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週が明けて第三日目 - ①
しおりを挟む怒涛のような二日間が過ぎ、急に距離が近づいた一之瀬のことをゆっくりと考えている暇もなく勉強漬けの忙しい日々に追われていたら、翌週の水曜日の朝、教務課から千紘宛てにメールが来ていた。
【"一之瀬准教授がお渡したい資料があるとのことですので、三時限前のお昼休みに一之瀬研究室へお立ち寄りください”】
文面には、そう書かれていた。
(あ。……問題。本当に用意してくれたんだ)
印象通りの律儀な一之瀬らしいと千紘は思い、何時頃に行けばいいのだろう? と考え始めた。
三限が倒産法Ⅱの授業なので、十五分くらい前なら大丈夫だろう。多分、一之瀬もそのつもりで気を遣ってくれたのかもしれない。
そしていつものごとく、すっかりお馴染みになった研究室のネームプレートの前で千紘は立ちすくむ。
扉を叩くために、不本意ながら毎回勇気が必要になってしまった。
気持ちを整えていると、中から声が聞こえてきた。
「先生! お願いします!」
女性の声だった。
(……また、このパターン…かよ…)
自分が訪れると先客がいるということは、相手は厄介な客である、ということが前回証明されている。
(間違いなく、助けが必要だっていう神様のお知らせだよなぁ…)
千紘は覚悟を決めて、今日は始めから強めに扉を三回叩いた。
『コンコンコン』
すぐに、返事があった。
「どうぞ」
大きめな勢いのある一之瀬の声がした。
「失礼します」
千紘が声をかけながら扉を開けると、執務机の向こう側に一之瀬が立ち、手前のソファーのところに女生徒が立っていた。
一之瀬はちらっと一瞬千紘を見て、姿を認めるとその生徒に言った。
「赤澤さん。私は、“扉は、開けたままで”と、お願いしましたよね。なのになぜ、完全に、閉まっているのですか」
平坦な抑揚のない聞く人にとって冷たく感じるであろう声で、はっきりとわかりやすく区切りをつけて一之瀬が言った。
「そ、それは…思わず、習慣で閉めちゃいました」
赤澤がしどろもどろに答えた。
「そうですか。わかりました。他の生徒が来ましたので、もう他に用がないようなら退出願えますか」
有無を言わさない圧力が言外に感じられる。
「…は、はい」
蹴落とされた様子で赤澤は頷き、ソファーの上の荷物を持つと出入り口にいる千紘に向かって歩いてきた。
強く睨むような目で千紘を一瞬見て、すぐに向きを変えて挨拶をした。
「失礼しました」
そして怒ったような足音で出て行った。
どうしてみんな一之瀬の前では、去り際に俺をひと睨みしていくんだ? 不条理さを感じる千紘だった。
「悪かったね。問題を取りに来たんだね」
「…はい」
「ちょっと待ってね」
赤澤の事は何も触れずいつも通りの穏やかな表情で、一之瀬は机の引き出しからA4サイズの封筒を出してきて千紘に手渡した。
「中に、論文問題とそれぞれの締切が書いた紙が入っているからね。でも、締切は守らなくていい。ある方が気が引き締まるだろう? あくまでも、指針だと思ってくれていいよ。それにするしないも君の自由だ。課題じゃないからね」
「ありがとうございます。あの…本当にここまでしていただいていいんでしょうか…」
気が引けて一之瀬の負担にならないか心配になる。
「大丈夫だよ。一通見るのにそんなに時間はかからないから。君も合格すればわかるよ」
「はい。じゃあ、お言葉に甘えます」
「これが終わったら、過去問にしよう。まあ、もう書いてるよな」
「いえ。助かります。本当にありがとうございます」
千紘は深々と頭を下げた。
「もう時間だね。一緒に出ようか」
「はい」
先に千紘が扉を出て、扉を押さえながら一之瀬を待つ。
「ありがとう」
そう言って一之瀬は笑い、鍵をかけた。
廊下を二人で並んで歩きながら一之瀬が千紘に聞いた。
「もう少し、総論の方をしたいかな?」
「そうですね。お願いできるとありがたいです。各論も」
「わかった。倒産の方も見ようか」
「ええっ…?! さすがに…」
「欲張り過ぎないかって? …ははっ! いいよ。大丈夫」
「ありがとうございます。先生には頭が上がりません」
「大げさだなぁ」
気取らずに話してくれる一之瀬との会話は、包み込まれるような感覚で軽妙に流れるのでとても楽しい。
元からこういう話し方をするのか、千紘に気を遣ってくれているのかはわからないが、とても心地よい空間だった。
笑顔でふたりで話しながらエレベーターホールまで来ると、以外な人物がそこで待っていた。
「先生!」
「赤澤さん、まだ居たの」
一之瀬からは先ほど千紘と話していた時の朗らかな表情は鳴りを潜めてしまい、代わりに仮面が張り付いたような顔になった。
「はい。教室までご一緒できればと思って。いいですか?」
「……かまわないよ」
エレベーターに学生を先に乗り込ませると、ドア側に一之瀬は立った。
千紘の横で赤澤が、しきりに一之瀬に話かけたい様子を見せていたが、一之瀬は話しかけるなオーラ全開でバリアを作っていた。
そこで赤澤はチラチラと千紘を見る。こちらは、話しかけろよオーラ全開だ。
千紘は気づかないふりをして無視を決め込んだ。こういう時は関わらない方がいいに決まっている。
使えないヤツだなと諦めたのか、赤澤は自分で一之瀬に話しかけにいった。
「先生。授業のあと、また質問しに行ってもいいですか?」
「悪いが、仕事ですぐに出る」
「じゃあ、来週は?」
「……時間が許せばいいよ。但し、学生ラウンジで」
「…わかりました」
無表情でドア扉を見つめたまま返事をした一之瀬に、赤澤は不服そうな態度を隠さず渋々返事をした。
一之瀬はまったく気にもとめない様子で、そのままの姿勢でまた黙った。氷のような気配が一之瀬の身体にまとわりついている気がした。
重苦しい空気の中で、エレベーターは教室のある三階に着いたことを音で知らせた。
『ポォン』
間が抜けたような音だった。
場の空気を読めないヤツめ。
まあ機械音に当たっても仕方がないけれど。
扉が開くとすぐに、素早く振り向きもせず一之瀬は学生ふたりを置き去りにして先に歩き出した。
そのあとを、慌てて赤澤が早足で追いかける。
二人を見て千紘は、なぜかもの哀しい…自分だけが取り残されたような気分になった。
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