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3巻
3-3
「建国記念祭までって……なんでだ?」
「ローザのお披露目をそこでする」
「なんでわざわざ建国記念祭で?」
もっと早くにすりゃあいい、そう言うギデオンをじろりと緑の瞳が睨めつける。
「国民の前で、ローザを救世主だと印象付ける必要がある」
「あん?」
「今の王都には貧困と飢えが蔓延している。その原因であるハインリヒを一般大衆の前で断罪し、聖王リンドルンの奇跡の御業、『矢切演舞』を披露してやれば、誰もがローザを王家の直系だと――次期女王だと認めるだろう。ローザを聖王リンドルンの再来だと言わせてみせる。私の時と同じようにな」
「矢切演舞って……おい、待て! まさかローザちゃんにあれをやらせる気か?」
ギデオンは慌てた様子でドルシア子爵の前に回り込んだ。
「矢切演舞は自分に向かって飛来する百本の矢を切り落とす荒技だぞ? お前以外誰も、誰も成功した者はいないじゃないか!」
ドルシア子爵の口角が上がる。
「そうだ。だからこそ効果的なんだ。矢切演舞を披露した私を、誰もが聖王リンドルンの再来だともてはやした。聖王リンドルンが恐ろしい魔女を討ち滅ぼした記念の日に、ローザが国民の前でそれを披露する。見ているがいい。誰もがローザに熱狂するぞ! 次期女王だと認めるだろう! 流石聖王リンドルンの再来、オーギュストの子だと褒め称えるはずだ!」
ギデオンが呆然と口を開く。
「ちょ、待て……お前、ほんっとおかしいぞ? 王女のローザちゃんに剣を仕込んだってだけでも異例だってのに、矢切演舞だと……? なんでそこまでするんだよ? ハインリヒの子だって言われているからか? けど、王冠を取り戻したお前が一言、自分の子だって言えばそれで十分――」
「はっ!」
ギデオンの主張をドルシア子爵が鼻で笑い遮った。
「それで周囲がハインリヒの子だと言わなくなると言うのか?」
「実際、ハインリヒの子じゃないだろ?」
「ああ、違うとも! だが、どれだけの者がその真実に耳を傾けると思う! いい加減、そのおめでたい頭をなんとかしろ!」
足を止めたドルシア子爵に指先でドンッと小突かれ、ギデオンの巨体がよろけた。
「人はな、見たいように見て、信じたいものを信じるんだ! ハインリヒの子だと思いたければそう見えるさ! 政権をひっくり返した際、どうなると思う? ローザを女王にしたくない者にしてみれば、こういった誹謗中傷は格好の餌なんだ!」
ドルシア子爵が声を荒らげる。
「私とローザを見てみろ! 容姿では似ている部分が何一つない! だからこそ、私と同じ能力を見せつける必要があるんだ! 国民の眼前で私の子だと印象付ける。ローザは私の子だ。私の子なんだ! 認めさせてみせる。絶対に……」
ドルシア子爵の瞳の奥にギラギラとした狂気にも似た執念を感じ、ギデオンは言葉を失った。再び歩き出した黒い背を急ぎ追う。
「俺からすれば、ブリュンヒルデの子ってだけで十分なんだけどなぁ」
再度、じろりと緑の瞳が睨めつけた。
「……ローザが謀反人の子だと後ろ指を指されてもいいと言うのか?」
「え? いや……」
「この、うつけが……。ハインリヒの子だと言われるとはそういうことだ。この先、父王を殺した罪を暴いて、あれを断頭台へ送るのだからな! ローザを罪人の子にするつもりか? 自分の血筋を恥じるような真似はさせない」
そこでギデオンははたと気がついた。
「おい、もしかして……。お前がローザちゃんは自分の子だと証明しようと躍起になってんのは、周囲の悪意から、誹謗中傷から、ローザちゃんを守りたいからか? そういうことか? 罪人の子だと言われないようにしたくて……おいっ!」
ドルシア子爵は答えない。無言のまま足を速めた。王城へ出向き、ハインリヒと対決するために。
第四話 相見える時
「なんですってぇ! あのローザとかいう女が、陛下の出席する晩餐会に出る?」
赤毛の美女、寵姫マリアベルが侍女の言葉に憤慨する。身に着けた華美なドレスはいつものように胸元が大きく開いていて、紅をたっぷりと塗った唇は真っ赤だ。
「ええ、はい。どうもそのようで……」
「なのに寵姫である私を呼ばないって、どういうことよ!」
マリアベルは晩餐会が開かれることすら知らなかった。
いつもであれば、自分の席はハインリヒの隣である。そして、王妃エヴリンに二人の仲の良さを見せつけるのが常だった。すました王妃の顔を眺めつつ、嫉妬に身を焦がしているだろうと想像するだけで愉快だったというのに……
まさか……陛下はあの女を本気で寵姫にするつもりなの? 嘘でしょう?
マリアベルはぎりっと唇を噛み、立ち上がる。
「ど、どちらへ?」
「陛下のところよ。私も晩餐会に参加させてもらうわ」
身を翻し、執務室へ向かう。執務室と言っても宴会場になっていることがほとんどだが……。ハインリヒが真面目に仕事をしていることなどまずない。執務は王妃に丸投げである。が、今回は空振りだった。いつもであれば数名の美女を侍らせて、酒宴を楽しんでいるところだが……
「陛下はどちらに?」
マリアベルが目に付いた衛兵に尋ねると、謁見の間にいらっしゃいますとの答えが返ってくる。
「謁見の間? 誰か来ているの?」
まさかもうあの女が? そう疑うも、衛兵の答えは違っていた。
「ええ、はい、ヴィスタニア帝国のギデオン皇帝陛下がいらっしゃっています。きっとまたブリュンヒルデ様の件で文句を言いに来たのでしょう」
「ブリュンヒルデ? 誰よ?」
「皇帝陛下の妹君であらせられます」
「妹? なんで文句なんか……ああ、いいわ。陛下に直接聞くから」
マリアベルは急ぎその場を離れ、煌びやかな装飾の施された両扉の前まで足を運ぶ。謁見の間である。その両脇に立っている衛兵二人を尻目に、堂々と謁見の間に押し入ろうとしたマリアベルを、衛兵が急いで止める。
「マリアベル様! お待ちを! ヴィスタニア帝国皇帝との謁見です! 無礼を働けば、あなた様でも首が飛びかねません。どうかお二方の会合が終わるまでお待ち下さい!」
衛兵二人に必死に止められ、マリアベルは渋々引き下がった。
皇帝、ね……
どんな奴だろうとマリアベルは思う。マリアベルはハインリヒと毎日享楽にふけっているだけなので、他国の情報など全く把握していない。ヴィスタニア帝国がどのような国であるかも、リンドルン王国との関係が過去最悪となっていることも知らなかった。なので、マリアベルの興味は、皇帝がどのような男であるか、だけである。
会合が終わり、自国の近衛騎士達と共に謁見の間から出てきたギデオンを見て、マリアベルは一気に興味を失った。無骨そうな大男で、全く好みじゃない。自分はやっぱり美しい男が好きだ。そう、情夫アーロンのような色男が好きなのである。
まぁ、でも、ヴィスタニア帝国皇帝なら財力は相当なものよね? 好みじゃないけれど、あっちの具合は良さそうだし、言い寄ってみてもいいかもしれないわ。
マリアベルはそう考え、ほくそ笑む。
それが外交上どんな問題を引き起こすか、という考えには至らない。そして、一国の君主が傍を通れば淑女の礼をして目を伏せるのが礼儀であるが、マリアベルはいつも通り、立ったままギデオンの顔を凝視した。リンドルンの王城で、寵姫である彼女の行動を咎める者はいない。
じろりとギデオンの野性味溢れる金色の瞳に睨めつけられ、マリアベルはびくりとしたが、自分が不遜な態度をとったという意識すらないまま憤慨した。
何よ、あいつ! 女の扱いがなっちゃいないわ!
そこへ、入れ替わるようにして王妃エヴリンがその場に姿を現したものだから、マリアベルの機嫌はさらに悪くなった。顔を見るだけで唾を吐きかけてやりたくなる女である。マリアベルは高貴な血筋の女が嫌いで、知性と教養のある女性が大っ嫌いだった。その筆頭が王妃エヴリンである。
王妃エヴリンはブルネットの髪の知的な顔立ちの女性だ。ほっそりとした肢体にまとうドレスは、マリアベルとは対照的なまでに清楚である。
「ご機嫌よう、王妃様。陛下に呼び出されたのかしら?」
一体何をやらかしたの? と言外に含めるも、ふとその背後にいる仮面の男を見て、マリアベルは目を見張った。美しい男だと思ったのだ。仮面の下の顔を見てみたいと思うほどに。
立ち姿が優美で、口元には匂い立つような色気がある。仮面の奥から覗く緑の瞳は鋭利で、ぞくりとする冷たさを感じるが、そこがまたたまらない魅力となっていた。仮面の下には絶対に自分好みの美貌を持っているとマリアベルは直感し、彼女の赤い唇が弧を描く。
「ね、あなた、名前は?」
仮面の男――ドルシア子爵にマリアベルがすり寄ろうとし、王妃エヴリンがそれを阻んだ。声をかけられても見向きもしなかったが、二人の間に立ち塞がるように体の向きを変える。
「マリアベル嬢、彼はわたくしの客人です」
「客人? 何よ、もしかしてあんたの情夫?」
マリアベルがからかうと、エヴリンが顔をしかめた。明らかに不快に感じているようで、マリアベルは面白いとほくそ笑む。
当たらずといえども遠からずと言ったところかしらね?
エヴリンの後ろで、ドルシア子爵がすっと胸に手を当て、貴族の礼を執った。立ち振る舞いもまた完璧で美しい。
「私はドルシア子爵家当主、ジャック・ドルシアでございます、マリアベル様」
「あら、私の名を知っているのね?」
「それはもう。有名ですから」
何故有名なのか深く考えることもなく、ドルシア子爵に微笑まれたマリアベルは浮かれた。
「仮面を取りなさい。命令よ」
「マリアベル嬢、やめなさい」
王妃が再度割って入るが、ドルシア子爵は笑う。
「申し訳ありませんが……酷い火傷の痕がありますのでどうかご容赦を」
マリアベルが不満そうに口を尖らせた。
「何よ、そんなに酷いの?」
「ええ。あなた様のように繊細な心の持ち主なら、悪夢にうなされること請け合いです。どうか仮面の下の顔は想像にとどめておいて下さい」
「想像、ねぇ……そう言われると、もの凄くいい男を想像しちゃうわ。ね、あなた、女にモテるでしょう? あっちは上手い?」
「マリアベル嬢!」
エヴリンが金切り声を上げ、マリアベルは顔をしかめた。
「何よ、邪魔しないで。あんたの情夫だって陛下に言いつけてやってもいいのよ?」
「言いがかりです!」
「だったら大人しくしてなさいよ! 焼き餅焼いちゃってみっともない!」
「そのようなことは……」
狼狽えたようにエヴリンのブラウンの瞳が揺れ動く。面白いと思った。どんな時も余裕ある態度を崩さなかった王妃が、こうも感情を露わにする姿は目にしたことがない。
陛下と私がどんなにいちゃついても素知らぬ振りだったくせに、この男には反応するのか……うふふ、面白いわ。だったら……
「ね、キスして? 仮面はしたままでいいから……」
ドルシア子爵の首に手を回して体を密着させ、マリアベルが豊満な胸をぐっと押しつける。すぐ隣で、エヴリンがひゅっと息を詰まらせた。マリアベルはにんまりと笑う。
うふふ、やっぱり面白いわ。王妃の血の気が引いてる。こいつに気があるのは確かみたいね。
ドルシア子爵の仮面の下の唇が、うっすらと弧を描く。
「ご冗談を」
「あら、本気よ?」
「あなたは寵姫です。陛下に知られれば、私もあなたも首が飛びますよ?」
マリアベルは色気たっぷりに顔を寄せた。
「うふふ、バレなければ大丈夫よ。そこの衛兵にはちゃあんと賄賂を渡しているから、心配いらないわ。それより、あんた、凄いわ……見かけほど華奢じゃないのね? まるで騎士みたいに良い体してる。なんなら最後までする? 火傷してたっていいわよ。仮面をしていれば気にならないもの」
エヴリンが再び金切り声を上げた。
「よしなさい、べたべたとはしたない! 異性の体をまさぐるなんて、淑女のすることですか!」
「煩いわね、あんたが男旱りだからってやっかまないでよ!」
肩を掴んだ王妃の手をマリアベルが乱暴に払いのける。ドルシア子爵の視線が、謁見の間の前に立っている衛兵に向いた。じろりと緑の瞳に見据えられ、彼らの体がびくりと揺れる。
「賄賂……本当か?」
ドルシア子爵が追及すると、衛兵達は狼狽えた。
「え、その……」
「ま、まぁ……で、ですが、彼女の逢瀬については口出し無用とあなた様が……」
おっしゃったではありませんか、という衛兵の言葉尻が消える。冷たい瞳のままドルシア子爵の口角が上がったからだ。火山噴火の前触れのよう。
「そうだったな。だったら、これも見て見ぬ振りをしろ」
底冷えのする声に衛兵が震え上がる間もなく、マリアベルは首を絞め上げられていた。
「な、なに……やめ……」
「虫唾が走る」
「ど、どうし……」
どうしてと言い切ることができない。ドルシア子爵に片手で首を掴まれ、体を持ち上げられていたからだ。マリアベルは呼吸困難なまま宙に浮いた足をばたばたさせる。マリアベルを見るドルシア子爵の瞳は、狂気を帯びて恐ろしい。いや、狂気を帯びた憎悪であろうか。
「娼婦なら娼婦らしく、きちんと客の意向を汲めばいいものを……お前のような女は絞め殺してやりたくなる。どうしてもと言うならこれでどうだ? 好きなだけ突いてやるぞ?」
そう言ってマリアベルの眼前にかざされたのは大振りのナイフだ。煌めく刃が凶悪である。
死ぬまでな……
ドルシア子爵にそう囁かれ、マリアベルはぞわりと総毛立った。その声が艶めき蠱惑的なだけに恐ろしさ倍増だ。本気だと分かる。ドルシア子爵の手が緩み、マリアベルの体がドサリと床に落ちると、彼女はゲホゲホと盛大に咳き込んだ。
「こ、こんな真似して……」
ただで済むと思ってるの、そう言おうとして、マリアベルは再び息を詰まらせた。冷たく鋭い緑の瞳をまともに見てしまったからだ。
「ひっ……」
言葉にならない声が漏れ、カタカタと歯の根が合わない。首から血が噴き出す幻影が見えた気がした。放たれたのは間違いなく殺気である。仮面の下の唇が再び弧を描いた。
「ハインリヒに言いつけるか?」
ふっと気がつけば、目の前に仮面を着けたドルシア子爵の顔がある。彼がかがんでマリアベルの顔を覗き込んでいたのだ。瞳と同じ冷徹な声が告げる。
「やめておけ。命が惜しければ大人しくしていろ。あの豚は相手の不貞を許しはしない。お前が私に言い寄ったという事実がバレればどちらも処刑だろう」
ふははと笑われ、マリアベルはぞっとする。どちらも処刑だと言いながら面白がっている節があるからだ。死ぬのが怖くないの?
「あ、あんたの言うことと私の言うことなら……」
陛下は私の言うことを信じるわ、ようようそう絞り出すも、鼻で笑われる。
「残念ながら第三者の証言があるぞ? そら、見てみろ。お前と反目している王妃の証言だ」
マリアベルを冷たく見下ろす王妃の姿に再度息を詰まらせる。怒りだけではない、その瞳には明らかに嫉妬の色が浮かんでいて、マリアベルの額から脂汗が噴き出した。いつものように言い寄られたと嘘をついても、王妃がその証言を覆すだろうということは想像に難くない。
両方処刑……まず間違いなくそうなるだろう……
押し黙ったマリアベルの耳に、ドルシア子爵の嘲笑が滑り込んだ。薔薇の芳香のように甘いのに冷ややかで、心臓を鷲掴みされたような恐怖を覚える。
「お前の賄賂程度ではどうにもならん。虎の威を借る狐も良いが、ほどほどにしろ? どうせ、砂上の楼閣だ」
ドルシア子爵が立ち上がり、身を翻す。漆黒のマントがばさりと舞った。
王妃とドルシア子爵が謁見の間の扉の向こうに消えても、マリアベルは動けなかった。そうっと自分の首に手を当てる。無意識の行動だった。
◇◇◇
「あの無礼者が!」
王妃エヴリンがドルシア子爵ことオーギュストを伴って謁見の間に入った時、ハインリヒは癇癪を起こしていた。怒り心頭で、仮面を着けたオーギュストの姿も目に入っていないようである。しかし周囲の者達の視線は逆に、足音一つ立てずに歩くオーギュストに釘付けだった。恐ろしいほどの存在感なのに、こそりとも音を立てない。身にまとうのはやはり静寂だ。
「陛下、どうなさいました?」
王妃エヴリンが、玉座にいるハインリヒの前に進み出る。
「どうもこうもあるか! あの傲慢な皇帝め! 余が目をつけた女をよこせと言いおった! ブリュンヒルデの代わりだとな! 誰がやるものか! ローザ・バークレアは余のものだ! 余の女だ! 誰にも渡さぬ!」
ハインリヒの叫びで、オーギュストの拳にぐっと力が入る。ハインリヒを睨みつける緑の双眸に憎悪の炎が踊ったが、それはほんの一瞬の出来事で、周囲の者達がそれに気づくことはなかった。
と、怒り心頭だったハインリヒの目がオーギュストを捉え、不審そうに眉をひそめる。
「……うん? そいつは?」
「お初にお目にかかります、陛下。私はジャック・ドルシア子爵でございます」
オーギュストが片膝をつき、臣下の礼を執る。オーギュストの所作はやはり驚くほど洗練されている。ハインリヒがにやりと笑う。
「ほほう、そちか。領地で疫病が流行り登城できないと、二度も余の要請を蹴ったのは」
「申し訳ございません。流行病を王都に持ち込み、陛下にもしものことがあってはなりませぬゆえ。ご容赦下さい」
「良い。詫びの品が気に入った。許してやる。余の前で仮面をかぶる無礼もな。余は寛大であろう?」
「ありがたき幸せ。恐悦至極に存じます」
「して、今日はなんの用で参った? 娘の件か? 余の側室となることは決定事項だぞ?」
ねちりと笑うハインリヒが言った。まさか反対はすまいな? そういった脅しを含んだ笑みだ。オーギュストもまた笑う。
「ええ、そのようにうかがっております。ですから、献上品をお持ちいたしました。我が娘に目をかけていただき光栄です」
オーギュストの従者が荷物の覆いを取ると、金銀財宝の山である。周囲にどよめきが走る。ハインリヒでさえ度肝を抜かれたことは言うまでもない。まるで大国の王からの献上品のようだ。贈り物の素晴らしさに誰もが声も出ない。
これをたかが子爵家が? ありえない……
ハインリヒはそう思うも、ドルシア子爵が商人の成り上がりだとは知っている。そう、商人の成り上がりだ。卑しい血の持ち主だ。それが、自分の機嫌を取るためにここまでしたのだと思えば気分がいい。ハインリヒは上機嫌で笑った。
「ほほう、光栄、とな。ははは、流石やり手の商人! 気に入ったぞ!」
ハインリヒがそう言って膝を叩いて笑った。
オーギュストもまたうっすらと笑う。
褒めているように見えて、貴族が耳にすれば、蔑んでいると誰もが気がつくだろう。貴族が商人の真似事をすることは恥だと言われているのだから。「やり手の商人」と言われて喜ぶ貴族はいない。貴族は商人から利益を吸い上げ、その恩恵にあずかっていながら、いつだって商人を見下す。こんな風に卑しい血だと蔑むのが常だ。
オーギュストが話題を変えた。
「ところで陛下、先程酷く荒れておいででしたが、何かお気に障ることでもありましたか?」
「ああ、ヴィスタニア皇帝もまたローザ・バークレアを側室にしたいと言い出して聞かない。あれを連れ帰るまではここに居座るとまで言いおった。実に腹立たしい」
「ははは、それはそれは。ヴィスタニア帝国にまで娘の美しさが伝わるとは……」
ハインリヒがじろりと睨めつける。
「……よもや、あちら側に渡す気ではあるまいな?」
「とんでもございません。でしたら、そうですね……私が皇帝陛下を説得いたしましょうか?」
「そちが?」
「ええ、もし私にこの一件を任せていただけるのなら、私がリンドルン王国の使者としてヴィスタニア皇帝と直談判し、二ヶ月後に行われる建国記念祭の時には、陛下の隣に我が娘の席を用意してご覧に入れましょう」
陛下の隣の席ということは、寵姫になるということと同義である。ハインリヒはにやりと笑った。欲の深い人間は分かりやすくていいというわけだ。
「ほほう? なかなかの野心家だ。単なる側室ではなく寵姫の座が欲しいと言うか」
「我が娘にはそれくらいが相応しいかと……」
「良い、許す。やってみよ。もし見事ヴィスタニア皇帝の要求を退けられたら、褒美をやる。ただし……失敗した時は分かっておるな? 縛り首だ。お前の娘を差し出す代わりに、お前の首をギデオン皇帝にくれてやるから、そう思え?」
「御意」
命をもらうと言っても動揺もしないオーギュストを、ハインリヒは面白がった。
「これはまた随分な自信だ。失敗するとは考えないのか?」
「……必ず成功しますので、無用の心配にございます」
ハインリヒは膝を叩き、豪快に笑った。
「ははは、気に入ったぞ! そうとも、臣下とはこうあるべきだ! 余のために命すらも喜んで差し出す。こうでなくてはな。お前達もそう思うであろう? そうだ、ローザ・バークレアを招いた晩餐会には、そちも娘と一緒に参加するといい。余が許可する」
「お待ち下さい、陛下!」
ハインリヒの言葉を遮るように、バアンと謁見の間の扉を開け放ったのは寵姫マリアベルだ。たくさんの兵士、否、荒くれ者達を連れている。マリアベルが悪事を働くために独自に雇い入れた私兵だった。
マリアベルが震える指をオーギュストに突きつける。
「そ、その者は私に無礼を働きました! 騙されてはなりません!」
「無礼?」
ハインリヒが眉をひそめ、マリアベルの指示に従った荒くれ者達がオーギュストを取り囲もうと動いた。オーギュストに反論する隙を与えまいと、殺せとマリアベルの赤い唇が命じる。とにかく葬ってしまおうという腹づもりらしい。
「陛下の御前で、なんと無礼な! 下がりなさい!」
王妃エヴリンが叫ぶも、傍若無人なマリアベルに届くことはない。立ち上がったオーギュストを荒くれ者達が取り囲み、オーギュストの顔に酷薄な笑みが浮かぶ。馬鹿がと、そう言いたげに。
剣を手にした荒くれ者達がオーギュストに襲いかかり……彼らの首が撥ね飛んだのがその直後だ。オーギュストが振るった剣のことごとくが、襲いかかった者達の首を撥ね飛ばす。まるで疾風のよう。首を失った胴体がゆらりと傾ぎ、ドサリと倒れ伏す。一瞬にして謁見の間が血の海だ。
しんっと場が静まり返り、悲鳴は後からやってきた。謁見の間に控えていた侍女達の悲鳴である。マリアベルに至っては顔面蒼白だ。赤い唇はわなわなと震え、言葉を紡ぐことができない。
周囲の騒ぎを沈めるように響いたのがオーギュストの声であった。
「ローザのお披露目をそこでする」
「なんでわざわざ建国記念祭で?」
もっと早くにすりゃあいい、そう言うギデオンをじろりと緑の瞳が睨めつける。
「国民の前で、ローザを救世主だと印象付ける必要がある」
「あん?」
「今の王都には貧困と飢えが蔓延している。その原因であるハインリヒを一般大衆の前で断罪し、聖王リンドルンの奇跡の御業、『矢切演舞』を披露してやれば、誰もがローザを王家の直系だと――次期女王だと認めるだろう。ローザを聖王リンドルンの再来だと言わせてみせる。私の時と同じようにな」
「矢切演舞って……おい、待て! まさかローザちゃんにあれをやらせる気か?」
ギデオンは慌てた様子でドルシア子爵の前に回り込んだ。
「矢切演舞は自分に向かって飛来する百本の矢を切り落とす荒技だぞ? お前以外誰も、誰も成功した者はいないじゃないか!」
ドルシア子爵の口角が上がる。
「そうだ。だからこそ効果的なんだ。矢切演舞を披露した私を、誰もが聖王リンドルンの再来だともてはやした。聖王リンドルンが恐ろしい魔女を討ち滅ぼした記念の日に、ローザが国民の前でそれを披露する。見ているがいい。誰もがローザに熱狂するぞ! 次期女王だと認めるだろう! 流石聖王リンドルンの再来、オーギュストの子だと褒め称えるはずだ!」
ギデオンが呆然と口を開く。
「ちょ、待て……お前、ほんっとおかしいぞ? 王女のローザちゃんに剣を仕込んだってだけでも異例だってのに、矢切演舞だと……? なんでそこまでするんだよ? ハインリヒの子だって言われているからか? けど、王冠を取り戻したお前が一言、自分の子だって言えばそれで十分――」
「はっ!」
ギデオンの主張をドルシア子爵が鼻で笑い遮った。
「それで周囲がハインリヒの子だと言わなくなると言うのか?」
「実際、ハインリヒの子じゃないだろ?」
「ああ、違うとも! だが、どれだけの者がその真実に耳を傾けると思う! いい加減、そのおめでたい頭をなんとかしろ!」
足を止めたドルシア子爵に指先でドンッと小突かれ、ギデオンの巨体がよろけた。
「人はな、見たいように見て、信じたいものを信じるんだ! ハインリヒの子だと思いたければそう見えるさ! 政権をひっくり返した際、どうなると思う? ローザを女王にしたくない者にしてみれば、こういった誹謗中傷は格好の餌なんだ!」
ドルシア子爵が声を荒らげる。
「私とローザを見てみろ! 容姿では似ている部分が何一つない! だからこそ、私と同じ能力を見せつける必要があるんだ! 国民の眼前で私の子だと印象付ける。ローザは私の子だ。私の子なんだ! 認めさせてみせる。絶対に……」
ドルシア子爵の瞳の奥にギラギラとした狂気にも似た執念を感じ、ギデオンは言葉を失った。再び歩き出した黒い背を急ぎ追う。
「俺からすれば、ブリュンヒルデの子ってだけで十分なんだけどなぁ」
再度、じろりと緑の瞳が睨めつけた。
「……ローザが謀反人の子だと後ろ指を指されてもいいと言うのか?」
「え? いや……」
「この、うつけが……。ハインリヒの子だと言われるとはそういうことだ。この先、父王を殺した罪を暴いて、あれを断頭台へ送るのだからな! ローザを罪人の子にするつもりか? 自分の血筋を恥じるような真似はさせない」
そこでギデオンははたと気がついた。
「おい、もしかして……。お前がローザちゃんは自分の子だと証明しようと躍起になってんのは、周囲の悪意から、誹謗中傷から、ローザちゃんを守りたいからか? そういうことか? 罪人の子だと言われないようにしたくて……おいっ!」
ドルシア子爵は答えない。無言のまま足を速めた。王城へ出向き、ハインリヒと対決するために。
第四話 相見える時
「なんですってぇ! あのローザとかいう女が、陛下の出席する晩餐会に出る?」
赤毛の美女、寵姫マリアベルが侍女の言葉に憤慨する。身に着けた華美なドレスはいつものように胸元が大きく開いていて、紅をたっぷりと塗った唇は真っ赤だ。
「ええ、はい。どうもそのようで……」
「なのに寵姫である私を呼ばないって、どういうことよ!」
マリアベルは晩餐会が開かれることすら知らなかった。
いつもであれば、自分の席はハインリヒの隣である。そして、王妃エヴリンに二人の仲の良さを見せつけるのが常だった。すました王妃の顔を眺めつつ、嫉妬に身を焦がしているだろうと想像するだけで愉快だったというのに……
まさか……陛下はあの女を本気で寵姫にするつもりなの? 嘘でしょう?
マリアベルはぎりっと唇を噛み、立ち上がる。
「ど、どちらへ?」
「陛下のところよ。私も晩餐会に参加させてもらうわ」
身を翻し、執務室へ向かう。執務室と言っても宴会場になっていることがほとんどだが……。ハインリヒが真面目に仕事をしていることなどまずない。執務は王妃に丸投げである。が、今回は空振りだった。いつもであれば数名の美女を侍らせて、酒宴を楽しんでいるところだが……
「陛下はどちらに?」
マリアベルが目に付いた衛兵に尋ねると、謁見の間にいらっしゃいますとの答えが返ってくる。
「謁見の間? 誰か来ているの?」
まさかもうあの女が? そう疑うも、衛兵の答えは違っていた。
「ええ、はい、ヴィスタニア帝国のギデオン皇帝陛下がいらっしゃっています。きっとまたブリュンヒルデ様の件で文句を言いに来たのでしょう」
「ブリュンヒルデ? 誰よ?」
「皇帝陛下の妹君であらせられます」
「妹? なんで文句なんか……ああ、いいわ。陛下に直接聞くから」
マリアベルは急ぎその場を離れ、煌びやかな装飾の施された両扉の前まで足を運ぶ。謁見の間である。その両脇に立っている衛兵二人を尻目に、堂々と謁見の間に押し入ろうとしたマリアベルを、衛兵が急いで止める。
「マリアベル様! お待ちを! ヴィスタニア帝国皇帝との謁見です! 無礼を働けば、あなた様でも首が飛びかねません。どうかお二方の会合が終わるまでお待ち下さい!」
衛兵二人に必死に止められ、マリアベルは渋々引き下がった。
皇帝、ね……
どんな奴だろうとマリアベルは思う。マリアベルはハインリヒと毎日享楽にふけっているだけなので、他国の情報など全く把握していない。ヴィスタニア帝国がどのような国であるかも、リンドルン王国との関係が過去最悪となっていることも知らなかった。なので、マリアベルの興味は、皇帝がどのような男であるか、だけである。
会合が終わり、自国の近衛騎士達と共に謁見の間から出てきたギデオンを見て、マリアベルは一気に興味を失った。無骨そうな大男で、全く好みじゃない。自分はやっぱり美しい男が好きだ。そう、情夫アーロンのような色男が好きなのである。
まぁ、でも、ヴィスタニア帝国皇帝なら財力は相当なものよね? 好みじゃないけれど、あっちの具合は良さそうだし、言い寄ってみてもいいかもしれないわ。
マリアベルはそう考え、ほくそ笑む。
それが外交上どんな問題を引き起こすか、という考えには至らない。そして、一国の君主が傍を通れば淑女の礼をして目を伏せるのが礼儀であるが、マリアベルはいつも通り、立ったままギデオンの顔を凝視した。リンドルンの王城で、寵姫である彼女の行動を咎める者はいない。
じろりとギデオンの野性味溢れる金色の瞳に睨めつけられ、マリアベルはびくりとしたが、自分が不遜な態度をとったという意識すらないまま憤慨した。
何よ、あいつ! 女の扱いがなっちゃいないわ!
そこへ、入れ替わるようにして王妃エヴリンがその場に姿を現したものだから、マリアベルの機嫌はさらに悪くなった。顔を見るだけで唾を吐きかけてやりたくなる女である。マリアベルは高貴な血筋の女が嫌いで、知性と教養のある女性が大っ嫌いだった。その筆頭が王妃エヴリンである。
王妃エヴリンはブルネットの髪の知的な顔立ちの女性だ。ほっそりとした肢体にまとうドレスは、マリアベルとは対照的なまでに清楚である。
「ご機嫌よう、王妃様。陛下に呼び出されたのかしら?」
一体何をやらかしたの? と言外に含めるも、ふとその背後にいる仮面の男を見て、マリアベルは目を見張った。美しい男だと思ったのだ。仮面の下の顔を見てみたいと思うほどに。
立ち姿が優美で、口元には匂い立つような色気がある。仮面の奥から覗く緑の瞳は鋭利で、ぞくりとする冷たさを感じるが、そこがまたたまらない魅力となっていた。仮面の下には絶対に自分好みの美貌を持っているとマリアベルは直感し、彼女の赤い唇が弧を描く。
「ね、あなた、名前は?」
仮面の男――ドルシア子爵にマリアベルがすり寄ろうとし、王妃エヴリンがそれを阻んだ。声をかけられても見向きもしなかったが、二人の間に立ち塞がるように体の向きを変える。
「マリアベル嬢、彼はわたくしの客人です」
「客人? 何よ、もしかしてあんたの情夫?」
マリアベルがからかうと、エヴリンが顔をしかめた。明らかに不快に感じているようで、マリアベルは面白いとほくそ笑む。
当たらずといえども遠からずと言ったところかしらね?
エヴリンの後ろで、ドルシア子爵がすっと胸に手を当て、貴族の礼を執った。立ち振る舞いもまた完璧で美しい。
「私はドルシア子爵家当主、ジャック・ドルシアでございます、マリアベル様」
「あら、私の名を知っているのね?」
「それはもう。有名ですから」
何故有名なのか深く考えることもなく、ドルシア子爵に微笑まれたマリアベルは浮かれた。
「仮面を取りなさい。命令よ」
「マリアベル嬢、やめなさい」
王妃が再度割って入るが、ドルシア子爵は笑う。
「申し訳ありませんが……酷い火傷の痕がありますのでどうかご容赦を」
マリアベルが不満そうに口を尖らせた。
「何よ、そんなに酷いの?」
「ええ。あなた様のように繊細な心の持ち主なら、悪夢にうなされること請け合いです。どうか仮面の下の顔は想像にとどめておいて下さい」
「想像、ねぇ……そう言われると、もの凄くいい男を想像しちゃうわ。ね、あなた、女にモテるでしょう? あっちは上手い?」
「マリアベル嬢!」
エヴリンが金切り声を上げ、マリアベルは顔をしかめた。
「何よ、邪魔しないで。あんたの情夫だって陛下に言いつけてやってもいいのよ?」
「言いがかりです!」
「だったら大人しくしてなさいよ! 焼き餅焼いちゃってみっともない!」
「そのようなことは……」
狼狽えたようにエヴリンのブラウンの瞳が揺れ動く。面白いと思った。どんな時も余裕ある態度を崩さなかった王妃が、こうも感情を露わにする姿は目にしたことがない。
陛下と私がどんなにいちゃついても素知らぬ振りだったくせに、この男には反応するのか……うふふ、面白いわ。だったら……
「ね、キスして? 仮面はしたままでいいから……」
ドルシア子爵の首に手を回して体を密着させ、マリアベルが豊満な胸をぐっと押しつける。すぐ隣で、エヴリンがひゅっと息を詰まらせた。マリアベルはにんまりと笑う。
うふふ、やっぱり面白いわ。王妃の血の気が引いてる。こいつに気があるのは確かみたいね。
ドルシア子爵の仮面の下の唇が、うっすらと弧を描く。
「ご冗談を」
「あら、本気よ?」
「あなたは寵姫です。陛下に知られれば、私もあなたも首が飛びますよ?」
マリアベルは色気たっぷりに顔を寄せた。
「うふふ、バレなければ大丈夫よ。そこの衛兵にはちゃあんと賄賂を渡しているから、心配いらないわ。それより、あんた、凄いわ……見かけほど華奢じゃないのね? まるで騎士みたいに良い体してる。なんなら最後までする? 火傷してたっていいわよ。仮面をしていれば気にならないもの」
エヴリンが再び金切り声を上げた。
「よしなさい、べたべたとはしたない! 異性の体をまさぐるなんて、淑女のすることですか!」
「煩いわね、あんたが男旱りだからってやっかまないでよ!」
肩を掴んだ王妃の手をマリアベルが乱暴に払いのける。ドルシア子爵の視線が、謁見の間の前に立っている衛兵に向いた。じろりと緑の瞳に見据えられ、彼らの体がびくりと揺れる。
「賄賂……本当か?」
ドルシア子爵が追及すると、衛兵達は狼狽えた。
「え、その……」
「ま、まぁ……で、ですが、彼女の逢瀬については口出し無用とあなた様が……」
おっしゃったではありませんか、という衛兵の言葉尻が消える。冷たい瞳のままドルシア子爵の口角が上がったからだ。火山噴火の前触れのよう。
「そうだったな。だったら、これも見て見ぬ振りをしろ」
底冷えのする声に衛兵が震え上がる間もなく、マリアベルは首を絞め上げられていた。
「な、なに……やめ……」
「虫唾が走る」
「ど、どうし……」
どうしてと言い切ることができない。ドルシア子爵に片手で首を掴まれ、体を持ち上げられていたからだ。マリアベルは呼吸困難なまま宙に浮いた足をばたばたさせる。マリアベルを見るドルシア子爵の瞳は、狂気を帯びて恐ろしい。いや、狂気を帯びた憎悪であろうか。
「娼婦なら娼婦らしく、きちんと客の意向を汲めばいいものを……お前のような女は絞め殺してやりたくなる。どうしてもと言うならこれでどうだ? 好きなだけ突いてやるぞ?」
そう言ってマリアベルの眼前にかざされたのは大振りのナイフだ。煌めく刃が凶悪である。
死ぬまでな……
ドルシア子爵にそう囁かれ、マリアベルはぞわりと総毛立った。その声が艶めき蠱惑的なだけに恐ろしさ倍増だ。本気だと分かる。ドルシア子爵の手が緩み、マリアベルの体がドサリと床に落ちると、彼女はゲホゲホと盛大に咳き込んだ。
「こ、こんな真似して……」
ただで済むと思ってるの、そう言おうとして、マリアベルは再び息を詰まらせた。冷たく鋭い緑の瞳をまともに見てしまったからだ。
「ひっ……」
言葉にならない声が漏れ、カタカタと歯の根が合わない。首から血が噴き出す幻影が見えた気がした。放たれたのは間違いなく殺気である。仮面の下の唇が再び弧を描いた。
「ハインリヒに言いつけるか?」
ふっと気がつけば、目の前に仮面を着けたドルシア子爵の顔がある。彼がかがんでマリアベルの顔を覗き込んでいたのだ。瞳と同じ冷徹な声が告げる。
「やめておけ。命が惜しければ大人しくしていろ。あの豚は相手の不貞を許しはしない。お前が私に言い寄ったという事実がバレればどちらも処刑だろう」
ふははと笑われ、マリアベルはぞっとする。どちらも処刑だと言いながら面白がっている節があるからだ。死ぬのが怖くないの?
「あ、あんたの言うことと私の言うことなら……」
陛下は私の言うことを信じるわ、ようようそう絞り出すも、鼻で笑われる。
「残念ながら第三者の証言があるぞ? そら、見てみろ。お前と反目している王妃の証言だ」
マリアベルを冷たく見下ろす王妃の姿に再度息を詰まらせる。怒りだけではない、その瞳には明らかに嫉妬の色が浮かんでいて、マリアベルの額から脂汗が噴き出した。いつものように言い寄られたと嘘をついても、王妃がその証言を覆すだろうということは想像に難くない。
両方処刑……まず間違いなくそうなるだろう……
押し黙ったマリアベルの耳に、ドルシア子爵の嘲笑が滑り込んだ。薔薇の芳香のように甘いのに冷ややかで、心臓を鷲掴みされたような恐怖を覚える。
「お前の賄賂程度ではどうにもならん。虎の威を借る狐も良いが、ほどほどにしろ? どうせ、砂上の楼閣だ」
ドルシア子爵が立ち上がり、身を翻す。漆黒のマントがばさりと舞った。
王妃とドルシア子爵が謁見の間の扉の向こうに消えても、マリアベルは動けなかった。そうっと自分の首に手を当てる。無意識の行動だった。
◇◇◇
「あの無礼者が!」
王妃エヴリンがドルシア子爵ことオーギュストを伴って謁見の間に入った時、ハインリヒは癇癪を起こしていた。怒り心頭で、仮面を着けたオーギュストの姿も目に入っていないようである。しかし周囲の者達の視線は逆に、足音一つ立てずに歩くオーギュストに釘付けだった。恐ろしいほどの存在感なのに、こそりとも音を立てない。身にまとうのはやはり静寂だ。
「陛下、どうなさいました?」
王妃エヴリンが、玉座にいるハインリヒの前に進み出る。
「どうもこうもあるか! あの傲慢な皇帝め! 余が目をつけた女をよこせと言いおった! ブリュンヒルデの代わりだとな! 誰がやるものか! ローザ・バークレアは余のものだ! 余の女だ! 誰にも渡さぬ!」
ハインリヒの叫びで、オーギュストの拳にぐっと力が入る。ハインリヒを睨みつける緑の双眸に憎悪の炎が踊ったが、それはほんの一瞬の出来事で、周囲の者達がそれに気づくことはなかった。
と、怒り心頭だったハインリヒの目がオーギュストを捉え、不審そうに眉をひそめる。
「……うん? そいつは?」
「お初にお目にかかります、陛下。私はジャック・ドルシア子爵でございます」
オーギュストが片膝をつき、臣下の礼を執る。オーギュストの所作はやはり驚くほど洗練されている。ハインリヒがにやりと笑う。
「ほほう、そちか。領地で疫病が流行り登城できないと、二度も余の要請を蹴ったのは」
「申し訳ございません。流行病を王都に持ち込み、陛下にもしものことがあってはなりませぬゆえ。ご容赦下さい」
「良い。詫びの品が気に入った。許してやる。余の前で仮面をかぶる無礼もな。余は寛大であろう?」
「ありがたき幸せ。恐悦至極に存じます」
「して、今日はなんの用で参った? 娘の件か? 余の側室となることは決定事項だぞ?」
ねちりと笑うハインリヒが言った。まさか反対はすまいな? そういった脅しを含んだ笑みだ。オーギュストもまた笑う。
「ええ、そのようにうかがっております。ですから、献上品をお持ちいたしました。我が娘に目をかけていただき光栄です」
オーギュストの従者が荷物の覆いを取ると、金銀財宝の山である。周囲にどよめきが走る。ハインリヒでさえ度肝を抜かれたことは言うまでもない。まるで大国の王からの献上品のようだ。贈り物の素晴らしさに誰もが声も出ない。
これをたかが子爵家が? ありえない……
ハインリヒはそう思うも、ドルシア子爵が商人の成り上がりだとは知っている。そう、商人の成り上がりだ。卑しい血の持ち主だ。それが、自分の機嫌を取るためにここまでしたのだと思えば気分がいい。ハインリヒは上機嫌で笑った。
「ほほう、光栄、とな。ははは、流石やり手の商人! 気に入ったぞ!」
ハインリヒがそう言って膝を叩いて笑った。
オーギュストもまたうっすらと笑う。
褒めているように見えて、貴族が耳にすれば、蔑んでいると誰もが気がつくだろう。貴族が商人の真似事をすることは恥だと言われているのだから。「やり手の商人」と言われて喜ぶ貴族はいない。貴族は商人から利益を吸い上げ、その恩恵にあずかっていながら、いつだって商人を見下す。こんな風に卑しい血だと蔑むのが常だ。
オーギュストが話題を変えた。
「ところで陛下、先程酷く荒れておいででしたが、何かお気に障ることでもありましたか?」
「ああ、ヴィスタニア皇帝もまたローザ・バークレアを側室にしたいと言い出して聞かない。あれを連れ帰るまではここに居座るとまで言いおった。実に腹立たしい」
「ははは、それはそれは。ヴィスタニア帝国にまで娘の美しさが伝わるとは……」
ハインリヒがじろりと睨めつける。
「……よもや、あちら側に渡す気ではあるまいな?」
「とんでもございません。でしたら、そうですね……私が皇帝陛下を説得いたしましょうか?」
「そちが?」
「ええ、もし私にこの一件を任せていただけるのなら、私がリンドルン王国の使者としてヴィスタニア皇帝と直談判し、二ヶ月後に行われる建国記念祭の時には、陛下の隣に我が娘の席を用意してご覧に入れましょう」
陛下の隣の席ということは、寵姫になるということと同義である。ハインリヒはにやりと笑った。欲の深い人間は分かりやすくていいというわけだ。
「ほほう? なかなかの野心家だ。単なる側室ではなく寵姫の座が欲しいと言うか」
「我が娘にはそれくらいが相応しいかと……」
「良い、許す。やってみよ。もし見事ヴィスタニア皇帝の要求を退けられたら、褒美をやる。ただし……失敗した時は分かっておるな? 縛り首だ。お前の娘を差し出す代わりに、お前の首をギデオン皇帝にくれてやるから、そう思え?」
「御意」
命をもらうと言っても動揺もしないオーギュストを、ハインリヒは面白がった。
「これはまた随分な自信だ。失敗するとは考えないのか?」
「……必ず成功しますので、無用の心配にございます」
ハインリヒは膝を叩き、豪快に笑った。
「ははは、気に入ったぞ! そうとも、臣下とはこうあるべきだ! 余のために命すらも喜んで差し出す。こうでなくてはな。お前達もそう思うであろう? そうだ、ローザ・バークレアを招いた晩餐会には、そちも娘と一緒に参加するといい。余が許可する」
「お待ち下さい、陛下!」
ハインリヒの言葉を遮るように、バアンと謁見の間の扉を開け放ったのは寵姫マリアベルだ。たくさんの兵士、否、荒くれ者達を連れている。マリアベルが悪事を働くために独自に雇い入れた私兵だった。
マリアベルが震える指をオーギュストに突きつける。
「そ、その者は私に無礼を働きました! 騙されてはなりません!」
「無礼?」
ハインリヒが眉をひそめ、マリアベルの指示に従った荒くれ者達がオーギュストを取り囲もうと動いた。オーギュストに反論する隙を与えまいと、殺せとマリアベルの赤い唇が命じる。とにかく葬ってしまおうという腹づもりらしい。
「陛下の御前で、なんと無礼な! 下がりなさい!」
王妃エヴリンが叫ぶも、傍若無人なマリアベルに届くことはない。立ち上がったオーギュストを荒くれ者達が取り囲み、オーギュストの顔に酷薄な笑みが浮かぶ。馬鹿がと、そう言いたげに。
剣を手にした荒くれ者達がオーギュストに襲いかかり……彼らの首が撥ね飛んだのがその直後だ。オーギュストが振るった剣のことごとくが、襲いかかった者達の首を撥ね飛ばす。まるで疾風のよう。首を失った胴体がゆらりと傾ぎ、ドサリと倒れ伏す。一瞬にして謁見の間が血の海だ。
しんっと場が静まり返り、悲鳴は後からやってきた。謁見の間に控えていた侍女達の悲鳴である。マリアベルに至っては顔面蒼白だ。赤い唇はわなわなと震え、言葉を紡ぐことができない。
周囲の騒ぎを沈めるように響いたのがオーギュストの声であった。
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