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第四日目の朝は早い - ①
しおりを挟む法律事務所の朝は遅いと、誰が言ったのだろう?
テレビの二時間サスペンスドラマの影響だろうか。仕事中に推理するという時間の無駄使い的発想からでたものなのか?
それとも世間一般のマチ弁の法律事務所のイメージだろうか。
六月の第四週がやってきた。
無事に先週末に中間試験が終わり、今日からいよいよエクスターンシップが始まる。
初日の月曜日。
出勤は朝七時五十分だった。早い。社会人ならそうでもないのだろう。
でも千紘にとってはいつもなら起き出した直後のような時間帯なので、十分に早い時間だった。
それもそのはず、千紘がお世話になるこの事務所では、八時から三十分ほど早朝ミーティングなるものをやっていた。日中は皆が個々に忙しいためにフレックスタイム制を導入しているので時間帯がなかなか合わないらしく、朝動き出す前のこの時間帯となったらしい。コアタイムが午前中の早い三時間だなんて聞いたことがない。実際に十時からの始業という事務所もあるというのに…。
「今日から三日間、お世話になります。芹沢です。よろしくお願いします」
「同じく舛森です。よろしくお願いいたします」
千紘にとってとても幸運なことは、一緒に行くことになったのが芹沢だったことだ。普段から一緒のヤツが隣にいてくれるのは、非常に心強かった。
皆の前で挨拶が終わって一之瀬の方を見ると、控え目な穏やかな笑顔で返してくれた。久しぶりのその微笑に、思わず見惚れそうになってしまった。
慌てて気を引き締める。
一体何のために一之瀬は、自分をここに寄越したのだろう?
気を遣って、評価を良くしてくれたり何か恩恵をもたらしてくれるつもりでもあるのだろうか。却って自分が一之瀬の負担になってしまっていないのだろうか。
「では、芹沢君は留美君。舛森君は千晴君に頼むからね」
ミーティングの後、所長の重村がにっこり笑って指示を出した。
ちょっと太目の、笑うと眼がなくなってしまう温和な感じのする人だ。事業再生の分野では名の通った弁護士だと聞いていたので、千紘も芹沢も、もっとキツイ感じのやり手な男をイメージしていた。おおハズレだった。
地下鉄の主要駅前から徒歩2分ほどにあるオフィスビル七階の一角にある重村法律事務所は、所長の他、弁護士二十五名、事務員十八名で構成されている。専門は企業法務、特に事業再生・破産だ。そしてM&Aも。もちろん、一般民事も扱っている。
扱っている専門性の性質上、クライアントは企業が多い。朝は普通の企業のように動く。そして時には夜も昼もなく、休日もなく仕事が飛び込んで来ることもあるということだった。
千紘と芹沢は各々の担当者に従ってついて行き、千紘の担当者に自分の隣の空席を示してここを使ってねと言われた。
その通りに千紘が腰掛けて落ち着くと、優しく笑いかけてくれた。
「安達千晴です。よろしくお願いします。名前の漢字は『千』に『晴れる』と書きます。舛森君と、同じ漢字ね」
美人ぞろいの事務所だな、というのが第一印象だったが、その中でも安達は西洋風の彫の深い印象的な顔立ちをしていて、際立って目立っていた。
年は一之瀬よりも下くらいか、もしくはそれよりもうちょっと下、三十過ぎた辺りのような感じがした。
「奇遇ですね。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
年上だけど笑った顔もキレイだなぁ、と不謹慎なことを考えつつ千紘は頭を下げる。
「…はい。ノート。メモ書きに使ってね。机の中に、筆記用具はひと通り揃ってます。…まずは電話の対応から」
千紘の挨拶にほほ笑んだ安達から、手に持っていたノートを渡された。
そこで安達はひと呼吸おくと、千紘を観察しおもむろに言った。
「ガッカリした? …ふふ。こんなことやらせるの、ウチくらいかもね。実際には弁護士が出ることはないだろうけど、なんでも経験だから。他の人の立場がわかると思います」
「はい」
確かに、弁護士に付いて実地訓練するのが普通なのだろう。
「では…、電話に出る時は手元に必ずメモを用意してください」
そう言って、コピーの裏紙を渡された。裏紙まで法律事務所で使うことが意外だった。
「これは、使っても大丈夫な紙よ。SDGsかな。…ふふ」
「…はい」
笑いながら安達に言いあてられて、心を見透かされたのかと思った。余程じっと見つめていたらしい。
「かかってきた時間を確認してね。事務所名のあとに必ず自分の苗字を名乗ること。先方のお名前は、聞きにくかったら遠慮しないで聞き直してね」
千紘が不安な顔をしていたのか、詳しく教えてくれた。
「御社名か、お名前をもう一度お聞かせくださいで大丈夫です。誰にどのような用件があるかをはっきり聞くこと、急ぎかも。いない場合は折り返しが必要かも聞いてね。いつも丁寧な言葉使いを心がけてください」
「はい」
堅苦しい敬語はなるべく省いてくれたようだった。神妙に千紘は頷く。
「ここは法律事務所ですから色々な電話が来ます。対応にはいつでも、毅然として丁寧に気を配ってください。緊急で慌てた方には落ち着かせて要点を聞きだせるように。あとたまに、脅迫電話もモドキもかかってきますから、気をつけてくださいね」
真剣に耳を傾けていた千紘は、ぎょっとなって安達を見た。
安達は気にする風もなくにっこり笑う。
「ふふふ。舛森さんは男の方ですから大丈夫だと思いますよ。女性だとバカにされてしつこいですけど」
「冗談じゃないんですね……」
「当たり前です。特に、破産を扱っていますから」
「……はい」
「では次は、そうですね、実際に書面を作成してみますか?」
「書面?」
「陳述書を作成する予定の新規の事件があるんです。雛型を見ながらすれば、大丈夫だと思いますよ」
「はぁ…」
「授業で読んだことありますよね? こちらとこちらが見本です。軽く説明しますから」
事もなげに安達は言うと、手順を説明し始めた。
初日の始めからいきなり実践モードに突入したので、千紘は説明について行くのが手一杯だ。
その間にも次々と「いってきます」という声がしては弁護士が出掛けて行く。残っている方も来客やら、打ち合わせやら、バタバタしていて忙しさが事務所中に漂っていた。
一之瀬も九時半過ぎくらいに、出掛ける準備を始めた。嬉しいことにフロアにたくさんあるデスクの島の中で、隣の島でデスクが近い。つい目が一之瀬を探してしまっていたので、席を立ったときにはすぐにわかった。
千紘の前を通る時、一之瀬は軽く右手を振った。
その仕草は品のよさとは反比例しそうなものなのに、妙にマッチしてお茶目でかわいかったので顔が赤くなってしまった。
また意外な一面を発見した感じだ。ドキドキして軽くお辞儀を返す。
「五島産業へいってきます」
三つ揃いのスーツの裾を翻して出掛けて行った。
一之瀬が出て行ってしまうと、張り詰めていた気が急に抜けたようになった。千紘は思った以上に一之瀬を意識しているらしい。
一之瀬は学校で見る顔とはまた違う顔をしていた。いわば仕事モードとでもいうのだろうか。立ち姿から人に指示する仕草、身のこなし方まで違う気がする。
(仕事をする男、そんなイメージにぴったりだ)
男でも憧れてしまうような存在、追いついて並びたい、この人に認められたい、そう思わせてくれる刺激を与えてくれる輝きを放っていた。
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