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仮面卿外伝【第二章 太陽が沈んだその後に】
第十五話 血染めの赤薔薇
「……オーギュ?」
戸惑うようなケイトリンの弱々しい声すら、オーギュストにとっては雑音だ。
眼前に広がるのは、ブリュンヒルデが死んだ時の情景である。あたかもたった今起こった出来事のように生々しい。ブリュンヒルデが救いを求めるようにオーギュストに向かって手を伸ばし、彼はそれを掴んだ。確かに掴んだのだ。けれど……
ブリュンヒルデの寂しげな笑い。苦しげな呼吸……握った手から力が抜け、見開いた碧い瞳がもう何も映さず……一つ一つが事細かに再現されていく。
まるで過去と現在が繋がったかのようだった。
ヒルデ! ヒルデ!
何度叫んだか……
そうだとも。一日だって忘れたことがない……
あの瞬間、あの衝撃を……
怒りに我を忘れるとはこのことか。
気が付けば、オーギュストはケイトリンに襲いかかり、彼女を滅多刺しにしていた。食卓用ナイフを手に飛びかかったらしい。らしい、というのは記憶が所々消失している。
◇◇◇
ああ、そうだ……この時のこの判断……
未来から俯瞰してみるならば、思いとどまるべきだったと分かる。なのに、怒りはかくも人を愚かにさせるのか……。この時は、ただただ降り積もった憎しみを爆発させてしまった。
幼いローザの目の前で、だ……
それがどんな結果を招くか、未来の自分は知っている。
けれど、いつだって人は後に知る者だ。先に知ることは出来ない。ほんの一部の……神の囁きを聞く者以外は……。だから、そう……私の場合もまた、この時の判断が誤りだったと気が付いた時には、全てが終わった後だった。
◇◇◇
「オーギュ? 何で……愛してるって……」
痛い痛いと言うケイトリンを見下ろし、オーギュストは微笑んだ。
痛い? ああ、それは最高だな。もっと苦しめ。ブリュンヒルデが味わった苦しみを何倍にもして返してやる!
「ああ、愛している、ケイトリン」
微笑みを浮かべ、オーギュストは今まで幾度となく繰り返した言葉を口にする。
それは一種異様な光景だった。
愛を囁く声も表情も慈しみに溢れているのに、行動は殺意そのものだ。行動が怒りと殺意に彩られても、愛を語る仮面が外れない。オーギュストが作り上げた仮面はそれほど強固だった。いや、それほど強固でなければ、抑えきれなかったと言う方が正しいか……
ヒルデ、ヒルデ、愛している……
珠玉の思い出を何度こうして切り刻んだだろう……
思い出せない、思い出したくない……
二度と手に入らない思い出すら粉々だ。
何とも執拗な攻撃だった。急所をわざと外し、長々苦しむように攻撃を加えていると、見る者が見れば分かるだろう。
「愛している、ケイトリン」
「愛している、ケイトリン」
薔薇の芳香のように甘い声が囁くたびに、鮮血が散る。オーギュストがナイフを振るうからだ。
何度でも言ってやる。こんな掃き溜めの言葉が欲しいのなら!
◇◇◇
痛みにあえぐケイトリンの瞳に宿るのは恐怖だ。
微笑みながら殺意を向けるオーギュストに心底恐怖した。理解出来ないが故の恐怖だ。どう見ても狂っている。だが、何故そうなったのかケイトリンには理解出来ず、ただただそこから逃れようとあがいた。彼女には思い描けなかった。そう、想像すら出来なかった。彼に与えていた苦しみがいかほどのものか……
相手の痛みに寄り添うことが出来ないのは、真に人を愛したことがない故か……
あたいを愛して愛して愛して、他の誰かを見るなんて許さない許さない許さない……全部全部潰してやる! オーギュはあたいのものなんだから!
ケイトリンの呟きだ。彼女はこれを愛と信じて疑わない。結果、幸せになるのは一体誰なのか、愛しているとそう言い続けたその瞳に映っているのは一体誰なのか……。愛したはずの相手を通して、自分自身を見ていたことに気が付くのは一体いつであろう?
◇◇◇
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いぃいいいいいい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、許して、オーギュ、許して……」
ケイトリンが泣き叫び、ナイフを振るうオーギュストの手は止まらない。
愛していると微笑みながら刺し続けて、ケイトリンの哀願がやんだのはいつだったか……。気が付けば彼女は息絶えていた。見開かれた女の目は何も映さず、流れ出た真っ赤な血が床に広がり、散らばった赤い薔薇を染め上げている。
――オーギュには赤い薔薇がよく似合う……
耳障りな女の声が蘇り、オーギュストは不快感を煽られた。
全くもって忌々しい……
憤怒の念が再燃しかかるも、ふっとローザの姿が目に入って、すうっと怒りが沈静化した。手から血染めのナイフが滑り落ちる。
ああ、ローザ……
「唯一無二の光……私の宝……」
オーギュストはローザを抱擁するように両手を広げた。
自然な笑みを浮かべていただろう、流石にこの時だけは、そう思いたい……作り笑いなどうんざりだった。
「こっちへ、さあ、おいで……もう、何も心配はいらない」
一歩一歩踏みしめるように歩みを進め、我が子の小さな体を抱きしめた感触に、オーギュストは歓喜したが、それが驚きに変わるのは早かった。ローザが悲鳴を上げて倒れたのだ。
「ローザ? ローザ!」
どうした? 一体何が……ローザ! ローザ! 頼む、目を開けてくれ!
「ジャック様、落ち着いて! 多分、ショックを受けられたのではないかと……」
ザインがそう言って止めた。
「ショック?」
「その、言っては何ですが……返り血でかなり凄惨な事になっています。湯浴みをされて着替えた方がよろしいかと」
食堂にしつらえられた鏡に目を向け……オーギュストははっとなる。返り血で血塗れだった。自分で自分の姿に絶句する。
そうだ、あの女を滅多刺しにしたのだから、これは当然の結果だ。死なないように、長々苦しむように、無意識にそう仕向けたような気もする。
ローザはそれを目の当たりにした? 何て真似を……
冷静になれば己の仕出かした所業が分かる。オーギュストから血の気が引いたが、後の祭りであった。
「アンバー?」
呼びかければ、彼女もまたびくりと体を震わせた。相当怖がらせたようだ。
「医者を……アルバン・ヒースを呼んでくれ。ローザを見るように……」
唯一信頼出来る医師を指名すると、アンバーが青ざめた顔でこくこく頷き、走ってその場から消えた。彼女がいなくなるとしんっと静まりかえる。必要最低限の使用人しか置いていないので、アンバーがいなくなると、惨劇の場である食堂にはザインだけが残った。
「ジャック様、湯浴みの用意をさせます。どうか、あの……」
「大丈夫だ、行ってくれ」
「かしこまりました」
気絶したローザを抱え、ザインは一礼してその場から立ち去った。
オーギュストは一人になると、笑いが込み上げて、ひたすら笑い続けた。おかしくてたまらない。これは一体何の呪いだと、そう思う。
やることなすこと全てが裏目裏目に出る。冷静でありさえすれば、異常なほどの憎しみを育ててさえいなければ……。何をどう考えても今更だ。ボタンの掛け違いのように願いとは裏腹な現実が現れる。どうすれば良かった? どうすれば……
「ローザ、すまない……」
慈しんでやりたいのに、それすら難しい。
ひやりとする床の上にあの女の遺体が転がっている。血が……随分流れ出てしまった。回収しないと……。女の遺体を担ぎ上げ、血の採取用の器具がある場所へ行き、ひたすら血を採り続けた。これで足りるかどうか自信がない。本当はもう少し生かすつもりだったのに、それすら吹っ飛んだ。馬鹿なことをした……だが、限界だったとも言える。飛びかかった記憶が飛んでいるのだから。逆上した証だろう。
魔女の血を盛られた者の数は……
私に対して悪意を持っている人間をあぶり出し、おおよその見当をつけるか。魔女の血を口にしたのか、それとも本当に反旗を翻したのか判断が付かないが、必要な血の量はそれで推測できる。足りなければ……培養か。魔術師だった聖王リンドルンならできたろうが、今の私では……リンドルンの手記だけで本当に再現出来るかどうか分からない。何もかもが手探りだ。
手記だけで再現……そう言えば、滅びの魔女の秘薬を再現したのは誰だ? 滅びの魔女の手記は門外不出……他に手記が存在する? それとも……
ふっとエヴリンの顔が思い浮かんだ。
――血液反応の出た飲食物は口にするなって、エヴリン王子妃殿下に言われていたんです。
アンバーはそう言っていた。
エヴリンは何を知っている? 気にはなったが、彼女はハインリヒの妻で王妃だ。自分の生存を知られるのはまずい。そう思い、接触はあえて避けたが……。滅びの魔女の秘薬の入手先を割り出せれば、培養の方法もそこから探れるかもしれない。
今は解毒薬が存在する。魔女の血に対抗できる。王家の影をもう少しこちら側に引っ張り込めれば、比較的安全にエヴリンと接触出来るだろう。問題は接触後だ。ハインリヒは私の生存情報を掴んでいない。出来るならこのままの方が都合がいい。
――鍵よ。お願い、脱出して。
エヴリンは私を脱獄させようとした。冤罪だと主張すれば、こちら側に付くか?
「ジャック様、こちらでしたか」
ザインが姿を見せ、湯浴みの用意がととのったと言う。
「ローザは?」
「医師の処方した薬で眠っております」
そうか……
「ローザから目を離さないように。何かあったら直ぐに知らせてくれ」
「かしこまりました」
頭を下げたザインをその場に残し、オーギュストは湯殿へ移動した。浸かった湯がみるみるうちに赤く染まる。真っ赤に染まった水は、悪夢の象徴のようだと思う。悪夢は終わったと思ったのに、まだ終わらないのか……
その不吉な予感は当たった。ローザがオーギュストを見て怯える、引きつけを起こす。後日、再びアルバンが呼ばれることとなった。
「度々すまない」
「いえ、あー……詳しく事情をお聞きしても?」
アルバンが神妙な顔でオーギュストを見上げた。医療院の襲撃事件があった後も、彼はこうして付き合いを続けてくれている。ある程度事情を把握しているとは言え、厄介事をこうして引き受けてくれるのは、やはり彼の人徳だろう。
「私がブリュンヒルデの仇をとった。それをローザが目撃して……」
アルバンが目を見張った。
「殺しの現場を見せたんですか? あんな幼い子に? あなたらしくない……」
「そうだな」
オーギュストの横顔をしげしげと見た。何とも奇妙な顔をする。
「殿下もその、随分と疲れているのでは? 何て言うか……」
「……私の診察はいい。それよりローザを」
可愛らしい子供部屋は、人形やキラキラとした小物で一杯だった。子供が好きそうな物をオーギュストが買いあさった結果である。
一通りローザの診察を終えたアルバンが、ザインに向かって言った。
「お嬢様は相当恐ろしい思いをしたようで、事件当時の記憶はないようです。ひきつけを起こす原因は、精神的なもののようですので、治療は焦らずゆっくりと……」
子供部屋の外に立ち、中の様子を窺っていたオーギュストは、アルバンの言葉を反芻する。
焦らず、か……
「アンバー、大丈夫か?」
子供部屋から出て来たアンバーを、オーギュストが呼び止めると、彼女がびくりと体を震わせた。振り向いた彼女の瞳には、あからさまにおびえの色がある。ローザによく似た……
オーギュストは目を伏せた。
無理もないか。アンバーもあれを目撃している。
「国へ帰りたいのなら……」
資金を用意しようとオーギュストが言う前に、アンバーが叫んだ。
「帰りません!」
「しかし……」
「びっくりしました! 正直言ってジャック様が怖いです! でも! あなた様が優しい人だと言うことも知っています! 言ったではありませんか! ブリュンヒルデ様にお仕えするようにローザ様にお仕えするって! もしも、ここにブリュンヒルデ様がいたら、私も一緒に残りました! ローザ様はそのブリュンヒルデ様の忘れ形見ですよ? 尻尾を巻いて逃げ出すなんてできません! それにそれに!」
アンバーは一端口を閉じ、小さく付け加えた。
「ブリュンヒルデ様の仇を討ってくださって、ありがとうございます」
そう言ってアンバーが頭を垂れた。
その様をオーギュストはじっと見つめる。
そうだな、あの女は死んだ。仇を討ったんだ。なのに、このむなしさは何だろう。一番大切な者を傷つけてしまった。もっと他にやりようはなかったのか?
「ジャック様、あの……どうぞ召し上がってください」
食堂の椅子に座ったまま料理を口にしようとしないオーギュストに、ザインがそう声を掛けた。運ばれてきた料理がすっかり冷めてしまっている。オーギュストは空っぽの椅子に目を向けた。ほんの少し前までは、ローザがここにいたのだ。その事実がさらに胸を抉る。
ようやく、ようやく共に過ごせると思ったのに……
――おかちと、おにんぎょうの……おれい、でしゅ。
ローザから白い薔薇を手渡されたのが、ほんの数日前だというのに、まるで遠い過去のようだ。
のろのろと手を動かして、冷めた料理を口にし、オーギュストは驚いた。
何だこれは……
味付けを忘れた? いや、違う……全く味がしない。
その上、食感がこれまたジャリジャリと砂を噛むようで不快である。不快感からオーギュストが思わず料理を口から出せば、ザインが怪訝そうに言う。
「ジャック様? 如何されました?」
「……食べてみろ」
料理の皿を突きつけられて、ザインはすっと顔色を変えた。ザインが真っ先に疑ったのが毒物の混入だ。だが、料理は信頼できる影が請け負っている。そしてその料理を運んでいるのは自分だ。そんな不手際があるだろうか?
慌てて料理を口にし、毒物の有無を確かめる。ゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。異常はない。
「ジャック様、毒は入っていないようですが?」
「味がおかしい」
「味? お気に召しませんでしたか?」
「そうではなく……うまいか?」
「え? ええ、そうですね。悪くないかと……」
ザインの困惑顔を見て、もう一度、オーギュストは料理を口にする。やはり味はなく、砂を噛むようで不快だった。もしかして……自分の味覚がおかしい? その考えに至ったオーギュストは料理を下げさせた。
「味が……いや、何でもない。下げてくれ。食欲がない」
「か、かしこまりました」
オーギュストは立ち上がり、食堂を後にする。一時的なものかと思ったが、味覚の消失はその後も続くことになる。医師のアルバンには、ストレスだと診断された。治る場合と治らない場合があるらしい。
ストレス、か……それも今更だ。ストレスを感じない日などなかった。そして、それはこれからも続く。
味覚の治療法を探りつつ、オーギュストは王妃エヴリンとの接触の下準備を始めた。影をもう二人引っ張り込むことに成功し、彼女の行動を探ってもらう。秘密裏に会える時と場を調整するのだ。
もう少しだ、もう少し……
邸に戻れば、時折、ローザの姿を目にする事がある。決まって世話係であるアンバーの後ろに隠れてしまうのだが。まるで血を盛られたあの時に逆戻りしたかのようだ。前は嫌悪感で、今度は恐怖感で……理由は違うが、私を避ける行動は一緒だ。
「気を落とさないでください、ジャック様」
アンバーが言う。
「あの女はもういないんですから、きっと時間が解決してくれます」
だといいがな……
どうしても浮かぶのは自嘲の笑みだ。
戸惑うようなケイトリンの弱々しい声すら、オーギュストにとっては雑音だ。
眼前に広がるのは、ブリュンヒルデが死んだ時の情景である。あたかもたった今起こった出来事のように生々しい。ブリュンヒルデが救いを求めるようにオーギュストに向かって手を伸ばし、彼はそれを掴んだ。確かに掴んだのだ。けれど……
ブリュンヒルデの寂しげな笑い。苦しげな呼吸……握った手から力が抜け、見開いた碧い瞳がもう何も映さず……一つ一つが事細かに再現されていく。
まるで過去と現在が繋がったかのようだった。
ヒルデ! ヒルデ!
何度叫んだか……
そうだとも。一日だって忘れたことがない……
あの瞬間、あの衝撃を……
怒りに我を忘れるとはこのことか。
気が付けば、オーギュストはケイトリンに襲いかかり、彼女を滅多刺しにしていた。食卓用ナイフを手に飛びかかったらしい。らしい、というのは記憶が所々消失している。
◇◇◇
ああ、そうだ……この時のこの判断……
未来から俯瞰してみるならば、思いとどまるべきだったと分かる。なのに、怒りはかくも人を愚かにさせるのか……。この時は、ただただ降り積もった憎しみを爆発させてしまった。
幼いローザの目の前で、だ……
それがどんな結果を招くか、未来の自分は知っている。
けれど、いつだって人は後に知る者だ。先に知ることは出来ない。ほんの一部の……神の囁きを聞く者以外は……。だから、そう……私の場合もまた、この時の判断が誤りだったと気が付いた時には、全てが終わった後だった。
◇◇◇
「オーギュ? 何で……愛してるって……」
痛い痛いと言うケイトリンを見下ろし、オーギュストは微笑んだ。
痛い? ああ、それは最高だな。もっと苦しめ。ブリュンヒルデが味わった苦しみを何倍にもして返してやる!
「ああ、愛している、ケイトリン」
微笑みを浮かべ、オーギュストは今まで幾度となく繰り返した言葉を口にする。
それは一種異様な光景だった。
愛を囁く声も表情も慈しみに溢れているのに、行動は殺意そのものだ。行動が怒りと殺意に彩られても、愛を語る仮面が外れない。オーギュストが作り上げた仮面はそれほど強固だった。いや、それほど強固でなければ、抑えきれなかったと言う方が正しいか……
ヒルデ、ヒルデ、愛している……
珠玉の思い出を何度こうして切り刻んだだろう……
思い出せない、思い出したくない……
二度と手に入らない思い出すら粉々だ。
何とも執拗な攻撃だった。急所をわざと外し、長々苦しむように攻撃を加えていると、見る者が見れば分かるだろう。
「愛している、ケイトリン」
「愛している、ケイトリン」
薔薇の芳香のように甘い声が囁くたびに、鮮血が散る。オーギュストがナイフを振るうからだ。
何度でも言ってやる。こんな掃き溜めの言葉が欲しいのなら!
◇◇◇
痛みにあえぐケイトリンの瞳に宿るのは恐怖だ。
微笑みながら殺意を向けるオーギュストに心底恐怖した。理解出来ないが故の恐怖だ。どう見ても狂っている。だが、何故そうなったのかケイトリンには理解出来ず、ただただそこから逃れようとあがいた。彼女には思い描けなかった。そう、想像すら出来なかった。彼に与えていた苦しみがいかほどのものか……
相手の痛みに寄り添うことが出来ないのは、真に人を愛したことがない故か……
あたいを愛して愛して愛して、他の誰かを見るなんて許さない許さない許さない……全部全部潰してやる! オーギュはあたいのものなんだから!
ケイトリンの呟きだ。彼女はこれを愛と信じて疑わない。結果、幸せになるのは一体誰なのか、愛しているとそう言い続けたその瞳に映っているのは一体誰なのか……。愛したはずの相手を通して、自分自身を見ていたことに気が付くのは一体いつであろう?
◇◇◇
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いぃいいいいいい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、許して、オーギュ、許して……」
ケイトリンが泣き叫び、ナイフを振るうオーギュストの手は止まらない。
愛していると微笑みながら刺し続けて、ケイトリンの哀願がやんだのはいつだったか……。気が付けば彼女は息絶えていた。見開かれた女の目は何も映さず、流れ出た真っ赤な血が床に広がり、散らばった赤い薔薇を染め上げている。
――オーギュには赤い薔薇がよく似合う……
耳障りな女の声が蘇り、オーギュストは不快感を煽られた。
全くもって忌々しい……
憤怒の念が再燃しかかるも、ふっとローザの姿が目に入って、すうっと怒りが沈静化した。手から血染めのナイフが滑り落ちる。
ああ、ローザ……
「唯一無二の光……私の宝……」
オーギュストはローザを抱擁するように両手を広げた。
自然な笑みを浮かべていただろう、流石にこの時だけは、そう思いたい……作り笑いなどうんざりだった。
「こっちへ、さあ、おいで……もう、何も心配はいらない」
一歩一歩踏みしめるように歩みを進め、我が子の小さな体を抱きしめた感触に、オーギュストは歓喜したが、それが驚きに変わるのは早かった。ローザが悲鳴を上げて倒れたのだ。
「ローザ? ローザ!」
どうした? 一体何が……ローザ! ローザ! 頼む、目を開けてくれ!
「ジャック様、落ち着いて! 多分、ショックを受けられたのではないかと……」
ザインがそう言って止めた。
「ショック?」
「その、言っては何ですが……返り血でかなり凄惨な事になっています。湯浴みをされて着替えた方がよろしいかと」
食堂にしつらえられた鏡に目を向け……オーギュストははっとなる。返り血で血塗れだった。自分で自分の姿に絶句する。
そうだ、あの女を滅多刺しにしたのだから、これは当然の結果だ。死なないように、長々苦しむように、無意識にそう仕向けたような気もする。
ローザはそれを目の当たりにした? 何て真似を……
冷静になれば己の仕出かした所業が分かる。オーギュストから血の気が引いたが、後の祭りであった。
「アンバー?」
呼びかければ、彼女もまたびくりと体を震わせた。相当怖がらせたようだ。
「医者を……アルバン・ヒースを呼んでくれ。ローザを見るように……」
唯一信頼出来る医師を指名すると、アンバーが青ざめた顔でこくこく頷き、走ってその場から消えた。彼女がいなくなるとしんっと静まりかえる。必要最低限の使用人しか置いていないので、アンバーがいなくなると、惨劇の場である食堂にはザインだけが残った。
「ジャック様、湯浴みの用意をさせます。どうか、あの……」
「大丈夫だ、行ってくれ」
「かしこまりました」
気絶したローザを抱え、ザインは一礼してその場から立ち去った。
オーギュストは一人になると、笑いが込み上げて、ひたすら笑い続けた。おかしくてたまらない。これは一体何の呪いだと、そう思う。
やることなすこと全てが裏目裏目に出る。冷静でありさえすれば、異常なほどの憎しみを育ててさえいなければ……。何をどう考えても今更だ。ボタンの掛け違いのように願いとは裏腹な現実が現れる。どうすれば良かった? どうすれば……
「ローザ、すまない……」
慈しんでやりたいのに、それすら難しい。
ひやりとする床の上にあの女の遺体が転がっている。血が……随分流れ出てしまった。回収しないと……。女の遺体を担ぎ上げ、血の採取用の器具がある場所へ行き、ひたすら血を採り続けた。これで足りるかどうか自信がない。本当はもう少し生かすつもりだったのに、それすら吹っ飛んだ。馬鹿なことをした……だが、限界だったとも言える。飛びかかった記憶が飛んでいるのだから。逆上した証だろう。
魔女の血を盛られた者の数は……
私に対して悪意を持っている人間をあぶり出し、おおよその見当をつけるか。魔女の血を口にしたのか、それとも本当に反旗を翻したのか判断が付かないが、必要な血の量はそれで推測できる。足りなければ……培養か。魔術師だった聖王リンドルンならできたろうが、今の私では……リンドルンの手記だけで本当に再現出来るかどうか分からない。何もかもが手探りだ。
手記だけで再現……そう言えば、滅びの魔女の秘薬を再現したのは誰だ? 滅びの魔女の手記は門外不出……他に手記が存在する? それとも……
ふっとエヴリンの顔が思い浮かんだ。
――血液反応の出た飲食物は口にするなって、エヴリン王子妃殿下に言われていたんです。
アンバーはそう言っていた。
エヴリンは何を知っている? 気にはなったが、彼女はハインリヒの妻で王妃だ。自分の生存を知られるのはまずい。そう思い、接触はあえて避けたが……。滅びの魔女の秘薬の入手先を割り出せれば、培養の方法もそこから探れるかもしれない。
今は解毒薬が存在する。魔女の血に対抗できる。王家の影をもう少しこちら側に引っ張り込めれば、比較的安全にエヴリンと接触出来るだろう。問題は接触後だ。ハインリヒは私の生存情報を掴んでいない。出来るならこのままの方が都合がいい。
――鍵よ。お願い、脱出して。
エヴリンは私を脱獄させようとした。冤罪だと主張すれば、こちら側に付くか?
「ジャック様、こちらでしたか」
ザインが姿を見せ、湯浴みの用意がととのったと言う。
「ローザは?」
「医師の処方した薬で眠っております」
そうか……
「ローザから目を離さないように。何かあったら直ぐに知らせてくれ」
「かしこまりました」
頭を下げたザインをその場に残し、オーギュストは湯殿へ移動した。浸かった湯がみるみるうちに赤く染まる。真っ赤に染まった水は、悪夢の象徴のようだと思う。悪夢は終わったと思ったのに、まだ終わらないのか……
その不吉な予感は当たった。ローザがオーギュストを見て怯える、引きつけを起こす。後日、再びアルバンが呼ばれることとなった。
「度々すまない」
「いえ、あー……詳しく事情をお聞きしても?」
アルバンが神妙な顔でオーギュストを見上げた。医療院の襲撃事件があった後も、彼はこうして付き合いを続けてくれている。ある程度事情を把握しているとは言え、厄介事をこうして引き受けてくれるのは、やはり彼の人徳だろう。
「私がブリュンヒルデの仇をとった。それをローザが目撃して……」
アルバンが目を見張った。
「殺しの現場を見せたんですか? あんな幼い子に? あなたらしくない……」
「そうだな」
オーギュストの横顔をしげしげと見た。何とも奇妙な顔をする。
「殿下もその、随分と疲れているのでは? 何て言うか……」
「……私の診察はいい。それよりローザを」
可愛らしい子供部屋は、人形やキラキラとした小物で一杯だった。子供が好きそうな物をオーギュストが買いあさった結果である。
一通りローザの診察を終えたアルバンが、ザインに向かって言った。
「お嬢様は相当恐ろしい思いをしたようで、事件当時の記憶はないようです。ひきつけを起こす原因は、精神的なもののようですので、治療は焦らずゆっくりと……」
子供部屋の外に立ち、中の様子を窺っていたオーギュストは、アルバンの言葉を反芻する。
焦らず、か……
「アンバー、大丈夫か?」
子供部屋から出て来たアンバーを、オーギュストが呼び止めると、彼女がびくりと体を震わせた。振り向いた彼女の瞳には、あからさまにおびえの色がある。ローザによく似た……
オーギュストは目を伏せた。
無理もないか。アンバーもあれを目撃している。
「国へ帰りたいのなら……」
資金を用意しようとオーギュストが言う前に、アンバーが叫んだ。
「帰りません!」
「しかし……」
「びっくりしました! 正直言ってジャック様が怖いです! でも! あなた様が優しい人だと言うことも知っています! 言ったではありませんか! ブリュンヒルデ様にお仕えするようにローザ様にお仕えするって! もしも、ここにブリュンヒルデ様がいたら、私も一緒に残りました! ローザ様はそのブリュンヒルデ様の忘れ形見ですよ? 尻尾を巻いて逃げ出すなんてできません! それにそれに!」
アンバーは一端口を閉じ、小さく付け加えた。
「ブリュンヒルデ様の仇を討ってくださって、ありがとうございます」
そう言ってアンバーが頭を垂れた。
その様をオーギュストはじっと見つめる。
そうだな、あの女は死んだ。仇を討ったんだ。なのに、このむなしさは何だろう。一番大切な者を傷つけてしまった。もっと他にやりようはなかったのか?
「ジャック様、あの……どうぞ召し上がってください」
食堂の椅子に座ったまま料理を口にしようとしないオーギュストに、ザインがそう声を掛けた。運ばれてきた料理がすっかり冷めてしまっている。オーギュストは空っぽの椅子に目を向けた。ほんの少し前までは、ローザがここにいたのだ。その事実がさらに胸を抉る。
ようやく、ようやく共に過ごせると思ったのに……
――おかちと、おにんぎょうの……おれい、でしゅ。
ローザから白い薔薇を手渡されたのが、ほんの数日前だというのに、まるで遠い過去のようだ。
のろのろと手を動かして、冷めた料理を口にし、オーギュストは驚いた。
何だこれは……
味付けを忘れた? いや、違う……全く味がしない。
その上、食感がこれまたジャリジャリと砂を噛むようで不快である。不快感からオーギュストが思わず料理を口から出せば、ザインが怪訝そうに言う。
「ジャック様? 如何されました?」
「……食べてみろ」
料理の皿を突きつけられて、ザインはすっと顔色を変えた。ザインが真っ先に疑ったのが毒物の混入だ。だが、料理は信頼できる影が請け負っている。そしてその料理を運んでいるのは自分だ。そんな不手際があるだろうか?
慌てて料理を口にし、毒物の有無を確かめる。ゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。異常はない。
「ジャック様、毒は入っていないようですが?」
「味がおかしい」
「味? お気に召しませんでしたか?」
「そうではなく……うまいか?」
「え? ええ、そうですね。悪くないかと……」
ザインの困惑顔を見て、もう一度、オーギュストは料理を口にする。やはり味はなく、砂を噛むようで不快だった。もしかして……自分の味覚がおかしい? その考えに至ったオーギュストは料理を下げさせた。
「味が……いや、何でもない。下げてくれ。食欲がない」
「か、かしこまりました」
オーギュストは立ち上がり、食堂を後にする。一時的なものかと思ったが、味覚の消失はその後も続くことになる。医師のアルバンには、ストレスだと診断された。治る場合と治らない場合があるらしい。
ストレス、か……それも今更だ。ストレスを感じない日などなかった。そして、それはこれからも続く。
味覚の治療法を探りつつ、オーギュストは王妃エヴリンとの接触の下準備を始めた。影をもう二人引っ張り込むことに成功し、彼女の行動を探ってもらう。秘密裏に会える時と場を調整するのだ。
もう少しだ、もう少し……
邸に戻れば、時折、ローザの姿を目にする事がある。決まって世話係であるアンバーの後ろに隠れてしまうのだが。まるで血を盛られたあの時に逆戻りしたかのようだ。前は嫌悪感で、今度は恐怖感で……理由は違うが、私を避ける行動は一緒だ。
「気を落とさないでください、ジャック様」
アンバーが言う。
「あの女はもういないんですから、きっと時間が解決してくれます」
だといいがな……
どうしても浮かぶのは自嘲の笑みだ。
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夫に愛されるためではない。三年後、白い結婚としてこの家を出ていくために。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
妹ばかり愛した家族へ。私が王太子妃になった日、皆さんは謝りました。けれど、もう遅いのです
幼い頃から妹の引き立て役として生き、婚約者まで奪われて家を追放された侯爵令嬢エレナ。
傷ついた彼女が助けた青年は、身分を隠した王太子だった。
一年後、王太子妃となったエレナの前に現れたのは、今さら「家族だから」と擦り寄ってくる両親と妹。
けれど彼女は、もう二度と振り返らない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
一夜の過ちで懐妊したら、幼なじみの冷酷皇帝に溺愛されました
没落貴族の娘・柳月鈴は、宮廷で医官見習いとして働いていた。
ある夜、皇帝即位の宴で酒に酔い、幼なじみだった皇帝・李景珩と再会する。
遠い存在になったはずの彼。
けれど、その夜をきっかけに月鈴の運命は大きく動き出す。
冷酷と恐れられる皇帝が、なぜか彼女だけには甘すぎて――。
幼馴染しか見えない婚約者と白い結婚したので、夜明け前にさよならしました
公爵令嬢レティシアは、家同士の都合で伯爵アルフレッドに嫁ぐ。
けれど夫は結婚後もずっと幼馴染のシルヴィばかりを優先し、婚礼の夜から夫婦として触れ合おうともしなかった。名ばかりの妻として伯爵家を支え、領地経営まで立て直しても、彼にとってレティシアは“都合のいい伯爵夫人”でしかない。
やがて結婚一周年の夜、アルフレッドが自分を手放す気はない一方で、幼馴染を屋敷に迎え入れようとしている会話を聞いてしまったレティシアは、ついに決意する。
――もう、この結婚には見切りをつけよう。
夜明け前、彼女は離縁の準備を整え、伯爵邸を出奔。
身を寄せた北の港町で薬舗を手伝いながら、自分の力で生きる穏やかな日々を手に入れていく。そこで出会ったのは、身分ではなく一人の女性として彼女を尊重してくれる青年医師ノアだった。
一方、都合よく尽くしてくれる妻を失ったアルフレッドは、ようやく自分が何を失ったのかを思い知ることになる。
幼馴染ばかりを優先する婚約者との白い結婚に終止符を打ち、傷ついた公爵令嬢が新天地で本当の幸せを掴む、離縁から始まる逆転ラブストーリー。