魔法陣は世界をこえて

浜柔

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第八四話 わびぬれば

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「あれはお皿?」
「そうだよ」
 常連客が指し示したのは楯のように飾られた一枚の皿だ。テンダー謹製の台座に鎮座している。朱と黒に彩られ、つやつやと光を反射する様子は人の心を惹きつける。
「漆器と言って、海の向こうの国で作られた品だよ」
「海の向こうって本当なの?」
「証明はできないから話半分に聞いていてくれて構わないよ」
 訝しげに問う常連客の言葉をルゼはあっさりと受け流した。誰も知らない国なのだから、説明したくてもできない。
「だけど、見ての通りに品物は本物さ」
「そうね。こうして見るだけで良い品物だと感じるわね。高いんでしょ?」
「高いよ。あれ一枚で五〇万ツウカだからね」
「五〇!? とてもじゃないけど買えないわね。買ったとしても怖くて使えないわ」
「あたしも同感だ。だからあんな風に部屋に飾るのがお勧めさ」
「本当にね」
 この高級漆器に限っては、この品物自体を売るつもりで飾っているのではなく、客の目を引くために置いている。五〇万ツウカと言う値段も少々吹っ掛けたものだ。仕入れ値の約五倍。売れたら売れたで儲けものと言う訳である。
 一般的な労働者の月収が約四〇万ツウカである以上、仮に二〇万ツウカで売ったとしてもそうそう買える客は居ない。恒常的に売れなければ収入が安定せず、ニナーレが資金難に陥る可能性が有る。それでは意味が無いので、売れるかどうか判らない品物は中心に置けない。敢えて陳列しているのは、高級、中級、低級の三種類の商品が有った場合、中級品の売り上げが伸びる傾向が有るためである。
「普段に使うのなら、こっちの三〇〇〇ツウカのがお勧めだよ。来客用の取って置きだとこっちの三万ツウカのものもいいよ」
 一〇倍の値段の違いは一目瞭然、漆の重ね塗りの回数の差である。艶やかさが違い、並べてみれば誰にでも違いが分かる。
「そうねぇ。だけど、私には安い方でも取って置きになるわね」
 欲しいけれど手が出ない。そんな客の逡巡をルゼは感じ取るが、無理に売ったりはしない。刹那限りでは店が続かない。
「食器じゃないけど、今一番のお勧めはこの竹で出来た笊だよ。洗った野菜の水切りなんかに最適だ」
「それも綺麗な品物ね。幾らなの?」
「大きい方が二〇〇〇ツウカで小さいのは一〇〇〇ツウカだよ」
「丁度笊の買い換え時だから、その大きい笊を一枚貰うわ」
「毎度あり」
 漆器に目を留めた客に商品を勧めると、その多くが何かを買っていく。漆器や竹製品の販売の出だしは良い。だが、ルゼには不安も付き纏っている。虹の橋雑貨店で売るだけでは長続きしないのが判っているためだ。
 二〇〇〇ツウカでの笊の利益は一〇〇〇ツウカである。仮にこれだけでニナーレの滞在費を捻出しようとすると、一ヶ月に一〇〇枚程度は売らなければならない。しかし、頻繁に買い換えるものではないので、レザンタの、それも虹の橋雑貨店近辺の需要だけでは売れる数も限られてしまい、多くの収入は見込めない。漆器等を加えてもニナーレの滞在費用の数ヶ月分が精々だろう。だからルゼは少々賭をしている。商品が同業者の目に止まるのを期待しているのだ。同業者に卸すようになれば、更に数ヶ月分、或いは数年分の滞在費用を得ることが可能だ。
 同業者の目に止まらなかったとしても、数ヶ月の猶予が出来る筈だから、その間に商品を増やすなり、居候を決め込むようにニナーレを説得するなり、ニナーレが収入を得る別の手段を見つけるなりすれば良い。いざとなれば、ルゼ自ら他の町に漆器を売りに行っても良い。きっと何とかなる筈だ。
 そう自分に言い聞かせつつルゼは販売に励む。
 この件でゴッツイ商会を頼らなかったのは商いが大きくなりすぎるためである。雑貨のような少額商品については卸売りの立場であるゴッツイ商会を通すと、どうしても商いが大きくなる。仕入れに限りがある状態で商いが大きくなり過ぎては、常に仕入れに追われて気が休まる暇が無い。そうなってはニナーレにとっても本末転倒になってしまうのである。

 そんな不安は長引くこともなく、数日後には新市街の雑貨店から引き合いが有った。卸値は虹の橋雑貨店での販売価格の八掛け、即ち八割の値段で、卸せる個数にも限りがあることをルゼはビシッと提示したつもりだったが、相手の方は拍子抜けした様子だった。独自ルートでの仕入れであれば店舗販売も卸値も同じ値段であることも珍しくないため、如何に値引きさせるかを思い巡らせていたのだろう。あっさりと商談は纏まった。
 これで更に数ヶ月分はニナーレの滞在費用が賄える筈である。
 この売り値の八割とは、ニナーレの受け取る金額に等しい。虹の橋雑貨店での売り上げに関しても八割がニナーレの取り分となる。ニナーレはその中から仕入れ費用を支払うのだ。
 利益率によってニナーレの収入が大きく左右されるため、利益率が十割以上の商品を中心に売る予定としている。

  ◆

 ルゼが漆器などの販売に勤しんでいる頃、累造は一つの魔法陣の実験に取り掛かっていた。
 分厚い紙束となっている魔法陣を起動をすると、ごっそりと魔力が吸い取られる。一瞬意識が飛び掛けた。危ういところで気絶は免れたが、刹那で冷や汗が出て呼吸が荒くなってしまった。息を整えつつ心も静めていく。
 魔法陣の起動に要する魔力は魔法陣の大きさに依存する。今回の魔法陣は、広げると一〇メートル四方にもなろうかと言う紙束で、起動に必要な魔力も半端ではない。それだけ複雑な魔法陣なのである。複雑な魔法陣を描くには精密な描画が不可欠だが、精密に描こうにも現状では適した筆記用具が無いためにそんな大きさになる。
 気を取り直して魔法陣を覗き込むと、そこに映っていたのは見慣れた場所だった。魔法の成功に安堵しつつ、最適な場所を探してボリュームを動かし、「ここだ」と思った場所で一つのスイッチを入れた。

  ◆

「ただいまーっ」
 以前であれば、この直ぐ後に「今日のおやつ何ーっ?」と続けていた。だが今はその言葉を発することは無い。返事が無いのが判っているのにそんな問い掛けをしては虚しいだけだ。「ただいま」の言葉すら誰も居ないのを確認する儀式のようなものに成り下がってしまった。それでも尚帰宅の挨拶を続けているのは微かな希望に縋っているためである。
「疲れたー」
 リビングのソファにどっかりと座り込み、背もたれに頭を預けて天井を仰ぐ。友人達が見たら年寄り臭いと言うだろうか。或いは同情を寄せるだろうか。どちらでもあまり変わらない。友人達の心情を忖度する余裕など無い。間川りいなはそれ程までに疲れていた。
 兄の累造が消えたあの日、直ぐに母にそのことを伝えた。しかし「何言ってるのよ。変な子ね」と相手にされなかった。友人との約束をすっぽかし、ただ累造が残した魔法陣に呼び掛けることしかできなかった。だが、幾ら呼んでも応えは返ってこなかった。
 日が暮れても累造が帰宅しないと、母はまず怒り出した。夜が更けてくると、次第にそわそわし始めた。翌日には落ち着きを無くし、夜には完全に狼狽えていた。考えられる限りの相手に電話をして累造を探す。当然のように誰からも色よい返事を得られなかった。
 その翌日には警察に捜索願を出したが、警察が積極的に捜すことはないと聞かされたらしく、意気消沈して帰ってきた。
 更に翌日、両親は「自分達で捜そう」とチラシを作り始めた。チラシが出来上がると駅前や繁華街で配る。それにはりいなも駆り出された。累造が消えるのを目の当たりにしたりいなにとっては徒労としか思えない行いだったが、真剣な両親を前に断るなどできなかったのだ。そして幾つかの情報が寄せられたが、全て情報提供者の見間違いか悪戯だった。
 近場でチラシを配っても効果が無いと判ると、両親は次第に遠くの街でチラシを配るようになった。週末には泊まりがけだ。そうして全国の大都市でチラシを配り続けている。クリスマスの今日も頑張っている筈だ。
 だが、そんな日々を過ごしていて肉体的にも精神的にも疲労しない筈がない。両親は鬱ぎ気味になり、時折喧嘩もするようになっている。このままでは家庭崩壊しかねない。
 ふとテレビを見ると、丸い枠に古めかしい建物の天井が映っている。きっと消し忘れたのだ。暫く眺めてみたが、ずっと同じ映像が続く。おかしな番組を放送しているものだは思ったが、消す気力も湧かない。音声が無いため、目を向けなければ邪魔になりもしないので放置して構わないだろう。右腕で目を覆って視界からテレビを遠ざけた。
「お兄ちゃんの馬鹿。お兄ちゃんが悪いんだからね」
『よく判らないけど、すまん』
「謝るくらいなら、早く帰って来てよ」
『それが今はまだ帰れないんだ』
「何でよ?」
『色々理由が有って?』
「何よ、それ……。え? お兄ちゃん!?」
 りいなは跳ね起きた。周りを見回しても累造の姿は無い。一体自分は誰と話していたのか。
『おー、りいな、お兄ちゃんだ』
「ど、何処!?」
 幻聴かとも思ったが、耳朶を打つ声は本物にしか聞こえない。
『こっちだ、こっち』
 りいなが声のする方を振り向くと、テレビに映った丸い枠の中に累造の顔が映っていた。
「お兄ちゃん!」
『久しぶり。元気にしてたか?』
「もう! 『元気にしてたか?』じゃないよ! 何でもっと早く連絡を……って、何でテレビの中のお兄ちゃんと話せるの!?」
『これはテレビに映ってるんじゃないんだ。そう見せかけた方が驚かないと思ったからこんな感じにしてみたのさ』
「うん?」
『それも含めて、何が起きたかを話すよ』
 累造があの日に起きた事、魔法の事、今までの生活を掻い摘んで話した。
「そう。信じられないけど、ほんとなんだね」
『簡単に信じるんだな』
「そりゃ、こうして話をしてるんだから、信じない訳にいかないでしょ」
『さすが我が妹だ』
 累造がうんうんと頷くと、途端りいなの目が吊り上がった。
「もう! 『さすが』じゃないよ!」
 それからは愚痴を交えての説教である。兄ののほほんとした態度を改めるべく、今までのことを懇々と言って聞かせた。

  ◆

 累造はりいなと話し終わると魔法陣を停止させた。いや、邪魔になるので部屋の隅に移動させようとして停止させてしまった。紙束を曲げすぎてしまったのである。魔力の問題で明日にならなければ再度の起動は無理だ。もう少し慎重にするべきだったと後悔した。
 注意力が散漫になっていたのも気疲れしたせいだ。りいなに散々愚痴を聞かされて家族が危うい状態に陥っていたことも知った。両親宛のメッセージをせがまれれば当然了承する。しかし、何度もリテイクさせられれば疲れる。「気持ちが籠もってなーい!」と言われてもどうしたものか判りはしない。変なところに拘る妹である。一体誰に似たのかと考えずにはいられない。
 その少々不満そうにしながらもりいなが可を出したメッセージはりいなの携帯電話に動画として収められている。
「累造君、お昼ですよ」
「どえっ!?」
 変な声が出た。他に誰も居ない筈の部屋で突然直ぐ傍から声がすれば誰でも驚く。一体チーナは何時から居たのだろうか。
「直ぐに来てくださいね」
「はい」
 踵を返したチーナを累造は直ぐに追う。
 食堂までの道、若干俯き気味のチーナは何も言わなかった。
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