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神は絶対に手放さない
29、隻谷の死と志摩宮の生
しおりを挟む初めてその人を見た時、「猫だ」と思った。
眠そうに半分閉じられた二重の奥の茶色い瞳が馬鹿でかくて、白目が殆ど見えなかったからかもしれない。小さい頭に、黒目が目立つ瞳と、スッと通った鼻と小さな唇。
愛され庇護されるのが当たり前の家猫じゃない。飼われていたのに捨てられた、純血の野良猫。
閉じられた門扉を乗り越えた俺を彼が視界に入れて、すぐに興味無さそうに視線を逸らしたのに少し驚いた。
男子高校生として長くも短くもない長さの黒髪は、セットされていないどころか寝癖がついている有様で、一応制服は着ているが今起きましたと言わんばかりだ。寮生なのだろう。そして、この時間に堂々と遅刻している。とすれば、先輩か。
そうアタリをつけて、わざと図々しく話しかけた。
彼は俺と話すのを拒絶しなかった。逃げる素振りもなく、だからといって友好的でもなく。
この人はきっと、階層的に上位だろう。
だから、適当な理由をつけて喧嘩を吹っ掛けた。
上を潰せば、その下が絡んでくる事は無い。それが俺が今まで積んできた処世術だったから。
外見をガン見されるのなんていつものことだから、今更不愉快に思うことでも無いのに、彼はそれが理由だと思ったようだった。盗み見ていた俺の瞳を直視してから、嬉しそうに薄く微笑んで、そして視線を逸らした。
心臓が持っていかれた気がした。
俺を見て、俺の濁った目を見て、嬉しそうにする人。
なんだこの人は。
意味が分からなくて、とにかく早く殴り飛ばそうとしたのに、彼に俺の拳は届かなかった。蹴り足も避けられて、今まで無い事ばかりで内心動揺していた。
昔から、喧嘩で負けた事がなかった。というかもはや勝負になりすらしなかった。だって、拳を振れば相手は倒れるから。
そしていつも言われるのだ。
「あいつ、日本人じゃないから」。
だから喧嘩の才があるのだろうと、周りがそう言っているからそうなのだろう。
自分の国籍は日本だから日本人だとか、そんな反論をする気も無かった。
だって俺は、普通と違う。皆と違う。一目で分かることだ。
日焼けしたわけでもないのに浅黒い肌に、濁った色の緑の瞳。日本人と同じの筈の黒髪だって、大半は真っ黒じゃなくて濃い茶色だから、結局俺とは違う。
俺は普通の日本人じゃない。
生まれも育ちも、外見すら、『普通』を与えてもらえなかった。
親の顔も覚えていない。
保護者として年に何回か会う人ですら母方の親戚の代理人だとかで、俺には親族といえる人間がいない。
普通じゃないから、俺が負ける訳がない。
なんの根拠もなく、そう信じていた。
それを、彼はぶち壊した。不思議そうに首を傾げて、「なんで?」と。
不思議なのは俺もだ。俺が負ける訳がない。なのに、目の前の彼に勝てる気もしない。
嬉しかった。
俺と同じ、普通じゃない人を、やっと見つけた。そう思った。
つい楽しくなって、気を緩ませた彼を失神させてしまったのはわざとじゃない。
意識を取り戻した彼に取り入って、「舎弟にしてくれ」と近付いた。ヤンキー漫画は沢山読んだ。喧嘩で負けたら舎弟になる。そういうルールの筈だ。物理的に勝ったのは俺かもしれないが、もう二度と勝てない自信が俺にはあった。だから俺が舎弟になる。実に分かりやすい話の筈なのに、彼は俺を困ったものみたいに扱った。
邪険にはされないが、傍に置いてもくれない。
だから粘った。粘りに粘って、『先輩』を観察し続けた。
先輩は最初の印象通り、野良猫のような人だった。
色々な場所で、色々な人と、その場限りの会話をして、遊んで、去っていく。上辺だけで楽しく軽く付き合って、でも誰も深くは寄せない。近くに寄ろうとすると、笑顔のまま引いていく。そうやって自分で人を避けている癖に、寂しそうにするおかしな人。
沢山の知り合いがいて、でも友人と呼べそうなのは蛍先輩だけだった。
だから、蛍先輩とデキているんだと思っていた。だから唯一で、特別なんだと。
蛍先輩は、先輩と寮が同室で、そして中学時代からの友人だと言っていた。蛍先輩は何故か、俺が尋ねた事は何でも答えてくれた。
だから蛍先輩が謎の催眠術みたいなのを何度も掛けながら「俺に反抗しない」と何度も言うのにも、掛かったフリをしてやる事にした。
先輩とお近付きになる為には、蛍先輩に気に入られるのがかなり近道に思えたからだ。
俺の目論見はほぼほぼ成功して、俺は蛍先輩に次ぐ距離まで詰められた。
友人というよりは、纏わりつく犬として見られているような気がしたが、何でも良かった。傍に居られればなんでもいい。普通じゃない先輩と一緒に居ると、周囲から俺も先輩と同じくらいの『普通じゃない加減』で見られる気がした。
ある一件から、霊だの神だの、よく分からない事を言い始めた先輩と蛍先輩に一瞬ヤバい薬でもやってるのかと思ったけれど、もうその頃には先輩から離れるなんて精神的に無理なくらい、先輩にどっぷり浸かっていた。
先輩が俺を見ると、なんともいえない幸せな気持ちになるから。
スマホでゲームをしながらだって、正面から見つめられれば気付くに決まってるのに、先輩は俺に気付かれていないと思い込んでじっと見つめてくる。その目には、なんの悪意も無かった。ただ見惚れてる、みたいな、思い返すだけで胸が暖かくなる視線。
先輩が俺を見ていてくれるなら、なんでもしようと思えた。
もっとずっと俺だけ見ていて欲しくて、そう考えたら触れたくなって。
女とするような事を先輩と出来たら、先輩を俺だけの物に出来るかもしれないと思って。
押しに弱くて流されやすくて、しまいには気持ちいいのにも弱い先輩とそういう関係になるのは、呆気ないほど簡単だった。
セックスしている間、先輩は俺をずっと見てる。緑の目も、茶色い肌も、俺のどこを見ても、先輩は優しい目の色を変えない。それがたまらなく幸せだった。
蛍先輩には裏で散々「挿れるなよ」と念を押されていたが、挿れる挿れないなんて些末な問題だった。俺は先輩がこっちを見てくれればそれで良かったから。
そう思っていたのに、先輩と行為を重ねる度、何故か酷く辛い気持ちになった。
流されて俺とこんな事を出来る先輩は、流されれば他の男ともするんじゃないか。気持ち良ければ、誰とでもこんな関係になるんじゃないのか。こんな──優しくて暖かい目で、俺以外を見るんじゃないのか。
それを考えると、腹の底がふつふつと沸き立って、いてもたってもいられなかった。
俺だけを見てほしい。
俺だけを、特別に。
俺の事だけ、愛して欲しい。
突き詰めれば単純な話だった。
俺は先輩が好きだったのだ。
なのに。
幸せな日々が壊れたのは、突然だった。
セックスの真っ最中に先輩に触れなくなって、蛍先輩に相談するからって帰られて。
その夜、蛍先輩に呼び出されて、「静汰の記憶が無くなった」と言われた。
始業式の日、俺と会った日から四ヶ月分の記憶が失われた、と。
理由を聞けば、「静汰がそう望んだから」だという。
俺に関する記憶を消し去らなければ、俺に触れられない。だったら忘れる方を選ぶ、と。
そう思ってくれたのは嬉しい。けど、それならそれで、先に言って欲しかった。
なんの覚悟も出来ていない状況で、これから初対面みたいな先輩にどう会えっていうのか。
蛍先輩の予想では、記憶が消えるとしても飛び石のようにぶつぶつと記憶が途切れているようになると思っていたらしい。
が、呪いを解いた後の先輩は、どうやら明日が始業式だと思い込んでいた様子なのだという。
「つまり、四ヶ月丸々、お前の事ばっか考えてたって事だな」と蛍先輩は言った。記憶同士は木の根のように繋がっているから、僅かでも俺の事が意識にあれば、呪いを解く為に消す記憶に繋がっていき──結果、四ヶ月全て消えてしまったのだ、と。
喜んで良いのか悪いのか、その時はよく分かっていなかった。
ただ一つ、俺が思ったのは、『やり直せる』という思いだけ。
先輩との付き合い方を、最初からやり直せる。先輩に嫌がられた、セフレとの繋がりだとか「怖い」と言わせる迫り方だとか、そういう事を全て無かったことにしてやり直して、先輩の望む形での俺を作り出せる、と思った。
だから、先輩が気に入っていた、『大人しい忠犬、付き従う可愛い後輩』としての俺をやり直したのに。
忠犬では、先輩に触れられなかった。
俺を見て欲しくて先輩の好む俺を演じた筈なのに、先輩は俺を見なくなった。先輩が好きだったはずの俺の目も、盗み見られる事がなくなった。
いっそ前のように強引に犯してやろうかとも思った。どうせ気持ち良くしてやればナアナアにして許すんだろうと。
でも、それをしたら、やり直した意味が無い。
俺を好きになってほしい。好きだからキスしたい、好きだからセックスしたいと言わせたい、思わせたい。
ひたすらに我慢して、押し隠して、少しでも先輩の傍に居続けられるように、霊が見える力まで手に入れて。『先輩と過ごす夏休み』を捨ててまで、先輩の為に費やして呪いを掛けた奴と箱まで見つけてきたのに。
俺が少し目を離した隙に、『可愛い後輩』面した奴が先輩の傍に居座っていた。
俺の話をどうでもいいみたいに切り上げていかれた時は、正直発狂しそうだった。
好きだから、我慢した。我慢できた。
俺の場所を奪い返す為に、黙って付き従って、何でも言う事を聞いた。何でもするから、また俺を見て欲しかった。
それなのに。
久しぶりに俺をまっすぐ見てくれた先輩は、俺を見て「神様」と呼んだ。
違う。
俺は神様なんかじゃない。
俺を見て、俺じゃない奴を呼ぶ先輩。許せなかった。許せない筈なのに、俺の手は先輩の頭を撫でていた。
まだ触っちゃいけないのに。まだ、先輩は俺を受け入れていないのに。触れずにいられなかった。体が勝手に動いて──勝手に動かされていた。
「なんで」
先輩はそう言ってから、気を失って倒れてしまった。
慌てる他の奴らを押し留めて、「寮まで運ぶから大丈夫」だと言い張って、俺一人で先輩を抱えて寮まで戻った。
蛍先輩が不在なのは知っていたから、勝手に先輩の財布から鍵をとって部屋を開けた。先輩をベッドに寝かすと、すうすうと穏やかな寝息が聞こえた。
閉じた瞼の奥の瞳が、俺を見なくなったのはいつからだろう。
暑さで額に張り付く前髪を避けて、眉間に唇を当てた。先輩の体温。先輩の匂い。触れられなかったのは期間でいえば一ヶ月足らずで、なのに俺はもう禁断症状が出そうなくらい追い詰められていた。
汗ばむ首元に顔を埋めて、胸いっぱいに匂いを嗅いだ。
これだけで我慢するから、これくらいは許してほしい。
そうして先輩の匂いに包まれている間に、俺も寝入ってしまったらしかった。
懐かしい夢を見た。
夢だと分かるのは、もうそれがずっとずっと過去だと何度も自分に言い聞かせたからだ。
物心ついた頃から、俺は家族というのが『俺を除いた何か』なのだと知っていた。同じ家に住む、俺を除く全員が『家族』というもので、俺は雨風凌げる空間と食事を提供してもらっているだけなのだ、と。
数ヶ月ごとに違う場所と違う家族の中に入れられる。それが当たり前だった日々に、「お前の父親だ」と名乗る男が現れた。
連れて行かれた先で、俺は硬くて重い玩具を渡されて、大きな袋に向かってそれを使った。俺が言われた通りに指を動かすと袋から人の声が聞こえたが、父親という男は「よくやった」と俺を褒めた。
何度もその遊びをした。そのうち、袋すら掛けられず、人の形をしたものに、俺は玩具を向けた。悲鳴も、呻きも、よく分からなかった。俺は父親に言われるがままにしていただけで、そうすればたくさん食事が貰えた。
ある日の人形が、俺に話しかけてきた。「家族がいるんだ」「助けてくれ」と、泣いていた。涙は知っていた。俺もよく出た。だから、きっと心の中が空っぽでとても寒いんだと思って、その日は玩具で遊ぶ気になれなくて、初めて父親の言う通りにしなかった。俺は父親に殴られ、父親は玩具を俺に向けた。腹が熱くなって、痛くて気を失った。
目が覚めた時、俺の腹には白い布が沢山巻かれていて、動けない程痛かった。痛いと声を出したら、部屋に入ってきた人が俺を蹴った。声を出すともっと痛い事をされるから、静かに泣いた。
動けるくらい痛みがなくなった頃、また父親が来た。
玩具を俺に渡して、一枚の写真を見せた。男の人が写ったその写真を指して、父親は「こいつを殺せ」と言った。
「ころす、って、なに」
「いつもみてぇにこれを使えばいい」
玩具を握らされた俺は、箱に入れられた。
目を覚ました時、箱は開けられていて、俺の周りを沢山の人が囲んでいた。
その中に、写真の人がいたから、俺は玩具をその人に向けた。
俺はもう知っていた。玩具を使われると、痛い。痛くて、起きられなくなる。俺を囲んでいる人たちが、俺と同じ玩具を持ってる。だからきっと俺は、もうすぐ痛くて起きられなくなる。
でも、もうよかった。どうでもよかった。お腹が空いていて、痛くて苦しくて、もう起きられない方が良かった。
ゆっくりと玩具を向ける。男の人が痛くならないように、指が玩具のスイッチを押さないように気を付けて向けた。周りの人が、一斉に俺に玩具を向けた。
記憶が飛んで、俺は女の人に言葉を教えられていた。
あし。いか。うさぎ。えほん。おかし。
はい。そうです。ちがいます。ありがとうございます。すみません。どういたしまして。
時たま、写真の男の人が来て、甘いお菓子をくれた。俺が「ありがとうございます」と言うと、頭を撫でて帰っていく。
俺が言葉を覚えると、女の人はいなくなった。代わりに数日おきに男の人が来て、ご飯の炊き方や掃除の仕方を教えてくれたりした。スーパーやコンビニで買い物をする方法を教えてくれたのも、この人だった。
またしばらくすると、俺は学校に行く事になった。同じくらいの大きさの人間と、勉強をする場所だと言われた。
父親のことは、あまり思い出せなくなっていた。段々昔の事を忘れていって、写真の人も、俺に生活の仕方を教えてくれた男の人も来なくなっていった。
そして、俺の保護者の代理人だという人が会いに来るようになった。弁護士、という仕事の人で、俺がちゃんと生活できているかの確認と、生きていく為のお金を毎月渡しに来るのだと言っていた。
お金が余ってしまって、財布に入りきらなくなったと言ったら、一緒に銀行に行って口座を作り、入金や出金の仕方を教えてくれた。スマホを契約してくれたのはこの人だ。
誰も俺に痛い事をしなかった。優しくしてくれた。
けれど、誰も俺の家族になってくれなかった。
一人が寂しくて、誘われるがままに担任の女の先生の家に行った。小学校を卒業する前に童貞を卒業したのだと理解したのは、中学の時に悠眞が見せてきたエロ本のおかげだった。
悠眞は小学校に編入した時からのクラスメイトで、俺の周りをちょこちょこと付いて回る変な奴だった。なんで俺に付き纏うんだと聞いたら、「霊が寄ってこないから」などと意味不明な事を言い出して、頭にきたのでネットで聞き齧った知識で消臭剤をぶっかけてやった。もう纏わりついてこないだろうと思っていたら、本当に効き目があったらしく感謝されて、いつも傍にくるようになった。まあ、目障りだけれど、学校で定番の『二人組み作って』という罰ゲームは悠眞のおかげで問題なく回避できるようになったので、持ちつ持たれつという間柄だったと思う。
中学に上がった頃から、女子が俺を見る目が、他の男への目と違うのに気がついた。教師でも同年代でも、頼めば女は何でもしてくれた。俺は寝そべっているだけでもいいし、気が向けば好きなように気持ち良くなる方法を試してもいい。何をしても、女は嬉しそうに甲高くて甘ったるい悲鳴をあげた。
女を傍に置いておけば寂しくならずに済むと気付いたのは良かったが、「彼女に手を出した」だので逆恨みしてくる男も増えた。全て返り討ちにしたが、だから俺には男の友人がいなかった。
相変わらず悠眞は俺の周りに居たが、そもそも俺はこいつと性格が合わなかった。脂っこい食事が好きで、騒々しい音楽が好きで、俺と居ない時はぎゃあぎゃあと騒ぐタイプな癖に、俺の前では大人しい猫を演じるのだ。撫でてくれと俺を見る目が、女みたいで気持ち悪かった。
だから、先輩と泊まっていた宿で悠眞からの電話をとったのも、先輩との空気を元に戻すのに良いタイミングかと思ったからだった。少し話してから部屋に入れば、先輩の事だから後には引きずらないでくれるだろうという打算のもと。
背中にゴミが付いてるのに気付いて静汰、と呼んだ時、真っ黒い靄が俺のスマホから湧き出て先輩に纏わり付いて──纏わり付こうとして、先輩の周りの虹色の靄に掻き消された。
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この黒い靄が蛍先輩の言っていた『呪い』で、それを掛けたのは悠眞なのだ、と。
電話の向こうでは悠眞がカンに触る甘えた声でごちゃごちゃと何か言っていた。除霊用のスプレーを零してしまった、不安だから今月はもう一つ売って欲しい、いつなら都合が良いのか、暇なら一緒に遊びに行かないか──。
自分に向けられていた悠眞の感情にやっと気付いて、極力優しげに返事をした。蛍先輩に事情を話して家まで帰って、それからずっと悠眞の機嫌を取り続けてやったのだ。
気のある素振りを見せ、優しくしてやり、触れたくもない体に触れて意識する風を装った。
全ては、呪いの証拠を見つける為だった。
急に距離を詰めた俺を不審に思うどころか、悠眞は喜んで俺を自宅に招いた。危うく体の関係にされそうになったが、なんとか『理性で押しとどまった』フリをして回避した。先輩以外に触れるなんて、もう面白くもなんともない。暇潰しにすら御免被りたいくらいだ。
呪いの証拠を掴めたのは、ある意味で先輩のおかげだった。
街でデートしようという悠眞に付き合って買い物をしている最中、通りがかったスイーツ店の中に先輩を見つけた。前に先輩に告白した女が一緒にいた。瞬時に気付いた俺は、隣に悠眞がいるにも関わらず店内に入って先輩を咎めようとして──、それを見た悠眞が、ポケットに手を入れて先輩に呪いを掛けたのだ。
てっきり部屋の中に厳重に隠してあると思っていた俺は、まさか呪物を持ち歩いていると思っていなかった。それで正気に返って、悠眞を上手く誘導して部屋に入れてもらい、襲うフリをして蛍先輩に教えてもらった紋で寝かせてポケットの中の呪物を見つけ出したのだ。
それが前にも見た『箱』だったのは驚いた。箱の表面には、蛍先輩に教えてもらった紋に似た紋が六面に描かれていた。
急いで蛍先輩に連絡したが繋がらなかったので、染井川さんに電話したらすぐに来てくれる事になった。そして、箱と一緒に寝たままの悠眞を回収していってくれたのだ。
蛍吾はどうせ朝まで起きないからと、一度家に帰ってから明日朝に報告すればいいと言われた。それが手柄を横取りする為の時間稼ぎの台詞だとは分かっていたが、俺にはどちらでも良かったので大人しく言う事を聞いた。
そして、やっとこさ先輩のもとに戻ってみれば、以前より更に頑なに俺を拒絶されるようになっていた。
勘弁してほしい。
俺はただ、先輩に俺を好きになってほしいだけだ。その為に努力しているのだ。先輩の望む形になるから、俺だけを見て欲しい。それだけなのに。
暑くて目を覚ました。
エアコンの無い寮の部屋は、窓が閉め切られていて蒸し暑かった。スマホで時間を確認すると、さっき先輩を部屋に運び込んでから二十分も経っていなかった。
「あち……」
ベッドの上の窓を開けた。網戸から風が入ってくると、肌の上の汗が冷えて身震いした。
「……ん」
先輩が身動ぎして、薄く目を開けた。ふらふらと彷徨った視線が、俺に止まって眇められる。先輩の口元が薄く開いて、口角が上がった。
「しまみや」
誘われた。そうだと思いたくて、彼の方に顔を近付けた。
あと数センチで唇が触れる距離で、先輩は俺から目を逸らす。
「俺、彼氏持ちに手ぇ出すほどクズじゃないよ」
「……は?」
カレシモチ。彼氏持ち。彼氏持ち?
頭の中で何回も漢字変換して、何のことかと先輩を凝視する。
「お前、彼氏いるだろ。見た」
「見た、って。誰のことですか。俺には彼氏なんていません」
「しらばっくれんな。街でデートしてるの見た。小さくて可愛い顔の」
街で? 小さくて可愛い?
考えて、それがどうやら悠眞に当てはまりそうだと気付いてブンブンと勢いよく頭を振った。
「ち、違います! あいつは、あいつは確かに俺の事好きみたいですけど、俺は全然!!」
必死に否定するが、先輩には響いていないようだ。
俺の方を見もせず、身体を起こして首元の汗をうざったそうに拭った。
「ああ、お前、そうやって自分に気のありそうな相手選んで遊んでんのか」
「な……、そんな事しません! 俺はっ」
「俺の事もそうやって遊んでんだろ?」
「は……?」
「もうやめてくれ。疲れた。もうお前の事ばっか見たくない」
俯いて首を振る先輩は、しかし言っている事がおかしい。
だって、それじゃあ。俺を好きだって言ってるみたいだ。
「せ、せんぱ……静汰」
「やめろ。先輩でいい。ただの先輩でいさせろよ」
「静汰」
静汰、と呼べなかったのは、怖かったからだ。
俺の居た場所には他の奴が居座っていて、もう俺の居場所が無いんじゃないかと思ったから。取り返さなきゃと思って、忠犬の後輩に必死に戻ろうとしていた。
先輩を「静汰」と呼ぶ、『その他大勢』に分類されたくなかったから。
「俺は、静汰以外を好きだと思ったこと、ないです」
俺が言うと、静汰は下の方で視線を揺らして苦笑した。
「そういうの、いいから」
「嘘じゃないです。俺はずっと先輩が、静汰が好きです。静汰だけです」
「……やめろ、志摩宮。信じたくなる」
「信じて下さい」
「でも、じゃあ……あの男は。あの電話は」
静汰の瞳が俺を見る。大きな黒目が、薄っすらと涙の膜で光っていた。
俺が泣かせてるのか。不安にさせたのは、俺か。罪悪感でいっぱいになるのに、その一方でひどく充足した気持ちになった。
俺を見ていない間も、静汰は俺でいっぱいだったなら。これほど幸せな事はない。
「あいつが、例の術師です。俺を好きだからって嫉妬して静汰に呪いを掛けたのがあいつです。呪いの証拠を掴む為に近付いてただけで、あいつとはキスすらしてません」
「……本当に? 蛍吾に聞いてもいいか?」
「いいですよ。むしろ今聞いて下さい」
俺が言い切ると、静汰はほうと小さく息を吐いて肩を落とした。緊張が解れたみたいに、頰に朱が乗って、俺はごくりと喉を鳴らした。
これ、今ならいけるんじゃないのか。
「静汰」
ゆっくりと顔を近付けても、静汰は逃げない。上目遣いに俺を見て、赤い唇を薄く開いた。
どう考えてもオッケーだろ。
そう思ったのに。唇が触れる寸前で、俺は不自然に体が曲がって頰にキスしていた。
「……え」
「ご、ごめん……っ、その、そういうのはまだ、心の準備が」
顔を真っ赤にして焦る静汰の言葉に、あの加護とかいう不思議パワーを使われたのだと察した。
「痛くしないから。絶対」
「はっ!? いいい痛く!? 何を!? おま、お前、キス以上のことする気か!? ばか、おま、男同士だぞ、正気かっ」
「静汰、俺、マジで割と今余裕ない」
だって、絶対今なら流せる。強引にいけば、最後まで出来る。
そう確信してるのに、俺は静汰の肩を掴んだまま動けない。
静汰が、泣きそうな顔で困っているから。絶対に拒否されない。だけど、静汰はまだ、望んでない。
「あ~~……、もう、分かりましたよ。我慢します」
もう俺の股間の方は準備万端なのに、理性を総動員してそう言った。
焦るな。もう静汰は、俺を見てるんだから。
「ごめんな……?」
「我慢するんで、せめて抱き締めてもいいですか」
「……うん」
せめてもの頼みと、静汰の体温と匂いを所望したら、静汰の方から立ったままの俺にぎゅっと抱き着かれた。
低めのベッドから上半身を起こした格好の静汰が俺に抱き着いたら、頭はそりゃあ腰のあたりにくるわけで。
「う、わ。し、志摩宮、なに、めっちゃでかい」
「……あの、ほんと、無事でいたいならやめてもらえますか」
ズボン越しに静汰の息が掛かって暴発しそうになり、たまらずベッドに静汰を押し倒して抱き竦めた。ぎゅうぅ、と両腕を静汰に回して、背中だけを撫でる。
皮一枚の下に骨の感触がある腰だとか、脂肪の少ない硬い尻なんか揉んだら、もう理性なんて吹っ飛んでしまう。
すーはー、と目を閉じて静汰の匂いを嗅ぎまくった。急に抱き締められて身体を強張らせていた静汰も、俺が何もしないと分かるとおずおずと俺の背中に腕を回してきた。
……本音を言うなら、これ以上煽らないでほしい。けど、嬉しい。自分から触れようとしてくれるのはやはり嬉しいから、ずっとそのまま抱き締めた。
馬鹿みたいに抱き締め続けて、それでも離したくなくて。
夜になって久々に寮に帰ってきた蛍先輩に見つかってしこたま怒られたのだった。
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