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第十話 一
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木屑が耳の中にパラパラと入ってくるむず痒さを払おうとしても、体は拘束されたように動けなかった。なにか、どろりとねっとりした、湯がいてすり潰した里芋のような固形物が手に絡まってくる。料理や焚火とは違うむせ返るような焦げ臭さに、百位はまどろむ目を薄く開けた。
自分は倒れている。木の破片を辺り一面に散らばした木の床に倒れている。無造作に放り投げられた自分の手は、白くてふにゃってそうな物体の下敷きになっている。手を動かしてみれば、白い物体がどろどろとしながら流れ落ちていく。つぶらな瞳が流れていく。
「…………え、あ、え? いざ、よい?」
ぽわっと白い物体の一部がピンク色に染まった。そして、色が消える。
「なん、で、いたっ、なに、これ、え、うそ」
頭を持ち上げたとき、焦げ臭さの原因を悟った。それから、これはどこから漂う臭いなのかは判断できなかった。
燃え上がっていたのは住み慣れた屋敷で、奇数位の女帝が暮らしていたはずの右半分が一階しかなかった。いや、一階が潰れている。偶数位の部屋は無事かと思ったが、一番左奥の部屋が消滅していた。さっきまで居た部屋が跡形もなく消えていた。そもそも、屋敷を取り囲んでいたはずの塀が、正門すらどこにも見当たらず、大地が割れていて、九十一から百位までの屋敷はまさに断崖絶壁に囲まれているようで、火が出ているのはおそらく厨房で、折り重なるような悲鳴があちこちから聞こえて、いて。
道端に転がっているのは、団子にしていたはずの褪せた茶髪をほどいた下女で。
ぴくりとも動かない。
「やだ、え、うそ、ちょっと、え」
助けなきゃ、そう突き動かされた体を起こそうとした。だが、肩まで起き上がったとき、自分が捕まっていることをようやく理解した。
青い着物の袖から伸びる大きな手は、力を抜かしている。ずっと触れたかったはずの手を抱えた。手から腕、腕から肩、そう視線を這わせていったとき、瞼を下ろしたままの澄まし顔に、左胸の奥が握り潰された。
腰まであるように見えていたはずの蒼い長髪は、うなじのあたりまでしか伸びていない。青い着物が赤い、赤いのは肌、そもそも背中にはなにも着ていなくて、焼け爛れた皮膚がだらんと背中にへばりついている。頭の中が空っぽになって、凍りついたような眼球が、そこから逃げた。
いま、神輿の中に居る。円を描くように割れた大地に囲まれている。夕焼けのような曇天には、いくつも立ち昇る黒煙が溶ける。火事を知らせる警鐘が山びこのように繰り返し押し寄せてくる。残っていたのは、裂けるように亀裂が刻まれた担ぎ棒と、担ぎ棒に載る焦げた床と、背もたれが消えた紅布の椅子だけ。
理解が追いつかない。なにも考えられない。なのに、言語化できない無色透明なそれが頭の中で爆発しそうなほど膨らみ続けて、それに耐えられなくて、
「やだっ、やだっ! ねえ! 起きてっ!」
何度も激しく揺さぶった。そうすれば、手が赤黒い液体で濡れた。息は吸うばかりで吐けない。肺に空気が押し込まれるたび焦げていく現実も一緒に入り込んでくる。誰か、と彷徨った目は、最初にどろどろに溶けた白い物体を四つ見つけ、そして転がったまま動かない色褪せた茶髪を散らす女性を見た。自分しか居ない。それを理解しそうになったときだった。
大地が噴火した。
そうとしか思えないような咆哮だった。
雷が落ちたのは、帝都の中心だとなんとなく決めつけた。
黄金の煌めきが、紅蓮の大地と死灰の天に挟まれている。
馬の顔に虎を混ぜたような獰猛な顔は、ぎらりと並ぶ牙と女髪のように揺蕩う長髭、そして二本の巨大な角でこの世の生き物でないことを確信できる。鋭利な爪を剥き出しにした四足があるにも関わらず宙に浮かぶ胴に、翠鱗が八十一あるのは数えなくても知っていた。それは、古から語られる厄災であるから。
「りゅ、う」
喉から出たのは言葉ではなく、もはや溶け始めた心だった。地鳴りのような咆哮が、警鐘の音も、痛みに悶える悲鳴も、なにもかもを掻き消す。火の粉が舞う帝都で、もう、立ち上がれなくなった。
「龍、か」
抱きしめていた腕が動く。呆けていた百位は、まだ輝いてくれている小さな夕陽に顔が吸い寄せられた。
「い、五位様! 大丈夫!?」
頬を撫でた右手が握られる。
「怪我は、ないか?」
「え」
「そなた、怪我は、ないか?」
「わ、わたしは、大丈夫だからっ」
「良かった」
ふっと安堵の息を漏らした五位を理解してあげられなかった。
「全然良くない! 背中がっ、火傷がっ、は、はやく、お医者様、呼んでくるからっ!」
「百位」
五位がむくりと起き上がろうとする。顔を歪めつつも、上半身を起こす。それを支えてあげる。髪や肩に積もっていた木屑がぱらぱらと落ちる。ふらつきながらも起き上がった五位は、真っすぐに視線を絡ませてきて――、
「無事で、良かった」
胸にすっぽりと収まってしまった。腰と背に回された腕にぎゅっとされて、ヒノキの香りがほんのりする胸に押しつけられる。吐息が掠めた右耳から熱が全身を駆け回る。大きな背中に手を回そうとしたけど、真っ赤な肌を思い出したから両肩を握ることにした。高鳴る胸は、とくとく、心地良いヒノキの温かみに満たされていく。それから、肩を握り締めていた右手が包まれる。
一生包まれていたかった温かさが離れれば、手のひらに無表情な冷たさが与えられた。大きな両手に覆われたか細い右手に握らされたのは、肌が削られるほどざらつき罅割れる、錆びた鍵だった。
「これを、託す」
「なん、で?」
五位の微笑みは、土砂降りの日に見送った微笑みとそっくりだった。
「頼みがある」
「ゃ、だ」
抵抗する。
「俺が、あの龍を向こう側に押し込む」
「やだ」
はっきりと言った。
「だから、門を閉じて封印してくれ」
「やだ」
強く言った。
「二位、三位、四位、あいつらなら、そなたを門まで導いてくれる」
「やだ」
手を握って言った。
「あとは、祖母と暮らして、田舎で、のんびり、馬でも世話して家族で仲良く生きてくれ」
「ぜっっったいにっ! いやぁっ!」
渾身の力をぶつけた。頬を撫でてくれた。その手を、大粒が濡らす。
「八年前、そなたが霊に憑かれたのは俺のせいだ」
そんなことはないと首を振った。
「十年前、北の雪山に封印されていた強力なあやかしが目覚めた。皇帝は、新しい器を用意してあやかしを封じた。その器が、俺だった」
じゃらり、鎖の音に目を凝らせば、半透明の鎖が、火傷を負った体を何重にも蝕んでいた。鎖は、神輿の椅子から伸びているようで、まるで、神輿の中に閉じ込めるための、まるで、神輿が牢屋のような、そう考えさせられる鎖だった。
鎖の継ぎ目、ちょうど鳩尾のところに鍵穴がある錠があった。それを開ける鍵は、どこにあるのか言われなくてもわかってしまった。
「だが、俺は耐えられなかった。器が小さすぎた。あやかしは封じたものの、溢れた霊力が各地に散らばった。人の世に、霊力が満ちた。そのとき、霊のあやかしが人の世に蔓延った。それがきっかけなのだ。八年前の、な」
あなたは悪くないから。そんな言葉は、逆さまになった口角と、喉に沈みそうなほど引きつった顎では伝えられない。嗚咽しかできない無力な顔を、大きな両手が労わるように包む。
「ごめんな。辛い思いをさせて。だから、これ以上、泣かないでくれ。これ以上、辛い思いをさせたくない。帝都を、この国を守る。だから、封印を解いてくれないか? 一つだけの意思なら、眠るあやかしを従わせられる。あの龍を追い返す。あの龍もろとも、あやかし、北神と呼ばれ、狩ることができなかったあやかしを向こう側に投げる。それで、門を封じれば、みなを守れる。あのとき、救えなかった子供たちの命を無駄にはできない。いま、俺が潰してしまった未来で、未来を救いたい。俺の願い、聞き入れてくれるか?」
錆びた鍵を握った。先端を、向けた。がちがちと震えて進まない右手に、彼の温かさが寄り添う。滲んで遠近感がぼやける目でも、鍵穴に鍵は誘われる。でも、最後の、最後の一捻りが、できなくて。
「百位」
二つの夕陽はすぐそばにあるはずなのに、どうしようもなく、果ての向こうにあるように遠い。
「名を、教えてくれないか」
ぐちゃぐちゃに混ざった胸の内から文字だけが描かれる。それを忘れていたわけではない。ただ、お母さんの最期の言葉だったから、お母さんの最期を思い出してしまうから、お母さんとお父さんが一生懸命に考えてくれたそれを、ずっと封じ込めてきた。ずっと封じたかったのは、漢字一文字でひらがな三文字の、目では見えない体の中に宿るもの。
心。
「ああ、澄んだ旋律だ。どんな言葉よりも美しい響きだ。そうか。なあ、こころ?」
こつんと額がくっつき、鼻先同士が触れる。
「俺が真に守りたいのは、こころ、だけだ。こころ、俺は、こころを信じる」
ほんとうに一瞬だった。唇が触れたのは。切ない感触を記憶することもできなかった。
「五位様、あなたの、お名前は?」
聞かなくちゃ。忘れないために。夕陽を、ヒノキを、心を。
「鸞」
「らん」
伝説の、蒼い鳥。
錠が落ち、鎖が砕け散った。
真っ白な世界に飛び込んだ。
夜すらも染め上げる眩しさに呑まれる。
徐々に、元の世界が帰ってくる。
残ったのは、屋根を失くした神輿と、錆びた鍵だけ。
凍てつく冷気は、氷山から漂う空気の動きすら捕まえる白み。
その形だけは、山でも見かけた。ただ、首が折れるほど見上げたとき、知っているそれとは全く別物であることを理解した。氷柱がぶら下がる雪色の毛並み、凍った瞳、氷の結晶のような背中の紋様、放たれる白みに触れられたものがぴきぴきと凍てつく。
凍った白熊の咆哮は、目を開けられないほどの圧があって、耳を手で塞がなければ鼓膜が破けてしまいそうだった。
地面を揺らしながら北神は駆け始めた。あの黄金に煌めく龍目掛けて。
百位の体が凍らなかったのは、神輿の上に乗っていたからだった。
「一人にしないで」
そう一人で呟いた。
自分は倒れている。木の破片を辺り一面に散らばした木の床に倒れている。無造作に放り投げられた自分の手は、白くてふにゃってそうな物体の下敷きになっている。手を動かしてみれば、白い物体がどろどろとしながら流れ落ちていく。つぶらな瞳が流れていく。
「…………え、あ、え? いざ、よい?」
ぽわっと白い物体の一部がピンク色に染まった。そして、色が消える。
「なん、で、いたっ、なに、これ、え、うそ」
頭を持ち上げたとき、焦げ臭さの原因を悟った。それから、これはどこから漂う臭いなのかは判断できなかった。
燃え上がっていたのは住み慣れた屋敷で、奇数位の女帝が暮らしていたはずの右半分が一階しかなかった。いや、一階が潰れている。偶数位の部屋は無事かと思ったが、一番左奥の部屋が消滅していた。さっきまで居た部屋が跡形もなく消えていた。そもそも、屋敷を取り囲んでいたはずの塀が、正門すらどこにも見当たらず、大地が割れていて、九十一から百位までの屋敷はまさに断崖絶壁に囲まれているようで、火が出ているのはおそらく厨房で、折り重なるような悲鳴があちこちから聞こえて、いて。
道端に転がっているのは、団子にしていたはずの褪せた茶髪をほどいた下女で。
ぴくりとも動かない。
「やだ、え、うそ、ちょっと、え」
助けなきゃ、そう突き動かされた体を起こそうとした。だが、肩まで起き上がったとき、自分が捕まっていることをようやく理解した。
青い着物の袖から伸びる大きな手は、力を抜かしている。ずっと触れたかったはずの手を抱えた。手から腕、腕から肩、そう視線を這わせていったとき、瞼を下ろしたままの澄まし顔に、左胸の奥が握り潰された。
腰まであるように見えていたはずの蒼い長髪は、うなじのあたりまでしか伸びていない。青い着物が赤い、赤いのは肌、そもそも背中にはなにも着ていなくて、焼け爛れた皮膚がだらんと背中にへばりついている。頭の中が空っぽになって、凍りついたような眼球が、そこから逃げた。
いま、神輿の中に居る。円を描くように割れた大地に囲まれている。夕焼けのような曇天には、いくつも立ち昇る黒煙が溶ける。火事を知らせる警鐘が山びこのように繰り返し押し寄せてくる。残っていたのは、裂けるように亀裂が刻まれた担ぎ棒と、担ぎ棒に載る焦げた床と、背もたれが消えた紅布の椅子だけ。
理解が追いつかない。なにも考えられない。なのに、言語化できない無色透明なそれが頭の中で爆発しそうなほど膨らみ続けて、それに耐えられなくて、
「やだっ、やだっ! ねえ! 起きてっ!」
何度も激しく揺さぶった。そうすれば、手が赤黒い液体で濡れた。息は吸うばかりで吐けない。肺に空気が押し込まれるたび焦げていく現実も一緒に入り込んでくる。誰か、と彷徨った目は、最初にどろどろに溶けた白い物体を四つ見つけ、そして転がったまま動かない色褪せた茶髪を散らす女性を見た。自分しか居ない。それを理解しそうになったときだった。
大地が噴火した。
そうとしか思えないような咆哮だった。
雷が落ちたのは、帝都の中心だとなんとなく決めつけた。
黄金の煌めきが、紅蓮の大地と死灰の天に挟まれている。
馬の顔に虎を混ぜたような獰猛な顔は、ぎらりと並ぶ牙と女髪のように揺蕩う長髭、そして二本の巨大な角でこの世の生き物でないことを確信できる。鋭利な爪を剥き出しにした四足があるにも関わらず宙に浮かぶ胴に、翠鱗が八十一あるのは数えなくても知っていた。それは、古から語られる厄災であるから。
「りゅ、う」
喉から出たのは言葉ではなく、もはや溶け始めた心だった。地鳴りのような咆哮が、警鐘の音も、痛みに悶える悲鳴も、なにもかもを掻き消す。火の粉が舞う帝都で、もう、立ち上がれなくなった。
「龍、か」
抱きしめていた腕が動く。呆けていた百位は、まだ輝いてくれている小さな夕陽に顔が吸い寄せられた。
「い、五位様! 大丈夫!?」
頬を撫でた右手が握られる。
「怪我は、ないか?」
「え」
「そなた、怪我は、ないか?」
「わ、わたしは、大丈夫だからっ」
「良かった」
ふっと安堵の息を漏らした五位を理解してあげられなかった。
「全然良くない! 背中がっ、火傷がっ、は、はやく、お医者様、呼んでくるからっ!」
「百位」
五位がむくりと起き上がろうとする。顔を歪めつつも、上半身を起こす。それを支えてあげる。髪や肩に積もっていた木屑がぱらぱらと落ちる。ふらつきながらも起き上がった五位は、真っすぐに視線を絡ませてきて――、
「無事で、良かった」
胸にすっぽりと収まってしまった。腰と背に回された腕にぎゅっとされて、ヒノキの香りがほんのりする胸に押しつけられる。吐息が掠めた右耳から熱が全身を駆け回る。大きな背中に手を回そうとしたけど、真っ赤な肌を思い出したから両肩を握ることにした。高鳴る胸は、とくとく、心地良いヒノキの温かみに満たされていく。それから、肩を握り締めていた右手が包まれる。
一生包まれていたかった温かさが離れれば、手のひらに無表情な冷たさが与えられた。大きな両手に覆われたか細い右手に握らされたのは、肌が削られるほどざらつき罅割れる、錆びた鍵だった。
「これを、託す」
「なん、で?」
五位の微笑みは、土砂降りの日に見送った微笑みとそっくりだった。
「頼みがある」
「ゃ、だ」
抵抗する。
「俺が、あの龍を向こう側に押し込む」
「やだ」
はっきりと言った。
「だから、門を閉じて封印してくれ」
「やだ」
強く言った。
「二位、三位、四位、あいつらなら、そなたを門まで導いてくれる」
「やだ」
手を握って言った。
「あとは、祖母と暮らして、田舎で、のんびり、馬でも世話して家族で仲良く生きてくれ」
「ぜっっったいにっ! いやぁっ!」
渾身の力をぶつけた。頬を撫でてくれた。その手を、大粒が濡らす。
「八年前、そなたが霊に憑かれたのは俺のせいだ」
そんなことはないと首を振った。
「十年前、北の雪山に封印されていた強力なあやかしが目覚めた。皇帝は、新しい器を用意してあやかしを封じた。その器が、俺だった」
じゃらり、鎖の音に目を凝らせば、半透明の鎖が、火傷を負った体を何重にも蝕んでいた。鎖は、神輿の椅子から伸びているようで、まるで、神輿の中に閉じ込めるための、まるで、神輿が牢屋のような、そう考えさせられる鎖だった。
鎖の継ぎ目、ちょうど鳩尾のところに鍵穴がある錠があった。それを開ける鍵は、どこにあるのか言われなくてもわかってしまった。
「だが、俺は耐えられなかった。器が小さすぎた。あやかしは封じたものの、溢れた霊力が各地に散らばった。人の世に、霊力が満ちた。そのとき、霊のあやかしが人の世に蔓延った。それがきっかけなのだ。八年前の、な」
あなたは悪くないから。そんな言葉は、逆さまになった口角と、喉に沈みそうなほど引きつった顎では伝えられない。嗚咽しかできない無力な顔を、大きな両手が労わるように包む。
「ごめんな。辛い思いをさせて。だから、これ以上、泣かないでくれ。これ以上、辛い思いをさせたくない。帝都を、この国を守る。だから、封印を解いてくれないか? 一つだけの意思なら、眠るあやかしを従わせられる。あの龍を追い返す。あの龍もろとも、あやかし、北神と呼ばれ、狩ることができなかったあやかしを向こう側に投げる。それで、門を封じれば、みなを守れる。あのとき、救えなかった子供たちの命を無駄にはできない。いま、俺が潰してしまった未来で、未来を救いたい。俺の願い、聞き入れてくれるか?」
錆びた鍵を握った。先端を、向けた。がちがちと震えて進まない右手に、彼の温かさが寄り添う。滲んで遠近感がぼやける目でも、鍵穴に鍵は誘われる。でも、最後の、最後の一捻りが、できなくて。
「百位」
二つの夕陽はすぐそばにあるはずなのに、どうしようもなく、果ての向こうにあるように遠い。
「名を、教えてくれないか」
ぐちゃぐちゃに混ざった胸の内から文字だけが描かれる。それを忘れていたわけではない。ただ、お母さんの最期の言葉だったから、お母さんの最期を思い出してしまうから、お母さんとお父さんが一生懸命に考えてくれたそれを、ずっと封じ込めてきた。ずっと封じたかったのは、漢字一文字でひらがな三文字の、目では見えない体の中に宿るもの。
心。
「ああ、澄んだ旋律だ。どんな言葉よりも美しい響きだ。そうか。なあ、こころ?」
こつんと額がくっつき、鼻先同士が触れる。
「俺が真に守りたいのは、こころ、だけだ。こころ、俺は、こころを信じる」
ほんとうに一瞬だった。唇が触れたのは。切ない感触を記憶することもできなかった。
「五位様、あなたの、お名前は?」
聞かなくちゃ。忘れないために。夕陽を、ヒノキを、心を。
「鸞」
「らん」
伝説の、蒼い鳥。
錠が落ち、鎖が砕け散った。
真っ白な世界に飛び込んだ。
夜すらも染め上げる眩しさに呑まれる。
徐々に、元の世界が帰ってくる。
残ったのは、屋根を失くした神輿と、錆びた鍵だけ。
凍てつく冷気は、氷山から漂う空気の動きすら捕まえる白み。
その形だけは、山でも見かけた。ただ、首が折れるほど見上げたとき、知っているそれとは全く別物であることを理解した。氷柱がぶら下がる雪色の毛並み、凍った瞳、氷の結晶のような背中の紋様、放たれる白みに触れられたものがぴきぴきと凍てつく。
凍った白熊の咆哮は、目を開けられないほどの圧があって、耳を手で塞がなければ鼓膜が破けてしまいそうだった。
地面を揺らしながら北神は駆け始めた。あの黄金に煌めく龍目掛けて。
百位の体が凍らなかったのは、神輿の上に乗っていたからだった。
「一人にしないで」
そう一人で呟いた。
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