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第五日目に新たな姿を見る - ③
しおりを挟む「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
裁判が終わり、一階ホールの片隅で事務所一同が集まっていた。手応えを感じる内容に、皆一様に晴れやかな表情をしている。
一之瀬と藤木がそれに気づいて寄ってくると、ふたりを囲み口々に労いの言葉を掛けた。
「お疲れ様」
にこやかに穏やかに、間違いなく今日の立役者である一之瀬が皆を見渡して挨拶を返す。
「無罪判決、出そうですね」
安達が確信した口調で、一之瀬に話しかけた。
みんな笑顔だ。
まさかこんな展開になるとは、誰もが思ってはいなかっただろう。
一之瀬は黙ったままで、控え目にほほ笑む。確実ではないから、なにも言わないのだろう。そこにも一之瀬の人柄が出ているように思えた。
「先生、すごかったです。興奮しました!」
芹沢が目を輝かせて、興奮冷めやらぬ感じで話しかけていた。
そんな芹沢に、一之瀬は大げさだなぁという顔をして、ほほ笑みながらありがとうと返す。声をかけられて芹沢は嬉しそうだ。
ついこの間までは一之瀬のことを、人生イージーモードそうとか、斜めから見ていなかったっけ? と、ちらっと千紘は意地の悪いことを思う。
なんだか複雑だ。学生の中で自分だけが、本当の一之瀬のことを感じて理解している気がしていたのかもしれない。
芹沢をほほ笑みながら見返している一之瀬を見て、胸にわだかまりを感じた。
「役に立ったかい?」
「はい! 頑張って勉強する気になりました」
「単純ねぇ」
調子のよい言葉に、横で芹沢担当の中西留美が笑っている。
「将来、自分もそうならないとなのよ」
「そんなに軽い調子で、大丈夫なのか?」
安達や藤木まで次々と突っ込みを入れ、皆が芹沢と一之瀬のやりとりに注目していた。
千紘はというと、まだ知らない人を前にしているようで声が出せなった。畏敬の念も、入り交じっていたのかもしれない。
「大丈夫です! ホントですってば! 毎日勉強ばっかりで単調で、嫌気が差してたんですよ。刺激って、大切ですね~」
芹沢の物の言い方に、一同大爆笑だ。相変わらず場の空気を作るのがうまい。
「だったら、よかった」
一之瀬は他の皆とは違い、穏やかに笑う。
見ていると鼓動が早まって、なぜか胸が痛くなってくる。
その笑顔に、見蕩れた。
「舛森君は?」
呆然として一之瀬を眺めていた千紘に、安達が直球を投げて聞いてきた。
その言葉で、皆の視線が一気に千紘に集中する。
一之瀬の瞳も、千紘を捕らえた。
そして目が合うと、どきりとして身動きができなくなってしまう。
「あの……驚きました」
固まっていた思考を総動員して、やっとひとこと絞り出した。
「もっと、ちゃんとした感想はないの?」
安達に、呆れられたような口調でからかわれる。
でもこれが…今、千紘に言える精一杯の言葉だった。
一之瀬はそんな千紘に、やさしい笑みで答えてくれた。ますます心臓が早鐘を打つ。
(やばい……)
なんでこんなに一之瀬の笑顔で、心臓が跳ね上がってしまうのかわからない。
「えーと……」
「まったく。しょうがないわねぇ」
言い淀んでいる千紘に、安達が合いの手を入れた。
皆がまたひとしきり笑うと、一之瀬が藤木に資料書類が入った鞄を差し出した。
「じゃあ、これからビジ・コーに行ってくるから。あとはよろしく」
一之瀬は鞄を藤木に渡すと、皆に『気をつけて帰るんだよ』と言い残し、足早に玄関口に消えていった。
ビジ・コーとはビジネス・コートの略称、知的財産高裁・東京地裁中目黒庁舎のことだ。その名の通りビジネスに関する裁判を扱っている。
(あのあとで、すぐに別件の仕事に行くのか…)
仕事が立て込んでいる慌ただしく動く毎日の中で、さらりと今日のようなことをやってのけてしまう一之瀬の後ろ姿を、千紘はただただ見つめることしかできなかった。
「では…僕は打ち合わせがあるので、隣の弁護士会館へ寄ってから帰ります。お疲れ様でした」
「「お疲れ様です」」
藤木がそう言い、挨拶をすると去っていった。
「……ねえ。大岡越前守って、知ってる?」
中西が去っていく藤木の後ろ姿を見ながら、芹沢に聞いた。
「…時代劇? …名奉行の……大岡裁き? で有名な?」
突然の質問に戸惑う様子を見せながらも、芹沢が思い出しながら答える。
中西がそうと頷きながら、あれはデフォルメだけどあのねと教えてくれた。
「弁護士会館って、大岡越前守の屋敷跡に建ってるのよ」
「えーっ!」
「面白いわよね」
「驚いてる、驚いてる」
中西と安達が、大声で驚いた芹沢を見ながら揃って笑った。
いじられながら満更でもなさそうな芹沢も、その笑いの中に入った。
その声が遠くに聞こえる。
千紘はひとり、まだ先ほどの余韻の中にいた。
法廷での一之瀬の勇姿が、目に焼き付いて離れない。
一之瀬は千紘なんかが心配することがおこがましいくらい、自分でちゃんと自分のケリをつけてすべて一掃して、それ以上の成果を出した。
(ああ…)
――本当に自分は、あちら側に立てるのだろうか?
これから自分が向かうべきところは、あそこなのだ。
果たして…あの一之瀬のいるところへ、行けるのだろうか。
あまりにも一之瀬が大きすぎて、偉大すぎて、一之瀬に感じたシンパシーのようなものは所詮ひとりよがりのものだったのだと、打ちのめされた気がした。
未練がましく一之瀬が消えた方向を見つめてしまいそうで、自分の心が怖かった。
「さて、私達も事務所に帰りましょう」
安達に言われ、やっと千紘は我に帰る。
一同は誰ともなく地下鉄へ向かい、帰途に着いた。
「先生、本当にすごかったですね。どうして、証人が右手と左手の思い違いをしているって、わかったんでしょうか」
道々歩きながらの芹沢の問いに、安達すぐに反応して答えた。
「でしょう? いろいろと細かく話を聞くうちに、わかったみたい。事件の後って、被告人は衝撃を受けていて精神状態が普通じゃないから、あいまいなことも記憶違いのところも多いのよ」
「やってもいない、身に覚えのないことをすべて自分の仕業にされたら、誰でもそうなると思います」
確かになるほどと頷きながら、芹沢は共感の姿勢を示した。
「うん、だけどね、その当然がわからないのが、人なのよ。……そこをうまく掬っていくのが、一之瀬先生なの」
「そうなのよね。心理をわかってるというか…本当に、聞き上手なのよねー」
中西が安達に相槌を打つ。
芹沢が続いて、まだまだ疑問だとばかりに聞いた。
「警察も証人も、わかってなかったってことですよね? そんなこと…ありえるんですか?」
もっともな正面からの芹沢の問いに、安達はちょっと思案顔になって、ゆっくり答えた。
「……被害者が犯人の手首を握っていて、証人はその手首のほくろに見覚えがある。そして証人は、その手が被告人のすぐ横にあるのを見ていた。一方で被告人は、自分はやってない、だけの一点張りだったとしたら?」
「……証言を、信じてしまいます」
「女性が告発するのは、勇気がいるしね」
中西も頷いて言った。
「そうですね…。刑事事件では、ドラマみたいなことも起こるって、本当だったんですね」
芹沢が普段と違い、やけに神妙な顔でそうだったのかと心から思っている口調で言う。
「いや、普通はないわよ」
「うん。ない」
安達と中西が続けざまに否定して、ふたり顔を見合わせて笑う。
ひとしきり笑うと、安達が言った。
「今回は、手や爪から被害者の繊維片も出てないから、大丈夫だと思う」
「そうですか」
頷いた芹沢は、すぐに中西に肩を叩かれながら言われた。
「帰ったらもうあまり業務時間はないけど、ヤル気になった芹沢君も、残りの仕事がんばるのよ」
「えー! なんですか! それ!」
「「はははっ!」」
揚げ足を取られて不満気な芹沢の言い方に、三人は弾けたように笑った。
調子を合わせて笑いながら、自分もがんばらなくてはと、不安に打ち勝たなければ…と、先ほどの一之瀬の後ろ姿を思い出し、千紘も改めて決意した。
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