神は絶対に手放さない

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神を裏切り貴方と繋ぐ

Sー36、正しいルート

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 帰宅した染井川さんに玄関先で箱を見せたら、即座に掌の上から箱を叩き落とされてしまった。床に転がった箱がガゴ、と硬い音を立てて玄関のコンクリートにぶつかって、壊れたんじゃないかと不安でそちらを見るのに染井川さんは箱から離したいみたいに俺を突き飛ばした。

「どんな奴だった!?」

 鬼気迫る顔で怒鳴られて、よろめいて数歩退がった分を更に寄ってこられて息を呑む。
 染井川さんは靴も脱がず上がり框に登ってきて、俺の肩を掴んで揺さぶった。

「どんな……って、知り合いなんじゃ」
「いいから答えろ!!」
「ッ……」

 苛立たしげに足で床を踏み鳴らされ、初めて見る姿に本能的に怯えて彼の手から逃げようとしてやっと、染井川さんはハッとしたように「すまん」と謝ってくれた。

「俺はそいつを探してる。そいつと俺は過去に一度面識がある。だが、確かに会ったそいつの面を覚えて無ぇんだ。お前が覚えてるなら教えてくれ」

 早口で言った染井川さんの言葉を脳内で反芻してから、昼間会った少年の顔を思い出そうとして、──思い出せない事に呆気に取られる。
 会ったばかりなのだ。今日の昼間だ、覚えていない筈がない。なのに、思い出せない。記憶の中の彼は靄でもかかったように顔だけがボンヤリとしていて、まるで化かされたみたいだ。

「……覚えてねぇんだな」

 俺の表情を見て染井川さんは悔しげに首を振り、俺の肩から手を離した。

「ごめん」
「いや、いいんだ。俺が幼くて記憶が曖昧になってんのかと思ってたが、今日会ったお前が覚えてねぇなら幻術使いの可能性が高い。手掛かりになる」

 スーツの胸ポケットからスマホを出した染井川さんはその場で電話を掛け始めた。数コールで相手が出たらしく、染井川さんはもう片手で器用に煙草の箱から煙草を出して咥え、そして火を点け吸い始める。

「ヤモリか。前言ってた、箱の作成者が俺の家に来て箱置いてった。確認頼めるか。……ああ、待ってる」

 通話は一分にも満たない短さで終わり、染井川さんはスマホをまたポケットに仕舞うと玄関に落ちた箱を忌々しげに睨み付けて煙を吐いた。

「……可愛い」
「は?」
「可愛いな、って思ったんだ。確か」

 思い出そうとしても、全く顔は思い出せないけれど、昼間会った時の感情は思い出せる。少しでも手掛かりが欲しいというなら無意味では無いだろうかと、昼間の会話を思い出して説明することにした。

「歳も背も俺と同じくらいで……けど、なんか、小動物みたいで可愛いな、って思ったんだ。それから、染井川さんを『徹くん』って呼んでた。イラッとしたからそれは絶対確実」

 俺が話すのを染井川さんは手の仕草で暫し止めて、靴を脱いでから俺の部屋へ行ってメモ紙とペンを用意して「いいぞ」と続きを催促した。頷いて、少しでも詳細に思い出せるように目を閉じて集中する。

「確か、キミ……キミシマ、って名乗ってた。そろそろだと思ったから空の箱を持ってきた、って。パーカーにデニムで、車もバイクも見えなくて、山登ってきたようにも見えなくて。早く見つけて使いなさい、だったかな。なんか上から目線で箱を渡そうとしてきたから、一応用心して破邪を掛けようとしたら笑われた」

 何も反応が無くて薄目を開けて染井川さんを見ると、紙にペンを走らせる染井川さんに無言のまま頷かれたので安心して続けることにした。

「染井川さんを、『同士』って言ってた。同士だからお裾分けだ、って。あと、俺は適性が無いから箱には相応しくないんだって」

 確かそんな感じだった、と必死に思い出した会話を再現すると、メモを終えた染井川さんが感心した風に俺の頭を撫でてくれた。内容は多少前後しているかもしれないが、溢れは無い気がする。

「耳から入ったもんを右から左に忘れちまうお前が、よく覚えてたな」
「……染井川さんが、俺の他にも未成年に手ぇ出してるのかと思ったから」

 徹くん、なんて呼ぶあの少年に苛立って、それで染井川さんが帰ってきたら根掘り葉掘り関係を聞こうと思っていたからだ、とまでは言えず、しかし唇を尖らせた俺の顔を見て彼は頭痛がするみたいに眉間に皺を寄せた。どうやら俺の想像はてんで見当違いだったようだ。

「奴は俺の父が死んだ後に一度この家に来た。箱を作ったのは自分だから、これ以上被害者が出ないように回収する、と」

 箱は染井川さんが持っているのに、一度は回収されたのか? 首を傾げると、「寒いから炬燵に入れ」と俺を炬燵に座らせて染井川さんも横に入ってきた。そして、新しい紙に簡単にメモ書きしながら教えてくれる。

「俺の時には確か、ナミキ、って名乗ってた。どうせそれも偽名だろうから名前はなんでもいい。奴との面識はそれっきり。が、数日後に『最初に触れた君にしか使えないようだ』と蘭童が箱を返しに来た」
「ランドウ?」
「仕 蘭童。蛍吾の親父だ、知ってるだろ」

 誰だろう、と染井川さんを見つめると、呆れたようにため息を吐かれてしまった。

「本部で何度も会ってるだろ。黒髪の真面目そうな奴」
「……」
「おい嘘だろ。お前自分とこの組織の頭の顔も分かんねーで仕事してたのか」
「え、あ、トップの人なら分かる。……えっ? 蛍吾の父親がトップ?」

 そうだったんだー、と言うと、呆れてため息も吐けないみたいに染井川さんが俺を見て俯き気味に首を横に振った。蛍吾が教えてくれなかったんだから知らなくてもしょうがないだろう。組織の頭である人に興味が無かったのは確かだけれど。

「で、なんで蘭童さんが返しに来たの?」
「そりゃ俺が持ち主だから……」

 何故わざわざ頭が、と聞いた俺に、染井川さんは答えてから口を噤んで、そして遠いところを見るような目で「そういやぁ、なんであいつだったんだ」と呟いた。

「染井川さん?」
「あいつが言ったんだ。『最初に使ったのは君だから、所有権が君にしか無いらしい』って。それでてっきり、組織が奴から預かって調べたんだと、……あいつは……あいつが箱について調べたんじゃなく、奴が調べてあいつに託したのか。蘭童と奴は、繋がってたのか。……こんな単純なこと、なんで今まで気付かなかったんだ」

 ぶつぶつと独り言ちている染井川さんに意味の分かっていない俺は口を挟めず、黙ってそれを見ていることしか出来ない。

「だとしたら、これまで箱が組織で回収出来なかったのは、蘭童が奴に情報を流してたからか。だったらなんで去年の箱は俺らが先に……」

 紙にぐるぐるとボールペンで意味の無い模様を描きながら考え込む染井川さんを眺めていたら、ピンポーン、とチャイムの音がした。

「ヤモリだ。出てくれ」

 染井川さんは何かが気になっているのかその場を動こうとせず、出鱈目な落書きを続けながら俺にヤモリさんを出迎えるように指示してくる。
 玄関に行って扉を開けると、数週間ぶりのヤモリさんが、今夜も全身真っ黒のパンクな服で立っていた。小脇にフルフェイスのヘルメットを抱えていて、後ろには真っ黒のオフロードバイクがエンジンをかけたまま停められている。

「や、久しぶり。箱は?」
「それです」

 顔を合わせて早々に切り出したヤモリさんは、俺の指差す先に落ちている箱を見て露骨に顔を顰めた。

「話には聞いてたけど、だいぶ下衆だね」

 はあ、と生返事で答えてヤモリさんが箱を拾うのを見ていたら、しばらくそれを掌の中で転がして検分していた彼は、やおら顔を上げて俺をキツく睨んだ。

「静汰くん、これ使ったね」
「へ?」
「少しだけれど君の魂が削り取られて吸着してる。君の霊力量じゃトリガーが起動するまでに数十年はかかる。しかも、万一完成しても染井川を三日生き長らえさせるのが精一杯だ。無駄死にだよ」
「え? あの、どういう意味かよく分からないんですけど……」

 どうやら叱られているらしいと判断して俺が言い訳すると、ヤモリさんはその反応を見て疑うように俺を見てから、「わざとじゃないのか」と長いため息を吐いた。さっきから、染井川さんにもヤモリさんにも俺が馬鹿をしたみたいな反応ばかりされて少し凹む。

「染井川の箱が、彼の父親の魂を呪いで封じ込めた物だっていうのは知ってるね?」
「はい」
「呪いの発動前の実物を見るのは初めてだけれど、おそらくこれは溜まった霊力量がトリガーになって発動するものだ。箱自体も所有者から勝手に吸い続ける仕組みのようだけれど、普通の人間なら生涯持ち続けても発動しない量で設定されてる。それから、たぶん……所有者が自発的に霊力を注ぎ込むと、生きながら魂も注ぐことになる」

 早口で説明されて理解出来ずに黙ると、ヤモリさんは手に持った箱を懐から出した皮袋に入れて、庭に出てからそれに火を点けた。ボウ、と一瞬で燃え上がったそれは、次の瞬間には炎ごと消えている。
 また幻術だろうかと疑う俺に、ヤモリさんは掌の中の真っ黒の木端を見せて、それを握り潰して粉にして無造作に庭に撒いた。

「普通の人間は故意に物に霊力を注げない。だから魂は喰われずただ霊力だけが膨大に貯まった呪物になる。だが、染井川の父親はそれが出来てしまったから、魂ごと霊力というエネルギーに変換されてしまった。本来なら輪廻を繰り返して少しずつすり減る魂が、その輪から外れて残り全てが霊力に替わってしまった」

 なんて胸糞の悪い呪いだ、とヤモリさんが砂利を蹴ると、俺の背後でふぅと煙を吐く音がした。振り返ると、短くなった煙草を咥えた染井川さんが何処を見ているか分からない目でヤモリさんの方を見て立っていた。

「……父さんは、輪廻に戻れないのか」
「染井川……」

 ヤモリさんは辛そうに染井川さんから目を逸らし、しかしハッキリと頷いた。

「魂が箱に囚われているだけなら使い切れば解放されると思っていたんだけれどね……まさか、魂そのものを変換する呪いだったとは。無責任な事を言った。許してくれ、染井川」
「父さんの魂を消費してでも生きると決めたのは俺だ。お前のせいじゃない。俺にしか使えないこの箱を俺が使わず死んでたら、それこそ父さんは無駄死にだったって事だろ?」

 懐から小さな箱を取り出した染井川さんはそれを眺めてからまた大事そうに仕舞った。肌身離さず持ち歩くくせに、滅多に見せてくれないその箱。父親の魂そのものを削りながら生きる気分は俺には到底知り得ない。

「その箱作った奴に心当たりは?」
「無いね。かなり古臭い上に、癖のある術式を使ってるから、知り合いならすぐ分かる。見つけてどうするつもり?」
「どうするも何も。仇討ちだ」
「やめときなよ。敵う相手じゃない」
「敵っても敵わなくてもどうせ近いうちに死ぬ。だったらやった方が後悔しねぇだろ」

 染井川さんとヤモリさんの会話には間が一切無く、黙って聞いているだけの俺の方がハラハラしてしまう。
 というか、昼間のあの少年が、染井川さんが敵わないような術師だったというのか。箱を作り、染井川さんの父親に渡した、全ての元凶の。
 でも。

「……でも、その箱のおかげで、染井川さんは生きてるんだよね」
「!」

 俺が呟くと、染井川さんは一瞬俺を睨んで、それから目を逸らした。
 父親の死の元凶だとしても、俺からすれば染井川さんをここまで生きられるようにしてくれた人だ。箱が無ければ、俺と染井川さんは絶対に出会わなかった。
 それだけの理由で、俺はあの少年を心底まで憎む事が出来ないし、ましてや染井川さんが死ぬかもしれない仇討ちをしようなどと言うのを黙って見ていられもしない。

「今更仇討ちして何になるの」
「静汰」
「それで染井川さんのお父さんが生き返るとか、染井川さんが生き延びられる方法が見つかるっていうなら、俺はいくらでも手伝うよ。けど、無意味な上に染井川さんが死ぬ可能性があるっているなら」
「……」

 絶対に行かせない。そんなの許さない。
 染井川さんの腕を掴んだら、俺を見た彼はゆっくりと俺の頭を撫でて、それから片手で抱き寄せた。

「分かったから、そんな表情すんな、静汰」

 背中を撫でる掌は温かく、火のついた煙草を俺から離しながら前髪にキスしてきて、機嫌を取るようなその仕草に即絆されそうな自分がチョロくて嫌になる。

「そんな事に時間と霊力使うくらいなら、少しでも節約して長生きして」

 出来るだけ強く睨み上げると、染井川さんは肩を竦めてただ苦笑した。
 これ、このまま有耶無耶にしたら一人で行くやつだな。笑って誤魔化す仕草で確信して、奥歯を噛み締めた。

「分かってないだろ」
「分かったって」
「俺、染井川さんが好きだよ」
「分かっ……あ?」

 睨んだまま告白すると、染井川さんは一瞬そのまま流そうとして、そして動きを止めた。ピュウ、と後ろからヤモリさんが口笛を吹いた音がする。

「好きだよ、染井……徹さん。だから、少しでも長く生きてほしい」

 ぎゅ、と抱き締めると、染井川さんが一歩退がった。動揺しているのか鼓動がいつもより速くて、煙草を持った腕をウロウロと上下させてから、トントン、と指先だけで背中を叩いてくる。

「静汰。分かったから」
「まだ分かってないだろ」
「……煙草、消してぇんだけど」
「あ、灰皿あるよ」

 どうやら自身も喫煙者だったらしいヤモリさんがズボンのポケットから携帯灰皿を取り出してこちらに歩いてきて、染井川さんの煙草を受け取ってその中で火を消した。染井川さんを睨みながら引っ付く俺を見て「かわいーねぇ」と小さく笑い、染井川さんを見て首を横に振る。

「俺もこの子に賛成。気持ちとして消化不良なのは分かるけど、復讐に時間使うくらいなら好きな人の傍で幸せに過ごした方が良いよ」

 ヤモリまで、と染井川さんが困りきった声で狼狽えるので、やはり分かってくれていないじゃないか、と更にキツく睨んだ。

「徹さん。仇討ちって、俺と居るより大事な事?」
「そういう聞き方はズルいだろ」
「狡くていい。好きな人を死にに逝かせるよりずっと良い」

 染井川さんは睨み続ける俺と視線を合わせたけれど、またすぐ逸らしてしまった。
 駄目か。俺より父親の仇討ちが大事か。だったら協力するしかない。死なせない為に俺が出来る事をするしかない。
 置いて行かれるよりマシだ、とそう言おうとした唇に、染井川さんのそれが寄ってきて軽く触れた。

「そ……」
「呼び方統一しろって。徹さん、って呼んでくれるんだろ」

 また人前で、と怒るが、染井川さんは笑うだけで俺から離れて、ヤモリさんに向かって頷いた。

「ヤモリ。頼む」
「……気が進まないな」

 頼むって何を。まさか俺をヤモリさんに預けて一人でどうにかする気じゃ、とヤモリさんに何をされるのか警戒しようと意識する前に、その意識がボヤけてくる。

「な……ん」

 ぐら、と視界が揺れて、染井川さんの腕に抱き留められた。眠い。猛烈に眠い。何か術を掛けられているなら紋で対処しなきゃと思うのに、だるくて指先が動かない。

「と……る、さん」
「少し早まっちまったが、さよならだ、静汰」

 楽しかったぞ、ありがとな。染井川さんの声が耳元から反響して届いてきて、もう瞼が開かない。
 駄目だ。寝たらいけない。起きなきゃと思うのに、身体が言う事を聞いてくれない。

「お前の未来には、いつでもあのボウズが隣に居る。それが本道だからだ。……幸せにな」

 嫌だ。
 手放さないで、徹さん。
 背を撫でてくれる大きな掌の温かさが、眠りに落ちたくない俺を闇の中へ押し込んだ。












 チッ、チッ、チッ、と規則正しい時計の針の音がする。
 動くと少し首が痛くて、首の付け根の違和感に手を当てて呻いてから、自分が寝ていたようだと気が付いた。
 薄く目を開けると、ここはどうやら部屋の中だ。シーツの敷かれたベッドの上で、体の上には薄い綿の掛け布団が掛かっている。カーテンの閉まった部屋は薄暗く、鳥の声もしないから朝方ではなく宵の口だろうか。Tシャツとトランクスしか履いていないらしく、この季節には薄着過ぎて寒い。ぶるりと震えて、肩を摩った。
 ここはどこだ。
 体を起こして部屋を見回しても、見覚えがない。
 寝る前に何をしていたのか、思い出そうとすると急にズキっと頭痛がした。
 なんだっけ、どこだっけ、なにをしていたんだっけ。思い出そうとするのに、激しい頭痛と目眩で集中出来ない。
 誰かの名前を呼ぼうとして、名前を思い出せずに開いた唇からは音が出てこない。誰だっけ。誰かを、信頼している誰かの名前を、呼びたいのに。

「あ、起きましたか、静汰」
「志摩宮……」

 ああ、そうか。志摩宮だったか。
 部屋のドアが開いて、覗き込んだ顔が俺を見て破顔する。褐色の肌に緑の瞳。見慣れた後輩の顔なのに、とても懐かしい気がするのは何故だろう。

「志摩宮、ここは……」
「俺の部屋ですよ。すみません、そんなの着けて。ここに来てすぐ混乱して逃げようとしたので」
「そんなの?」

 どうやらここは志摩宮の家らしい。混乱して逃げようとした、というのはどういう事だろう。無理やり連れ込まれたのだろうか。いや、志摩宮はそういうのをしなそうだ。
 何に混乱したのだろう、と思いながらも寄ってきた志摩宮が俺の首元に触れて、そこにある違和感にやっと自分の指でも触れた。硬い革の感触。細いベルトのような素材のそれが、首にぐるりと嵌っていた。胸元を見下ろすと、そこからナスカンで太いロープのような黒い紐と繋がっていて、その紐はベッドの脚に巻かれていた。

「なんだ、これ」
「逃げようとしたので。首、痛くないですよね? 苦しくないように調節はした筈なんですが」

 まるで犬の首輪とリードのようだ。ナスカンも自分で外せないくらい動揺していたのだろうか。そんな恐慌した人間を外に出さない為だというならこの状態にも納得がいくけれど、どうしてそんなに……。

「あれ」

 ナスカンから紐の付いた金具を外そうとするのに、指が上手く動かなくて外れない。何度か試すも、何故か指に力が上手く入らず、小さなナスカンだけのそこが外れないのだ。

「なあ志摩宮、これ外してくれるか」

 寝起きだからかな、と志摩宮に頼むのに、彼は薄っすらと微笑んで首を横に振った。

「え、何で」
「外したら逃げるでしょ」
「逃げるもなにも……」

 ただ家に帰るだけだ。そこでまた、頭痛がする。
 家。俺の帰る家って、どこだっけ。

「……そうだ。染井川さんは」

 帰り着く家のイメージで頭に浮かんできたのは、あのオレンジ色の外灯の玄関だ。あそこが俺の帰る場所。
 そこから数瞬で、眠りに落ちる直前の出来事を思い出した。昼間現れた少年、箱、そして染井川さん──徹さんの別れの言葉。

「帰らなきゃ」

 あの人はきっと、一人で少年を探し出して仇討ちを実行する気なのだ。それが危険だと分かっているから、俺を巻き込まないように遠ざけたのだろう。全くもって自分勝手だ。
 戻って叱ってやらなきゃ、とベッドから降りようとすると、志摩宮にやんわりと肩を掴まれた。

「静汰。もう静汰は、俺のところに帰ってきたんですよ」
「いや、俺は」
「あの人からの伝言です。『お前の頼みだから仇討ちは諦める。だからもう俺を探すな』だそうです」

 志摩宮が言う『あの人』とは、徹さんのことだろうか。いや、文脈的に徹さん以外あり得ない。だけれど、その内容は到底了承出来るものでもない。
 首のリードを外そうとしても指が縺れて叶わないので、もう一度志摩宮に「これ取って」と頼む。しかし、彼は今度こそハッキリと「嫌です」と言った。

「なんなんだよ、これ」
「今度は俺の番です。俺があんたの飼い主になるんですよ」

 は? と思わず失笑が漏れて、でも志摩宮は少しも笑わない。唇が引き攣って、首の革輪に指で触れて、その為の首輪か、と青褪める。
 志摩宮が神子になったという情報を思い出し、何かしらの術が掛けられたものなら紋でどうにかなるかと、描こうとした指が紋に弾かれた。静電気でも走ったみたいに、バチッと音をさせて、俺を拒む。紋じゃない。指に霊力を込めて空中に放出しようとすると、それを阻止するみたいに何かが指先でそれを夢散させるのだ。
 指が駄目なら、と足先で床に描こうとするも、それも弾けて消える。

「……」
「神様相手に敵うわけがないでしょ。静汰、大人しく俺の物に戻って下さい」

 志摩宮は静かな声で俺を宥めるように言って、紋の描けない両手を見つめる俺の視界に入ろうと腰を折ってくる。ベッドに腰掛ける俺の前にしゃがみ、俺の手を恭しく包んで手の甲に口付けた。

「お前の神様が……俺の元神様がやってんのか、これ」
「はい。この部屋では、神様が許さない限り静汰には何の自由もありません」
「……だいぶ横暴だな」
「仕方無いです。あんな人に、俺の静汰が汚されて帰ってきて、しかもあの人が好きだなんて勘違いまでしてて」

 許せる訳無いですよ、と真顔で見上げてくる志摩宮に、本能的に恐怖を感じて後退る。後ろには壁しかなく、引っ張られたロープの結合部でチャリ、と小さく金属音が鳴った。

「静汰。俺、あんたの為に頑張ってたんですよ。ご褒美下さい」

 志摩宮の指が首輪に触れて、それからその下の鎖骨を撫でてくる。指先だけでさらに下へとTシャツ越しに触れてこようとして、思わず腕で彼の手を払った。俺にそういう意図で触れていいのは徹さんだけだ。

「志摩宮、俺は」
「好きです、静汰。俺は、いつまでだって」

 肩を押されて、ベッドに仰向けに倒される。俺の上に覆い被さってきた志摩宮は軽く触れるだけのキスをしてきた。突き飛ばせ、嫌がれ、と思うのに、体から力が抜けてされるがままで、せめてもの抵抗と歯を食いしばって唇を引き結ぶ。舌を入れてきたら噛んでやろうと思うのに、志摩宮はそれはせずにただ触れるだけを何回も繰り返してくる。
 志摩宮の手が俺の下着を下ろし、脚から抜いて下肢が露わにされた。露出した力無く垂れた肉茎を優しく握られて、嫌なのに勝手に血が集まって育ち始めてしまう。

「覚えてないかもしれませんけど、あの人より、俺の方がずっと先に静汰とこういうコトしてたんですよ」

 勃起した俺の肉に、志摩宮は自らも股間を寛げて勃起したそれを擦り合わせてくる。ゴリゴリと音がするくらい裏筋を彼の陰茎の先で擦られて腰が跳ねた。すぐにでも達してしまいそうで、逃げたいのに志摩宮が茎の根を掴んで堰き止めていて叶わない。

「先とか後とか、関係ない……っ」
「ありますよ。俺のだったんです。静汰、静汰は俺のことが好きだったでしょう?」

 思い出して下さい、と緑の瞳が潤むのを間近で見上げて動揺する。違、違わない。違わないけれど、それはもう過去のことだ。俺はもう、今は。

「俺は、徹さんが」

 言おうと開いた唇に、志摩宮の舌が挿入ってきた。絶対噛んでやると思っていたのに、舌同士が触れて痺れるみたいな気持ち良さが走ると、思考がぼやけて抵抗出来ない。粘膜を舐められ、唾液を送り込まれて優しく腔内で混ぜられる。
 俺を見つめる視線は鋭いのに、志摩宮は決して乱暴にはせず優しく優しく触れてくる。

「……っ、ぁ」

 擦られ続けた陰茎がはち切れて、俺の先から白濁が飛んだ。びく、びく、と跳ねる腰の上に乗っていた志摩宮は満足げに微笑んで、それから体勢を変えて俺の両足を肩の上に乗せるように大きく開かせた。狭間が勃起した志摩宮の陰茎の根に当たって、その熱さに居た堪れなくて目を瞑った。
 俺が腹に出した精液を指で掬って、志摩宮は後ろの窄まりの方へ指を伸ばしてくる。

「し、志摩宮……、まさか」
「まさか? まさかも何も、するに決まってるでしょ」

 ぐ、と指を入れられて、俺の窄まりは簡単にそれを飲み込んでしまう。精液の滑りさえあれば指の一本なんて呆気ないくらい根本まで受け入れてしまって、見下ろしてくる志摩宮が不愉快さと興奮とが混じったような表情で舌打ちした。

「こんなに柔らかくなるまで使い込まれたって事は、相当『好き』なんでしょ、あんた」

 狭間に涎を垂らされ、指が増やされて受け入れる準備が整えられて、慣らされた身体は嫌がる心を置いてけぼりにして追い上げられていく。くちゃくちゃと粘っこい音をさせて穴を弄られるのが堪らない。勝手に腰が揺れてしまうのを見咎めた志摩宮に平手で腰を叩かれて、そしてそこにある違和感に思わず自分の腰を見た。

「……ピアスですか、これ」
「ピアス……?」
「千切っちゃ駄目ですか」
「は?」
「邪魔なんスよ。腰掴もうとすると触るしかなくて鬱陶しい」

 腰の両脇に二つずつ、見慣れない小さな丸い銀色の何かがある。触ってみると、皮膚の下を棒が貫通しているらしく、丸い両端の頭だけが皮膚から出ているようだ。
 何だこれは、と俺も志摩宮も暫し止まってそれを見つめて、そういえば以前徹さんが俺の身体に穴を開けたがっていたのを思い出した。こんな小さなピアスでいいなら、ビビらずもっと早く告白しておくんだった。昨日まで無かった筈のそれは、おそらくは開けた後に治癒の紋で強制的に治して固定させたんだろう。触っても痛みは無く、抜けそうな気配もない。

「マーキングのつもりかよ」

 徹さんを彷彿とさせるそれを嬉しくて何度も撫でる俺を見て、志摩宮はつまらなそうに言い放つ。

「こんなの付けたって、手放した事に変わりねぇっての」

 そうだ、俺は徹さんに捨てられた。捨てる癖に忘れないで欲しいなんて、小心な徹さんらしくて笑ってしまう。きっと今頃一人静かに泣いているだろう徹さんを思い浮かべて、自業自得だとため息を吐いた。

「何笑ってんですか。これから挿入れるんですよ?」

 いいんですか、なんて聞いてくる志摩宮にも苦笑が浮かぶ。神様の力まで使って、無理やりしようとしてたじゃないか。

「やめてって言ったらやめてくれんの?」
「いや無理ですけど」
「だったら聞くなよ。嫌に決まってんだろ、俺は徹さんが好きなんだぞ」

 好きな人以外としたい訳無いだろ、と肩を竦めたら、志摩宮が眉を顰めて低く呻いた。

「……俺が先だったのに」
「だから先とか後とか」
「やっぱり全部思い出してもらった方が良くないか」

 急に志摩宮は後ろを振り返って、何もない空中に話し掛けた。
 何だ? と釣られて見上げたそこに、急に銀髪の志摩宮が立っていて目を剥く。

「!? な、なん」
「あ、静汰見えなかったんでしたっけ。今もう見えます?」

《 見えてるみたいだね 》

 長い銀髪と、露出の高い謎の服装。記憶の端に何かが掠め、そして話し掛けられて思い出した。

「神様……」

《 うん。久しぶり 》

 小さい頃、神社で会った神様だ。眩い銀色と、煌めく緑色の記憶が甦る。そうか、こんな顔してたっけ。

「……って。え? 神様?」
「そうっス。俺、死んだら神様になるらしくて」
「はあ」

 生返事しながら、マジかよとそいつを見上げる。志摩宮にそのまま長い銀髪のウイッグを被せたようなそいつは、しかし俺を見下ろして見慣れた仔犬のような表情で眉を下げた。

《 ごめんな 》

「え?」

 す、と俺の方に伸ばされてきたそいつの手が、俺の頭に潜り込んでくる。頭の中を弄られる感覚にゾワ、と怖気が湧くのに、凍りついたみたいに体が動かない。
 そして、思い出す。
 春。校舎の門扉を軽々と越えてきた人影。緑の目。先輩、と呼ぶ志摩宮の声。初めて重ねた唇の感触。一緒に食べたラーメンの味。柔らかい癖毛の感触と、汗ばむ肌。

「や……だ、いやだ」

 腰が低いくせに強引で、他人に興味無さそうにしているくせに時々酷く寂しそうにする。俺を、俺だけを映す緑の瞳。好きだと思った。もっと触れて欲しいと、ずっと触れていて欲しいと思った。
 志摩宮との記憶が蘇ると同時に、彼へ募らせていた感情が溢れて、俺の中の徹さんへの想いを押し流していこうとする。

「やめろ……!」

 重ねた唇と、体と。交わした言葉と俺を見つめる志摩宮の笑顔が脳裏に焼き付いて、新しい記憶として上書きされていく。いいや、上書きじゃない。ずっと俺の中にあったものだ。ただ思い出せなかっただけ。俺の中にずっと燻っていた志摩宮への恋情に、再び火が点けられて炎が上がったのだ。
 頭を抱えてそれを振り払いたいのに、それは許されない。ぼろぼろと目尻から溢れる水を志摩宮が唇で吸って、薄く笑っている。
 志摩宮への恋心の隣で、徹さんへの想いもしかし消火されないまま存在している。自分の中で燃え上がる二つの感情がぶつかって、どちらもが本気だと争っていて狂いそうだ。

「志摩宮……っ」
「大丈夫です。そのうちあの人の事なんて忘れますよ。……それまで、大事にここで飼ってあげますからね」

 呪いを消す為に一緒に消えた筈の記憶を神様によって復活させられ、志摩宮への恋情を思い出してしまって苦しむ俺を、志摩宮はベッドに横たえて狭間に触れてきた。萎えていた身体が彼からの愛撫で勝手に反応して頭を擡げ、蘇ったばかりの記憶と重なって心が喜びを伝えてくる。

「違うっ……、俺は、俺は……っ」
「たっぷり可愛がって、俺を思い出させてあげますからね」

 志摩宮は好色に笑い、俺の中へ侵攻してきた。
 感情の嵐が吹き荒れて心がバラバラになりそうな俺を放って、志摩宮は好き勝手俺を翻弄する。ずっと待ち焦がれていた志摩宮を中に受け入れて、記憶の中の俺が悦ぶ。徹さん以外なんて嫌だと叫ぶ俺が、しかし彼より奥まで深く犯してくる肉に涎を垂らして乱れてしまう。
 まるで俺の中に二人の俺が存在するみたいで、どちらもが自分の気持ちこそが本物だと争っている。

「たす……け、て」

 神様はただ、表情の読めない顔で俺達を見下ろしていた。暗くなった部屋の中、長い銀髪だけが場違いなほど綺麗に輝いていた。

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月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。 また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。 (小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!

好きなあいつの嫉妬がすごい

カムカム
BL
新しいクラスで新しい友達ができることを楽しみにしていたが、特に気になる存在がいた。それは幼馴染のランだった。 ランはいつもクールで落ち着いていて、どこか遠くを見ているような眼差しが印象的だった。レンとは対照的に、内向的で多くの人と打ち解けることが少なかった。しかし、レンだけは違った。ランはレンに対してだけ心を開き、笑顔を見せることが多かった。 教室に入ると、運命的にレンとランは隣同士の席になった。レンは心の中でガッツポーズをしながら、ランに話しかけた。 「ラン、おはよう!今年も一緒のクラスだね。」 ランは少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑み返した。「おはよう、レン。そうだね、今年もよろしく。」

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

見ぃつけた。

茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは… 他サイトにも公開しています

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