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第二日目 - ②
しおりを挟むA棟十階。午後六時少し前。
奇しくもほぼ、昨日訪れた時の時間だ。
1015研究室の前で、千紘はそのネームプレートを見つめていた。
昨日の今日で、同じ部屋目当てでこのフロアを訪れることになるとは。
(今日は、もちろん…いるよなぁ)
いつも薄暗いこのフロアにも、今日ばかりは明るい灯りが各部屋から漏れていた。教員総動員で面談が行われている証拠だ。
人の気配も、見えないのに感じられるようだ。
千紘の瞳に映し出された景色も雰囲気も、昨日とはまるで違うフロアみたいだった。
昼間の授業で会った時、一之瀬は何食わぬ普段通りの顔と様子で代講をしていた。
自販機コーナーでミネラルウォーター片手の一之瀬に会った時はまた違う顔をしていたように思う。ああ、自分がさせられたのかと千紘は思い直す。なぜ突然頭を撫でられたのかわからず、思い出すとまた赤くなりそうだった。
今からは二人きりだ。
昨日と同じ二人で、同じような時間帯の同じ部屋で会って、一之瀬は平常心でいられるのだろうか。
『コンコン』
千紘は緊張気味の重い気分を抱えて、一之瀬の研究室のドアを叩いた。
「どうぞ」
今日はすぐに、中から返事が聞こえてきた。ほっとして、ドアノブに手をかける。
「失礼します」
「そこに、座って」
一之瀬はソファーに足を組んで腰掛け、書類に目を通していた。目の前のソファーを手のひらで示す。
ツヤのある濃紺のダブルのスーツが一之瀬の品の良い雰囲気を際立たせ、顔によく映えていた。
机の上にある封筒には、マル秘の判子が左下に赤く印字されていた。千紘の個人情報を見ていたのだろう。
「舛森千紘君だね。面談を始めよう」
涼しげな顔で書面を見て名前を確認しながら頷いた一之瀬に、千紘は拍子抜けしてしまった。
こちらの緊張はかまいもせず、一之瀬は普段どおりの温和な表情をしている。昨日のことも今日のこともなかったようだ。しかもご丁寧に、名前の確認までするとは。
「よろしくお願いします」
言われた通りに腰をかけ、戸惑いつつも頭を下げる。
「じゃあ、始めよう」
一之瀬はほほ笑む余裕まであった。
千紘は拍子抜けすると共に安心もしたが、一之瀬の対外的に完璧な姿に無理をしてないといいなと心配にもなった。
「舛森君は大抵の成績はSとA。選択科目まで…。優秀なんだね。法曹コースは希望しなかったの?」
「はい」
なぜ? と聞かないのが、他の教授達と違い一之瀬らしいような気がした。
「そうか…。ただ、民事系にAマイナス一つ…民法総合か。まあ、このままでも何も問題ないと思うけど、どう? 民法、苦手なのかな」
「はい。どうも掴み辛くて」
「実生活に直結しているから、憲法とかよりわかりやすいと思うんだけどな」
「憲法は判例暗記でなんとか。民法は社会経験が必要なんだって、友人には言われました」
自分も社会経験がないのに、そう得意げに言い放った芹沢の勝ち誇った顔を思い出す。
「ははは、言われたね。まあ、ある意味そうかもしれないね。でも私は勉強すれば点を取りやすい教科は、むしろ民法の方だと思うよ。私は憲法の方が苦手だったなぁ」
「先生も苦手な科目があったんですか?」
意外な気がした。なんでもソツなくこなしてしまいそうなのに。
「当たり前だよ」
そう言っていたずらっぽく一之瀬は笑う。近寄り難いと言っているヤツらに見せてやりたい笑顔だ。
「公法系が苦手だったよ。一度社会人を経験して未修に入ったから、色々と勉強の勘を取り戻すのに苦労したな」
「社会人?」
「そう。銀行にいたんだ。…君は大学からの持ち上がりだね。倒産法は受けていてどう? 民法と民訴ができてないと辛いだろう」
もう少し詳しく話を聞いてみたかった。純粋にどんな経緯でここに辿り着いたのか興味があった。
「今のところは大丈夫です。先生の授業はすごくわかりやすいし」
「嬉しいことを言ってくれるね。本番も倒産でいくの?」
「はい。労働法も考えたんですが、一之瀬先生の授業を受けて決めました」
司法試験は憲法、民法、刑法、商法、民事・刑事の両訴訟法、行政法の他に選択科目がひとつ必要だ。
「そうか。それは光栄だな」
一之瀬がにっこり微笑む。今度は思わずその笑顔に見惚れてしまった。
こんな笑顔の一之瀬なんて、まず日常では拝めないので、屈託なく嬉しそうに笑う一之瀬が眩しかった。つい目が奪われる。
「何か勉強している上で困っていることとか、聞いておきたいこととか、他にある?」
「…いえ。別にありません」
「なんでもいいよ。まだ時間が余ってる」
ふいに千紘の口から疑問が零れた。
「先生はなぜ、弁護士になられたんですか」
一之瀬の笑顔が曇った。聞いてはいけない本人が答えづらい質問だったのだろうか。
自分の抱えている問題を形にしてみたくて、つい出た質問だった。
「企業倒産や、事業再生を扱いたかったからだよ」
幾分哀しそうな顔で一之瀬は答えた。
これ以上立ち入ることができる雰囲気ではないように思えた。傷つけてしまいそうで。
昨日の一之瀬が頭をよぎる。
「そう…ですか」
「他には?」
「特には。このまま勉強を続けて大丈夫でしょうか」
「ああ、君なら大丈夫だ」
「ありがとうございます」
千紘は軽く頭を下げた。
「舛森君、何も聞かないでくれてありがとう」
「えっ?」
頭上から降ってきた声に慌てて顔を上げる。
そこには一之瀬の優しい微笑みがあった。
「週に一回、民法の答案をもっておいで。見てあげよう。問題は来週、用意しておく。取りにおいで」
「はい……ありがとうございます」
突然の申し出に、千紘はきょとんとしながら答えた。
「お礼だよ。ただし、他には内緒にしておくこと。色々とうるさいからね」
「はい」
「それと、試験明けのエクスターンシップ、私の事務所にしておいたから」
「は?」
「月曜、割り振りが出るだろう」
「はい」
「じゃあ、もう行きなさい」
「ありがとうございました」
ドアの前で振り返って一之瀬を見ると、封筒に千紘の資料をしまっていた。
俯いた顔に通った鼻筋が際立っていた。その端正な顔立ちに訳もなくどきりとする。
「失礼します」
千紘は一礼してドアを出た。
最後に一気に意外なことを捲し立てられて、呆然としたままだった。
一之瀬が思った以上に元気そうであったことは良かった。こちらが拍子抜けするほどだった。
でもあんなところを見られたのに、答案をみてくれる約束、その上に法律事務所を体験するためのエクスターンシップまで引き受ける一之瀬がわからない。
(礼って…。やり過ぎじゃ…)
考えるとまた頭がパンクしそうなので、止めた。
なんにしても民法の面倒を見てもらえることはありがたい、と単純に考えることにした千紘だった。
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