痛い瞳が好きな人

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「……ク、ソ」

 上半身を起こしたカナメが遠のく。淋しいみたいにそれを視線で追うと、彼の両手に腰を掴まれた。ようやく掻き回して貰えるかと期待したのに、う、と小さく呻いて震えたかと思えば、カナメはずるりと肉を引き抜いてしまった。
 俺の呼吸は荒いまま。快楽を求めた身体がまたお預けをくらって泣きそうだ。

「そんな顔すんな。すぐ替える」

 どうやら先に一度達してしまったらしいカナメが、いつの間にか装着していたスキンを苦い顔で手早く新しい物に付け替えている。根太から引き剥がしたゴム製のそれに溜まった精液を盗み見て、鳥肌が立つ。
 アレを、俺の中に出した。
 それを考えるだけで、嬉しさに口角が上がるのを我慢できない。俺の身体で、カナメがイッた。腹の奥が熱く火照り、吐く息にも熱が篭もる。

「もっかい、……な?」

 汗ばんだ指に優しく頬を撫でられ、愛されてるみたいで泣きたくなった。いや、体だけでも愛してくれるのだから、まだ運がいいのかもしれないが。

「カナメがしたいだけ、何回でも」

 リップサービスが自然と口からでてくるあたり、まだ冷静な部分が残っていたらしい。それを聞いて、自身に新しいスキンを装着していたカナメが片眉を吊り上げてため息を吐く。

「あんた、……ほんと、分かんねぇ」
「……? 何が」

 カナメの呟きに耳を傾けようとしたのに、今度は断りもなく、先端から根本までを一気に捩じ込んできた。

「っぁ、……は、あ、あ、あっ」

 襞を押し広げて奥まで穿たれる衝撃に、喉から声が漏れる。
 そのまま、何度も腰を打ち付けるみたいに浅い所から奥までを擦られて、呆気なく俺も精を吐いた。目の前が真っ白に瞬く。知らされたばかりの身体の奥の快楽の一点をゴリゴリ擦られ、痙攣する程絶頂した。

「ハ、あんた、痛くなくてもイけたじゃん」
「ま……、待っ、やめ、俺、や、だ」

 自分の精液で濡れた俺の茎を掴んで、弱い括れあたりを強めに擦られて「ひぃ」と情けない声が出る。内側からイかされたばかりなのに、慣れた茎への刺激で体の熱が上がっていく。

「ほら、イけ。ここ、イイんだろ」

 一度先に出した余裕からか、カナメの動きに容赦が無い。俺の雄を手で扱きながら、腰を揺すぶって俺の弱い所を責めたてる。

「あ、ぁ、ああ、う」

 そのまま外からも内からも追い立てられて、壊れた蛇口のように何度もぶしゃ、ぶしゃ、と白い粘液が溢れた。頭が真っ白になって、視界が瞬く。カナメの荒い息遣いが近くにあって、その熱が伝播して二人で高めあって。彼が二度目に達してから、抜かれる事なくいつまでも擦られ続ける。
 もうやだ、許して、と何度言っただろうか。哀願の声すら枯れて、それでもカナメは俺を貪る。ずっと我慢していた餌を与えられた獣みたいに、満腹かすら気にならないみたいに。
 それがどれだけ嬉しいか、きっと彼には分からない。






 いつの間に意識を失っていたのか、重い瞼を擦りながら身を起こしたのは、真夜中になってからだった。
 チク、タク、チク、タク、規則的なアナログ時計の針の音が、静かな部屋に響く。ヒリつく手首を無意識に擦って、そこにもう手錠が無い事に気付いた。
 視線を彷徨わせれば、同じベッドの上にカナメが寝息を立てていた。寝具の周りに落ちたゴム製のソレらと、べたついて湿った布団の感じからして、彼も後処理する気力すらなく、力尽きて寝てしまったのだろう。それでも俺の手錠を外すのだけは忘れないあたり、彼らしいと苦笑した。
 起こさないよう、そっとベッドを降りて寝室を出ると、浴室へ向かう。汗と精液に塗れた身体が、べとついて気持ち悪い。ふらつきながらシャワーを浴びると、おそるおそる後ろの窄まりに指を這わせた。途端、どろりと指を伝ってやたら粘度の高い液体が太腿を流れていく。

「うーわ……」

 カナメが途中からスキンを着けなくなったのは、薄らぼやけた記憶の中でも気付いていた。腹の中に溢れる程出されて、女だったら孕んでたな、と笑うつもりが笑えなかった。ぼろ、と大粒の涙が足の甲に落ちる。
 SMだけじゃなかった。カナメは、普通のセックスでも、あんなに情熱的で。きっと、好きな相手なら、もっと……。
 ポロポロと溢れる涙が、心底情けない。
 いい歳して、オッサンが手の届かない若い男に恋なんかして。もっとドライにならなければ。この関係を続けたいなら、もっとドライに。恋情なんて殺して。

「……ユギ、入ってんのか?」

 不意にバスルームの外から声を掛けられて、慌てて顔をシャワーにぶち当てた。

「ああ、うん、今身体洗ってた。悪いな、起こしたか?」
「起きたらいねぇから、帰ったかと思った」
「おう、風呂上がったら帰るわ」
「……なんで。朝までもっかい寝てけば」

 当たり前に全裸のカナメも浴室に入ってきて、「洗ってやる」と寄ってこようとするのを片手で制する。

「自分でできる」
「知ってる」

 そう言いつつも、さっさとボディソープのボトルに手を伸ばそうとするカナメに、慌ててシャワーを押し付けて逃げようとしたのだが。

「まだ洗ってないのに、何出ようとしてんだ」 

 カナメの視線が俺の股間から太腿の辺りをうろついて、目を細めたのに気付いて動揺する。

「帰ってから洗う」
「なんだその二度手間」 

 手首を掴まれて引き寄せられ、「いいから来い」と抱き締めるような体制で背中からシャワーを掛けられて泣きたいような気持ちになった。

「なぁ、もう……やめてくれ。勘違い、する」

 声が震えないように気をつけたつもりだったが、俯いた俺に、カナメもようやく空気を読んだらしい。

「……分かった。けど、上がっても勝手に帰るなよ。朝は送ってってやるから」

 視線を外したまま、無言で頷く。離れていった体温がドアの向こうへ消えてから、大きくため息を吐いた。
 奥まで洗ってから手早く風呂を洗い、上がって着替える頃には小一時間経っていた。寝室の方からは物音がしないから、カナメはもう寝たのだろう。なんとなくそちらへ戻るのが躊躇われて、ソファに横になった。
 翌朝カナメに起こされたが、いつもなら「なんでベッドに来なかった」とか言われるのが、今日ばかりは何も言われなかった。車で送る、というのを辞退しても、何か言いたげにしながらもマンションのロビーで別れられた。
 俺の『初めて』を奪えた事で、彼なりの執着が薄れたのかもしれない。
 今しがた出てきた高層マンションを未練がましく振り返って、唇を噛んだ。






 次に誘いがあったのは、二週間後だった。
 しかし、待ち合わせたのはラブホテルの一室。珍しい事もあるな、と思っていたら、次の週も場所は違うがラブホテルだった。それがカナメなりの線引きなのだ、と気付いたのは、その次の週もまたラブホテルで待ち合わせだと連絡を受けたからだった。
 あの一件から、カナメはキスもハグもしなくなった。プレイ以外の時に可愛いとも言わなくなった。それでも、プレイには何の支障もない。支障はないのだが──明らかに、熱が下がっていた。俺のではない。カナメのだ。
 上の空というか、どこかつまらなそうな、鬱屈した空気があった。仕事でストレスでも抱えているのかと、カナメの好みに寄って従順に、かつ恥じらうフリでプレイに臨んでいたのだが、回を重ねる度に彼のテンションが下がっていくのが分かるのが辛かった。
 それなのに、何故か毎週決まって水曜の夜に誘われる。週末は俺の仕事が忙しいのを知っているからなのだろうが、なにも毎週でなくともいいのに、と。
 だから、いつもの誘いのメールに『水曜は無理』と返信してから、一分もしないうちに『今週の休みいつ?』と返ってきて、首を捻った。
 もう十月の半ば、肌寒くなってきて、ベッドの上で薄い毛布を被って最近買った文庫本を読んでいた。誘いが水曜日に固定されてから、休みをカナメに教えるのをやめた。プレイも平手打ちや低温ろうそく等の軽いものばかりで、翌日に傷が残るようなことをしないから連休をとる必要もないし、だから休日は基本的に暇だ。最近は鈴生に勧められた小説を読んだりして時間を潰していた。

「『仕事忙しいから今週は無理そう』、と」

 今まさにゴロゴロしながら、適当に返事を書いて、スマホの着信音を無音に設定して放り出す。返事を期待してそわそわするのは疲れる。読んでいる本もちょうど山場のあたりだから、集中して今日中に読み終えてしまいたかった。

 ……──ピンポーン。

 二時間程経ったあたりか、あと数ページで読み終わるというのに、来客を知らせるチャイムに阻まれた。

「はいはい、どなたですかー、と」

 鍵は開けず、覗き窓からドアの外を覗き込む。そろそろ、先週ネット通販で買ったブツが届く頃だ。物が物だけに、気色満面で受け取りたいものではないのだが。

「……俺だけど」

 しかし、覗いたドアスコープには馴染みの配達員ではなく、目深に帽子を被り鼻から下しか見えない男が立っていた。その長身と声で、すぐさま正体は知れたが。

「え、何、カナメ?!」

 予想外の人物に、慌てて鍵を開けてドアノブを回すと、待ちきれないように向こうから開かれ、痩躯が部屋の中に滑りこんできた。

「どうした、こんな昼間に」
「どうって……あんた、仕事忙しいとかいう割に今日は返事早いし、もしかしたら今日休みなんじゃないかと思って」

 言葉に含まれる責めるような響きに、肩を竦めて苦笑いだ。

「……だから?」

 だからって、何で家に来るのか。棘を隠さない物言いに、カナメは少し怯んだようだった。
 「別に」と言い淀んでから、「別に、家に来るぐらい、友達でもあるだろ」と素知らぬフリを決め込むつもりらしい。勘違いさせるような特別扱いをしている訳じゃないんだと、それは俺じゃなく自分への言い訳に聞こえるが。

「疲れてる。帰ってくれ」

 すげなく追い出そうとすると、傷付いたように表情が曇るのがいたたまれない。
 本音ではカナメの来訪を喜んでいるくせに、それを表に出すと彼が困るだろうから冷たくあしらっているのに。心がザワつく。抱き着いて、ベッドに誘ってしまいたいのを必死に我慢する。

「早く、」

 動こうとしないカナメを急かし、俺が扉を開けようとした、その手首を掴まれた。

「なぁ」
「……っ」

 耳に吐息がかかる。掴まれた皮膚が溶けそうに熱い。たったこれだけの接触で、嬉しすぎて振り払えない自分が嫌だ。
 睨むつもりで、しかし至近距離の身長差で見上げる形になって格好悪い。頬も熱いし、きっと耳まで赤くなっている。これだけ辱めて何がしたいのか訳が分からない。このモテる男が、自分を好きな相手にこんな接触をすればどんな反応をするかなんて、分かりきっているだろうに。

「飯」
「は?」
「飯、行こう。どこでもいいから。腹減った」

 きょとんとする俺に構わず、カナメは勝手に上がり框に腰を降ろし、「だから早く着替えてきて」と偉そうに命令してくる。

「……やだ。俺今、本読んでたんだよ。あと少しだから最後まで読みてーの」

 急に脱力感が襲ってきて、カナメを放っておいてベッドに寝転がった。そのまま、カナメのことなんか忘れたかのように本の続きを読み出す。

「ユーギーー」
「うるせ、帰れ。俺は読み終わるまでどこにも行かねぇ」

 そうは言っても残り数ページなのだが。呼ぶ声を無視して、玄関に背を向けゆっくりと読み進める。エピローグも終盤、主人公の何かいい感じの独白を読み終えたあたりで、ふいに視界に影が落ちた。

「終わった?」

 いつの間にか靴を脱いで上がってきていたカナメが、背後から身を乗り出して文庫本を覗き込んでいた。

「帰れってば」

 しっしっ、と野良犬を追い払うような仕草にも、ニコニコしたまま「読み終わったなら、飯行こ」だ。

「なんでお前と飯行かなきゃならないんだよ」
「腹減ったから。俺このへんの店知らないし、どこでもいいから連れてって」

 あくまで我儘を通すつもりらしいが、こいつと外食なんてしたらすぐに人だかりが出来るに決まっている。絶対嫌だ。

「大通りに出れば飯屋なんていくらでもあるだろ」
「ユギのいつも行く店がいい」
「チェーンのカレー屋か牛丼屋」
「そこでいい」
「嫌だ。お前と居たら絶対目立つ」

 白けた顔で拒否を繰り返すと、さすがにカナメの表情が曇ってきた。そんな顔されたら俺だって辛い。早く諦めて帰ってくれ。彼を完全に拒否するように、ごろんと横に転がってうつ伏せで枕に顔を埋めた。ここまですれば、部屋から出る気が全く無いのは伝わるはずだ。

「……ユギ」

 背中にかかる声に、ぞわ、と鳥肌が立った。
 カナメの手が俺の尻に置かれる。いやらしさなど微塵も感じさせず、ぽん、ぽん、と優しく叩かれ、それなのに緊張に身体が強張った。

「叩かれたいか」

 優しく問われる。尻に置かれた掌が熱い。期待由来の悪寒が止まらない。

「だ、だめだ。この部屋、壁薄いから」
「声出さなきゃいい」
「そんな……っ」

 ふっ、とカナメが腕を振り上げた気配がして、思わず息を詰めた。身を硬くするのに、痛みがこないまま、しばらくして息を吐いた。

「ずるいぞ」
「ダメだって言ったのはあんただろ? なぁ、ここでこのまま折檻されるか、飯食いに行くか、さっさと選んでくれ」

 こうまで言われては、外出するしかない。乗ってやらなければこいつは本当にここでおっぱじめるだろう。……微妙に火のついた体が、されたいと呻くのを抑え込んでベッドから起き上がった。

「一番近いカレー屋な」

 部屋着のスウェットを脱ぎ、箪笥から灰色のパーカと黒のジーンズを出して着る。どうせカナメの隣なら、俺がどれだけめかしこんだ所で人の目に入らないだろう。

「ユギ、普段着そんな感じなんだな」

 着替え早いな、と苦笑されたが、特に返事もせず玄関に向かい靴を履く。俺が無言なのを怒ったと勘違いしたのか、カナメも慌てて追いかけてきて俺の腕を掴んだ。

「気ぃ悪くしないでくれよ。いつも俺と会う時はほら、シャツにジャケットとスラックスとか、綺麗めな感じじゃん。だから俺もそういう感じで来たんだけど」
「……?」

 言わんとしている事はつまり、俺と釣り合いをとろうとしてきたと、そういう事だろうか。
 そこで初めて、今日のカナメの服装に着目する。赤白紺の細いボーダーのTシャツに、ジャージ素材のラフめな紺のノーカラージャケット。それに黒のテーパードパンツと黒の合皮スリッポンを合わせた、確かにいつもと比べると大人しい服装だ。時計やブレスレットも付けていないのは、俺がいつもそうだから、だろうか。

「あのなぁ……」

 思わずため息を吐くと、カナメは何かダメか? とばかりに首を捻った。

「ウニクロでしか服買わない顔面偏差値一般人の俺と、どう見てもいつも高い服ばっか着てるモデルのお前。同じテイストにしたら俺がみじめに見えるだけだとは考えなかったのか?」
「みじめ?」

 衝撃だとばかりに驚いた顔をされて、天を仰ぐ。神様、やっぱりこの男はちょっとアホみたいです。ああ可愛い。

「そういうわけだから、やっぱり一緒に飯は」
「ああ、ヤりてぇの?」

 部屋に戻ろうと靴を脱ぎかけた俺を玄関ドアに押し付けるように、体ごと押し迫ってきて途端に鼓動が速まる。顔を寄せられて、ここ最近お預けをくらっている唇に視線が向いてしまい、慌てて顔を逸らした。

「飯、行く」

 キスしたい。粘膜を舐められるあの感覚を思い出し、いつの間にか彼とのキスが好きになっていたのだと気付いた。まあ、俺が告白した事でカナメはもうしなくなったから、どうしようもないが。

「良かった、そろそろマジで限界。腹減って死にそう」
「……」

 そのまま死んだら死体は持ち帰って綺麗に保存してやる、という猟奇的な台詞が自然に浮かんでしまって、俺相当キてるなぁ、と目を伏せた。
 早足で徒歩3分、週に2度は確実に来ているだろうチェーンのカレー屋に入る。時刻は16時少し前で、幸いな事に他に客は居ないようだ。
 先に入ってきた俺を見て、いらっしゃいませ、と近付いてきたいつもの若い男の店員が、後ろからついてきたカナメを見てぎょっとした後、きょろきょろと周りを見回してからホッとしたようにテーブルに案内してくれた。

「……?」

 店員が去った後、カナメの他に何かあったのかと俺も辺りを見回してみるが、それらしきものは無い。いや、無かったから安心したように見えたのだが。不可解だ、と思っていたら、カナメが「カメラも入るのかと思ったんだろ」とあっさり見透かしてきた。

「飲食系の店員は割と芸能人とか見慣れてるから騒がねーよ。高校生のバイトとかだと違うけど」
「そんなもんなのか」

 騒がれる事自体が無いから、全くの未知数だ。
 カナメがメニューを開いて選ぶのを見ながら、そういえば今日はまだ昼飯を食べていなかったと思いだした。

「カナメが決まったらボタン押して」
「ユ……、義久は?」

 不意に呼ばれて、片肘をついてスマホを見ようとした姿勢のまま硬直した。
 名前で呼ばれた。嫌じゃないけど。嬉しいけど。覚えててくれて、呼ばれて、嬉しいけど、だけど。

「帰ってもいいか」

 自然と低くなった声に、カナメがまた泣きそうな顔をする。だから反則だそれは。

「今は、違うだろ。俺とあんたは、飯食うだけ。何もしてないんだから、今は友達だろ? 友達なら名前で呼んでも」
「分かったから。友達友達言うな。分かってる」

 他意なんて無いのは分かってる。本名で呼ばれる事で距離が近くなったと感じるのは俺だけで、カナメにとってはただの征服欲を満たす行為でしかないなんて事も。分かっているからこそ、気持ちの距離を感じてしまうのだ。俺だけが熱に浮かされた、無様な心が晒されるようで。

「で、義久は? 何食べるか決まってんの?」

 許可を貰えたと思ったのか、カナメがいとも簡単に俺の名を呼ぶ。こいつには散々色んな価値観を壊されてきたが、とうとうSMだけの関係をここまで近いものにされてしまったか。もうストレス解消とか性欲発散とか、そういう枠を超えてきてしまった。俺が病む前に解消してくれるといいな、と、遠くを見るような気持ちになった。

「俺は、どうせいつもカリカリチキンカレー4辛にチーズトッピングだから」

 同じ物を頼みすぎて、俺が注文をとると「カ」のあたりから注文票に記入が始まっているレベルだ。一応聞きに来てくれるだけ、ここの店員は優しい。

「え、4辛? それかなり辛くないか。俺2辛が割と限界なんだけど」
「2辛じゃピリ辛くらいだろ。子供かよ」
「いやいや、ここのカレー他の店舗でたまに食べるけど、元が結構辛いし。俺は旨辛が好きなんだよ」
「4辛でも美味いし」
「3辛超えると舌が痛いレベルになるじゃん。美味しく食べれるのは2辛までだって」
「チーズトッピングすると少しマイルドになるから痛い程じゃないぞ」
「ええー……、じゃあ、ゴロゴロ野菜カレー3辛にチーズにしてみるかな……」

 散々言い合い悩んだ末、やっと決めたカナメが呼び出しボタンを押すと、待機していただろう店員がさっと出てきた。

「ゴロゴロ野菜カレーの3辛に、チーズトッピングでお願いします」

 にっこり笑顔で、爽やか明朗に。久々に見た、カナメの『表の顔』に、むしろ新鮮さすらある。そういえば以前テレビの仕事が減るから時間が増えると喜んでいたが、確かに最近は職場のテレビでもほとんど見なくなった。しかし、映画の宣伝が終われば急に仕事が無くなるというのも、怖い仕事だ。カナメが仕事について愚痴っているのは聞いた事がないが、そういうプライベートを一切口にしないのは、もしかして俺への牽制だったりするのだろうか。

「か……」
「カリカリチキンカレー4辛チーズと、ゴロゴロ野菜カレーの3辛チーズでよろしいでしょうか」

 そんなことを考えていた所為で自分の注文を言うのを失念していたのだが、慌てて言いかけたあたりで復唱されて苦笑した。
 はい、と答えると、店員はまたさっさと厨房に戻っていく。良く言えば効率的、悪く言えば……。

「なんか、愛想悪くないか」

 カナメが首を傾げている。彼のようなVIP待遇に慣れた人間にとってはそう感じても仕方ないかもしれないが、生まれてこのかた平平凡凡な人生を送ってきた俺にとっては普通である。むしろ居心地が良いくらいだ。

「だからよく来てるんだよ」

 色々を省略してそれだけ言うと、やはりカナメには理解できないようで。

「愛想悪いから来てるって、何それ」
「最低限でいいんだよ。飯食って帰れれば十分」
「ふーん……?」

 頷きながらも、やはり不思議そうだ。これだけ価値観が違えば、そりゃ相手にもされないだろう。別の世界の彼の愚痴を聞かされても、俺に出来るアドバイスなんて無い。
 しょうがないのだ。早く諦めれば楽になれるぞと、自分の中で何かが囁いてくれている。それなのに俺は、目の前で水を飲んで動く喉から視線がはずせないでいる。本当に馬鹿だ。

「今週、ほんとはどの日が休みなんだ」

 結露して水滴の垂れるコップを置いたカナメが、探るように視線を向けてきて、そういえばとカナメが俺の家に来た理由を思い出した。

「今日と、木曜」

 嘘をついても仕方ないかと、正直に答える。俺も水を飲んだ。氷が唇に触れるのが冷たくて不愉快だ。そろそろこのサービスの水も、例年通り温かい麦茶に変わる季節だろうか。

「だったらなんで水曜の夜が無理なんだ」
「今はただの友達なんじゃなかった?」

 カナメの詰問するような口調に、反抗心が芽生えてからかう台詞を吐いた。が、かなり強めに睨まれて口を噤む。

「休みなら大丈夫だよな? 場所はこの間と同じ……」
「疲れてるから。ここんとこ毎週だったから、少し休みたい」

 強引に約束されそうになって、それを遮って言葉を重ねた。彼の目が、俺の言葉に裏が無いか探るように見つめてくる。
 なんでそこまでして、毎週?
 ふと怖くなった。この男の執着は、いつまで続くのか。セックスした事で、支配欲はだいぶ薄れたと思ったのに。

「疲れて何も出来ねぇなら、俺が全部する」

 カナメの目が据わってきた。ちょっとスイッチ入ってるのか、口調が荒い。この些細な変化は、プレイ中は興奮剤だが、今はちょっとまずい。

「ご注文のお品です」

 空気を読まないでくれるのが、逆に有り難い。カレー皿の載った盆を2つ置いて、やはり店員はすぐさま消えていく。それでも、カレーを見て空腹を思い出したのか、カナメの雰囲気が緩んだ。

「まあ、先食べよう」
「ん、いただきます」

 空腹に耐えかねてか、言うが早いかカナメがカレーを食べ始める。
 2辛が限界だと言っていた割には、割と平気そうに食べるのでホッとした。勧めておいて辛くて食べられなかったら申し訳ない。俺も食べ始めると、カナメは3口に1回くらい水を飲みながら、コップを持ち上げる度に俺を見た。
 別に、不自然ではない。一緒に食事をしているなら視線が向くのは当然の事で、しかしカナメに見られながらの食事は緊張してしょうがない。対して俺はカレーから視線を上げない。上げられない。何故だか今になって猛烈に恥ずかしい気がする。
 好きな人に食事に誘われて、何故よりにもよってチェーン店。考えようによっては、店のチョイスで自分の印象を上げるチャンスだったかもしれないのに。三十路にもなって、そこまで頭の回らなかった自分が情けない。

「……そんなに疲れてんなら、温泉でも行くか」

 俯いて黙々と食べる俺に、気遣うような声がかけられて、反射的に顔を上げてしまった。
 視線の先に、うっすらと微笑む色男。どこからかフェロモンでも漏れているんじゃないだろうか、淡く発光しているようにすら見える。実際は夕陽に照らされて光って見えるだけだとしても、フェロモンは本当に出ているかもしれない。だって、鼓動が早いのだ。ただ笑顔を向けてくれるだけで、好きで好きでしょうがないと思ってしまうのだ。フェロモンのような、目に見えない何かのせいにしてしまいたい。

「義久の仕事上がりに迎え行くから、ちょっと遠出して……群馬あたりとか。一泊してゆっくり温泉浸かって、帰ってくるだけ。それならいいだろ?」

 男2人で一泊旅行。それをさも普通のように言うのは、他にもそういう友人がいるからなのだろうか。きっと楽しいだろう。体は休まるだろう。だが、だめだ。

「悪いけど、一人でゆっくりしたい」

 完全なる拒絶。オブラートに包む事もせず、俺は好きな相手の好意を無下にする。

「俺と居たら休まらねぇか」
「俺も男だから、好きな相手に泊まりの旅行に誘われたら期待しちゃうからさ」

 肩を竦めて、吐き捨てた。苦くなった口に、カレーを突っ込む。鼻の奥がツンと痛む。泣くな、情けない。

「だから、……何度も言ってるけど、もうこれ以上、プライベートに入ってこないでくれるか」

 精一杯普通に言ったのに、答えの声は返ってこない。結局そのままカナメは黙り込んでしまって、食べ終わって店を出ると、「これからまた仕事だから」と明らかに機嫌を損ねたまま帰って行った。
 これならきっと。
 その時はそう思ったのだ。
 次の木曜、昼前に持ち帰りピザの箱を抱えてきたカナメを見るまでは、確実に。少なくとも来週までカナメの顔を見る事は無いだろうと。

「俺……、一人で休みたいって言わなかったか……?」
「これ食ったら適当に昼寝してるから気にすんな」

 ここまでくると脱力した。俺が何を言おうと関係ないのか。そこで諦めてしまったのが悪かったのだろうか。
 翌週から、週に2回の休みには、確実に昼より少し前に来るようになった。土産のつもりなのか、毎回どこかでテイクアウトしてきたらしい、まだ温かい食べ物を持ってくるものだから、追い返すのも気が引ける。しかも休みを教えなくても、勝手に俺のスマホのカレンダーを見てやって来るのだ。
 飯の後は、俺のベッドで夕方まで寝ている事もあれば、ソファで読書をしている俺の横でスマホゲームをしている事もある。「見たい映画があるから」と、レンタルDVDとポータブルプレイヤーを持ってきて、一緒に見た日もあった。最初は特に興味も無かったが、1から5作目まである、続き物のアクション大作だったそれに気が付けば見入ってしまって、翌々日の俺の休みには、朝から2人で最新作までぶっ通しで画面に魅入った。見終えたのはもう夕刻過ぎで、疲れてそのまま狭いソファで爆睡して、夜中に寒さで目が覚めてまた2人で笑ったのだった。
 正直に言えば、楽しかった。カナメを好きだというのを差し引いても、ただ2人で過ごすのが、とても居心地良くて。彼となんでもない日を家で過ごす、ただそれだけがとても。
 最初は何かプレイの下準備的な策があるのかとも勘繰ったが、それが2ヶ月も繰り返されて、どうやらただただ『友人の家に遊びに来ている』つもりなのだと納得することにした。ある日など、昼休憩中だったのか、飯の後に「仕事だからもう行くわ」と慌てて帰って行く事さえあった。俺の家を何だと思っているのだろう。
 いや。彼は俺を、どんなまともな奴だと思っているのだろう。

「……っ、は、ふ」

 カナメの昼寝していった布団に顔を埋め、残り香を吸い込む。鼻腔にあの不思議な甘い匂いが感じられて、玩具を握る手がローションで滑った。後孔に埋め込んだディルドを掴み直し、殊更深く穿つ。

「は、っ、……う」

 足りない。けれど、充分だ。
 カナメと体を繋げたあの日から、もう5ヶ月。穴の奥の快楽を知った身体は知らなかった頃には戻れず、しかし、どうしても指をそのまま入れる事には抵抗があって、結局意を決してネット通販で男根を模した玩具を買ってしまった。それ以来、ほぼ毎夜のようにお世話になっている。イけなくとも、気持ちよくなれる。あの晩を思い出せる。それだけで十分だった。
 もっと奥まで暴かれた。唾液を飲まされ、舌の根まで舐められた。失神するまで責め立てられて何度も中出しされて、忘れられない夜になったのは、だけど俺だけだ。
 カナメは昼間来るようになってから、誘いをかけてこない。もう俺にはSM相手としての魅力を感じないのかもしれない。それでも、微かに残った独占欲が、俺が浮気しないか監視する方向に向いているのだろう。
 きっと、もう二度と抱いてはもらえない。投げやりな感情が自分を傷付けて、それすらなんだか気持ち良くて、たぶん俺は精神的にもマゾの素質があったんだと思い知らされた。
 だから、カナメが帰ったら我慢できなくなる。感触も大きさも全く違う玩具で惨めに自分を慰める事が、やめられない。

「は、は、はっ、ぁ、は」

 最初の頃よりかなり緩んだ尻穴が、ゴム製の玩具に責められ、ローションを垂らして悦ぶ。なんて情けない。被虐感にぞわぞわと鳥肌が立った。俺はSMから離れられない。結局汚いマゾでしかないのだから。それでも、ほんの少し残った綺麗な白い部分が、他のSを探すのではなく、玩具を選んだのだ。恋心とは、ほとほと恐ろしい。
 その晩もとうとう達する事が出来ず、腕が疲れたからという理由で適当に切り上げた。







「クリスマスは予定あるのか」

 唐突に聞かれ、その問いの意味すら考えず「25日? なら、仕事」と答えた。
 ソファに座って男二人でスマホをポチポチと連打する。カナメが最近ハマッているというスマホゲームで協力プレイ中だ。肌触りが気に入っているから、とカナメが持ってきたシープボアのキングサイズの毛布に二人で包まって、より効率的に周回するにはどうすべきか、あーでもないこーでもないと議論を交わしている途中だった筈なのだが。

「クリスマスに予定聞くってなったら、24のイヴに決まってんだろ」

 小馬鹿にしたように笑われたが、モテ男界の常識なんて知った事ではない。

「俺の中では、クリスマスに予定聞くってのは、シフト入ってくれって懇願と同義なんだが」

 アルバイトの年齢層的に比較的若い独身が多く、だから例年、十二月の年末あたりはシフトを埋めるのに難儀する。今日だって、俺はどうしても埋められなかった18時から20時までの2時間だけの為にこれから出勤しなければいけないのだ。ガソリンスタンドというのは有資格者が出勤していないと営業する事が出来ないのだが、うちの店舗にはそれが店長の俺と副店長の鈴生を含めても4人しかいない。シフトを回すにはギリギリなのだが、来年にはそのうちの一人が就職で居なくなってしまうから、今から有資格者を探すのに必死だ。
 ゲームから急に現実の忙しさに帰ってきてしまって、げんなりした。

「24日は?」

 どうやら何か用事でもあるのか、しつこく聞いてくるのを「仕事」とバッサリ切り捨てた。

「今年は20日から来年の4日まで休み無し。地獄の15連勤だ」
「じゅうご……」

 思わず繰り返したカナメが、呆けて口が半開きになっている。それでもイケメンなのがむしろ怖い。造形の完璧さは中身のアホさを完璧に隠してしまっていて、たまに寂しくさえあるが、その中身を知っている事は少し誇らしい。恋煩いというのは本当に人をおかしくさせる。

「なんか用事あったか?」

 一応聞いてやるが、カナメはもう興味を無くしたのか、首を横に振って否定を示した。
 一瞬でもクリスマスイヴを一緒に過ごさないかという期待を抱いた事くらいは許してほしい。
 ピピピピピ、と小鳥の鳴くようなアラームが鳴り、スマホゲームが中断された。

「仕事か」
「おう、行ってくる。今日はこの後どうする」
「帰って寝る」

 了解、と俺が着替えだすと、カナメも一度伸びをしてから立ち上がって毛布を畳む。ちゃぶ台の上でアラームを知らせた青色のアナログ時計を台の角にきっちり寄せて、彼はよし、と一つ頷いた。スマホのデジタル表示は見難くて嫌いなのだと、自分で持ち込んだそれを、カナメは毎度同じ位置に直してから帰っていく。いつものようにスマホをダメージの酷いジーンズの尻ポケットに仕舞っただけで、さっさと玄関に行って靴を履き始めた。

「おい、毛布持って帰れよ」
「めんどくさいから置いといて」

 じゃーまた、とカナメはこちらを振り向きもせず部屋を出て行ってしまった。
 こんな調子で、少しずつカナメの持ち物が俺の部屋に増えていっている。時たま、片思いをしているのはどっちだったか分からなくなる。俺だったら、想いに応えられない相手の家に頻繁に遊びに行ったり荷物を置いていくなんて考えられないのだが。
 尋常でなくモテる男はそういう面でルーズだったりするのだろうか。それとも、キープ枠ぐらいには入れて貰えているのだろうか。淡い希望を持つ度に、自分で「ないない」と言葉に出して否定する。そうでもしないと、辛い。
 身支度を整え、寒くてかじかむ手を擦りながら歩いて仕事場に出勤すると、何故だかいつもとアルバイトの動きが違った。

「はよーっす、久保田ぁ」
「おはようございます!」

 いつもはだるそうに「はざーっす」みたいな謎の挨拶をしてくる大学生のアルバイトが、やけにハッキリ挨拶を返しながら、いつもなら絶対にやらない枯れ葉掃除なんかしているものだから、なんだか嫌な予感でいっぱいになった。

「おはようございまーす……」

 挨拶しつつ事務所に入ると、理由はすぐに分かった。
 黒いスーツに身を包んだ、ガッチリ体型で眼鏡の老人──とは言っても、まだ齢六十前なのだが──が、煙草を吸いながら今月の売上ファイルをめくっていたからだ。

「うん、おはよう。服有くん」

 彼はつまり、俺の上司だ。センショー石油という親会社の、ガソリンスタンド部門、関東支部を支配する──いや、統括する、最近の彼の名刺をそのまま引用するなら、関東総合エリアマネージャー。
 そういえば久保田は来年親会社を受けると言っていたな、と思い出した。

「弓野マネージャー、いらっしゃってたんですか。お久しぶりです」
「うん。久しぶり。では、あまり時間が無いから手短に話すよ」

 常に予定に追われた上司のせっかちな話しぶりはいつもの事で、彼の差し出した三枚の封筒を受け取ると、すぐさま中の書類を取り出して確認する。それは履歴書で、ニ枚は俺と同じくらいの年の男、もう一枚は若い女の写真が貼られていた。

「一枚目の鈴木くんは三級整備士で、乙四は今うちの研修センターで取得中だ。二枚目の金木くんは乙四持ちの二級整備士。三枚目の鈴木さんは産休明けで、もとは本社の事務だったが産休中に乙四を取得していて、本社戻りではなく時短勤務を希望している。全員今は契約社員だ」

 弓野の話に耳を傾けながらその経歴をざっと読み、若干嫌な予感がする。
 乙四というのは危険物取扱者というガソリンスタンドを営業する上で必要な資格の一種で、確かにうちの店舗に必要だから求人を出してくれと上に連絡はしておいた。だが、わざわざ整備士資格持ちを連れてくるという事は──。

「年末からこの三人をここに異動させる。来年の四月を目安に、ここを認証整備工場にする」

 やっぱり、と顔には出さず嘆息した。
 うちの店舗は工場にリフトが一基しかない上に、整備士が社員二人しかいないから、という理由で車検業務を追加されるのを何年も逃れていたのだが、どうやらそれも終わりらしい。

「本当なら指定工場をとりたいんだが、周りの土地が買えなくてね。リフト一つでは足りないからやむなしだ。こっちで点検整備を終わらせて、北赤羽店に持ち込んで車検を切ってもらってくれ」
「トラックはやりませんよね?」
「今のところは考えていないな。……君はまだ運転はできないかね?」

 大型トラックの整備から免れホッとした束の間、弓野が眼鏡を光らせながら問うてきた。

「……すみません」
「いや、いい。分かった。では、その三人のシフトを今日中に決めて私のメールまで送っておいてくれ。鈴木さんは明後日から入れるそうだが、31日から2日までは保育園が休みなので出勤できないそうだ。他二人は来週から、年末年始も出勤可能」
「承りました」
「ああ、できればシフトを写真で撮って添付してくれ。PDFは嫌いだ」
「了解です」

 くす、と笑うと、弓野も釣られて笑った。

「北赤羽店の奴らが寂しがってたよ。一級持ちの服有がいないと電装系の故障に時間がかかってしょうがない、と」
「電装系は俺も嫌いですよ」
「好き嫌いと出来る出来ないは別だろう」

 簡易な椅子から立ち上がった弓野が肩を竦めて残念がるのを、申し訳無さとどうしようもないじゃないかとやりきれなさの混じった感情で見る。

「それじゃあ、私は本社に戻る。従業員が増える件の周知と、シフトの件、頼むよ」
「はい。お気をつけて」

 事務所から出て弓野の白いマークXを見送ると、姿の見えなかった鈴生が工場から窺うように顔を出してきた。

「マネージャー帰った?」
「帰ったよ。なんでお前逃げてんだよ」
「あの人、いつもディーラーに戻らないかって言うから苦手で」

 片手に缶コーヒーを持った鈴生も、一緒に事務所に戻る。机に置かれた履歴書に一瞬喜んだようだが、俺が「二人整備士、全員乙四持ち。来年認証とるって」と言った途端、あからさまに肩を落とした。

「とうとうか……」
「タイヤ交換にワイパー交換、オイル交換専門のチェンジニア生活とはお別れだ。晴れてエンジニアに戻れるぞ」
「晴れねぇわ。豪雨だわ」
「てんちょー、弓野さん何の話だったんスかあー」

 俺達が事務所に戻ったのを見たらしい久保田も戻ってきて、早速椅子に座って休む。この店舗に仕事熱心な従業員はいない。
 上がり時間の久保田と鈴生がタイムカードを切って着替えるのを横目に、かいつまんで従業員が増えるのとシフト変更の件を伝えると、やおら二人のテンションが上がった。

「だったら、俺25に休み欲しいっす!」
「俺も!」

 二人して彼女持ちなのを思い出し、しょうがねぇなとシフトを書き直す。アルバイト用のグループチャットに『シフト減らしたい奴いる?』と書き込むと、すぐに既読がついて、次々返信がきた。もともとかなり無理して組んでいたから、三人を組み込むとかなり楽できる計算になった。すぐ終わったな、と写真を撮って弓野に送ろうとしたのを、「ちょっと待て」と鈴生に止められた。

「お前、自分も減らせよ」

 言われてから、自分のシフトが真っ黒なのを思い出した。

「おわ、鈴生さんきゅー」
「まあ確かに、珍しいしな」

 急なシフト変更といえば増えるばかりだから、自分のシフトを減らすなど初めてに近い。修正液を使っても見難く、結局新しいシフト表を出して書き直した。俺のシフトが最大5連勤の健康的なシフトになったのを見届けて、鈴生と久保田は帰っていった。24日は夜からパーティ、なリア充アルバイトが多く、19時から22時までという微妙な時間だけはどうにもならなかったが。

「20と、26、28が休みで、4日が半休……と」

 スマホのカレンダーアプリに休みを入れようとして、ふと指を止めて、全てキャンセルした。
 そう。休みを入力しておくから、カナメが来るのだ。カナメにはもう年末年始は連勤だと言ったし、カナメにバレている次の休みは明後日の19日で、だからその翌日まで記入しなければ、次にカナメが来るのは来年だ。休みでない日に来た事は無いのだから。なんでこんな単純な事に気付かなかったのだか。
 まあ、カナメが来るのが嬉しかったからなのだが。
 シフト表の写真を弓野マネージャー宛のメールへ添付して送る。夕勤のアルバイト達が来るまであと一時間半。暗くなってきたから、展示用のタイヤだけ仕舞おうかな、と準備体操的に伸びをしたところで、スマホの着信音が鳴った。

「もしもーし」

 電話してきたのは帰ったばかりの鈴生で、何か忘れたのかと気軽に出た。

『今平気か?』
「大丈夫、客無し」
『あのさ……24日って、空いてるか?』
「……」

 なんだか同じ事を聞かれた気がする。嫌な予感にさっき書き直したシフト表を見るが、しかし鈴生は24日はもともと休みを取っていたようだ。代わりに出て欲しいというのでなければ、何の用だろう。

「19時入りだから、その前までなら空いてるけど」
『良かった! 悪いんだけど、俺に服見繕ってくれ!』
「は? 服?」
『夜、彼女とちょっと良いレストラン予約してて……プロポーズするつもりで』
「おっ。いいね、がんばれよ」

 長話になりそうだな、と椅子に座り直し、給油に入ってきた車を監視カメラで確認しながら給油開始のボタンを押す。

『それで、そのレストランがさ、ドレスコード? があるらしくて。スマートカジュアルとか言ってたかな』
「スマートカジュアル? ……どんなのだ?」
『だよなぁ……』
 困り果てた声に、申し訳ないが笑いがこみ上げてきた。
「んで? なんで俺?」
『お前、たまに綺麗なカッコしてるじゃん。仕事上がりにどっか行くって雰囲気でさ』

 ドキッとした。どこに行くかはバレていないだろうにせよ、とにかく普段と雰囲気が違う事は、服に無頓着なタイプの鈴生にさえ分かっていたらしい。

「あ、ああ。あーいう感じでいいの? ちょっと綺麗な普段着って感じだけど」
『いや、分からん』
「おいおい」
『だからさ、お前の行ってる店で店員に聞けばいいかなって。俺普段、服屋とか行かないし、店員に話しかけるのもなんか怖いし……』
「子供か! ……まーいいや。分かった。んじゃ、とりあえず近場のリオンモールでいいか? あそこなら一店舗くらいそういうの売ってる店あるんじゃね」 
『ああ、うん。じゃあ頼むわ』
「ういー」 

 通話が終わると、一つ溜め息を吐いた。
 彼女にプロポーズかぁ。
 同い年の同僚が一生のパートナーを考える頃合いなのに、俺はいまだに性欲中心で。しかも、欲の果てに年下の男に熱を上げて。情けないったら、もう。笑うしかない。
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