尊重してくれる青年医師ノアだった。
一方、都合よく尽くしてくれる妻を失ったアルフレッドは、ようやく自分が何を失ったのかを思い知ることになる。
幼馴染ばかりを優先する婚約者との白い結婚に終止符を打ち、傷ついた公爵令嬢が新天地で本当の幸せを掴む、離縁から始まる逆転ラブストーリー。