魔法道具はじめました

浜柔

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第八〇話 ささやかな願い

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「ニナーレが力説しただけのことはあるねぇ」
 風呂桶の縁に顎を乗せながらルゼがほへーっと声を漏らした。
 朝風呂がルゼの日課になるまでに風呂場の完成から何日も掛からなかった。少し前から朝の湯浴みが日課だったこともあって、変化は自然と訪れたのだ。
 身体を伸ばして湯に浮かべられる程に大きな風呂桶にはやり過ぎた感は有るものの、後悔はしていない。「どうせなら大きなものにしよう」と言った時の累造の微妙な顔を想い出すと今でもクスッと笑いが込み上げる。その顔の理由があの時はよく判らなかった。
 それも今なら判る。面倒が有るのだ。木製の風呂桶は日頃の手入れを怠ると直ぐに使い物にならなくなると言う。長く使うためには毎日入浴後に水を抜き、汚れを落として乾かすのである。毎朝の風呂の後のルゼの仕事だ。朝風呂を浴びるのがルゼだけなので必然的にそうなってしまう。そして風呂桶が大きいために時間が掛かるのである。
 そんな具合に手入れが大変ではあるものの、その手間を惜しまない程に朝風呂は魅力的である。手間が掛かるために余計に愛おしくもなる。以前はもっと手間の掛かる馬の世話をしていたのだから、できないような手間ではないのだ。
「ますますここから離れ難くなっちまったねぇ」
 ケメンと結婚してしまえばゴッツイ家で暮らすことになる。しかし、雑貨店は今や時代の最先端を行く設備を備えている。コンロ、冷房、暖房、温水、冷水の魔法道具はこの雑貨店にしか存在しない。単なる水でも、水道用として共有的なものこそ有るものの、個人が自由に使える魔法陣は雑貨店に有るもののみなのだ。既に今の環境に慣れてしまった今、時代を逆行する生活に入りたいとは思えない。
 累造やケメンに頼めば用意してくれるだろうが、秘密を守る意味で今までゴッツイ家用さえも用意していなかったのだ。ルゼが嫁ぐ程度のことでその点を疎かにしてしまったのではゴッツイ家に申し訳が立たない。
 そこにこの風呂である。同じものをゴッツイ家で用意して欲しいなどとはとても言えたものではない。幾ら親しい間柄だと言っても、そこまでの我が儘はどう考えても行きすぎだ。だから嫁ぐとなれば風呂ともお別れである。
「いっそ、ケメンをここに住まわせようか?」
 自問した。以前、テンダーに冗談めかして言ったことだ。だが「駄目だ」と即座に否定する。ケメンがここからゴッツイ商会に通うのはどう考えても時間の無駄が過ぎる。そう言い切れる程にケメンは忙しい。結婚が先延ばしになっているのも、その忙しさ故なのだ。
 ただ、それらの考えも結婚するのが前提の話だ。ケメンと婚約したものの、時間が経つにつれて本当に結婚したいのか自分自身が疑わしくなっている。プロポーズを受け入れてしまったのも、傷心している間ずっと傍に居てくれたことで絆されてしまっただけなのではないかと考えてしまう。何となく、あれは単なる気の迷いだったのではないかとも思えてくる。それでも結婚するとなればケメン以外に考えられないのも確かであるし、ケメンに望まれれば断る理由も見つからない。
 しかしである。今の生活がずっと続けば良いと願わずにいられない。累造、チーナ、ニナーレが傍に居て、雑貨店も繁盛している。満ち足りていると思う。このままの日々がずっと続くのであれば最高に幸せだろう。

 一時の幸せを堪能していても時間は過ぎる。あまり長湯し過ぎるとのぼせてしまうので、名残惜しく感じながらも風呂から上がることにした。
 風呂桶の底に有るコルクの栓を抜いてお湯を抜き始める。お湯が抜けるまでの時間も使ってブラシで風呂桶を磨いていく。磨き終わったら一通り水で濯ぐ。今一度シャワーを浴びてから服を着て、温風乾燥で髪や風呂桶を乾かして朝風呂はお終いである。
 シャワーも温風乾燥も風呂用に累造が作ったものだ。シャワーは温水の出方を変えただけで、温風乾燥は暖房の応用だと累造は言うが、そんな発想がほいほい出てくるのが不思議だ。その点を問えば、元の世界に有った物を再現しているのだと言った。随分便利な道具が揃っている世界だと思う一方、今の生活が累造に不便を強いているような気がした。それを更に問えば、「『ネット』に繋がらないのは不便ですけど、今の生活に不満は無いですよ」とあっさりしたものだった。「ネット」が何かは判らないが、不満が無いのならそれで良い。

 風呂を上がれば直ぐに朝食である。準備、入浴、後片付けで朝風呂には二時間近く掛かる。それを逆算する形でルゼはセウスペルの世話をしていた頃に近い時間に起きるようにもなった。それもこれもちょっとした幸福感を味わうためである。これにはチーナに少々呆れられてしまっているが、風呂の誘惑には抗えないのだ。
 逆にチーナを朝風呂に誘ってみたが、あっさりと断られた。朝食の仕度で忙しいからだと言うが、嘘だと睨んでいる。少しでも長く寝たいだけなのだ。チーナに夜更かし癖が付いてしまったくらいのことは先刻承知なのである。最近の朝食の仕度が前日に作り置いた物を暖めているだけになりつつあるのも夜更かしするためだろう。そうまでして夜更かししたい気持ちは判らないが、理解はできる。ルゼにとっての朝風呂と似たり寄ったりなのだ。
 朝風呂の時間には取り留めもないことを考えたり想い出したりしているが、けして嫌ではない。むしろ楽しい。この時間に想い出すのは楽しかった思い出が殆どだ。だからますます朝風呂を止められない。
 その朝風呂後の仄かな幸福感に冷や水を被せる話は朝食の時に持ち上がった。

「ニナーレ、浮かない顔だけど、何か心配事でも?」
 問い掛けたチーナでなくともニナーレの表情が暗いのは判る。ルゼも累造もじっとニナーレの返事を待つ。
「春には帰郷しなければならなくなりそうですの」
「故郷で何か有ったの?」
「何もありませんの。むしろ、無いから帰らなくてはいけないのです」
 ニナーレが溜め息混じりに答えたが、聞いている側には意味が見えない。ルゼの眉間に皺が寄った。
「何もないならここに居ればいいじゃないか」
「無いのはお金ですの。帰りの旅費を考えると、四月には出立しなければなりませんの」

 昨晩、ニナーレは所持金の計算をした。ルゼには家賃こそ支払っていないが、食費として毎月三万ツウカを支払っている。加えて、魔法の研究に使う鉛筆や板などは全て自腹だ。収入が無いために所持金は日々目減りする一方なのである。それを改めて思い知って愕然としたのだった。
 それでも予定より長く滞在している。元々旅費として持っていただけであれば今頃はもう帰郷していなければならなかっただろう。デージが残した資金が有ったことも予定より長く滞在できている理由である。
 けして裕福ではない神殿に金銭を無心するのも気が引けている。光の魔法陣が成功した後も雑貨店に滞在しているのは、殆どニナーレの我が儘のようなものなのだ。研究は帰郷した後でも続けられるのだから、神殿の業務のこなしつつ研究を続けるのが本筋だろう。本来であれば神殿のために収入を得る立場でありながら、ここで呑気に暮らしている方が変なのである。
 食費の額はニナーレが住み着いた時点の食生活の水準に合わせたものである。食事の大半を売れ残りの商品にせざるを得ない状況だったことから金額が低く抑えられたのだ。食事の水準が上がった今でもその金額は据え置かれている。

「食費が問題なら、入れなくてもいいんだぞ?」
 ルゼのまなじりが下がり、手が小刻みに震える。
 ルゼはニナーレと別れる日が来ることなど考えもしていなかった。いや、考えようとしていなかったのだ。
 一人当たりの食費が一ヶ月に一〇万ツウカを優に超える今となっては三万ツウカ程度の金額は誤差のようなものだ。食費を入れて貰う必要も無い。
 だが、ニナーレがそれを良しとしない。
「そこまで甘えてしまっては神官長に叱られてしまいますの」
「その程度のこと! このまま帰したらあたしが恩知らずになっちまうよ!」
 ルゼの叫びに一同がピクンと反応した。その位大きな声だった。
 神殿は人々から施しを受けて運営されているのではない。冠婚葬祭において祝福を与えたり祝詞を唱えたりと言ったことを通じて、人々の心に平安を与える対価として金銭を受け取っているのだ。ニナーレとしては僅かであっても対価を支払わない訳にはいかない。
「意味が判りませんの」
「ニナーレのお陰でセウスペルを見送ることができたんだ。半年やそこら住まわせた程度じゃ釣り合わないよ」
「あれはセウスペルの思いが強かったからであって、私の力じゃありませんの」
「それでもニナーレが居たからには違いないんだよ」
 ルゼの顔が歪み、雫が頬を伝う。セウスペルの魂が見えたのはニナーレの祝詞がきっかけだったのは疑いようが無いのだ。僅かな金銭には換えられない経験だった。
 しかし、それも言い訳だ。本心は別にある。
「お願いだから、嫌でなければここに居てくれ」
 ニナーレと別れたくないだけだ。えぐっ、えぐっ、とルゼのしゃくり上げる声だけが暫いた。
「ニナーレさんが商売をすればいいんじゃないでしょうか?」
 黙って聞いていた累造が口を開いた。累造としてもニナーレが居なくなるのは困る。特に醤油や味噌だ。そう言う意味ではニナーレの滞在費を負担するのも吝かではない。その程度は今の累造には安いものである。だが、ニナーレが望まないのであればそれも無い。それ故に他の解決案を模索していたのだった。
 一同がキョトンとする中、累造は続ける。
「鯵の開きみたいなのは日持ちしないから駄目ですけど、味噌や醤油、煮干し辺りの食品とか、工芸品とかなら雑貨店の販売品目に加えられるんじゃないでしょうか?」
「商売、いいじゃないですか!」
 チーナが重い雰囲気は嫌だと言わんばかりに景気よく同意した。
「ですが、工芸品は難しいですの」
 どんな工芸品が有るのかをニナーレは熟知していないし商売などしたことが無い。だから少し及び腰なのだ。
「そうだ。俺の想像が間違ってなければ、漆器なんて有るんじゃないですか?」
「確かに漆器は有りますの」
「それじゃ、その辺りから始めてみませんか? 最初の幾つかは俺が買いますので」
「はあ」
「大抵の物ならあたしが売ってやるよ!」
 今さっきまで泣いていたことなど無かったかのように、ルゼはニカッと良い笑顔になった。
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