痛い瞳が好きな人

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 次の休みの朝、まだ寝ていたのに、スマホの着信音に起こされた。
 ピンコンピンコンとひっきりなしにうるさいので、おそらくM女友達とのグループチャットだ。重い瞼を開けて確認すると、『今年の錘のクリスマスパーティに参加するか』で盛り上がっているようだった。『俺は今年は不参加』とだけ書いて、スマホをマナーモードにしてまた布団を被って目を閉じる。
 が、5分もしないうちに今度はチャイムの音に起こされた。
 カナメが来るのはいつも昼前だから、まだ時間はあるはずだ。荷物か何かだろうかと、寝間着のまま玄関ドアをあけると、

「おはよ」

 と当たり前みたいな顔をして、カナメが上がってきた。
 珍しく、上下スウェットにマスク姿の彼は、よく見ればうっすら顎髭すら生えているようである。目の下の隈も深く、疲れているのがその猫背の姿勢にすら見てとれた。

「……え」
「悪い、今日は仕事の目処立たないから早めに来た。寝足りないならまた寝てて」

 寝癖のついた俺の頭を撫で、これまた珍しく持ってきた大きなバッグの中からノートパソコンを取り出してソファに座るカナメに、やっと目が覚めた。

「静かにやるから」
「あー……。コーヒーいるか?」
「淹れてくれるなら嬉しい」

 注ぎ口の細いヤカンに水を入れ、コンロの火にかける。相変わらず料理はしないからシンク下の収納には調味料なぞ一つも入っておらず、コーヒーのドリップパックとカップだけだ。最近はそこにカナメ専用のマグカップも並ぶようになった。
 二人分を取り出し、パックを開けてカップにセットする。ドリップバッグ式というのだったか、一人暮らしを始めて家でコーヒーを飲むようになってから、『美味しい淹れ方』を調べて何度も練習してきた。自分で言うのもなんだがインスタントの割には美味しく淹れられる自信はあるし、カナメも「美味しい」と言ってくれる。それが嬉しくて、コーヒー用のミルクや砂糖のグレードを上げたのは、彼には秘密だが。冷蔵庫からそれらを取り出し、カップの横に待機させた。
 湯が湧くまで暇なので、スマホに着信が無いか確認しようとベッドの方を振り返ると、充電コードを挿したままの俺のスマホをカナメが使っていた。

「こら。やめろって言ったろ」

 スマホを取り上げると、やはりカレンダーアプリが開かれていて、予定を入力しなくて良かった、と思ってしまう。

「勝手に見るな」
「休みの確認してるだけだ。あんたに予定のある日に来たら無駄足だろ?」
「え、予定あれば来ないのか?」

 そういえばと聞き返したら、カナメは何だか微妙な表情になった。

「そりゃ来ないけど。……けど義久は、その……友達、いないだろ」

 いつも俺の休日の予定が真っ白なのを気遣うように言われて、その目が憐れみを帯びているのだと気付く。
 ああ、つまり。
 急に理解した。彼がこうしてここに来るのは、俺が『カワイソウ』だからか。
 振った上に急に一人ぼっちにしたら可哀想だから。だから、もう俺に興味なんか無いくせに、友達として俺を見守っているつもりで。
 腹の底が、怒りで煮えくり返る心地がする。──そんな同情は、いらない。

「帰れ」

 静かに玄関を指差す。

「気にしてんだったらごめん。でも」
「帰れ」
「俺、別に友達少ないのが悪いとか思ってないし。俺も来れる日多い方が楽しいし……」
「俺は一人でも楽しく過ごせる」

 コンロの火を消しに戻り、もう一度振り返って顎で玄関を差した。

「帰ってくれ」
「義久、ごめん。でも本当、傷付けるつもりじゃなくてな?」

 困ったように半笑いで、ノートパソコンを閉じて立ち上がったカナメがこっちに寄ってこようとするのを片手で制した。

「傷付いてない。連絡すれば遊べる友人くらい居る。お前が来るから空けてただけ。……でももうお前、いらない」
「え?」
「友達ならもう十分いるんだよ。これ以上要らねえ。だからもう帰れ」
「なあ義久、ちょっと落ち着いて」

 にじり寄ろうとしてくるのを、忌々しく感じて舌打ちした。こんなにカナメに嫌悪を感じたのは初めてだ。

「俺が外出てる間に、荷物全部持って帰れ。二度と来るな」

 帰ろうとしないで困った様子のカナメに焦れて、だったら俺が、と外に出るつもりで靴を履きに玄関に向かおうとするのに、後ろから手首を掴まれ阻まれた。

「義久」
「触んな」

 唸るように吐き出した言葉が、自分でも驚くくらい低く響いた。いつもなら触れられて嬉しいはずなのに、全く鼓動が跳ねない。それどころか、気持ち悪いとすら感じる。

「なぁ、あんたまだ着替えてないじゃん。外行きたいなら着替えて一緒に」
「お前、俺が言ってること聞こえないのか?」

 ここまで言っても笑顔を崩さないのが不気味で、手を振り払った。即座に伸ばしてくる手から逃げようと数歩後退ると、ようやくカナメが笑顔を作るのをやめた。

「義久、俺は馬鹿にしたわけじゃない」
「どうでもいい。さっさと帰ってくれ」
「あんたこそ、俺の話聞いてよ」
「聞く気無いから。帰って」

 目も合わせずそれだけを繰り返す。
 頭にくる。楽しいのだと思っていた。カナメは自発的に来ているのだから、彼も俺との時間を楽しんでいるのだと。気を遣わせているなんて思ってもみなかった。それもこれも、きっと俺が優柔不断な態度をとるせいだ。俺がさっさと諦めて身を引いていれば、捨てるのに罪悪感を持たずに済んだろうに。そんな事にも気が付かず、一人で浮かれていた俺の馬鹿さ加減に。

「こっち向いて」

 顎を掴まれ、身長差のあるカナメを見上げるように上を向かされる。こういう事をされて、あからさまに赤くなったりするから、慌てたりするから、まだ自分に気があるのだと気を遣わせたのだろう。憐れまれたのだろう。悔しさに気が狂いそうだ。
 それでも無表情に、彼の手を叩き払った。これ以上無様を晒したくない。

「いいから帰」
「分かったから。ちょっと、黙って。キレそう」

 払った手と逆の手に、口ごと頭を掴まれて、ガン、と強かに金属製の玄関ドアに押し付けられた。穏やかな口調と裏腹に、カナメが俺を睨む目に温度が無い。
 ぞわ、と鳥肌が立つ。痛みに熱が上がりそうになる。嫌だ。怖い。この程度で崩れそうな脆い理性が嫌なのに。
 俺を見る瞳の奥に、まだ残り火が燻っている気がしてたまらない。
 彼を、ご主人様としてだけ見ていたかった。サドとマゾ、それだけの関係でいられれば、きっととても幸せだった。こんな気持ちにならずに済んだ。叩かれたい。殴られたい。欲望の捌け口としてしか見て欲しく無い。いいや、俺の全部を愛して欲しい。自分の中の矛盾する感情が爆発しそうで、歯を噛み締めたのに目が潤む。
 逃げようとしても、カナメは片手で掴んだだけで俺をそこに縫い止める。腕力だけじゃなく、その睨む目の殺気で足が竦んで動けない。

「……今日は帰る。けど、荷物は置いたままにするし、来月の4日にはまた来る。いいな?」

 首を横に振ろうとするのに、顎骨が軋みそうなほど強く掴まれていてかなわない。

「俺だって、あんまり理性的な方じゃないんだって」

 知ってるだろ? と同意を求められても、肯定も否定も出来ないのだが。カナメの手がガッチリと押さえつけてくるせいで、鼻からの呼吸ですら危うい。

「逃げたら追いたくなる。……俺の言いたい事は分かるな? 逃げないな?」

 至近距離で、瞳孔開き気味の目に見つめられるのは結構、怖い。ゆっくり縦に首を動かすと、満足げに微笑んだカナメの瞳が、不気味に半月型に歪んだ。

「ごめんな。今日は帰るから」

 俺を解放すると、カナメは踵を返してちゃぶ台の上のノートパソコンをバッグに仕舞い、身支度を整えて俺の前を素通りして玄関で靴を履く。

「またな」

 一度振り返って、カナメは何事も無かったかのようににっこりと笑って、玄関から出て行った。
 彼の姿が見えなくなってやっと、足から力が抜けて、その場にへたりこんだ。訳が分からない。カナメが何をしたいのか、何を考えているのか、さっぱり分からない。それが無性に怖くて。それなのに、彼の「またな」という言葉が、嬉しいのか怖いのか、俺にも分からない。分からない事だらけで、考えてもどうしようもなくて、結局考えるのを放棄して、もう一度ベッドに戻って寝る事にした。
 きっと俺にはどうにもできない。この関係をどうにか出来るのは、その権利を持つのは、カナメだけなのだ。







「悪い、待ったか?」
「その言い方、気持ち悪いからやめてくれ」

 クリスマスイヴ。キラキラと反射する素材と赤、白、緑に飾られた昼過ぎのショッピングモールはカップルと家族連れでごった返していて、幸せムード満点だ。その中でそんなセリフを男に掛けられて、げんなりする。

「つってもなぁ……」

 他になんて言えばいいんだよ、とぶつくさ言う鈴生を肘で小突いて、待ち合わせたベンチから移動を始めた。
 仕事場にはツナギにロングダウンを着てくるような服に興味のない鈴生も、今日ばかりはPコートにデニムの出で立ちで、パンツの太さが野暮ったい以外は至って普通のオッサンだ。といっても、俺も厚手のプルパーカにダウンベストとデニムだから、細かいシルエットで比べなければ見た目は同じ程度の普通のオッサンなのだが。
 何を着ても似合うモデル様とは世界が違うよな、やっぱり。頭の片隅に湧いて出た考えを、ため息で吹き飛ばした。

「どこか目星あるのか?」
「さっき見た感じだと、この先の右側に綺麗めな服置いてるとこあったから、そこで聞いてみよーかと」
「さんきゅー」

 普段は広すぎると感じる通路も、今日ばかりは進むのすら牛歩並みで、小さな子供の足を踏まないように、女性のバッグの金具を引っ掛けないように、と気を使いながら進むしかない。それでも鈴生の図体がでかいおかげでその後ろをくっついて行けば比較的楽に進める。一人でベンチまで行った時より早く、目当ての店に辿り着けそうだ。

「お前でかいから便利~」
「……それ彼女にも言われたし、昔、妹と母さんにも言われたわ」
「よっ、動く防壁!」

 暇だから鈴生をからかいながら進むと、ある箇所で全く進まなくなってしまった。店はもう見えているというのに、何故か人が詰まっていて全く動かず、しかもとても騒がしい。子供ではなく、もう大人だろう女性達がきゃいきゃいと騒ぐ声で、少々でなく耳障りだ。

「なぁ、どうなってんの」

 後ろから鈴生に確認を促すと、どうやら鈴生までもが騒ぎの中心を見て興奮するようである。

「た、……小鳥遊メロ! 小鳥遊メロがいる!」

 それでも鈴生なりに気を遣ったのか、小声で俺の肩を叩きながら報告してきて、背筋が凍る。何でこんなところに。休みを偽ったやましさから、見つかりたくないと思わず背を丸めて俯いた。

「えっ、小鳥遊メロ?」
「マジで? やだ、あたしも見たいっ」

 鈴生の言葉に、周りで進まない事にぶつくさ言っていた女性達が急に色めき立つ。横からも後ろからも、「早く進んでよ」と押されて苦しい。

「なぁ、他の店にしないか?」
「えっ、でも俺、サイン貰ってきたい……」
「分かった、行ってこい。俺は……あっちの店内案内板の所で店探してるから」

 おそらく彼女にプレゼントしたいのだろう、気持ちは汲んでやりたいのでさっさと踵を返して人波に逆らって案内板の方へ進んだ。静電式モニターのそれの隣には細い通路があり、その奥はどうやら喫煙室があるらしい。壁に寄りかかってスマホを見る暇そうなオッサンの群れの一員に加わると、不思議と落ち着いた。
 案内板の前には迷ったらしい老人達が列を作っていて、とてもじゃないが加われる雰囲気ではない。
 それにしても、驚いた。スマホでモールの公式サイトを探しながら、遠目に見える人だかりを眺めた。周りを女性達に囲まれているから、男の中ですら頭一つ飛び出るカナメはよく見えた。顔の造作すら覚束無い距離でも、なんとなくイケメンである事は察せる。ああいうのがオーラというのだろうか。
 カナメが、小鳥遊メロが、こうして女性達に集られているのを見るのは、そういえば初めてだ。テレビで見るのとは違い、目の前にしてやっと、彼が『人気モデル』なのだ、とちゃんと理解した気がした。彼と外で一緒に居ても、意外と声を掛けられたりすることもなかったから、芸能人としての彼をイマイチはっきり意識していなかった気がする。……だから好きになってしまったのだろうか。もっと距離を置いておくべきだった。
 ぼんやり眺めるうちにも増えていく囲いの女性達に、何人もの店員が「進んで下さい」「止まらないで」と声を掛けて誘導しようとしているが、聞こえていないかのようにその数は増えていく。その中に、単身飛び込んでいっては何度も弾き返される鈴生の姿を確認して、喉の奥で笑いを噛み殺した。
 しばらく待つと、ようやく諦めたらしい鈴生が肩を落としてこちらへ来た。

「どうだった?」

 見えていたのに意地悪く聞くと、彼は首を振りながら「駄目だった……」と悲しそうに言う。

「残念だったな。けど、好きな芸能人のサインより、好きな人からのプロポーズの方が喜ぶと思うぞ」

 な、と肩を叩くと、やっと来た理由を思い出したのか、慌てて腕時計で時間を確認して慌てだした。

「やば、もう14時か! 17時に店予約してるから、早く選ばないと」
「まあ3時間あれば余裕じゃないか」
「一旦家に帰って指輪持ってこなくちゃならないから、移動に1時間かかる」
「あーはいはい、じゃ急ごう」

 落ち着いた貫禄を醸し出す外見とは裏腹に、抜けた所のある鈴生は、やおら焦りだして面白い。また鈴生を壁にしながら適当に通路をまっすぐ進むと、さっきの混雑が夢みたいに人の少ないエリアに出た。どうやらカナメが居るせいであの混みようだったらしく、エスカレータでニ階に上がると、割とカップルが多いのに人口密度はそれほどでもなく落ち着いていた。

「なあ、あそこ良さげじゃね?」

 シュッとした雰囲気の姿勢の良い男性店員が店頭で服を畳み直しているのを見て、そちらへ視線を向けるが、鈴生はやはり物怖じするようで、今度は俺がやや前に歩いて行く事になった。

「あの、すみません。スマートカジュアルってドレスコードの店に入れるような服って置いてますか」
「はい、ございますよ」

 声を掛けると、長めの茶髪に片耳だけピアスをしたややチャラそうな外見を裏切るような、丁寧な言葉遣いで返され、少し面食らった。見れば、左胸に『店長』のプレートがついていた。

「奥がそういったコーナーになっております。全身コーディネートされますか?」
「どうする?」
「あ、はい。全身で……」

 明るい通路と違い、店内は照明がやや暗めで、商品も通路側に出ているワゴンのセール品より落ち着いた色味の服が多かった。あまり装飾も派手でなく、しかし質素というのでもなく。ラインが綺麗なシャツが多くて、今度自分でも見に来ようかと思う程度に好きな雰囲気だ。店員の対応も良いし、チラチラ見える値札の金額も、良いレストランに行くならそれなりな数字だ。気圧されて猫背になる鈴生の背を思い切り叩き、前に出した。

「痛っ」
「こいつ、今日彼女にプロポーズするんで。かっこよくしてやって貰えますか」
「ちょ、服有ぃ」

 情けない声を出す鈴生を店長に差し出すと、にっこり笑って、

「承知致しました」

 と、すぐさま他の店員に声を掛けて鈴生を試着室へ誘導し、サイズも図っていないのに他の店員へあれこれ商品を持ってくるように指示を出した。

「お客様は、こちらで待たれますか? よろしければ、店内の商品をご自由に」
「ええ、適当に待ってますので、よろしくお願いします」

 物腰柔らかに、店長は奥の試着室へと向かっていった。店長に指示された商品を持っていった店員が、戻ってきて商品整理を始めるのを横目に、店内の真ん中に置かれた待機用の背もたれのないソファに座った。

「お兄さんですか?」

 手持ち無沙汰にする俺を気遣ったのか、店長よりやや砕けた口調で、近くの店員が商品の並びを直しながら話しかけてきた。

「いやいや、同い年。職場の同僚だよ」

 砕けた口調で返すと、黒髪で眼鏡を掛けた真面目そうな店員は、「そうなんだぁ」とさらに緩い言葉で返してくる。

「……店長さん、すごい丁寧だね。君とは違って」

 ニヤ、と笑って皮肉ると、慌てて「申し訳ありません、お気に障ったでしょうか」とこちらへ向き直って、ああと納得した。

「じょーだん。ごめんね、全然怒ってないよ。そういう接客スタイルなんだね?」
「あ、はい。お客さんの雰囲気で変えるようにって……。難しいです」
「間違えると今みたいに怒られるしね?」
「そうなったらすぐ店長が来て、一緒に怒られてくれますから」
「良い店長さんだね」
「はい。たくさん失敗して良いって言ってくれます」

 気晴らしに店員をからかって遊ぶ。
 特に話題が無くなるととりあえず人を揶揄うのは昔からの悪癖で、だから昔からの友人達には性格が悪いとか、サディストだとか言われてきたが。悪気は無いし怒らせてしまったらすぐ謝るが、人の困った顔というのがとても好きだ。
 そういえば、カナメにはそういう絡み方をした事は無いな。嫌われたくないからだろうか。だからといって、好きになってもらおうとも努力しなかったが。
 ああ。思考の全てが、結局はカナメとの事に繋がっていく。俺の感情はきっと彼に繋がれている。重い鎖か、それとも縄だろうか。彼に縛られたのは、もう何ヶ月前だったか。
 不意に店員が俺の後ろに視線を向けた。鈴生が仕上がったのかと振り向こうとしたら、背後から覆い被さるように抱き締められた。ふわっ、といつもの匂いが広がって、動けなくなる。

「義久。こんな所で、何してんの?」

 ガッチリと抱え込まれた状態で、後ろから長い脚がソファを跨いで、俺を覆い込むように座ってきた。

「小鳥遊さん。お久しぶりです。お知り合いですか?」
「うん」

 カナメはよくこの店を利用するのだろうか。芸名の方の姓で呼んだ店員の方へは、チラ、と視線を向けただけで、カナメは後ろから俺の頭に顔を寄せて、ぴったりとくっついてくる。

「今日はやけにラフだね」

 先程はしていなかったように見えたが、今は顔の三分の二を覆い隠すような大きなマスクをしていて、声がくぐもって聞き取り辛い。それなのに、やはり耳元で囁かれればぞくぞくと鳥肌が立った。

「やめろ。離れろって」

 焦る姿を見せれば、店員に何か勘繰られるかもしれない。呆れた風に、動じていないかのように、カナメを引き剥がそうとするのだが、今日のカナメはやけにベタベタと気持ちの悪い触り方をしてくる。羽織っただけのベストの間からパーカの布越しに胸や腹をしきりに撫でようとしてきて、「気色悪いぞ」と言っても離れない。

「仕事じゃなかったっけ。……何してんの、ねぇ」
「あー、いた! 社長、カナメくんこっちに居ました!」

 背後からさらに女性の声が追加されて、しかもカナメの連れらしいのを悟って、彼を振り払って立ち上がる。

「おいカナメ、お前急に消えんな! さっきも変な行列作って迷惑かけたばっかだろうが!」

 振り返ると、綺麗な赤いコートの女性と、熊のような髭を生やした、しかし顔の良い男が追って来てカナメをどやしつけた。さらにその後からも、若い男女が連れ立って付いて来ているようだ。買ったばかりらしい、食料品の入った大きなビニール袋等を鑑みるに、クリスマスパーティか何かの買い出し中だろうか。
 若く雰囲気に華があり、俺と居るより、よほど彼らは相応しい。

「だって……」

 カナメの意識が俺から背後の彼らに移ったのをこれ幸いと、関係無い風を装って試着室の方へ逃げる。
 奥ではちょうど鈴生のコーディネートが終わって裾上げの為に採寸していた所らしく、店長がメジャーを片手に入念にパンツの裾の位置を決めていた。数字を手持ちのメモに記入して、立ち上がった店長が、

「いかがでしょう? これならプロポーズしようという意気込みも感じられるでしょうか?」

 と満足げにするのを、焦りつつもパッと見て「いいね、かっこいい」と同意を示す。
 うっすらと格子模様の入ったグレーのジャケットに、白のボタンダウンシャツと黒のテーパードパンツ。カッチリ纏めた中で、キャメルの革靴を選んだのは遊び心だろうか。鈴生のどしっとした体格から、良い感じに目線を逸らしてくれて、全体の雰囲気として穏やかに纏まっていた。やはりプロは上手い。

「義久の連れ?」

 後ろから付いて来たカナメに抱き着かれそうになって、さりげなく店長を壁にして逃げた。

「あれ、小鳥遊様。お久しぶりですね。……お知り合いですか?」

 先ほどの店員と同じ問いをして、こちらとあちらを窺う店長は、どうやら何か不穏な空気を悟ったようだ。

「申し訳ありませんが、今はこちらのお客様が採寸中ですので、そちらでお待ち頂けますか」

 やんわりとソファの方へ誘導してくれようとしたのだが、カナメは動かない。

「義久。仕事は? 今日、仕事って言ってたよね?」

 責める声音に頭痛がする。店長も店員も、完全に『えっ? 修羅場?』みたいな表情をしている。

「……夜番だから」

 この雰囲気で無視し続ける訳にもいかず返事をすると、ポカンとしていた鈴生が、

「え、なに。服有、この人って小鳥遊メロだよね? 知り合い? え?」

 と、混乱して俺とカナメを交互に指差しながらどういう事か説明を求めてくる。

「ただの顔見知りってだけ」
「顔見知りって……、お前、そんな事言ったことなかったじゃん」
「ほんとに知ってるだけで、特に仲良くもないし」
「仲良くないんだ? 傷付くわー」

 ニコニコと愛想笑いを貼り付けながら、カナメが横槍を入れてくるのに苛つきながらもスルーを決め込む。

「採寸終わったなら、あと裾上げだろ? 時間無いから、早くやってもらわないと」
「あ、そうだった」

 カーテンで囲われた試着室に戻っていく鈴生を見送って、そちらを向いたままカナメを無視しようとするのに、カナメは気にせず勝手に話しかけてくる。

「時間が違う日って、カレンダーに出勤時間入れてたよね? この前見た時は無かったんだけど」
「……」
「今日は何時から? もしかして、他にも予定書いてなかった日、ある?」
「……」

 店長も店員も、空気を読んで仕事をしている振りをしてくれているが、話が聞こえているのは明らかだ。どう聞いても『ただの顔見知り』程度ではない。どう切り抜けたらいいか思い付かず、途方に暮れる。

「……今日、ピアスしてないのは、なんで?」

 さっきやたら触ってきたのは、それを確認していたのか。意図が分かって、頰が熱くなる。別に何か理由があった訳じゃない。チタンのフープピアスは肌に触れると冷たく、だから最近は殆ど外している。カナメが来る休日だけわざわざ付けるのすら、未練がましくて自分で笑ってしまうくらいだ。
 ピアスの位置やその理由は話を聞いている店員達にはバレる事もないだろうが、不愉快で思わずカナメを睨みつけると、「やっとこっち向いた」と嬉しそうに笑った。が、それは口の形だけで、目が笑っていないのに気付いて一歩退く。

「よりにもよって、今日の予定を、嘘ついたの?」
「……お前に、関係ないし」

 引いた足を戻して、歯向かうように吐き捨てた。

「今日は本当に夜から仕事?」
「……ああ」
「あっちの人は、ただの友達?」
「……そうだよ」
「カッコイイ、ねぇ。ふーん。あんた、ああいうのが好みなんだ」
「そうだよ」
「………………へーえ」

 素っ気なく返事を繰り返せば、やっとカナメが黙った。ああいうのが好みか、なんて。お前を好きだと言った人間に、それを聞くのか。否定も肯定も、結局意味などないくせに。
 この隙にと鈴生の選んだ服のタグを集めて計算している店長の方へ行って、「それ、俺払います」と声を掛ける。

「え……」

 今の話の流れで? と、明らかに店長が動揺しているのが、一周回って面白い。

「カードでいいですか?」
「え、ええ……」

 店長が俺の後ろへ極力視線を向けないようにしているのから察するに、カナメは笑顔でガチギレしている様子。これでいい。別に逃げてもいないし、マゾとして浮気した訳でもない。うしろめたい事など、俺には何も無い。……カレンダーの件以外は。

「じゃあこれで」

 クレジットカードを渡すと、受け取った店長がレジスターを操作して、会計した。
 試着室から出てきた鈴生が、「出来上がりまで30分くらいかかるって」と言いながらやって来て、会計後のレシートを俺が持っているのを見て首を傾げた。

「ほら、どうせ俺、仕事でお前の結婚式出れないし。ご祝儀ご祝儀」
「え、いや、悪いよ。それにまだ結婚できるかどうか……」
「断られたら返せよ」
「それめっちゃプレッシャーかかるんだけど」

 緊張してきたのか頭を抱えて唸る鈴生を笑うと、視界にゆらりとカナメが入り込んでくる。

「こんにちは」
「あっ……、そうだ! 服有! お前、この、サインの一つくらい……」
「サイン欲しいなら、今書こうか? ペンある?」

 先程までの俺を縊り殺しそうなどろっとした瞳が嘘のように、裏の無さそうな爽やかな笑顔で、ファンサービスとばかりにカナメは鈴生に近付いていって。

「義久の友達? ごめんね、俺が頼んだんだ、内緒ね、って。友達の友達全員にサインしてたら、腱鞘炎になっちゃうから」
「そ、そうなんですね! ……あの、今、紙なくて、このシャツに書いてもらってもいいですか!」
「服に? いいの? 店長、ペン貸して貰えます?」

 はいはい、と店長がレジのあたりから出した水性マーカーをカナメに手渡して、カナメはコートを脱いだ鈴生の長袖Tシャツの背中に手早くサインを書いた。

「……彼女にプロポーズするの?」
「はい! その、彼女があなたのファンで、俺も、雑誌とか映画とか、いっぱい見ました」
「それは嬉しいな、ありがとう。……はい、書けたよ。頑張ってね」

 最後に鈴生の背を優しく叩いて、カナメは店長にペンを返した。

「ありがとうございます! なんか勇気出ました!」

 感動に興奮した鈴生の反応を見るにつけ、彼女と一緒に自分もファンになっていたようだ。水を差すのも気が引けて、とりあえず俺も笑顔を繕っておく。

「……それじゃ、俺はそろそろ」

 あとはパンツの裾上げを待つだけならば、鈴生一人でも大丈夫だろうと、逃げ出す算段をつけたのだが。

「義久、これから帰るだけなら、送ってくよ」

 と、すぐさま俺の服の裾を掴んでカナメが言う。

「いや、何か晩飯買ってから……」
「なら一緒に行こう。さっき1階のレストラン街でテイクアウトできるチキンボックスとか、クリスマスっぽいもの売ってたよ」
「いや、別にクリスマスらしさは要らないっつーか」

 素っ気ない態度の俺にもめげないカナメに、鈴生はどう勘違いしたのか、「仲良いんだなぁ」という感想を漏らして、たぶん頭の中が興奮でどうにかなっているんだろう。
 結局、それ以上鈴生の前でごたごたしたくなくて、カナメと一緒に店を出る事になった。

「……で、今日は」
「しつこい」

 カナメを振り切ろうにも、通路にはそれなりに人が多く、走れば悪目立ちすること請け合いだ。どうにかできないか視線を彷徨わせると、通路中央に設置されたレストコーナーのソファに座った、先程カナメを追ってきていた髭の男と目が合った。

「やっと出てきた! おいカナメ!」

 他の女性達の姿は無いが、とにかくこの男に押し付ければ大丈夫だろう。苛立ち露わに大股で近付いてきた髭男は、カナメに掴まる俺を見て、一瞬値踏みするような目をしてから、

「えっと、……初めまして?」
「はい。初めまして。名乗るほどの者ではないので失礼します。はいドウゾ」

 カナメをぐい、と男に押し付けるようにして去ろうとするのに、今度はその男に服を掴まれた。

「いやまぁ、名乗るくらいは良いでしょうよ。俺は潮島です。あんたが『ユギ』さん?」
「……違います」

 二人分の手を振り払い、睨み付けた。
 こいつ、SMの事、他人に話してやがったのか。カナメをいっそ軽蔑した目で見れば、気付いたらしい彼は首を横に振って、「違う、名前だけで、何も」と言い訳しだした。

「失礼します」
「義久っ。待てって、話を」
「お前は会社に戻るんだよ! 皆もう待てなくて先に戻ってんだからな!」

 さすがに今度ばかりは追ってこれないようで、男に捕まって怒鳴られているのを良いことに足早にモールを出た。
 外は北風が寒く、見た目が悪くなると分かっていてもダウンベストのフロントチャックを閉める。首元が寒く、マフラーをしてこなかったのを後悔した。足早に地下鉄への階段を降り、改札を通ってちょうど着いた電車に乗り込んだ。
 スマホをポケットから出して確認すると、時刻はそろそろ15時になりそうな頃合いだった。
 カナメを探していたあの男は、会社に戻ると言っていた。という事は、さっきの彼らは皆同じ会社のモデルか何かなのだろうか。それにしては、あの社長以外は容姿は悪くはないが並、というか、一般人にしてはそこそこだろうがモデルというにはレベルが低かった気がするが。カナメ以外は売れていないとか、ローカルな小さい会社とか──。
 考えるのを止めようと、目を閉じた。俺には関係ない。カナメが誰とどんな聖夜を過ごそうと、俺には関係ない。
 こんな腹の奥をぐつぐつと煮立たせたような気持ちのまま家に帰っても落ち込むだけだろうと、結局そのまま出勤してしまう事にした。
 電車を降り、店に着いたあたりで鈴生から『これから行ってくる! 今日はありがとう』とメールが入った。マメな奴だな、と、とりあえず適当に『ファイトー』とだけ返事をした。彼の成否はきっと、仕事上がりには知れるだろう。空を見上げれば、ポツリと小さな雪片が降ってきた。
 ホワイトクリスマスなんて、クソ喰らえ。いっそ朝まで降り続いて道という道を氷漬けにしてくれれば、明日の朝帰宅するカップル達を転ばせてやれるのに。
 急激に襲ってきた妬ましさを吐き出すように勢い良く事務所の扉を開くと、仕事中にも関わらずスマホゲームに興じていた男3人が、ポカンと口を開けてこちらを見た。

「て、てんちょ」
「違っ、俺と清水は休憩中で!」
「俺はちゃんとモニター見ながらやってます!」
「……あー、うん。いいよ別に。今日くらい」

 事務所の中は暖房が効いて暖かく、続く休憩室や更衣室の扉も開け放たれたままで、着替えるのに凍えなくて済みそうだ。
 手早く制服のツナギに着替えだけ済ませ、タイムカードは押さずに事務所へ戻った。

「店長19時入りっスよね? さすがに早すぎません?」

 配属されてきた鈴木は割とオールドタイプの整備士というか、若いのに昔の『車好きのヤンキーがやる事なくて整備士になりました』というのを踏襲しているタイプで、俺や鈴生とは毛色が違って扱いにくい。が、アルバイトの大学生達とはすぐ打ち解けたらしく、来春には正社員という契約でここに来たから、俺にも結構気にせずグイグイ来る。

「……別にいいだろ」

 少なくとも、機嫌の良くない今はあまり話したくないタイプだが、空気は読めるらしく。「あっ」と気付いたように口を手で塞いで、

「スンマセン、あれっすか、彼女にフラれたとか」
「……」

 睨めば肯定になると分かっていて、わざと鈴木を睨んで、すぐに無言で視線を外した。むしろそう思ってくれれば、それなりに丁重に扱ってくれるのでは、と期待を抱いたのだが。

「わ~~、マジっすか! じゃあ俺代わりに帰っても良いっすかね? これから彼女とデートなんで!」

 上機嫌に俺に詰め寄ってきたのを、若干引いた感じの久保田が止めようとしたが、帰ってくれた方が精神的に有難いので、「良いよ」と受けてタイムカードを切る事にした。

「うっしゃーラッキーィ! お先失礼しまっす!」

 飛び跳ねんばかりに更衣室の方へ向かって行った後ろ姿を見送って、むしろ清々しいとすら思う。

「あの、店長。良いんスかぁあの人……」
「別に良い。俺、あの人苦手だし」
「そりゃ分かりますけど」

 どうやら合わせていただけだったらしい清水はうんざりした様子でスマホをポケットに仕舞ってパイプ椅子から立ち上がった。うーんと伸びをしてから、窓の外を見て、

「あれ、雪降ってきたんですか。タイヤしまっちゃいましょうよ」
「そうだな。久保田、モニターよろしく」

 へい、とスマホゲーを続けながら返事をした久保田は清水と椅子を交代し、モニター前に座った。俺は清水と展示用のタイヤを仕舞うために事務所から出て、それぞれ片手に二つずつ、タイヤを抱えて工場に走るのを何度か繰り返した。走っているうちに身体が温まって、工場のシャッターを閉めてから軽くストレッチしていると、清水が事務所棟の、客用レストスペースの方へ入っていった。どうしたのかと思えば、コーヒーを二缶持って戻ってきた。

「どーぞ」
「ん? 奢ってくれんの? さんきゅー」

 バイトに俺が奢る事はあっても、奢られる事はほぼ無い。わざわざ目上にそんな事をするのは何故かと目で聞けば、

「……フラれちゃったんですか」

 と、まあ、さっきの会話を気遣ってくれたようだ。清水は割と真面目なタイプの大学生で、講義中心でシフトが少ないからあまり話したことがない。心配される程懐かれている気もしなかったのだが、とりあえずコーヒーは受け取って、その場でプルトップを開いて一口飲んだ。

「んー、まあ、そんなとこ」

 にこ、と苦笑みたいに顔を作れば、何故か清水も泣きそうな表情になる。

「……俺もです」

 なるほど。同類への憐れみは同類から、か。

「俺は一昨日ですけど。前から気になってた人にイヴデート誘われたから別れて、って」
「きっつ」
「当日よりはマシですけどね。仕事だしって言い訳できるし。……さっきまで鈴木さんがずっと彼女の話してて、最悪でしたけど」

 唇をへの字に曲げてうなだれた清水を、ハハハと笑い飛ばした。

「久保田も確か彼女持ちだもんなぁ。肩身せめーわな」
「ほんと最悪ですよ。なんでこの店リア充ばっかなんですかね」

 ヤケ酒ならぬヤケコーヒーで、二人してまだ熱いのにぐいー、と缶を傾けて飲み切る。この季節、辛い思いをしているのは俺だけじゃないんだと思えば、少しは楽になるのだろうか。

「2人で淋しくクリスマスパーティします?」
「それ最高に淋しいから絶対イヤ」

 缶のゴミ箱は客用の自販機の隣にしかないので、清水の分も受け取って俺が捨てに行く事にした。客用のレストスペースは事務所の建物の三分の一程度で、奥にある腰高のカウンター以外は壁になっていて、客からは従業員の姿が見えない。だから社員がいないとスマホを使っているバイトが出てくるのは当たり前といっては当たり前すぎる。
 ゴミ箱に缶を捨てると、カウンターから久保田が顔を出してきて、「すいません、これもお願いします」とジュースの缶を差し出してきた。受け取って捨ててやると、出入り口の方へ顔を向けたので、来客を察知して背筋を正した。

「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませー」

 二人で声を掛けると、ガラスのドアを開けて入ってきたのは、先ほど見たばかりのマスク姿の大男。

「義久~」

 語尾にハートでもついてそうな言い方で、カナメが笑顔でやってきた。
 こいつには、少し諦めという言葉を理解させるべきじゃないのか。いや、イケメンには押しの一手があれば十分なのか。

「家に行ったけど、居なかったから。何時に上がり?」

 俺に話しかけてきたので、友人だと思ったのか、マスクをしたカナメに特に騒ぎもせず、久保田は黙礼して事務所の方へ引っ込んでいった。

「22時」

 聞かれてマズいわけでもないが、自然と小声になった俺に、それでも無視しないのが良かったのか、カナメはうんと頷いて。ドアの向こうに見える、ファストフード店を指差した。

「分かった。22時前にまた向かいのワックに来るから」

 それだけ言って、素直にドアから出て行った。拍子抜けして、その背を見送る。靴裏に貼り付いたガムのようにしつこい時と、こうやってアッサリ引き下がる時の違いが分かれば、彼とも良い距離でいられるのだろうか。

「友達ですか?」

 事務所に戻ると、久保田と鈴木が座ってテレビのチャンネル争いをしながら、そんな事を聞いてきた。

「うん。あいつも今日暇だから、上がったら飯でも、ってさ」

 口から滑らかに嘘が出てきて、自分でうんざりした。

「良かったですね」

 清水の労わるような表情に、なんとも罪悪感が沸いて、チャンネル権は店長権限で清水のものになった。




 数時間後、特にトラブルも無く、夜勤の派遣さんに引き継いで、着替えて店を出た。
 雪はいつのまにか止んでいた。空気は冷えるが風も無く、そこまで寒さも感じない。それでもマフラーだけは巻いてくるべきだったと、本日二回目の後悔をした。
 道の向かいへ信号を渡り、ファストフード店の自動ドアをくぐると、一番奥の見えやすい位置に座ったカナメがすぐに気付いてこちらへ手を振った。その瞬間、いくつもの視線が刺さり、そして散っていく。吹き出しをつけるなら、『なんだ男か……』という所だろうか。視線の中にはカップルの女性も多いのに、マスク姿の推定イケメンが、よくもそれだけ気になるものだ。
 注文カウンターでバーガーのセットを頼んで、腕時計を確認してそわそわした様子のカナメを気にせず、トレイを置いて彼の斜め向かいに座った。彼はコーヒーだけらしい。飯はもうどこかで食べてきたのだろうか。誰と? なんて、考えたくない。
「話があるならここで聞く。もう家には入れない」
 バーガーの包みを開いて食べ始めながら呟くと、カナメはうきうきした様子でA5サイズくらいのチラシを見せてきた。
 よく見知ったチラシだ。ここ何年も日付だけを変えて配られている、ある店の、会員専用のクリスマス用宣伝チラシ。
「錘でさ、クリスマスパーティやってるんだって。一緒に行かないか?」
 とても楽しげにされて、唇を噛んだ。
「どんなんだかは、知ってるんだな?」
「紫さんに聞いたから大丈夫。酒も飲まないし、身バレしないように車も使わない」
 紫に聞いたなら、パーティの趣旨は分かっているのだろう。だとして、これに俺を誘うなら。
「分かった。衣装とかは?」
「行くなら、連絡すれば紫さんが用意してくれるって」
 一度頷いてから、黙々と口にバーガーとポテトを詰め込む。オレンジジュースでそれらを飲み込んで、三分程で食べ終えた俺に、カナメは「ユギが楽しめればいいんだけど」と、まるで俺が乗り気みたいな事を言う。
 二人で店を出て、まだ動いている電車に乗った。時間的に、帰る頃には終電は終わっているだろう。始発で帰ってくれば、仕事には間に合うだろうが。
『錘行く。一緒に泥酔してくれるやつ誰かいる?』
 M友達とのグループチャットに書き込むと、
『やーよw』
『あら来るの? エミコはもう消えちゃったけど、姫乃は居るわよ』
『私もいるよw 白だけどw』
 と、次々書き込みが増えていく。混み合った電車の中、カナメは会話の内容までは見ようとせず、だから他人のように隣り合ったままスマホを弄る。
『白被りたいけど、たぶん黒』
『あらま。今のご主人様ってあれよね。奴隷契約男』
『1年保ったなら快挙じゃない? ユギちゃん的には』
『黒なら好い人紹介してあげるわよー! はやくおいで(^^)』
 とりあえず何人か知り合いがいることに安心して、スマホを見たままのフリをしながら目を閉じた。
 錘のクリスマスパーティは、当たり前だがただのパーティではない。実は錘の店舗が入ったビル自体が錘の店長の所有物だ。一階だけが普通の貸店舗で、二階は錘。三、四階がパーティ用の吹き抜けフロアに改造されていて、そこで開かれるのは、実質的には『SMお見合い』だ。身バレや容姿の良さで一部の人間だけに注目が集まるのを避ける為、参加者は全員額から鼻までを隠す仮面を被る。サドは赤、マゾは黒。特定のパートナーが居たり、誘われたくない参加者やスタッフは白だ。
 パーティ会場内ではプレイ禁止で、相性が良さそうだと判断したら五階に十室ある賃貸ワンルームの鍵を店長から借りて、部屋で……という流れになる。法令に触れないギリギリでやっているから、ルールを守れそうにない会員にはチラシが渡される事はなく、ネットにも告知はされない。
 だから、客層的には不安は無いのだが。
 問題なのは俺だ。さんざカナメに甘やかされ、しばらくはプレイ自体していない。果たして声がかかるのか、いやかかってもかからなくても色々と頭が痛い。
 カナメはきっと、これで終わりにしてくれるつもりなのだろう。やっと終われる。やっと吹っ切れる。方法は最悪に近いけれど、確実ではある。カナメはすぐにでも他のマゾから誘いを受けるだろう。彼が他のマゾを抱けば、俺がどれだけつまらないマゾだったか、執着に値しなかったか理解するに違いない。
 錘の最寄駅で電車を降り、道すがらも、珍しくカナメは無言だ。何か最後に気の利いた別れの言葉でも考えてくれているのだろうか。そんなのは要らないから、ただ一度だけキスしてほしい。
「あ! ユギくん、久しぶりー!」
 錘のビルに着き、普段滅多に使わないエレベータを使って三階に降りると、待っていましたとばかりの紫が飛びついてきた。
「あれ? 太ったね?」
「うっ」
「だめだよー、そろそろ日頃から運動する癖つけなきゃ。僕の大好きな背筋が脂肪で歪んじゃう」
 今日の紫は濃い紫のスーツ上下、スタンドシャツに黒の蝶ネクタイ姿で、白い仮面を着けていた。どうやらスタッフ枠らしい。背中に頬ずりされて、久々でも変わらず接してくれる紫に安堵した。
「仮面の色は……」
「この人は、黒で」
 横から即答するカナメに、紫が手に持った三色のマスクのうちから白を取り出そうとしていた手を止めて、一瞬真顔に戻る。
「え、黒? ……ほんとに?」
「はい」
「カナメくんは?」
「俺は赤で」
 紫の表情は仮面で隠れてよく見えない。けれど、困惑しているのはその目の動きで分かる。
「いいの?」
 再度問われて、苦笑しながら頷いた。紫の手から自分で黒の仮面を取り、被る。カナメも赤を受け取って装着した。鼻が高くて、マスクの下側に隙間が空いているのが少し違和感があるが、それでもやはりイケメンはどうやってもイケメンのオーラを出すのだと感心した。
 俺の返事に、紫がぎゅっと俺の腕に絡みついてきて、
「じゃあ、一緒に呑まない? 僕今日はもうお仕事お終いにするから。僕と一緒に、……ね?」
 耳元で、カナメに聞こえるかどうか、ギリギリの小声で囁かれた。紫は相変わらず俺に甘い。俺の周りには、俺を甘やかす人間ばかりな気がする。
「……紫さん」
 それとなく、カナメが俺と紫を剥がそうとしたのは、もはや反射のようなものなのだろうか。もういいだろうよ。ここまで来たんだから。
「衣装、借りられるんですよね?」
 自然と口調が丁寧になった。俺は、『カナメの奴隷』から、『誰にでも従う奴隷』に戻らなくちゃならないから。俺のスイッチを探すなら、きっと言葉遣いなのだ。
「じゃあ、ユギくんは着替えがあるから更衣室の方で。カナメくんはコート脱ぐだけでしょ? ロッカーのみならあっちにあるから。じゃあ、大広間で」
 早口で説明し、紫はカナメの背を押してロッカーの方へ行けと指示した。大広間で待ち合わせようにも、きっとすぐにマゾに囲まれるだろう。ロッカーへ向かうその姿ですら、その長身にもう注目を集めている。
「ごめん、カナメくんと来るならてっきり白だと思ってて、思いっきりエロいのにしちゃった」
 紫に連れられて更衣室へ行くと、一番端のロッカーから紙袋を出して渡された。
 どんなのだよ、と恐る恐る中から衣装を取り出すと、一枚目は普通の革のショートパンツだった。普段着にしては確かに短いが、かといって男が履いてエロい、というものでも無いと思うが。首を傾げながら紙袋を覗くと、あとはTバッグの下着と細い革のベルトが二本あるばかり。
「なに、これ」
「……サスペンダー。全部脱いで、それだけで着るんだよ」
 完成図を予想して、固まった。三十路のオッサンが、裸ショートパンツにサスペンダー。
「完全に変態だ……」
「ほんとはね、バニー耳と、パンツの後ろに穴が開いてて、フワフワ尻尾の付いたディルドを挿れられるやつにしようと思ってたんだけど、それだとやりすぎだって店長に怒られたから」
「どっちにしろものすごい変態に変わりないんですけど?」
「ユギくんの背中はアピールポイントだから、存分に出して見せびらかさなきゃと思って選んだんだけど……まさか、黒で良いなんて言うと思わなかったから」
 紫こそが憤慨しているかのように、苦い物でも噛んだみたいに、唇を一文字に結んで肩を竦めた。
「まぁ、今回はほら、倫子の次くらいには続いた方でしたし」
 パートナー解消なんて珍しくもないのに、紫はやけにカナメに怒っているようで、とりなすように笑ってみせた。
 ダウンベストを脱ぎ、パーカや下着も脱いで上半身を露わにすると、紫の好色な視線が絡んでくるのが心地良い。自分の身体をそういう目で見てもらえるのは久々で、嬉しいなと実感する。俺で気持ち良くなって欲しい。俺を玩具みたいに扱って欲しいと思うのは、やはりマゾだからなのだろう。
 下半身を履き替え、ショートパンツに足を通す。サスペンダーを嵌めて肩紐を通し、着替え終えた服を畳んでロッカーに入れると、紫がうーんと首を傾げた。
「あれぇ……。どうしよ、予想外」
「何が?」
「ユギくんがピアスしてない」
 当たり前に着けてると思ってたのに、と言われ、目線を落とした。
「あれ、冷たいので」
 カナメの前でなくても、肌着が擦れる度ここにあるぞと主張してくるアレが、疎ましくなったとは言えなかった。もう彼に使って貰えないのに、所有権はお前なんだぞと叫ぶ未練がましい心が浮き彫りになるようで。
「そっか。ん~……飾りがないとやっぱり少ししょぼ……いや、淋しいよね……」
 ショボいって、聞こえてるぞ。確かに、女のように細い訳でも、逆に筋肉質な訳でもない俺の身体は、これだけの衣装だとあまり見栄えはしない。だからといってバニー衣装は絶対嫌なのだが。
「あ! ユギくんが嫌じゃなければ、僕のピアス使っていい? 確かお店のロッカーのアクセ入れに何個か入ってたから」
「任せます」
「分かった、取ってくるから待っててね」
 足取り軽く紫が走っていったので、特にやる事もなくベンチに座って待つ事にした。パーティ開始が21時なので、時間的な問題でもう更衣室に他に客はいない。なんとはなしにストレッチを始めて、体毛剃りを日課にしていて良かったな、などと脚を揉みながら考えていた。足、腹、腕、脇と、揉んだり伸ばしたりしながら変な所に毛が残っていないか確認する。プレイ中に特に指摘された事はないが、ただでさえ容姿が良い訳ではないのだから、細かい部分で他のマゾと差をつけたいと始めた事だったが、これといって喜ばれた事もない。
 マイナス思考に陥ると全ての事柄が無意味に思えてきて、もういっそ帰ってしまっても問題ないんじゃないかとため息を吐いた。
「ただいまー。えー、何今のでっかいため息? 似合わないっ」
 戻ってきた紫に肩を落としてため息を吐く様子を見られて、励ますように背を撫でられた。
「はい、僕の一番のお気に入り!」
 握った手のひらから出てきたのは、澄んだ紫色の石が付いた、細長いピアスだった。ピアスの金具の上に丸い石が一つと、裏側の受けにも一つ。その下から五センチほど金の細いチェーンが三本下がり、真ん中のチェーンの先端にだけ涙型の石がもう一つ。どこから見ても紫の石がキラキラと光って見える作りで、とても華奢で可愛らしい。お気に入りだというのも頷けた。
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