Ωの恋煩い、αを殺す

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 夏休みといえば、俺にとっては兄と二人で行くキャンプがメインイベントだった。……の、だけれど。
 連絡先を交換した奥田は休みに入ってから毎日のように連絡してきては、すぐに会いたい会いたいと言い出すので、仕方なく会いに行っていた。大抵は俺が図書館を指定して、そこで勉強の合間に短い会話を交わすだけ。
 奥田は不満そうだったが、俺にとっては時間を割いて会っているだけで感謝して欲しかった。移動はうちのお手伝いさんが車を出してくれるし積んだままだった読書に充てているから全くの無駄時間ではないけれど、家で一人で没頭するのに比べればどうしても効率は落ちる。
 二週目には勉強以外がいい、と言われ、ならば朝晩にマラソンをしているから一緒にどうかと誘ったのだけれど、三週目にはもっと他の事がしたいと言われてしまった。
 ならばスポーツでもしようと、テニスや卓球、バドミントンに水泳と、二人で競えそうなものを片っ端からやってみたのだけれど。
 夏休みも最終週、奥田は俺が提案したそれら全てを却下してきた。

『普通に遊びましょーよぉ』
「普通、ね……」

 通話をスピーカー状態にしたまま問題集を解き進めていたが、奥田の甘えた声にげんなりした。
 奥田は決して弱音を吐かないし、やると言ったら約束も破らない。そこは評価出来る。
 一時期一緒に朝晩のマラソンをしていた兄からも、「あいつ根性あっていいな」と高評価だった。そのせいで、今年のキャンプは中止になってしまったけれど、「番候補と親交を深める時間の方が大切だ」と言われてしまっては、兄の気遣いを無碍にも出来ない。
 奥田はどれだけ俺に負けようともその日はちゃんと付き合ってくれるが、二度目は嫌がる。俺の提案する交流は彼にとって楽しいものでは無いようで、すぐにもっと違うことがしたいと言い出すのだ。

「なら、君が決めてくれるかい」

 飽き性なんだろうか、と苦々しく思いながら投げやりに答えると、「いいんですか?」とやけに浮かれた声が返ってきた。したい事があるなら、先に提案してくれればいいのに。

『映画デートとかどうですか?』
「……映画を観るのは構わないけどね。デートでは無いよね」

 まだ友人なんだから、と嗜める俺に、しかし奥田にそれは聞こえなかったようで、時間と場所を指定してきた。
 ノートの端にメモをして、勉強を続ける。
 それから先は奥田は今日見たテレビドラマの話だとか、ひょうきんな友人の失敗談だとか、些細な話題を繰り返していた。興味は無いけれど、こういう会話も親交を深めるには必要なんだろう、と思いながら相槌を打ってやり、欲しがっていそうな返事をくれてやった。
 翌日、時間通りに着いた俺が約束の場所でスマホを開くと『電車が遅延しているから遅れます』というメッセージが入っていた。
 夏休みのショッピングモールは、当然人が多い。待ち合わせの場所には同じように人待ちの人でごった返していて、着てきた薄い長袖を無意識に指先の方まで伸ばして握り込んだ。この中にどれだけのαが居るか分からないけれど、不用意な接触はしたくない。とかくΩに優しい世の中だから肌が接触したとして咎められるのはαだけれど、自衛するに越したことはない。
 もう少し人の少ない場所に行きたいな、と移動する旨を奥田へメッセージを入れて、建物の外へ出た。
 直射日光はキツいが、その分人は少ない。
 風を感じると何故かホッとして、奥田が着いたら中に戻ろうとスマホに目を落としていたら、不意に声を掛けられた。

「唐島」
「……乾?」

 苗字を呼ばれて顔を上げると、そこには乾が立っていた。
 当然ながら制服ではなく私服の彼は半袖とロングパンツのジャージ姿で、背中にラケットか何かのバッグを背負っている。
 久々に見た彼は休み前より少し焼けたようだ。俺より随分白かった肌が黒く焼けていて、少し鼓動が跳ねる。

「何やってんだ、こんなところで。倒れるぞ、中に入れ」
「……人が多過ぎる」
「夏休みのモールだぞ? 当たり前だろ」
「知らないよ、そんなこと」

 滅多に来ない場所のそんな事情、知るわけもない。予想はついていたけれど、実際目の当たりにすると慣れないからか気分が悪い。あの人混みに戻るのは気が乗らず、乾から視線を逸らした。
 もう話は終わりだと、そう示したつもりだったのだけれど、乾はそのまま俺の横へ来て話し掛けてくる。

「あのなぁ。いいから入れって」
「放っておいてくれ」
「涼しくて人の少ないとこ連れてってやるから」
「……」

 本当に? と目で訊くと、乾は一つ頷いて手招きして建物の中へと歩き出した。
 また移動する旨を奥田へメッセージを送ると、『遅れてすみません』と返事がくる。交通機関の遅れは仕方ないものだから、と返事をして、スマホを仕舞って乾を追った。
 乾は人混みの方ではなく、入り口を入ったすぐ横の細い通路を歩いて行く。ついて行くとそこには上へ続く階段があり、しかし幾分人は少なかった。

「皆、中央のエスカレーターか途中のエレベーター使うから、階段は空いてんだよ」

 そのまま上っていく乾を、それ以上追いかけるべきか迷って歩みを止めたら、振り向いた乾が「こっちだ」と呼ぶ。どうやら彼が言った『涼しくて人の少ない所』はここでは無かったらしい。
 大人しくついていった先は、どうやらラウンジのようだった。ホテルや空港のものよりこじんまりとしているが、静かで確かにフロアより格段に人は少ない。
 入り口で財布から出したカードを見せた乾は、受付の店員に恭しく深く腰を折った挨拶をされてからラウンジの奥の扉を挟んだ個室に案内された。

「飲み物、何がいい。持ってくる」
「いや、いい、自分で……」
「座ってろ。緑茶でいいか」
「……ああ」

 あいも変わらず、Ωにお優しいことだ。俺のことはΩとして意識していないと言いながら、こうして親切にするのはΩだからだろうに。
 ソファに座ると、冷房の風が身体に当たって、全身の汗を冷やして身震いした。建物の中と外での温度差があり過ぎる。頭痛がしそうだ、と皺の寄る眉間を指で揉んでいると、扉から両手に飲み物を持った乾が戻ってきた。

「頭痛がするのか?」
「いや……」
「熱中症で頭痛がすることもある。横になるか? いや、まずは先に水分補給か。目眩はするか? 口の中は乾いてないか? 用事が無いならすぐ家に連絡して迎えに来てもらえ。もしくは俺の家の車で送る」
「ちょ……」

 真顔のまま寄ってこられて、逃げようとするのだけれどソファに座った俺はそれ以上後ろには下がれない。
 立て続けに質問されて目を白黒させていたら、勝手に迎えの車を呼ぼうとし始めたので慌てて止めた。

「乾。俺は今日、ここに用事があって」
「何の用だ。買い物なら俺が代わりにしてきてやる」
「違う、そうじゃなくて……、奥田と、映画を観に」

 何故だか、口にするのが躊躇われて尻窄みに小さくなる声を、しかし乾はしっかり最後まで聞き取って目を細めた。

「待ち合わせに外を指定したのか、あの馬鹿は」
「いいや。勝手に俺が外へ出たんだ。あまりに人が多くて……」
「というか、お前、こんなところに来たがる可愛げがあったのか」
「……」
「だろうな。わざわざあいつなんかに嫌々合わせて具合まで悪くして、そこまでの価値があいつにあるのか?」
「そういう言い方をするな。他に番の貰い手の無い俺には贅沢なくらいだ」

 持ってきてくれた緑茶を少しずつ口に含むと、思っていたより喉が乾いていたのを自覚した。

「ありがとう、助かった。……もう行くよ」

 立ち上がろうとする俺の肩を、乾の手が押さえて止める。布一枚を挟んだ乾の体温に、身体が勝手に反応してぐっと奥歯を噛んだ。

「乾、触らないでくれないか。これでも一応Ωなんだ。君は忘れているかもしれないが」
「服の上からだ」
「……君の体温は、Ωの身体には刺激が強過ぎる」

 もっと触れて欲しくなってしまうよ、と冗談めかして微笑むと、やっと手が離れていった。
 苦々しい表情に、胸が痛む。嫌なんじゃないか。俺に優しくするのはΩだからのくせに、俺をΩとして見ないなんて嘘を吐いて。酷い男だ。

「求愛してくれるαなら誰でもいいなら、俺でもいいのか」

 俺の体調を心配してくれているんだろうか。自分も番候補ならどちらを優先しても俺に非が無くなるから、今だけでも、と?
 ハハ、と苦笑しか浮かばない。

「だったら俺にキス出来るかい?」
「……は」
「してみせてよ。求愛してくれるんだろ?」

 出来ないと知っていて言った俺は、顔を顰めて困る乾の顔を見て少しだけ気持ちが落ち着いた。

「俺は番を結んでないΩにそういう事はしない」
「知ってるよ。紳士だものね」

 よく知っているさ。俺が乾にとってそういう対象じゃないのも含めて、しっかり。
 スマホが震えて、奥田が到着したとメッセージが入った。
 今度こそ立ち上がった俺を、まだ乾は何か言いたげに見つめてくる。

「世話になったね。今度、君の会社の株を買い増しておくよ」

 正確にはまだ乾の親の会社だけれど、そのうち彼のものになる。年功序列で無いとしても、乾の実力を知っていれば、彼をトップに据えないなんて考えられない。小遣い稼ぎに保有しているだけのそれを増やしておくよ、と冗談でもなく言って立ち去ろうとすると、無言で乾がその行く手を阻んだ。

「体調ならもう平気だ。映画は座っていればいいだけだし……」
「キスをすればいいのか」

 え、と顔を引き攣らせる俺を無表情に見つめて、乾がもう一度「キスすればいいんだな」と言う。

「い、……乾?」
「お前から言い出したんだ」
「ちょっと、……乾、何を」
「キスすれば今すぐ俺を番候補にして、今日の予定を取り止めにするんだよな」
「そんな冗談を真に受けて、君らしくもない」
「悪いが俺はΩに触れるのは初めてだ。止まらなくなって、勢いで番にしちまっても恨むなよ」

 肩を掴んで顔を寄せられて、吐息の掛かる距離まで乾の顔が近寄ってきてぎゅっと目を閉じた。
 身を硬くして震える俺に、しかし乾は俺の唇に吐息を掛けながら笑った。

「……女王様が、まるで処女じゃねぇか」

 ゆっくり目を開けた俺を睨んだまま、乾が体を離していく。

「いいから今日は帰れ」

 乾の手が触れていた肩を自分の手で撫で、俺は自分がひどくガッカリしている事に気付いた。──されたかったのか、俺は。あのまま唇を奪われて、番にされたかったのか。
 ハ、と自分の感情を鼻で笑う。みっともなく、見苦しい。俺は、乾にΩとして見て欲しくて、ずっと挑発してきていたのか。知らなかった自分の心根の汚さにウンザリする。
 目の前に薄く膜が張る。
 そうか、俺、乾に選んで欲しかったのか。

「おい、分かったのか」
「処女に対して、随分な脅し方をするね」
「はぁ? 何が処女だ、……おい、嘘だよな?」

 そこは気になるのか、と笑って、はぁ、と大きく溜め息を吐く。
 普通のΩなら発情期が始まってから何十回と経験しているだろう行為で、だからΩにもαにも番を結ばない限り身体的な純潔は求められない。候補が居るならばその中から選ぶのが普通で、しかし俺には今まで一人もそんなもの居なかったし、発情期自体も薬で抑え込んでいたから経験が無い。

「ちゃんと帰るから、そこを通してくれないか」
「本当に処女なのかよ」
「あれ、もしかして君、βだった? βは確か処女信仰が多いんだよね」
「茶化すな」
「いいから、どけ。そろそろ本気で怒るよ」

 俺が睨むと、乾はす、と表情を失くして道を開けた。

「送る」
「必要無い。奥田に頼む」
「……お前は、それ、素でやってんだよな」

 何をだ、と睨もうとするのに、急に手を掴まれた。指と指が触れる。絡んできた乾のそれが、俺の指を撫でて握ってくる。
 心臓が跳ねる。息が上がる。αに触れられて、身体が勝手に喜ぶ。……本当に、身体の反応なんだろうか。俺自身じゃないのか。こうして喜んでいるのは、αに触れられたからじゃなくて、乾に触れてもらえた俺自身じゃないのか。

「い、ぬ……い」
「いくらでも煽れ。追いかけ続けて、絶対にお前を一位から引き摺り下ろす」

 だからそれまで、他のαに触れさせるな。
 乾の言葉が俺の中から聞こえたと思ったら、重なった唇の音を拾っていただけだった。

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