Ωの恋煩い、αを殺す

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 四時限目の前の休み時間、珍しく「唐島さん、廊下で乾さんが呼んでるよ」とクラスメイトに話し掛けられた。
 いつも通り次の教科の教科書を捲って眺めていたところで、顔を上げた時にはもう俺にそう告げたクラスメイトはこちらに背を向けていた。
 珍しい。用事があるとしても、次の授業を終えれば昼休みになるというのに。
 急ぎの用事だろうか、と廊下へ出ると、Ωに囲まれた乾の姿があった。
 ニコニコと笑う彼の顔は、俺には見慣れないものだ。俺は一度もあの笑顔を向けられたことはない。

「なんだい、乾」

 俺が声を掛けると、一斉にΩ達がこちらを見た。笑顔を作ってはいるけれど、その目が「邪魔だ」と言っている。ううん、呼ばれたのは俺なんだけどなぁ。

「これ、お前のだろ」
「うん?」

 首を傾げる俺の方へ、乾が笑みを消して濃い紺のジャージを差し出してくる。綺麗に畳まれたそれは、おそらくは失くしたと思っていた俺の上着のようだ。

「……嗅いだかい?」
「礼より先にそれかよ」

 誰が嗅ぐか、とジャージを投げ付けられ、くく、と笑いながら受け取った。

「いや、有難いよ。一時限目のマラソンの時にスタートの前に適当な所に置いてしまったから、誰かが間違えて持っていってしまったのかと思っていたんだ」
「その通りだよ。俺の後輩が半泣きで『あの唐島先輩のを間違えて持ってきちゃったんですうぅ~』って持ってきやがった」
「気付いたのなら直接返しに来てくれればいいのに」
「素直に返しに言っても一言二言嫌味言うだろお前」
「心外だなぁ、俺が嫌味を言うのは君にだけだよ? 他の人に言ったらまるでイジメじゃないか」

 用が済んだなら帰れ、というΩ達の視線に応えてそれじゃあね、と踵を返そうとすると、「唐島」と乾の苛立ったような声に止められた。

「まだ何か?」
「……クソみてぇなデマが流れてる。さっさと訂正しねぇと周りから固められんぞ」

 デマ?
 どんなホラ話だろう、と目を輝かせると、乾が俺の表情を見て呆れ混じりに眉間に皺を寄せる。

「あの、お前に付き纏ってるアレに、お前の方から番の申込みをしたとか、なんとか」
「はあ。……それだけ?」

 どんな面白い尾ヒレがついたかと期待したのに、全く面白くない。
 肩を落として残念がりつつ、そのまま教室に戻ろうとすると伸びてきた手に手首を掴まれた。
 ひゅ、と息を呑む。
 αが番でもないΩの肌に触れるのは、マナー的にも常識的にも『してはいけないこと』だ。そんなの乾が知らない筈も無いのに。
 掴まれた手首を見つめて固まるのは、俺だけじゃない。乾の周りに集っていたΩ達も、見てはいけないものを見たような顔で硬直している。

「い、乾さんっ」

 慌てたように男子生徒が飛んできて、乾の手を掴んで離した。顔を見れば、乾の傍によく居る、βの生徒だ。確か乾家の執事見習いだったか。昼休みの終わり頃に毎日乾を迎えに来るから、顔も名前も覚えている。
 俺が数歩下がると、乾は憮然とした表情で小さく「すまない」と謝ってきた。

「いつもΩとして見てないから、咄嗟に……」

 拳を握って反省するようなポーズをする乾の姿に、周りのΩ達がホッと安堵したように笑い出した。

「ああ、そういうことですか」
「驚きましたよ。でも、気持ちは分かります」
「僕たちも、唐島はΩ仲間のような気がしませんし」

 乾に呼応するように賛同したΩ達は、俺を見て細波のように可愛らしい声で笑う。
 俺は作り笑顔を保ちつつ、ゆっくりと呼吸を落ち着かせる。
 軽い目眩と、動悸。俺の身体は確かに今、αに触れられて歓喜していた。──気持ち悪い。何が本能だ。俺を対象として見ていない相手に反応するなんて、どれだけ好色な身体なのか。自分がΩだという事に引け目を感じたことは無かったが、今ばかりは最悪の気分だ。
 掴まれていた手首を、その感触を消したいみたいにガリガリと爪で擦ると乾とΩ達に睨まれたけれど、知ったことではない。

「お前の評判は俺の評判でもあるんだ。下手なαと噂になってお前が下げて見られたら俺が困る」

 まだ言うか、とさすがに笑顔の崩れる俺に、しかし乾は冷めた目で続ける。

「面倒なら俺がやる。いいな」

 デマだと思い込んでいる乾は、どうあっても俺が番を求めるような普通のΩじゃ困るみたいだ。
 だったら、そうなってやる方が、きっと彼を煽れる。

「デマじゃないさ」
「は?」
「俺から番候補になってくれ、と言ったんだ。事実だよ」

 自然と浮かんでくる笑みをそのまま唇に乗せてニィ、と弧に曲げる。
 意表を突かれたみたいに乾が真顔で止まって、何か言おうとしたのか開けられた口からは何も出てこない。
 そこでちょうど、次の教科の担当教師が廊下を歩いてきた。
 今度こそ踵を返し、教室に入った。
 ぞろぞろと後ろから同じように教室に入ってくるΩ達が、コソコソと俺への文句を言っているのが聞こえてくるけれど無視した。










 昼休み、少し迷ったけれど、いつも通り弁当片手に生徒会室へ向かった。
 ドアの小窓から覗くと、既に乾がパイプ椅子に座ってスマホを使っていた。まだ弁当は開いていないみたいだけれど、いつも通り涼しい顔をしていてガッカリしてしまう。
 ドアを開けると乾の視線がこちらへ向いたけれど、気付かないふりをして目を合わせず弁当箱を机に置いて壁に掛けられたパイプ椅子を開いた。
 俺が椅子に座るのと同時に立ち上がった乾がドアの方へ行ったから、顔を見たら怒りが戻ってきたのかと期待したのに彼はガチャンと鍵を下ろしてこちらへ向き直る。

「どういうつもりだ」
「何がだい?」
「冗談に付き合ってやれる余裕無ぇ。何が目的なのかさっさと言え」

 まだ休み時間の続きをするつもりか、とげんなりして、弁当箱を開けて箸箱から箸を出して手を合わせた。答えもせず食べ始めた俺に、乾がドアの前から動かないまま苛立ったように舌打ちする。

「奥田の奴、大喜びで言って回ってるぞ」
「……」
「このままだと夏休み明けにゃあ本当に番にされてっかもしれねぇんだぞ。お前、ほんとに危機感持てよ」

 そんなに嬉しかったか、奥田。なんだか可愛いな。俺なんかで喜んでくれるなんて、奇特な。
 ほのぼのとした気分で母作の美味しい卵焼きを咀嚼していると、乾のギリギリという歯軋りが俺のところまで聞こえてきて視線を上げた。

「お前、自分より上のαと番いたいって言ってただろうが」
「……そんなこと、君に言ったっけ」

 番の話なんて、しただろうか。記憶の糸を手繰ってみるけれど、思い出せない。ここで昼寝する時に寝入り真際にウトウトしながら雑談したりするから、その時かもしれない。

「自分を負かしてくれるαを探してるんだって、……だから俺は」
「あれ? 鍵掛かってる? おーい、透せんぱーい」

 乾の言葉の最中に、ドアを開けようとして鍵に阻まれたらしい奥田の声が生徒会室の外から聞こえてきた。

「乾、鍵を開けてやってくれるかい」
「……本気か」
「俺は少なくとも、自分に好意を持ってくれる人の心を傷付けるような冗談は言わないよ」

 鍵を開けて、と頼むけれど、乾は黙ったまま俯いてしまって、その表情は分からない。
 嘆息して、弁当箱を包み直して席を立った。パイプ椅子を立て掛け直して、弁当箱を持って乾の前に立つ。

「どいてくれるかい、乾」
「……」
「乾」

 間近に立つと、俺より少しだけ背の高い乾の俯いた顔がよく見えた。そこには何の感情も見えない。少しだけ、ゾクリと背筋に冷たいものが走る。
 もしかしたら、もう俺に興味を無くしてしまうかもしれない。俺が普通のΩになったら、もう俺を追ってきてくれないかもしれない。そうなったら、もう俺は、一人だ。
 恐怖に近い不安を押し殺して、笑顔を作り続けた。
 せんぱーい、と小窓から生徒会室の中を覗き込んだ奥田と目が合って、ドアの鍵の前から動かない乾をシッシッと追い払う仕草をする。

「俺の番候補が呼んでるんだ。早くどいて」

 それでやっと乾がどいてくれて、俺はドアを開けて廊下へ出た。
 外で待っていた奥田が、弁当を持って出てきた俺を見て首を傾げる。どこか他で食べようか、と奥田を連れてその場を離れた。
 それから俺は生徒会室で昼休みを過ごすのをやめ、教室で奥田と過ごすようになって。
 乾とは終業式の打ち合わせで一度顔を合わせたが一言も交わすこともなく、そのまま夏休みへと突入した。

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