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それからの仕事は、ほとんど佐野支店への引っ越しを機能客へ封書や電話で伝える作業が殆どだった。といっても、十一月から年末年始を挟んで三月までの五ヶ月近くある。矢造と二人きりのオフィスで、雑談混じりにのんびり作業していた。
俺に告白のようなものをしてきた割に、矢造は会社では以前と同じく良い上司で、二人きりだからといってそれを崩すことは無かった。
安心半分、しかしもう半分くらいは肩すかしを喰らったような気分だ。……正直に言えば、残念ですらある。少しくらい我儘を言ってくれてもいいのだけど、我儘どころかセクハラすらしてこない。不気味なほどの善人ぶりで、もしかしてやはり揶揄われただけなのかも、と思いかけていた。
「久斗くんは、今は実家に住んでるんだっけ」
「ええ、まあ」
「そっか。一日くらい会いたかったんだけど、実家にお邪魔する訳に行かないしね」
「あ、え……あの、だったら俺が」
久々にストレートな誘いを掛けられて、急なことにモゴモゴ口籠もってから慌ててスマホを出した。
「その、矢造さんが嫌じゃなかったら、俺が行きます」
住所どの辺ですか、と地図アプリを出して少し離れたデスクに座ってパソコンのフリーセルで遊んでいた彼の方へ近寄る。駆け寄りたい気分なのを我慢して矢造の隣に立つと、視線を上げた彼は意外そうに目を丸くしていた。
「いいの?」
「家に居ても、暇なので」
「そうじゃなくて。……俺に何かされちゃうかもよ?」
目を細めて意地悪っぽく笑った彼に、ただ笑みを返した。それを期待してるんだと伝わるように。
「……」
「……」
じっと黙って見つめ合って、先に目を逸らしたのは矢造の方だった。微かに赤らんだ目元を指で掻いて、唇をモヤモヤ歪めてからまた俺に視線を戻してくる。
「……帰したくなくなっちゃうかも」
小さく呟く声に、ゾク、と胸がざわめく。俺の頬まで熱くなって、それでも見つめたまま頑張って唇の両端を上げて笑みを作った。
「俺も、帰りたくなくなっちゃうかもですね」
俺の返事に、矢造は急にワイシャツの首元を掴んできた。ぐ、と引き寄せられそうになって、けれどゴクンと生唾を飲んだ彼は唇が触れる寸前で顔を逸らして「ごめん」と謝ってきた。
そのまましてくれて良かったのに。
矢造は会社ではしないと決めているのか何なのか、急に気まずそうな顔をして俺の胸元を直してから「トイレ行ってくるねー」と席を立ってしまった。
大晦日に矢造と食事に行って、それから彼の家に行って、酒を呑みながら年越しをした。一つのカップ蕎麦を二人で分けて食べ、その晩は彼の家に泊まった。居間の隣に布団が敷かれて、矢造とは別で寝た。なんだかんだで流されてセックスするんだと思っていたのだけれど、彼は手を出す素振りさえ見せなかった。
会社が始まってからは平日に矢造に「家に寄ってかない?」と誘われるようになって、行くとやはり帰り難くなってそのまま泊まって、それが週に三回以上になると、もう実家に帰るのが億劫になった。
一月が終わる頃には、完全に矢造の家に寝泊まりするようになっていた。
矢造は会社では良い上司で、家に帰ってもそうだった。
料理以外の家事はそつなくこなすし、俺が作った料理は何でも「美味しい」と言ってくれる。ほとんど同居しているような形になって、家賃を入れると言ったけれど「毎日久斗くんの顔を見られるだけで俺がお金払いたいくらいだよ」なんて言って受け取ってくれなかった。
平日は会社まで矢造が運転する車で一緒に行き帰りして、帰宅したら二人で手分けして家事をこなして、風呂に入って寝る。休日は一緒に買い物に行ったり、ダラダラして過ごす。
『いつぱ』にインしている様子が無いから不思議に思って訊いたら、「久斗くんがインしないから、引越しついでに売っちゃった」なんて答えが返ってきて驚いた。俺を好きだなんてのも半信半疑だったのだけれど、それを聞いて本気なんだと確信した。
だけれど、彼が俺に『何か』する事は無かった。
何の問題も無いただの良い上司と、揉めることもなく普通に同居しているだけ。
「……いや、絶対おかしい」
二月も半ばに入る頃になっても、矢造はその調子だった。不気味でしかない。
あの人の素は、我儘放題の子供の筈だ。その上に、底抜けの性欲オバケ。
それが、ここ一ヶ月余り、ほとんど常に一緒に居るのに俺に全く手を出してこないなんて。
俺の外見が好みじゃないとか、そういう問題だったらそもそも好きだなんて言ってこないだろう。
それに、俺を見る時に時折見せる目。細めた目で舐め回すように俺を眺める視線に性欲を感じ取るなという方が無理で、あの目を見る限り、俺を抱きたいと思っているのは確実だ。だからこそ、どうしてそうしないのかが不思議でならない。
「久斗くん、そろそろシャンプー切れる頃だからここに置いとくねー」
「はい」
湯船に沈んで考え込んでいた俺は、バスルームの擦りガラスの向こうに矢造のシルエットを眺めて「矢造さん」と呼び掛けた。
「なーに?」
「お湯冷めちゃうし、一緒に入りません?」
俺の言葉に、矢造の動きが止まって、それから「俺は後でいいよ」と手を振るのが見えた。古い風呂窯だから蛇口を捻ってお湯を出して自分で湯温と湯量を調節するしかなく、熱めの温度で沸かしても寒いこの季節には俺が上がる頃にはぬるくなってしまっている。いつも俺の後に入らせるのは申し訳ないのだけれど、矢造は頑として二番目を譲ってくれない。
一緒に入れば温かいうちに入れるのに、と誘ってみたが、彼のシルエットはそのまま洗面室を出て行ってしまった。
考える間があるってことは、そうしたい気持ちもあるんだろう。だけれど、しない。どうして?
ブクブクと湯に沈んでまた考える。あんなの、矢造らしくない。俺が好きだと思ってしまったのは我儘な子供みたいなあの人で、常識的な上司と付き合いたかったわけじゃない。
良い上司の矢造も好きだけど、そりゃ好感度で言ったら断然上司の顔してる方が良いけれど、むしろそういう面があるからこそあの人の素の可愛さが引き立つっていうか……、ああ、とにかく、あの人の我儘を聞きたい。まったくもう、って呆れながら甘やかしたい。
「……よし」
自分からいってみよう。このままじゃただの同居だ。
もしかしたら、俺からのハッキリした返事や態度を待っているのかもしれない。彼の本性を知っている俺からすれば考え辛いけれど、俺に気を遣って手を出さないでいる、というのが今のところ考えられる唯一の理由だ。
頭と体を洗って、それからおそるおそる後孔にシャワーを当てて中を洗う。ネットで調べて、準備のつもりでこれまでも何回かやってみた。ゲーム内と違って自分で弄っている限りでは気持ち良くなれなかったけれど、矢造ならなんとかしてくれるだろう。
風呂から上がって寝間着に着替えて洗面室を出た。歩くとギシギシ鳴る廊下の床板は古くて毛羽立っていて、スリッパを履いていないと足裏に刺さる。
矢造が借りているこの家は4LDKの築三十五年の一軒家で、街中から少し離れた山の中にある。どうして会社の近くのアパートを借りなかったのか聞いたら、「お風呂で足が伸ばせないから」と言っていた。虫はあまり出ないけれど、夜中静かになるとネズミが屋根裏を齧っているような音がした。
どこからか隙間風の吹き込む寒い廊下を抜けて居間に戻ると、矢造は二人掛けのソファに横になっていた。スマホから目線を俺に向けて、それから優しげに微笑んで身体を起こす。
「おかえり。じゃあ俺入ってくるね」
「あ、待って下さい」
「うん?」
ソファから足を下ろそうとした矢造の腰の横に座ると、一瞬目を見開いてからまた微笑みに戻った。
「どうしたの?」
「少しくっついてもいいですか」
「……それは少し、困るかも」
寄り掛かるみたいに身を寄せると、やんわり身体を離すように隙間を開けられた。
「何が困るんです?」
俺が訊くついでに顔を寄せると、矢造は噛んだ唇をゆっくり舐めてから、視線を逸らす。
「そりゃあ、ねえ。分かるでしょ?」
「分からないです」
「久斗くん。あんまり虐めないで」
「虐めてるんじゃなくて、迫ってるつもりなんですが」
矢造の手に俺の手を重ねて、そっと顔を寄せた。が、彼は俺の唇をもう片方の掌で覆って、首を横に振る。
「……まだ」
「まだ……?」
「まだ、ダメ」
「へ……」
拒否されるなんて思ってもみなくて、ポカンとする俺の頭を撫でて矢造はソファから立ち上がった。「お風呂入ってくるね」とそのまま行ってしまって、呆然とその背を見送る。
まだダメ? だったらいつなら良いんだ?
困惑したが、しかし何かしら矢造には意図があって俺に手を出さないでいるというのは理解した。どんな理由かは分からないけれど、やはり何か悪だくみをしていたのだ。それならまあ、待つしかない。我儘の片鱗が見えれば少しだけ安心して、彼が無理な気遣いをしているんじゃなければいいか、と溜め息を吐いた。
俺に告白のようなものをしてきた割に、矢造は会社では以前と同じく良い上司で、二人きりだからといってそれを崩すことは無かった。
安心半分、しかしもう半分くらいは肩すかしを喰らったような気分だ。……正直に言えば、残念ですらある。少しくらい我儘を言ってくれてもいいのだけど、我儘どころかセクハラすらしてこない。不気味なほどの善人ぶりで、もしかしてやはり揶揄われただけなのかも、と思いかけていた。
「久斗くんは、今は実家に住んでるんだっけ」
「ええ、まあ」
「そっか。一日くらい会いたかったんだけど、実家にお邪魔する訳に行かないしね」
「あ、え……あの、だったら俺が」
久々にストレートな誘いを掛けられて、急なことにモゴモゴ口籠もってから慌ててスマホを出した。
「その、矢造さんが嫌じゃなかったら、俺が行きます」
住所どの辺ですか、と地図アプリを出して少し離れたデスクに座ってパソコンのフリーセルで遊んでいた彼の方へ近寄る。駆け寄りたい気分なのを我慢して矢造の隣に立つと、視線を上げた彼は意外そうに目を丸くしていた。
「いいの?」
「家に居ても、暇なので」
「そうじゃなくて。……俺に何かされちゃうかもよ?」
目を細めて意地悪っぽく笑った彼に、ただ笑みを返した。それを期待してるんだと伝わるように。
「……」
「……」
じっと黙って見つめ合って、先に目を逸らしたのは矢造の方だった。微かに赤らんだ目元を指で掻いて、唇をモヤモヤ歪めてからまた俺に視線を戻してくる。
「……帰したくなくなっちゃうかも」
小さく呟く声に、ゾク、と胸がざわめく。俺の頬まで熱くなって、それでも見つめたまま頑張って唇の両端を上げて笑みを作った。
「俺も、帰りたくなくなっちゃうかもですね」
俺の返事に、矢造は急にワイシャツの首元を掴んできた。ぐ、と引き寄せられそうになって、けれどゴクンと生唾を飲んだ彼は唇が触れる寸前で顔を逸らして「ごめん」と謝ってきた。
そのまましてくれて良かったのに。
矢造は会社ではしないと決めているのか何なのか、急に気まずそうな顔をして俺の胸元を直してから「トイレ行ってくるねー」と席を立ってしまった。
大晦日に矢造と食事に行って、それから彼の家に行って、酒を呑みながら年越しをした。一つのカップ蕎麦を二人で分けて食べ、その晩は彼の家に泊まった。居間の隣に布団が敷かれて、矢造とは別で寝た。なんだかんだで流されてセックスするんだと思っていたのだけれど、彼は手を出す素振りさえ見せなかった。
会社が始まってからは平日に矢造に「家に寄ってかない?」と誘われるようになって、行くとやはり帰り難くなってそのまま泊まって、それが週に三回以上になると、もう実家に帰るのが億劫になった。
一月が終わる頃には、完全に矢造の家に寝泊まりするようになっていた。
矢造は会社では良い上司で、家に帰ってもそうだった。
料理以外の家事はそつなくこなすし、俺が作った料理は何でも「美味しい」と言ってくれる。ほとんど同居しているような形になって、家賃を入れると言ったけれど「毎日久斗くんの顔を見られるだけで俺がお金払いたいくらいだよ」なんて言って受け取ってくれなかった。
平日は会社まで矢造が運転する車で一緒に行き帰りして、帰宅したら二人で手分けして家事をこなして、風呂に入って寝る。休日は一緒に買い物に行ったり、ダラダラして過ごす。
『いつぱ』にインしている様子が無いから不思議に思って訊いたら、「久斗くんがインしないから、引越しついでに売っちゃった」なんて答えが返ってきて驚いた。俺を好きだなんてのも半信半疑だったのだけれど、それを聞いて本気なんだと確信した。
だけれど、彼が俺に『何か』する事は無かった。
何の問題も無いただの良い上司と、揉めることもなく普通に同居しているだけ。
「……いや、絶対おかしい」
二月も半ばに入る頃になっても、矢造はその調子だった。不気味でしかない。
あの人の素は、我儘放題の子供の筈だ。その上に、底抜けの性欲オバケ。
それが、ここ一ヶ月余り、ほとんど常に一緒に居るのに俺に全く手を出してこないなんて。
俺の外見が好みじゃないとか、そういう問題だったらそもそも好きだなんて言ってこないだろう。
それに、俺を見る時に時折見せる目。細めた目で舐め回すように俺を眺める視線に性欲を感じ取るなという方が無理で、あの目を見る限り、俺を抱きたいと思っているのは確実だ。だからこそ、どうしてそうしないのかが不思議でならない。
「久斗くん、そろそろシャンプー切れる頃だからここに置いとくねー」
「はい」
湯船に沈んで考え込んでいた俺は、バスルームの擦りガラスの向こうに矢造のシルエットを眺めて「矢造さん」と呼び掛けた。
「なーに?」
「お湯冷めちゃうし、一緒に入りません?」
俺の言葉に、矢造の動きが止まって、それから「俺は後でいいよ」と手を振るのが見えた。古い風呂窯だから蛇口を捻ってお湯を出して自分で湯温と湯量を調節するしかなく、熱めの温度で沸かしても寒いこの季節には俺が上がる頃にはぬるくなってしまっている。いつも俺の後に入らせるのは申し訳ないのだけれど、矢造は頑として二番目を譲ってくれない。
一緒に入れば温かいうちに入れるのに、と誘ってみたが、彼のシルエットはそのまま洗面室を出て行ってしまった。
考える間があるってことは、そうしたい気持ちもあるんだろう。だけれど、しない。どうして?
ブクブクと湯に沈んでまた考える。あんなの、矢造らしくない。俺が好きだと思ってしまったのは我儘な子供みたいなあの人で、常識的な上司と付き合いたかったわけじゃない。
良い上司の矢造も好きだけど、そりゃ好感度で言ったら断然上司の顔してる方が良いけれど、むしろそういう面があるからこそあの人の素の可愛さが引き立つっていうか……、ああ、とにかく、あの人の我儘を聞きたい。まったくもう、って呆れながら甘やかしたい。
「……よし」
自分からいってみよう。このままじゃただの同居だ。
もしかしたら、俺からのハッキリした返事や態度を待っているのかもしれない。彼の本性を知っている俺からすれば考え辛いけれど、俺に気を遣って手を出さないでいる、というのが今のところ考えられる唯一の理由だ。
頭と体を洗って、それからおそるおそる後孔にシャワーを当てて中を洗う。ネットで調べて、準備のつもりでこれまでも何回かやってみた。ゲーム内と違って自分で弄っている限りでは気持ち良くなれなかったけれど、矢造ならなんとかしてくれるだろう。
風呂から上がって寝間着に着替えて洗面室を出た。歩くとギシギシ鳴る廊下の床板は古くて毛羽立っていて、スリッパを履いていないと足裏に刺さる。
矢造が借りているこの家は4LDKの築三十五年の一軒家で、街中から少し離れた山の中にある。どうして会社の近くのアパートを借りなかったのか聞いたら、「お風呂で足が伸ばせないから」と言っていた。虫はあまり出ないけれど、夜中静かになるとネズミが屋根裏を齧っているような音がした。
どこからか隙間風の吹き込む寒い廊下を抜けて居間に戻ると、矢造は二人掛けのソファに横になっていた。スマホから目線を俺に向けて、それから優しげに微笑んで身体を起こす。
「おかえり。じゃあ俺入ってくるね」
「あ、待って下さい」
「うん?」
ソファから足を下ろそうとした矢造の腰の横に座ると、一瞬目を見開いてからまた微笑みに戻った。
「どうしたの?」
「少しくっついてもいいですか」
「……それは少し、困るかも」
寄り掛かるみたいに身を寄せると、やんわり身体を離すように隙間を開けられた。
「何が困るんです?」
俺が訊くついでに顔を寄せると、矢造は噛んだ唇をゆっくり舐めてから、視線を逸らす。
「そりゃあ、ねえ。分かるでしょ?」
「分からないです」
「久斗くん。あんまり虐めないで」
「虐めてるんじゃなくて、迫ってるつもりなんですが」
矢造の手に俺の手を重ねて、そっと顔を寄せた。が、彼は俺の唇をもう片方の掌で覆って、首を横に振る。
「……まだ」
「まだ……?」
「まだ、ダメ」
「へ……」
拒否されるなんて思ってもみなくて、ポカンとする俺の頭を撫でて矢造はソファから立ち上がった。「お風呂入ってくるね」とそのまま行ってしまって、呆然とその背を見送る。
まだダメ? だったらいつなら良いんだ?
困惑したが、しかし何かしら矢造には意図があって俺に手を出さないでいるというのは理解した。どんな理由かは分からないけれど、やはり何か悪だくみをしていたのだ。それならまあ、待つしかない。我儘の片鱗が見えれば少しだけ安心して、彼が無理な気遣いをしているんじゃなければいいか、と溜め息を吐いた。
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