Ωの恋煩い、αを殺す

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「なぁんにも分からないフリをして、ただきゃっきゃと笑っていればいいのよ」

「ただ無邪気に抱き着いて、撫でてくれる手を当たり前だと思ってればいい」

「Ωはαに愛される為に生きているんだから、そこに心配をしたことなんて無いわ」

「私たちがαに拒絶されるなんてありえない。αはΩがいないとαを増やせないんだから」

「ただ、ニコニコと笑って何も言わないでいればいい」

「好きなようにすればいいよ。キスしたければして、抱き締めたくなったら抱き締める。Ωだけがαを振り回せるんだから」

 一日に一人か二人ずつ、継則にアポをとってもらったΩに会って話を聞いた。
 けれど、誰もがこの調子。
 『ΩはΩであるだけで愛される価値がある』と信じて疑わない彼ら彼女らの言葉は、ただ俺を打ちのめすだけだった。

「……むしろ、それくらい強引にいけということか……?」

 好奇の目を我慢して学校へ通い、放課後はΩの先達に会い。そして、それが終わってから乾の家へ向かう。初めて乾の家へ行った日から三週間ほど経っていて、もうその流れがルーティン化しつつあった。
 今日も運転席に座る継則は、俺の独り言を受けて眉間に皺を寄せた。

「透様、そろそろお休みになられては」
「うん? ちゃんと寝ているだろう?」
「そうではなく、……乾氏に会いに行くのを、おやめになっては、と」
「それは無いな」

 心配してくれるのも継則の仕事のうちかもしれないけれど、と車の後部座席でうーんと伸びをして、窓の外を見る。
 もう十月に入った。そろそろマラソン大会だろうか。あれこれあって俺も乾も選手から外れ、練習に参加している奥田が昼休みに「一緒に走りたかった」などと愚痴を言ってうるさい。去年は確か、俺と乾でツートップだった。今年参加出来れば、競り合いに奥田も参加してきてなかなか楽しい時間になったに違いない。

「ですが……このままでは、透様のお心まで壊れてしまいそうで」
「俺の心が? やだなぁ、そんなに脆くないよ、俺は」

 見損なうな、とニコリと笑みを作ると、バックミラー越しに継則が目を逸らす。
 そんなに無理をしているように見えるんだろうか、今の俺は。ダメだなぁ。余裕が無いように見えるのはよくない。目を閉じて、深く呼吸をする。俺がどっしり構えて、乾を癒してやらないといけないのに。
 車が停まり、乾の家に到着するとすぐにドアが外から開かれた。
 いつも俺の到着を待ち構えている長押が、今日も申し訳なさそうに眉尻を下げて頭を下げた。

「申し訳ありません、本日は、その……本邸に悠勝様の兄上や姉上様方がいらっしゃっておりますので、差し支えなければ裏口の方からご案内させて頂きたく……」

 乾には兄だけでなく、姉もいたのか。そういう身の上話をしたことがないから初耳だけれど、在宅しているから裏口へ、というのはどういう意味なのか。まるで出入りする妾が見つかった時のような扱いだ。
 首を傾げる俺が質問するより早く、継則が険しい顔で長押に詰め寄った。

「貴様のところの不肖の弟がやらかした事態だというのに、透様を鼻つまみ者にするとはどういう了見だ。出方によっては当主様に報告するぞ」
「ちっ、違」
「継則、落ち着け。まず話をちゃんと聞いてから……」

 今にも母に報告しそうな勢いの継則を押し留め、慌てる長押の説明を聞こうと思っていたら、長押が出てきた正面玄関が勢いよく開いて中から女性が二人出てきた。

「あら、やっぱりもう来てるじゃないの」
「ひなちゃん、透くんが来たら呼んでってお願いしたのに! どうしてすぐ呼んでくれないのよーっ」

 黒い髪を肩上のボブで切り揃えた涼やかな美人と、くるくるに巻いた黒髪を耳下で二つに結んだ、可愛らしい美人。フェロモンが可視化したような魅力的な容姿で、どちらもパッと見た瞬間にΩと分かった。
 彼女達が乾の姉だろうか、と長押に目で訊くと、やはり困ったように頷いた。

「あの、深香みか様、陽芽ひめ様。唐島様は悠勝様のお加減を心配してこちらへいらして下さっておりますので……」
「そんなの知ってるわ。さ、こちらへどうぞ、透さん。お茶の用意が出来ているのよ」
「お菓子もね、いっぱい用意したの! 甘いのもしょっぱいのも、辛いのも酸っぱいのもあるわよ? 透くんがどんなの好きか分からないから、たくさんたくさん作ったの!」

 彼女達に両脇からがし、と両腕を掴まれ、引き摺るように連れて行かれる。

「えぇと……」
「悠なんて放っておけばいいのよ、あんな強姦魔」
「ご……、あの、さすがに強姦まではされていないのですが」
「無理やり番うなんて強姦と一緒だよ! むしろ殺人未遂? 我が弟ながらサイッテーだよ! あんな子無視無視! 一生寝てればいいんだよ!」

 あんまりな言い様に閉口するが、姉達の言動を見た継則は彼女達を敵だと判断しなかったのか、大人しく後ろをついて来た。長押は慌てて「悠勝様に報告してきます」と俺たちを追い越して廊下を走っていってしまう。

「ひなちゃん、ほんと悠のこと大好きなんだから」
「食事もお風呂も面倒みてあげてるのよ。甘やかし過ぎよね」

 長押の後ろ姿を見てそう言ったのを聞いて、胸にモヤ、と嫌なものがよぎった。食事も風呂も? 俺が毎日、何を話し掛けても返事一つ、身動き一つしない乾は、しかし長押の世話は受け入れているのか。
 長押の方がよほど番らしい、とため息を吐くと、大きな瞳をキラキラさせた二つ結びの方が、俺の方を見上げてきて目を細めて笑った。その表情が、乾の笑顔と被って、血を感じる。

「お風呂の面倒って言ってもね、引きずって連れて行くところまでだよ。中に放り込んで鍵を掛けて、洗って出てくるまで開けません! って怒鳴るんだって」
「え……、それで、どうするんです? 乾、あ、えぇと、悠勝は」

 彼女達も『乾』なのだと、少し戸惑いつつも乾を下の名前で呼ぶと、俺の両側からクスクスと笑い声が上がった。

「最初の日はね、そこでそのまま寝たらしいの。でも、次の日の昼になっても本当に鍵を開けてもらえなくて、渋々シャワー浴びる音が聞こえてきたんだ、って言ってたわ。それから毎日そうしてるんですって」
「病んでるフリよ、フリ。構ってちゃんなの。あー面倒な子」

 想像すると、少し面白い。浴室に閉じ込められた悠勝は、のそのそと着替えてシャワーを浴びてから「風呂に入ったから開けてくれ」と頼むんだろうか。
 強制すれば出来るというなら、確かにフリと言われても仕方ない。でも、だとしたら。

「……俺、もう来ない方がいいんでしょうか」

 ショートボブの美人系が深香で、ふわふわおさげの可愛い系が陽芽だと自己紹介され、連れて行かれた先の応接間の大きなテーブルには所狭しと手作りらしい菓子が並べられていた。「カップが置けないから少しキッチンへ戻してきなさい」と深香に叱られた陽芽が、唇をツンと尖らせながらマドレーヌとガレットが山盛りになった大皿を抱えて行った。
 温かい紅茶を淹れたカップを差し出され、良い香りのそれを飲みながらテーブルの上を眺めて、ああ、これがΩ、とさもしい気持ちになって、思わず口をついた。

「来たくないなら、来なくていいのよ」

 言葉自体は冷たいはずなのに、深香さんは穏やかに、俺を気遣うようにそう言った。

「今は抑制剤を使えば発情期なんてどうとでも出来るし、フェロモンの抑制が下手でも番持ちなら他のαには影響が出なくなるから。透くんはとても頭がいいのよね? だったら、悠勝なんて忘れて、優秀なβのフリをして社会へ出ることも出来るわ」
「βのフリを……?」

 そんなこと、考えもしなかった。けれど確かに、考えてみれば今までも発情期は薬で抑えて通学していた訳だし、フェロモンが出ないなら俺はβと同じように仕事だって出来るだろう。
 それも良いかもしれない、とウンウンと頷くと、深香さんが少しだけ悲しそうな表情をしたので、「でも」と付け加える。

「社会に出るかどうかは置いておいて、まずは悠勝を元に戻さないと」

 俺がそう言うと、陽芽さんが戻ってきて深香さんの隣へ座った。チョコレートシロップとキャラメルシロップのかかった小粒のシュークリームを小皿に取り分けながら、陽芽さんは「話に聞いてた印象と違うわ」と笑う。

「話?」
「悠勝ったらね、ずっと貴方のことを……」
「陽芽。本人にそういうのを伝えるものじゃないわ」

 またもや深香さんに叱られて、陽芽さんがシュンと表情を曇らせて小皿を俺の前へ置いた。
 どうやら、乾家の中での俺は相当、前評判が悪いらしい。自分が悠勝にとっていた態度を考えれば当たり前のことだけれど、家族に愚痴る悠勝を想像するとやはり、何だか面白い。
 悠勝のことなんて、俺は何も知らない。テストの点で競い、ただ昼休みに少し話していただけの間柄だ。そんな人間を衝動的に番にしてしまったんだから、後悔もするだろう。

「……今のところ、俺が来ても無意味というか……むしろ、逆効果な気がして。長押になら心を開くというなら、彼に任せるのが得策なんでしょうか」

 俺が来ても、ただベッドで寝ている彼に一方的に話し掛けているだけ。俺が来ることでベッド上で寝たフリをしていなければならない時間が増えているのだとしたら、それは逆効果としかいえない。
 ゆっくり冷めてきた紅茶を静かに啜り、フォークでシュークリームを刺した。サク、と小気味のいい音がして、潰れず皮の中にフォークが埋まっていく。

「わたしは賛成ね。放っておけばいいと思うわ」

 それより美味しい? と聞かれて、苦笑しながらシュークリームを口に運ぶ。外側はひどく甘く、しかし中のクリームは甘さ控えめでバランスがいい。キャラメルシロップと微かなアーモンドの匂いが鼻を抜け、思わず笑みが溢れた。

「すごく美味しいです」

 数噛みで口の中から無くなってしまって、二つ目をフォークで刺した。

「甘いものは好き?」
「そうですね。洋菓子は特に、匂いがいいので好きです」
「だったらこっちのこれ、きっと好きよ」

 甘くて美味しいものは幸せで、自然と頬が緩んでしまう俺の前へ、椅子から立ち上がった陽芽さんが腕を伸ばして数枚の皿を並べ直す。

「こっちがラムレーズンとレアチーズのタルトで、こっちは桜のロールケーキ。どっちも香りがすごくいい……筈よ!」
「ふふ。ありがとうございます、いただきます」

 薦めておいて途中で少しだけ心配になったみたいに言い淀んだ様が可愛らしく、これがΩ、と羨まずにいられない。
 大きなホールケーキなどは無く、一口大の小さな菓子が大量にあるのは、先程言っていたように、俺の好みのものを作ろうとした結果なのだろう。苦手だったとしても小さなものなら食べ切れるし、これだけ種類があればすぐ他の物に手をつけても失礼に当たらない。本当に俺を歓迎するつもりで用意してくれたのだ。

「では、しばらく……」

 来るのをやめてもいいでしょうか、と。言い掛けたところで、応接間のドアが外からノックされて、そしてのそりと男が顔を出した。

「あ……、来てる」
「あら、兄さん」
「ちょっと統理とうり兄さん、ちゃんと着替えてきたの? お客様の前なんだから、いつもの部屋着で出てきてないでしょうね?」
「……俺が用事あるの、透くんだけ……」

 妹二人にやいやい言われて、兄さんと呼ばれた男は半分ドアに隠れたまま、そこからこちらへ入ってこようとはしない。

「あの、統理さん、でよろしいですか」 
「……うん」
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。悠勝の番になりました、唐島 透と申します」

 用事があるというので、席を立ってドアの近くまで行って、そこを開きはせず挨拶をした。
 猫背なのだろうか、頬の痩けた男は見合いの前書きではしっかりαと書かれていた筈なのだけれど、百七十三センチの俺と目線の高さが同じだ。といっても、目を合わせようとしたらすぐに下に逸らされてしまったけれど。

「兄の、統理です。その……今、時間ある?」
「だめー! 今は陽芽たちとおやつなの!」
「統理兄さん、何の話? ここでは出来ないの? 兄さんの好きなリーフパイも焼いたわよ」

 チラ、とテーブルの上を見た統理さんは、唇をもごもごさせてから、「ここじゃダメ」と呟いた。

「しょうがないわね。これ、少し持っていって下さい」
「むぅ~。こういう時、絶対兄さんが優先されるの、ずるい~」

 手早く何種類かの菓子を大皿に取り分けた深香さんが、トレイに菓子の皿とティーセットを二組揃えて継則に持たせた。
 す、とドアの隙間から姿を消した統理さんの後を追って、継則と俺で廊下へ出る。

「こっち」

 廊下で少し距離を開けたところで振り向いた統理さんは、やはり相当な猫背だった。細くて背が高いから、柳の木みたいな不気味さがある。背を伸ばしたら百八十は余裕で超えているだろう。
 見合い写真ではきっちり後ろに撫で付けていた髪はボサボサで、寝癖までついている。肘の下と膝の後ろに沢山の毛玉のついた青いジャージを着て足裏を擦りながら歩く様は、どう見てもαには見えなかった。

「俺の部屋。入って」

 ゴミだらけだったらどうしようか、と少し覚悟を決めながら足を踏み入れた統理さんの部屋はしかし、綺麗に整頓されていた。
 壁を埋め尽くす美少女アニメらしきポスターとタペストリーと、ガラスケースに陳列された大量のフィギュア。大型テレビと、何個も置かれた大型のスピーカーシステム。圧倒的な物量に思わず尻込みしそうになるけれど、汚くはない。ゴミも無いし、埃も無い。床に敷かれたカーペットも鮮やかな緑で、綺麗に掃除されていた。

「俺、普段は一人暮らししてるから、物置みたいになってるけど……、ごめん、これ、座って」
「……座っていいんですか?」
「座布団っぽいもの、それしかなくて」

 差し出された長座布団らしきものには、頬を染めた半裸の美少女が描かれていた。座り辛いけれど、他に無いと部屋の主が言うのだから仕方ない。

「それ、こっち置いて」

 菓子類の載ったトレイをカーペットに直置きしろと言われて、継則の顔が引き攣る。言う通りに、と目で制すと、嫌そうにカーペットへ置いた。こうしてカーペットへ直に座ること自体、家でやったら叱られそうだ。

「あの、それで、統理さん。お話というのはどんな……」
「透くん、頭良いんだよね。で、運動神経も結構良いって……」

 継則が俺の隣へ座って紅茶を入れ直してくれるのを見ながら口を開くと、統理さんの言葉とぶつかった。お互いに顔を見合わせて続きの言葉を待って、それから俺が先に答えた。

「まぁ、そこそこではあると思いますが」

 悠勝についての話ではないのかと、訝しげにする俺に、統理さんがやっと細めた目を合わせて見つめてくる。

「少し、付き合ってほしい」

 何に、と返事する前に、統理さんが四つん這いでテレビラックに寄っていって、引き出しの中から黒い物体を出してきた。二つのうち一つを手渡され、ボタンの沢山付いたそれを見下ろして首を傾げる。

「あの……」
「テレビゲーム。したことない?」
「無い、ですね」
「そっか」

 テレビをつけた統理さんはニコリと笑うと、俺にボタンの説明から始めてくれた。
 彼の言う通りにボタンを押すと、テレビの中でキャラクターが連動して動く。

「そう、次は左スティックを倒しながらAボタンを押して。……うん、やっぱり頭良いと飲み込み早いな」
「はあ……。あの、統理さん、これって何の意味が」
「意味? 特に無いよ。遊び相手が欲しかっただけ」
「……」
「番としては悠にとられちゃったけど、別に俺、番が欲しいとは思ってなかったから。身内なら、遊びに誘っても変な誤解されないし」

 ゲームをしながら話を聞くと、統理さんはボソボソと話し出した。

「小さい頃からアニメとゲームにしか興味持てなくてさ。見た目もこんなだから、気持ち悪がられて……なのに、就学前診断でαだって分かった途端、Ωが群がってきて、気持ち悪くて、それ以来三次元全部無理になって」

 だから、一生番なんて持つつもりもなく生きてきたのだ、と。今は一人暮らし先のマンションで自宅で在宅プログラマー兼サーバー管理をしているという。外に出なければフェロモンに惑わされることもないから、滅多に外に出ないらしい。

「見合いの話持ってこられた時は、正直人生終わったと思ったよ。悠から君の噂は聞いてたし……」
「そんなにボロクソに言われていましたか、俺は」
「まぁ、端的に言えば、『αの心を殺すのを何よりの喜びにしてる性悪女王様』って感じかな」

 あながち間違ってもいないので、訂正せずに苦笑で済ます。継則も眉間の皺を深くしながらも異論は唱えない。

「でも、悠から嫉み無しの君の評価を聞いて、興味が湧いた。αに媚びないΩなんてそうは居ないし、もしかしたら、俺と同じレベルでゲームで遊んでくれるかも、と期待した」
「それは……すみません」

 画面の中で俺の操作するキャラクターは死にまくっている。これで何回目だろうか、と落とした肩を、しかし統理さんは優しく撫でてくれた。

「初めてとは思えない。これなら、練習すればきっと、俺の練習相手になるレベルまでそう遠くない」
「……どうですかね」

 同じミスを繰り返さないよう気を付けてはいるが、画面を見てから指を動かすまでの供応動作が遅い。これを身体に馴染ませるまでは結構時間がかかりそうだ、と画面を睨むと、横に座る統理さんがパリパリと音をさせながら陽芽さん達の作ったパイを食べた。

「悠のとこ、毎日来てるんでしょ。少しでいいから、俺のとこにも寄ってほしい。悠のことがあって、しばらくこっちに住めって強制連行されたから、暇なんだ」
「……ちょうど、透様にも休息が必要だと考えていたところです。明日からはこちらへ参りましょう」

 継則を窺うと、俺が何か言うより先に大きく頷いて、そして勝手に返事をした。

「いいの? じゃあ、俺もお菓子用意しておこうかな」
「統理さんも菓子を作られるんですか?」
「深香と陽芽に教えたのは俺だよ? 甘いものが好きなんだけど、買いに行く為に外に行くのが嫌だから……材料はキッチンにいつでもあるし、作った方が早いな、と思って」

 嬉しそうに顔を輝かせる統理さんに、一度休憩しよう、と言われてコントローラを置いて冷めた紅茶を啜った。パイの欠片をボロボロと溢す統理さんの膝に、見兼ねて継則がハンカチを開いて置く。

「ありがとう。えっと……」
「木下と申します。透様の専属ですので、今後ともよろしくお願い致します」
「木下さん、ね。うん、木下さんもゲームやらない?」
「……私は遠慮しておきます」

 そっか、と統理さんは残念そうにして、それから今度はロールケーキを食べ始めた。さっき食べたそれは、塩漬けの桜とキルシュの香りがほどよい、大人味だった。俺ももう一切れ食べたいな、とフォークを伸ばすと、ドアの向こうから人の声が聞こえてきた。
 言い争うような二つの声は、段々と近付いてきているようだ。

「……? 騒がしいな」
「あの声、長押でしょうか」

 継則が即座に立ち上がり、ドアの外を確認して振り返ると「鍵を掛けても構いませんか」と統理さんへ訊いた。

「鍵? いいけど……」

 統理さんが不思議そうに承諾すると、継則はドアを閉めてガチャリと鍵を下ろした。
 途端、廊下側から引かれたようにドアノブが激しく揺れる。

「開けろ!!」

 急な怒声に俺と統理さんが菓子を食うのを止め、顔を見合わせた。ドアの外ではやはり長押の声が「あの、落ち着いて」「部屋に戻りましょう」と慌てているのが部屋の中まで聞こえてくる。

「継則、なんなんだ?」
「……悠勝氏が暴れているようです」

 激しく叩かれるドアの前から動かず、継則が答える。

「乾が?」

 まだ悠勝と呼ぶのは口が慣れず、思わず馴染んだ苗字の方で呼んだ俺の横で、統理さんがくっくっと笑い出した。

「なんだ、悠、元気じゃん」
「……」

 確かに、ドアを叩く音の激しさは、心を壊した無気力な病人とは思えない。いや、行為自体は病的なのだけれど。


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