狡猾な狼は微笑みに牙を隠す

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 ゴソゴソと物を漁る音と、小声で話す声。
 ああ、今日もか。

「おい、そっちどうだよ」
「ダメ。財布に三千円しか入ってねーでやんの」
「ケチくせー。ほんとに社会人かよ」
「ねぇ早くしてよ、ママたち起きてきちゃう」
「そろそろ盗るもん無ぇし、さっさと出てってくんねーかな。邪魔だし」
「マジそれな」

 声と話し方からして、筝麻と誉幸、それから魅弥だろうか。
 実家に帰ってきてからもう半年。血の繋がらない弟妹たちはいつのまにか五人に増えていて、だけれど母は二人まで減っていた。
 寝ている俺の荷物から金目の物を漁っている三人は血の繋がった兄妹で、俺が持ってきた私物のほとんどは既に盗られてしまった。手癖が悪いのは彼らの母親も同じらしく、他の母たちの物を盗むので他の母たちは嫌がって出て行ってしまったのだという。
 唯一残ったもう一人の母は俺が幼少期から居る人で、父さえ居ればそれでいい、というタイプなので何をどれだけ盗まれても気にしていないらしい。
 どうせ全ては家に入らないだろうから、と引越しの時に荷物を一旦レンタル倉庫に入れておいたのが予想外に功を奏して、VR機器だとか貴重品は売られずに済んだけれど、普段着る服や靴なんかは全て取られてしまった。残っているのはスーツとワイシャツと下着類くらいで、だから十月になった今も布団に潜る俺は下着姿だ。
 そろそろ肌寒いから服を盗むのはやめてほしいのだけど。
 靴下を履いたままの足裏に鍵の感触があるのを確かめて、寝返りついでに「うーん」と唸ってみた。

「やべっ」
「起きる、行くぞ」

 毎日財布から金を抜かれて気付かない訳もないのに、俺が何も言わないのを良いことに彼らはこうして毎日のように俺が寝ている隙を狙ってくる。バレバレなのに現行犯だけはマズいと思っているのが子供っぽくて呆れてしまう。
 彼らが部屋から出て行ったのを確認して、上半身を起こして靴下の中の鍵を取り出した。二十四時間開け閉め自由の倉庫を借りたので、スマホやクレジットカード等の貴重品は倉庫に入れてから帰ってくるようにしている。
 財布に僅かな現金を入れておくのは、ここに戻ってきた当初の彼らがあまりにも貧相な格好で可哀想だったからだ。穴が開いて底が真っ黒になった靴下と、毛玉だらけのスウェット。彼らの母親は父に擦り寄る為に綺麗な服で着飾って、父の息子である俺に「あなたの本当の弟妹だと思って可愛がってね」なんて言ってきたのに、その子供たちはあまりにもみすぼらしかった。
 中高生の彼らが外出時にいつも学校の指定ジャージを着ていくのを見て、哀れむなという方が無理だろう。
 俺が家に居た頃は、子供も多かったけれど、その倍くらい母たちが居て、彼女たちが働いていたから金に困ったことなんて無かった。大学の学費も払ってくれていたし、家賃や生活費の仕送りもあった。二つ下の妹も、確か短大を卒業したと言っていたのに。
 同じ父の犠牲者というには酷い環境差で、血が繋がっていなくとも一つ屋根の下で暮らす身として見て見ぬフリも出来なかった。
 俺から盗んでいった服を着て堂々と俺の前に出てくるのはどうかと思うけれど、今のところ正面きって俺に嫌がらせをしてくることも無いので、わざわざ俺から波風立てる気も無い。

「……はあ」

 起きたばかりなのに、もう既にどっと疲れていた。出社を考えるともっと億劫になってしまうから、何も考えずベッドから出て鴨居に掛けたスーツに着替える。
 寝ても覚めても心が休まらない。あと半年も耐えられるだろうか。
 父が市役所の職員でなければ、こっちに戻ってくるのも黙っていられたのだけれど。割と偉めのポストに就いている所為で、色んな意味で有名な父の息子である俺もまた、顔を知られてしまっている。
 帰ってきたのに別居しているというのは外聞が悪いから一年くらいは実家に住んでくれと、頼んできた父の方は家の外の女の家に入り浸って滅多に帰ってこない。
 支度をして、布団を畳んで物置を出た。部屋は弟妹とその母が使っているから、俺はここしか余っていなかったのだ。
 階下へ降りると、居間のちゃぶ台で化粧途中の巴江と目が合った。

「あら、久斗くんオハヨウ」
「おはようございます」
「もう会社に行くの? 朝ごはんは?」
「会社で食べるので」
「そう。残念だわ、久斗くんのご飯美味しいのに」

 三兄弟の母であるこの人は、自分を着飾ることしか頭に無い人で、家事のほとんどをもう一人の母である芙美に押し付けている。働いてもいないし、やることといえば、定位置のちゃぶ台前で化粧するかテレビを見るか。
 昔はこんな人が家に上がり込んだらすぐさま他の母たちが追い出していたのに。追い出すより自分が出て行く方を選んだ母が多かったということは、父のおかしなモテ力もそろそろ潮時だろうか。
 四十も半ばになった父はさすがに若い頃ほどの美しさを維持しているとはいえない。それでもこっちへ越してきた当初には「今、新卒の子と付き合ってるんだよ。お前より若い子だぞ」なんて得意げに話してきたから、まだまだ被害者は増えているみたいだが。
 さっさと家を出て、駅から電車に乗ってまずはレンタル倉庫に寄ってスマホと貴重品を取り出した。
 スマホの電源をつけると、まだ始業前なのに支店長から何回も不在着信が入っていた。無心で支店長へ電話を掛け、スマホを耳に当てた。

「お忙しい所申し訳ありません、岩瀬で……」
『テメエ何時だと思ってんだ!!』

 七時ですね。
 毎度ながら鼓膜を破る気かというような声量で怒鳴られ、心の中だけで返事をする。

『今すぐ出てこい! 下っ端は一番最初に来て掃除しとけって何度言ったら分かんだこのウスノロ!』

 ぎゃあぎゃあ騒いで支店長の浜部は向こうから通話を切った。転勤してから平日は毎日のことなので、もう慣れた。というか、慣れないでいると確実に心を壊す。俺が転勤するまで残っていた新入社員も、もう既に他の支店に移れなかった子は全員辞めていった。
 残っているのはイエスマンの副支店長の山田と、浜部と不倫している角田と、それからずっと外回りに行って出退勤しか顔を見せない白城くらいだ。
 そのうちまともに仕事しているのは俺と白城だけで、那須、水戸、佐野と周辺にも支社があるのだから、もういっそこの支社を潰してしまえばいいと何度思ったことか。
 ほとんど外回りをしていない筈の支店長は、しかしどうやっているのか毎月大量の契約を取ってきて、だから誰も文句が言えない。支店長の所為で新入社員が潰されていると知っている本社すら、彼に辞められて客ごと他の社へ持っていかれるのを危惧して何も言えない有様だ。
 始業は十時だけれど、俺はいつも七時半には出社している。早く来いと言う割に、支店長が会社へ出てくるのは昼過ぎで、けれど支店長の腰巾着の副支店長は八時に出社して俺が居るか確かめに来る。ご苦労なことだ。
 軽く掃除して仕事に取り掛かり、十時過ぎから外回りに出た。テレアポメインだった二課の頃より体は疲れるけれど、あの会社の中に居るよりはマシだ。下手にサボって副支店長や角田に見つかると支店長に告げ口されて痣にならない程度に蹴られたりするので、昼時くらいしかゆっくり出来ない。
 手の甲が乾燥で突っ張る感じがして、自然とそこを撫でた。こっちに来た当初、支店長に淹れたばかりの熱いお茶の入った湯呑みを投げ付けられたところで、すぐに冷やして病院へ行ったけれど軽い火傷を負ってしまった。それ以来、細めにハンドクリームを塗らないとすぐ突っ張る。
 若い女の子だったら大変なことになっていた。さすがに支店長も反省したのか、それ以来熱い飲み物は掛けられていない。鞄から薬用クリームを出して塗り、時間を確認して帰社した。

「岩瀬、ただいま戻りました」

 ……。あれ? と首を傾げる。
 いつもならすぐに「今までどこで何やってきたんだ能無し!」なんて支店長の罵声が飛んでくるのだけれど、今日はそれが無い。
 何かあったのか、それとも支店長は帰宅した後なのかとオフィス内を見回すと、衝立で区切られた支店長のデスクの方に見覚えのある後ろ姿が立っていた。

「……」

 矢造だ。スラッとした姿勢の良い痩躯と、見慣れた色のスーツ。見間違う訳がない。
 どうしてここに、と思っても、訊ねる相手も居ないのでそちらを気にしつつも黙って自分のデスクへ座ろうとする前に支店長に名前を呼ばれた。

「おい岩瀬ぇ! こいつお前の上司だったんだって?」
「え……、はい、そうですが」

 嘲るような声音に、嫌な予感がする。それが何なのか訊くまでもなく、支店長はゲラゲラと笑い出し、そして矢造を指差した。

「こいつ、今日からお前の部下な。上司だった奴が部下になるとか、超面白ぇだろ?」
「……」

 全く面白くはないけれど、指差された矢造は懐かしいあの表情でうっすら微笑んで俺を見た。

「正確には、配属は明日からなんですが……。まあいいです。岩瀬くん、またよろしくお願いしますね」

 穏やかな声音も、陽だまりみたいな存在感も、何も変わっていない。心臓がぎゅっと締め付けられるみたいに痛んで、なんと返せばいいのか言葉に詰まって曖昧に微笑みを返すしかできない。

「何が岩瀬くん、だ! テメエは部下なんだから岩瀬さん、だろうが!」

 矢造の方へ一歩踏み出そうとしたところで、支店長が矢造に向かって何か投げ付けたのが見えて慌てて駆け寄った。

「熱っ……」
「や、矢造さんっ、大丈夫ですか!? 支店長、熱いのは止めて下さいって言ったでしょう!!」

 どうやらまた湯呑みを投げ付けたらしく、まだ懲りていなかったのか、と支店長に向かって声を荒げた。
 矢造のスーツの腹あたりが黒い染みになっていて、慌てて上着を脱がせる。

「大袈裟なんだよ、ジジイがよ。もうぬるかっただろうが」

 自分より年下の矢造をジジイ呼ばわりした支店長は俺に続けてボールペンを投げ、こめかみにぶつかってきたけれど無視して矢造を給湯室の方へ連れて行った。

「すみません矢造さん、大丈夫ですか? 火傷になってないか見るので、脱いでもらってもいいですか?」
「大丈夫だよ。急だったから驚いたけど、確かにそこまで熱くはなかったから」
「でも、一応冷やさないと」

 ワイシャツを脱いでもらって、下着を捲って確かめると濡れただけで火傷はしていなさそうで安心した。赤くもなっていないけれど、布巾を水で濡らして絞ってそこに当てていてもらう。
 その間にワイシャツとスーツの上着の方も布巾を使って軽く水気を取った。

「まさか初日の人にまで投げるなんて……。矢造さん、出張ですか? 出来れば早めに帰った方が良いですよ」

 マトモな人が来るところじゃないですから、とワイシャツを返すと、その手を掴まれた。久々の体温に驚いて手を引っ込めようとして、けれど強く掴まれていて出来ない。

「……これ」

 じっと俺の手の甲を見つめた矢造が、視線を上げて眉間に皺を寄せた。

「えっと、その」
「これ、火傷?」
「……」
「さっき、『熱いのはやめて下さい』って言ってたけど、熱くなければいいとか、そういう問題じゃないよね」

 そういう道理が効く相手じゃないんですよ。肩を竦めて苦笑いを浮かべると、矢造は俺の手の甲を撫でてから唇を噛んだ。
 矢造の所為じゃないんだから、そんな表情をしないでほしい。皺の寄った手の甲を見られるのが恥ずかしいと感じたのは火傷を負ってから初めてのことで、まだ彼が好きだったのか、と自分に驚いた。
 コソコソ手を引っ込めて手の甲をスーツの中に隠すと、矢造はワイシャツを着ながら何か呟いた。

「……? 何か言いました?」
「手早く終わらせるから」
「はあ」

 言う割に着替えの遅い矢造に首を傾げつつ、翌日からは出来る限り彼を支店長から守ろうと胸に誓った。


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