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3ー2章 落ち人たちの罪と罰

三十二話 失せ物が戻ってきました。

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「ぎゃあああああ!! 成仏してください、南無阿弥陀仏!」

 私にはなにもしてあげられません、どうか成仏して極楽浄土へ……ちがうか、天国? ええとなんでもいいから、あっちいって!
 もうそれはパニックになって叫びました。
 もちろん目はつむってますよ、怖いですから。
 ソランさんの服の裾をつかむ手も震えて、ガクガクしっぱなしです。だけど──

「誰が成仏しなきゃならないのよ、失礼じゃない?」

 それはもちろん幽霊さんです。

「だから、誰が幽霊なのかしら、和葉さん?」
「へ……?」

 その聞き覚えのある声にぎゅっと閉じていた目を開けると、目の前にいたのは、寝間着姿で苦笑いを浮かべる結衣さんでした。
 裾にむかってふわりとドレープのかかった寝間着は、清潔そうな白。それは膝丈しかなく、結衣さんの細くて白い素足が……ええと、裸足です。
 よく見ると、ガウンのようなものすら着ておらず、まるでベッドからそのまま抜け出したかのよう。五分丈の袖から出た腕を、頼りなげにさすっています。
 私がそれに気づき、自分のガウンを脱ごうとしたときには既に、目の前のソランさんが自分の着ていたベストを差し出した後でした。

「なぜここにいる……部屋にはメイドがいたはずだが、黙ってここに来たのか?」

 結衣さんはソランさんから服を受け取り、肩から羽織ります。

「分からないのよ、目が覚めてベッドから起き上がったとき、和葉さんがいないって気づいたの。すぐにカッとなったわ。また私ばかり知らされないで、あなたたちが何か企んでいるんじゃないかって。そうしたら真っ暗な廊下にいて……」

 ハッとしたような表情で、結衣さんは言葉を切りました。

「加護か」

 すべての話を聞く前に、結論を出したのはカロンさんでした。
 恐らく結衣さんは自覚があったのでしょう。カロンさんの言葉を否定はせず、視線を外してただ黙りこむばかり。

「カッとなった……以前私が尋ねたな、加護の発動のきっかけはなにかと。そのとき拒んだ答えがそれか」
「……ち、違う」

 カロンさんの突然の追求に、結衣さんは狼狽しているようです。
 そういえば忘れていましたが、加護は発動するにはきっかけがあるものです。私の場合は、涙。

「それほどに信用がならないか、世界が、国が、人そのものが……」
「それは」

 答えに窮する結衣さん。その気持ちは分かります。だって答えようによっては逆鱗に触れてしまうのではないか……そんな風に思えるほどに、カロンさんの表情は冷たかったのです。
 だけどそっと頷く結衣さんを見たカロンさんの言葉は、思っていたのと違い、ひどく寂しげでした。

「おまえと私は似ている」

 カロンさんはそれだけ言うと、オーベールさんに戻るよう伝えました。
 私たちもまた追いたてられるようにその場を後にすることに。
 長い、暗い廊下。
 ひたひたと歩く結衣さんの足音
 初めて目の当たりにした自分以外の加護は、どこか不安を駆り立てられる仕様でした。この世界に馴染めない彼女にとって、選ぶべき場所はどこにあるのでしょう。いつか不安にかられて消えてしまうのではないかと、私はとても心配になってしまいました。


 だから翌朝、部屋にいる結衣さんにホッとしました。
 突然姿を消した結衣さんを目撃したメイドさんは、結衣さんの戻った姿を見て、心底安心した様子だったのが印象的でした。それは結衣さんも同様だったようで、控えめながらも「驚かせてごめんなさい」と謝っていました。
 それから私たちは、再びカロンさんのもとに集められました。
 昨夜とはうってかわり、書斎には人が配置されています。カロンさんの右腕ともいえるのでしょうか、相変わらずオーベールさんは主の最も側に控えています。そして扉を守るようにして、武装した兵士が二人。
 私たちが揃い、重厚な扉が閉められてすぐに、カロンさんは本題を切り出しました。

「ユイ、約束していたものを渡そう」

 カロンさんがそう告げると、オーベールさんが箱を持ち出し、カロンさんの前に置きました。それを開け、中から取り出されたものが、私たちの前へ差し向けられました。
 それを見た結衣さんが、驚きの表情で手を出したのですが……

「まずは、中を改めさせてもらう」

 カロンさんによって引き戻されたのは、結衣さんの探していた革製の手帳。それからもうひとつ、箱からオーベールさんが取り出したのは、スマートフォン。
 ああ、そうです。
 懐かしいそのフォルムに見入っていると、結衣さんが震えた声で訴えました。

「それは私のよ、早く返して」

 今すぐにでも手に取りたいという彼女の心境は、痛いほどよく分かるのです。ですが、カロンさんには通用しません。

「私が中を確認してからだ」

 カロンさんはそう言って、手帳のホックを外し、広げます。真っ白い紙に、カレンダーの日付。ボールペンで書かれた文字は、小さなマスをびっしりと埋めていて、結衣さんがここに来るまでの日々、忙しく社会人をしていたことが伺えます。
 だけど目の前でパラパラとめくられていくページから、目をそらします。なんだか人の手帳をのぞくって、悪趣味のような気がしてきたのです。だってそうでしょう? 私にはカロンさんたちと違い、その文字がしっかりと読めてしまうのですから。
 とはいえつい、カロンさんの指がめくる先を追いかけてしまいます。
 休日には、赤いペンで書かれた予定が見えます。
 きっと指折り数えて友人と、恋人と会う日を楽しみにしていたはずで……
 そんな形跡が分かって、ひどく辛いのです。突然奪われた日常を惜しんだのは、私も同じです。帰れない、もう二度と手にすることのない日々の結晶が、目の前にあるのです。
 結衣さんは両手をぎゅっと握りしめ、震えていました。
 そんなとき、はらりと一枚の紙が、手帳から落ちる──
 ひらひらと舞い、滑るようにして落ちた先は、結衣さんのななめ横にいた私の足元でした。それを拾い上げようと触ったところで、悲鳴のような声が。

「やめて、触らないで!」

 結衣さんが私を振り返り、咄嗟に落ちた紙を拾おうとしたのです。
 ですがそれを、オーベールさんが止めます。結衣さんの腕を掴み、あと少しで拾い上げようとした指は、惜しくも手前三十センチで空を切る。

「あなたが拾ってください、カズハ様」
「……え、私?」
「やめて、触らないでお願いっ」

 オーベールさんにそう言われてもですね、結衣さんがひどく抵抗しているのです。ならばそれは、私には見られたくないものですよね? 
 躊躇するのも当然なのです。
 だけど私のためらいを全く読まないソランさんが、横から手を出して拾い上げてしまったのです。なにするんですか、このデリカシーのない人は!

「いや、見ないで。あなたには関係ないんだから!」

 結衣さんも抗議の声を上げたのですが、ソランさんは聞こえていないのか、じっと紙を見たまま、動かないのです。
 紙の大きさと質から、それが写真だというのは分かっています。だけどそれを見てソランさんが浮かべる困惑の表情。その意味が分かりません。

「……どうしたんですか、ソランさん。それは結衣さんが探していた写真なんですよ、早く返してあげてください」
「これが……? 本当に?」

 ソランさんがしかめっ面で、結衣さんに問いかけます。

「そ、そうよ。だったらどうだっていうのよ、私のものだから返してもらうわ!」
「……だがこれ、隊長じゃないか」

 え……?
 ソランさんは、驚く私にむかって写真を裏返しました。
 彼が向けた一枚の色鮮やかな写真。そこに写っていたのは、一人の精悍そうな男性。だけどとても優しそうに微笑んでいて、私のよく知る彼は滅多にしない柔らかさです。でも目鼻立ち、輪郭、髪の色さえもよく似ていて……なにより。
 印象的な碧の瞳は、この世に二つとないと信じていたのに。

「……この方が、結衣さんの……?」

 恋人ですか?
 その言葉が言えなかったのは、なぜなのか。自分でもよく分かりませんでした。
 でも結衣さんがゆっくりだけど、たしかに頷いたのを見て、私もまた人形にでもなったかのように、コクンと頷いて返すしかなくて。

「本当に、似ています。もっとよく見せてください」

 私はその写真をソランさんから受け取っても、結衣さんは抵抗するのを諦めたのか、何も言いませんでした。
 この世界に落ちて二年が経っているにもかかわらず、写真はあまり劣化していないようです。カフェのような店の前に立つ男性が、カメラを構える相手に微笑んでいるのです。きっと相手は恋人である、結衣さんなのでしょう。それだけで、二人がどんなに幸せだったのか分かるような、そんな写真。
 アルッベリックさんなら、どんなときにこんな顔で笑ってくれるだろう。そんなことを考えては、彼ならもっと固くぎこちないはずだと、違いを探してしまうのです。カジュアルなシャツからのぞく腕が、アルベリックさんよりも細いことに安堵し、私はその写真からついには目を反らしてしまいました。
 この人は、もうあちらの世界にすら存在しないのです。
 同じ容姿、同じ瞳。だけど存在しているのはアルベリックさんであり、別人で……
 私が感じる驚きと困惑以上のものを、きっと結衣さんは私たちを見る度に、感じてきたのだということを悟ります。失った恋人とそっくりな人に、落ちた異世界の地で出会う。
 それはいったい、どんな気持ちなのでしょう。
 私なら、どんなに辛いかも……ううん、間違いなくとても辛い。
 結衣さんの助けになりたい。そう願って彼女の側にいることが、彼女に悲しい思いをさせることになっていたなら、私は……
 帰ってきた写真を愛おしそうに胸にあてる結衣さん。

「こちらについても確認してもらおうか」

 カロンさんが結衣さんに差し出したスマートフォン。画面は黒く、そして液晶のカバーは少し欠けていました。こちらは珍しいもののせいか、大勢の人に触られたのでしょう。乱暴に扱われもしたかもしれません。
 結衣さんは写真をそばに置いて、スマホを受けとります。スイッチを入れてみますが、反応はもちろんありません。

「これはもう、使えません。だけど、念を入れておきます」

 スマホの背後のカバーを開け、結衣さんは保存用カードと電池パックを取り出しました。そして電池は廃棄するようにと、カロンさんに渡してしまいました。
 それをカロンさんはオーベールさんに渡して壊すように言いつけます。

「これらの使い道は?」
「遠く離れた者同士、電信で会話ができます。映像もそのまま送れますが、それらはあくまでもこれ単体ではありませんので、決してこの世界では使うことができません」
「……なるほど。ではそちらの本体は持ち帰ってもかまわない」
「カロン様、よろしいのですか?」

 おそらくオーベールさんは一緒に廃棄するつもりだったのでしょう。カロンさんの決断に驚いたようです。

「ああ、カズハの反応からも、結衣の言ったことは嘘ではなかろう」
「へ、私?」
「ああ、おまえは考えていることが顔に出る。もし結衣の言った言葉に嘘がまぎれていれば、すぐに分かる」

 ああ、それで私も同席……本当にぬかりのない人です。
 こうしてあっけなく、機能を失ったスマホ、手帳と写真、全てがこれで結衣さんの元に還ったのでした。
 結衣さんはとても小さくカロンさんにお礼を述べて、それらを握りしめていました。

 それから私たちは、宿泊している部屋の下にある中庭に来ています。
 部屋に戻ろうとしたところでさしかかった庭に目を奪われ、足を止めた結衣さん。彼女に付き添うようにして、私とソランさんもまた、ぼうっとしながら夏の終わりを彩る花々に、心癒される一時を過ごしていました。
 庭に置かれた大きな岩に腰を下ろし、結衣さんが写真を眺めています。

「……驚いたな、さすがにあれには」
「ソランさん……」

 結衣さんからは少し離れているせいか、ソランさんの呟きに気づいたのは、私だけのようでした。

「考えてみたら、最初にアルベリックさんに会わせたときの結衣さんも……すごく驚いていた気がします。でも何も言ってなかったから、まさかなんな……」
「そりゃ、言えねえだろ。あのとき隊長、自己紹介するときに、なんて言ったか覚えてるか?」
「アルベリックさんが?」

 そういえば、なんて言ってましたっけ。
 ああ、そうです。あの時は私のことを「妻が」ってわざわざ……まだそういう紹介がされたことなかったので、すごく照れて。でもそれがソランさんの言う通り、ますます結衣さんに言い出せなくさせていたのでしょう。

「タイミングが悪かったといえばそれまでですが、悪いことをしました」
「タイミングねえ……たぶん、そうなんだろうなユイの中でも」
「そ、そうでしょうか。やっぱり謝った方がいいですかね、でも今さらのような……」

 ああでもないこうでもないとブツブツ言っていると、ソランさんが呆れたように、大きくため息を漏らします。なんですか、真剣なのに。

「たぶん、カズハの言うタイミングと、ユイが考えているのは、そもそも根本から違うと思うがな」
「……どういうことですか?」
「どうにもならない事を、どうにかしようって事なのか……まさかとは思うが」

 さっぱり分からない事を呟くソランさん。次第にいつものやる気のない目付きが、鋭くなってくるのです。

「ソランさん?」
「おまえは、やっぱりユイに近づきすぎるな。いいな?」
「な、なぜですか。結衣さんが顔も見たくないっていうなら分かりますけど、もうここにアルベリックさんがいて四六時中亡くなった恋人を思い出させられるわけでもないのに。意味分かりません」
「……杞憂ならいいんだけどな、どうにも俺にはそう思えない」
「だから何が起こるっていうんですか」
「隊長と死んだ恋人を混同してる、とか」
「は? そんなわけ……」
「じゃあ、なんでお前に帰るかどうか聞くんだよ」

 つい声が大きくなっていたようです。
 結衣さんが私たちの方に気づき、写真を再び手帳に挟んでしまいました。

「和葉さん、よかったら話を聞いてくれるかしら。私とこの写真の人の話を……」
「もちろんです。でも、大丈夫ですか?」

 無理をしているわけではないと言う結衣さんは、静かに微笑みます。そして何かを決意したかのように、凛とした声で続けました。

「このままじゃ、前に進めないって思っているの。写真が返ってきたのもいい機会だと思う……だから」

 ほら、結衣さんはやっぱり少しずつですが、前向きに生きる努力をしてくれているのです。ソランさんの脇を肘で突きながら、私は笑顔で彼女に応えます。
 ソランさんは結衣さんに嫌われて、ちょっとナーバスになりすぎているのですよ。疑心暗鬼はよくありません。
 私と結衣さんは並んで、木陰に座ります。
 そこから少しだけ離れて、ソランさんが背を向けて座り、私たちの話に耳を傾けているなかで、結衣さんは喋り始めました。
 もとの世界、なつかしくも悲しい思い出を。
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