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第七日目に動き出す - ①
しおりを挟む土曜日の朝九時より少し前の早い時間に出勤した千紘を、事務所に一番乗りでやって来ていて笑顔と共に迎えてくれたのは、所長の重村だった。
コーヒーを片手に給湯室から出てきた重村は、千紘を見るとすぐに笑顔になった。
「お、来たね。おはよう」
「おはようございます」
所長自ら事務所の鍵を開けてくれていた事に驚いていたら、がんばりなさいと激励のお言葉までいただいてしまった。
そんなこんなでありがたく仕事を始めようとしていたら、おはようと言いながら安達が出勤してきた。土曜日は九時が出勤時間なのだ。
「何かあるときは、遠慮なく声をかけてね」
「はい。ありがとうございます」
いつものように声を掛けてくれて、安心する。
千紘は礼を言いつつ軽く頭を下げた。
他には、弁護士と職員が一名ずつ出勤してきた。
(なんだかんだ土曜日でも出勤するのはすごいなぁ。…休みの所がほとんどなのに)
他の曜日に代休を取るとの事だったが、土曜日に事務所が開いている…それだけで世の中に対する貢献度が高い気がしてくる。
平日ではなく土曜日がいい人もいるだろうし、この業種に限らず、二日間連絡が取れないと不安になることはおしなべて誰しもあるだろう。
『え? これ以上無償労働するの? 奇特なやつだなぁ』と言っていた芹沢に、見せてやりたい。
しかも所長は、クライアントと会う約束があるそうで、九時半には忙しそうに出掛けて行った。
もう一人の弁護士も、続いて出掛けていく。
土曜日とは思えない光景だ。
平日の体験だけでは感じられない、生の現場を見た気がした。
「やってるやってる」
午後になって安達が出掛けたと思ったら、白い大きめの箱を持って帰って来た。フランス語? だろうか、あいにく二外はドイツ語選択だったのでまったくわからないけれど、筆記体で店名がロゴと共に横に印刷されていた。
一人いた職員は、申し訳なさそうに予定があるからと一時くらいには帰って行き、千紘はひとりでお留守番をしながら、なにかあったらイヤだなぁと思っていたところだったのでほっとした。もうそろそろ安達も帰って来る頃だからと言い残していった事務員の言葉通りだった。
「差し入れ、買ってきたわ。キリがついたら食べましょう」
笑顔で箱を胸の辺りまで掲げて、楽しみで仕方がないというスイーツを前にした女子特有の顔をしている。
箱を見てどう見ても中身はケーキだろうとピンと来て、千紘も疲れて集中力を欠いてきた頃だったので、反射的に大きな声で元気よく礼を言った。
「ありがとうございます!」
「ケーキなんだけど……、甘いもの大丈夫?」
「大丈夫です。どちらかというと、甘党です。お酒は弱くて……」
「そうなの?」
安達は、はいと頷いた千紘の目の前で、大事そうに箱をそっと開けて中身を見せた。
「……よかった。私が食べたかったから、買って来ちゃったんだけど…」
「僕も嬉しいです。ご馳走になります」
覗き込むと、まるで光り物が好きな子供の宝石箱を開けたときのように色とりどりのフルーツに彩られたタルトのピースが行儀よく並んでいた。
「ふふ、ここのは何でもおいしいの。好きなの取って」
「おいしそうですね。……悩むなぁ」
「好きなだけ食べるといいわ」
言い残して安達が給湯室に消えると、千紘は続きに取り掛かった。
なんとか終わりが見えてきていた。もう少しで解放されるだろう。
「食べられそう?」
「はい。いただきます」
安達が入れてくれたコーヒーを飲みながら、ブルーベリータルトをいただく。
バニラビーンズが混ざったカスタードがちょうど良い甘さで、大きめのブルベリーの酸味とぴったりだ。生地もサクサク香ばしい。バニラの甘い香りが鼻をくすぐる。千紘が好きな味だった。
「おいしいですね~。脳に、糖分が行き渡ります」
「でしょう? 良かった。嫌いじゃなくて」
「こちらこそ、ありがたいです。めちゃくちゃご褒美ですよ」
気を抜くと、もぐもぐと一心不乱に食べてしまいそうだ。
「どう? 終わりそう?」
千紘のおいしそうに頬張る顔を見て、嬉しそうに千紘を見つめて安達はほほ笑むと進捗を聞いてきた。
「はい、もうちょっとで終わりそうです」
「食べたらまた、がんりましょう」
「今はこっちに集中ですね」
笑い合ってふたりで幸せな甘さに蕩けていたら、後から声が聞こえた。
「いい香りだな」
(この声…!)
即座に体の方が先に反応して振り向くと、一之瀬が入り口から入ってきた。
エクスターンシップの最終日、城井と地裁から帰って来ると、もう一之瀬はいなかった。
そのままもう事務所で会うこともないのだろうなと思って、なんとなく寂しく残念な気持ちでいた。
「……先生、今お帰りですか。…お疲れ様です」
安達も突然声を掛けられ少し驚いた様子だ。
「……お疲れ様です」
千紘は口に入っているものを急いで飲み込み、手で口を覆いながら言った。
一之瀬はどこかへ寄ってから来たようだった。
お疲れ様と笑顔で返しながら、一之瀬はゆっくりとこちらへ向かって歩いてくる。
数日ぶりに会った一之瀬は、相変わらずスーツを完璧に着こなしていて、立っているだけでモデルのようだった。
今日のスーツは、襟付きのラペルドベストのスリーピースだった。ジャケットからのぞく襟のおかげでVゾーンがより立体的に見えて、一之瀬の上品な顔を際立たせていて最高にかっこよかった。
(……ん?)
自然に一之瀬に見蕩れ、その上かっこいいと思っている自分に千紘は気づく。
「……おいそうなもの、食べてるね」
一之瀬はふたりの傍まで来て、のぞき込むようにタルトの載った皿を見た。
「よろしかったら召し上がりませんか?」
「いや、甘いものは苦手でね」
「そうでしたね」
なぜだか、この何の変哲もないふたりの会話に、千紘の心が反応してイラッとした。
安達の『そうでしたね』というたった一言が、重みをもって千紘にのしかかってきた。
――千紘の知らない一之瀬を、安達は知っているんだ。
それどころではない。毎日顔を見て話をして、出来事も把握して、同じ場所で同じ空間を共有して…、好みも熟知していて……どんどんと暗雲が千紘の心に広がっていく。そう考えれば考えるほど捉えられ、千紘の苛立ちは増して行った。
「舛森君、仕事の方はどう?」
急に名前を呼ばれ、自分の中の黒い感情を見られたかと思って千紘は慌てた。思わず大きな声で返事をし、答えてしまった。
「はいっ。もう少しで終わります」
「頑張るね。じゃあ、舛森君の仕事が終わったら、皆でなにか食べに行かないか。ご褒美におごるよ」
「本当ですか!」
千紘より先に安達が喜んだ。
「ああ、なにが食べたいか考えておいてくれ」
「はーい!」
「ありがとうございます」
千紘は安達に一歩遅れて、一之瀬に礼を言った。
上機嫌の安達を見て、俺へのご褒美なのに……と、千紘は内心穏やかではなかった。
安達はいい人だ。パワフルで仕事もできるし、早い。千紘にも丁寧に教えてくれる。こうしてご馳走までしてくれた。
でも理性でそう考えても、心の暗雲は勢いを増す一方で収まらなかった。
「先生、コーヒーをお入れしましょうか?」
安達の言葉に、一之瀬が頷く。
「頼むよ」
言い残して一之瀬はミーティングルームに消えた。その背中を千紘は我知らずに、じっと湿り気を持った目で追っていた。
(やばいやばい)
そう思って、いつまでも未練たらしい視線に区切りをつける。
ケリをつけた直後に、安達に言われた。
「先生、甘いものは苦手のクセに、コーヒーはミルクと砂糖たっぷり入れるのよ。不思議でしょう?」
安達は笑って千紘に囁くように言い残し、給湯室に消えた。
心がさらにざわついた。
安達に悪気がないのはわかっている。会話だって、ごくごく一般的なものだ。
でも、一之瀬の好みを他人から、しかも安達から教えられたことに、引っ掛かりを感じたのだ。
これ以上考えたら後戻りできなくなると千紘は感じた。
職場の仲間なのだからそれを知っているのも当然なのだろう。好みを知るのも安達の仕事のうちだ。
そう自分に言い聞かせて、無理やり千紘は仕事に戻った。
気持ちや考えを忘れ去るように仕事を進め、千紘は最後の仕上げ確認をして、保存ボタンを押した。
なんとか集中できた。今まで難しかったのが嘘のようだった。
最近心を乱してきた相手がいつでも視界に入るところにいると感じられ、安心したからかもしれない。
「終わりましたー!」
全部終わると、千紘は大きく伸びをした。
「すっごい、頑張ったわね」
「ありがとうございまーす」
伸びをしたままの間の抜けた返事になった。
「一之瀬先生に、声を掛けてくるわね」
「はい」
千紘は複雑な気持ちで安達を見送った。
このあとに一之瀬との食事が待っている。
嬉しい、そう思う単純な自分と、安達を一之瀬のもとへ行かせたくないという自分。二つの自分が一瞬にしてせめぎ合った。
(なんなんだろう? この気持ちは)
千紘は自然と胸に手を当てていた。
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