【本編完結】水曜日の迷いごと

咲月千日月

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第四日目の朝は早い - ②

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 一之瀬の後ろ姿を見送った千紘は、気を取り直してパソコンへ向かう。余韻に浸っている暇はない。自分のやるべきことをやらなければ。
 証言や証拠類と照らし合わせながら考え考え打ち込んで行くと、時が経つのも早かった。
 途中で少し遠くにいる芹沢の方をちらっとみると、彼もパソコンに真剣な表情で向き合っていた。 

(芹沢の方もハードそうだ)

 集中している芹沢の姿に力を分けてもらって、こちらもまた背中を押された。

 
 お腹の虫が鳴き出して、時計を見ると十二時が過ぎていた。一般的には昼食の時間だろうけれども、誰も何も言わない。千紘はちょっと減ってきたお腹を押さえて、大人しく作業を続けた。

「舛森君、きりがいいところで食事にいきましょう」
 
 一時近くになって、ようやく安達が千紘に声をかけた。
 千紘はそろそろ集中力も切れて限界を迎えつつあったので、飛びつくように頷いた。

「はい。わかりました」
「遅くなって、申し訳なかったわね。交代制なの。行ける人からね。電話番があるから」


 十分後、お互いにケリをつけると千紘と安達は連れ立って事務所を出た。

「お腹すいたでしょう。ごめんね。最初に説明するのを忘れちゃって」
「いえ。大丈夫です」

 本当はめちゃくちゃすいてきていた。

「何か食べたいものある?」
「いえ、別に」
「嫌いなものは?」
「特には」
「わかった。うーん…そうだなぁ。とにかく、ビルの外へ出ようか」
「はい」
「今日は初日だから特別、ランチをご馳走しましょう」

 思案顔顔から一転、安達は得意げな顔をして言った。

「え? いいんですか」
「いいわよー、もちろん。頑張って書類と格闘している舛森君にご褒美。その代わり、午後もしっかり働いてもらうわよ~」

 軽くこぶしを握りガッツポーズをして、安達はおどけてみせた。

「もちろんです! ありがたく、ご馳走になります!」

 それに応えて、千紘が頭に手を添え敬礼をすると、はははと明るく安達は笑った。

 綺麗な顔立ちから想像するより、明るい人のようだった。千紘が思わず反応してしまうくらい、自分のペースに巻き込むのがうまい人のようでもあるみたいだ。

 安達オススメの、道二本向こう側のイタリアンレストランへ入り、パスタランチをご馳走してもらった。 

 店内はいかにも素朴な雰囲気で温かみのあるイタリアの食堂、トラットリアよりはタヴェルナっぽい感じで、木やブラウンを基調としワインボトルがおしゃれな感じに壁側に置かれたりして、赤や白がアクセントで入っている素敵な店だった。

 席について注文が終わると、安達が千紘の顔を様子をみるような感じで眺めて聞いた。

「ウチの事務所、なんでもありでしょ? 最初からいきなり電話番とか書面書きなんて、びっくりしたでしょう?」
「はい。ちょっと戸惑いました」

 そうだよねーと頷きながら、安達は話をすすめる。

「それがウチの基本方針。新人に容赦なしなの。甘えさせるな、習うより慣れろってね。思うよりも厳しい世界だって、所長、教えたいらしいわよ」
「そうなんですか……」
「まぁ、もっと時間があればねぇ…学校によっては課題の多い厳しいエクスターンシップ先もあるだろうけど」

 相づちを打つ千紘に、少し小声になって安達は話す。

「でも舛森君、優秀よ。今まで来た学生さんたちはみんな戸惑っちゃってね、聞いてばかりなの。自分でやろうとしないのね。あってるかばかり気になるみたい。勉強じゃないのにね」
「はぁ、自分も似たようなものかと」
「こっちも期待なんてしてないわよ。正直。やり直し覚悟でやってもらうの。だから、気にしなくていいわよ」

 なんと言っていいものやら。ここまで開けっぴろげに言われると、かえって心地がいいのも不思議だ。

「質問が少なくて助かったわ。こっちも仕事ができて。この時期、株主総会でてんてこ舞いだって言うのに…。あ、本音は、聞かなかったことにしておいてね」
「はい……」

 正直な物言いで、ますます好感度が上がった。

「明日の午前中までに、できるだけ仕上げてね。午後は裁判傍聴に行くから」
「傍聴ですか?」
「ちょうど明日、一之瀬先生の国選の事件が入ってるの。刑事事件はウチでは珍しいから、重村先生が学生にも見せてあげなさい、っておっしゃって」
「何の事件ですか?」
「強制わいせつ」
「強制っ……」

 それを聞いて思わず、千紘は口に含みかけた水を噴出してしまった。

「大丈夫?」
「ゴホ、ゴホッ……大、丈夫です。申し訳ありません」

 慌てて二人でおしぼりを手に取り、テーブルを拭く。 

「すいませーん、おしぼり下さい」

 安達は店員に新しいものを頼んでくれた。心配する店員に、混んでるのであとはこちらで大丈夫ですよと言いながら、おしぼりを受け取る。
 店員に貰ったおしぼりでテーブルを拭きつつ、話を続けた。

「よくある電車内での痴漢事件よ。刑事裁判は途中からでも流れがわかりやすくて、傍聴しやすいからいいだろうって」

(なんて、余りにタイムリーな……)

 一之瀬は大丈夫なのだろうか。その後の様子は千紘が見た限りでは普段通りではあったのだが、そもそも会う時間は少ないし、一之瀬自身の見えないところはわからない。
 千紘は出掛けに小さく手を振っていた、無邪気ともいえる一之瀬を思い出す。

「そういうことだから、がんばって」

 拭き終わった安達ににっこりと微笑まれて、奢ってもらった手前もあって、午後は集中せざるをえなかった。


 予想はしていたが、本来の就業時間になっても誰も帰ろうとはしなかった。けれど千紘は自分のことで手一杯で、そんなことまで考えが及ばなかった。
 我に帰ったのは六時近くに安達に声を掛けられてからだ。

「舛森君、ごめんね、遅くなっちゃって。大丈夫?」
「えっ? はい」

 時間が経つのが早い。

「芹沢君がもう帰るらしいの。残業やらせるつもりはなかったんだけど、集中してたからつい声を掛けそびれて…ごめんね。芹沢君も残業になっちゃったみたいね。舛森君も今日はもういいわ。一緒に帰ったらどうかな?」
「でも終わるか、自信がありません」

 本当はもう少しやりたい。
 もしかしたらそうやって仕事の沼に知らぬ間に入っていくのかもしれない。

「いいのよ。明日もあるし。本当はあまり遅くなっても、残業させてもいけないから」
「……わかりました」

 一之瀬はまだ帰って来ていなかった。
 もう一度、顔を見たいような気がして後ろ髪を引かれたが、仕方ないのであきらめることにした。

「「お先に失礼します」」

 芹沢と入り口で大声で一礼して、連れ立って事務所を出た。

 夏至が終わったばかりで空にはうっすらと夕方の気配が残っていたが、街のネオンが煌々と灯って、その余韻を上書きしていた。
 夜が近づく足音が感じられた。

「つっ、かれたなー。…んーっ」

 芹沢が伸びをして思い切り息を吐き出す。

「ホントだなー」

 心から同感だ。

「こんなことならエクスターンシップなんて、応募しなければよかったよ」
「俺もそう思うよ」
「だろ? 休みの奴らが羨ましい!」
「試験組もいるし、休みったって、勉強してるって」
「それもそうか」

 芹沢が大笑いをした。

「舛森、なんか食ってく?」
「うーん、食欲ないけど」
「こういう時は無理にでも食べる! また明日があるんだからな」
「そうだな。行くか」

 いつも前向きで豪快な芹沢らしい。
 足早に二人は駅に向かって歩き出した。

「芹沢は、なにやってたの?」
「判例検索と書面書き」
「そっか。似たようなもんだな。思ったより大変じゃなかった?」
「うん、噂では一番厳しいところに見事当たったらしいからな、俺達」

 芹沢が歩きながら、大きく腕を回して茶化して言った。
 なにやってるんだよ? と言いながら、千紘は聞いた。

「やっぱりそうなのか? でも、人気だって松島言ってなかった?」
「それは一之瀬効果じゃん? だって、残業ってありえないだろ? たかだか体験に。普通はもっと楽だろう。ニコニコ笑って座ってればいいとかさ」

 それを知っていて希望を出したくせに。本心と言葉が裏腹な芹沢が、かわいく思えてくる。
 軽口を叩きたくなるほど疲れているのだろうと思い、芹沢に合わせて相づちを打った。

「だな」

 二人で頷くと、周りに反響するくらい大声で笑い合った。疲れもこの笑いに負けて逃げ出していくだろう。
 笑い合える仲間がいてよかった。
 明日はきっと、朝から元気にまた始められるはずだ。


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