【本編完結】水曜日の迷いごと

咲月千日月

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垂れ込める暗雲に幕電光る 第九日目 - ③

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 その日は五限の授業の後、いつものように自習室には行く気になれなかった。
 誰かがしているかもしれない一之瀬の噂を聞きたくなかったし、千紘の耳にも『ねぇ、聞いた?』と言って、また誰かがその話を入れてくるかもしれないとも思った。
 顔を合わせた人に普通に挨拶をする余力さえもない。
 なによりも心が、千紘のいうことを聞いてくれなかった。
 なので極力誰にも会わないようにして、自分の部屋へ真っ直ぐに帰った。


 せっかく昨日綺麗に掃除をしたのに、鞄を放り投げるように置き、シャツは脱いでそのままソファの背に投げ捨て、Tシャツ姿になった。
 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出し、そのまま口を付けると机の上に置き、ソファに横になった。

(疲れた)

 考えるのに、疲れた。
 不安はどこから来るのか、とめどなく湧いてくる。それに付き合うのも疲れた。
 独占欲にも嫉妬にも、疲れた。
 色々な感情には疲れているのに、なのに不思議と、好きだという感情だけは疲れてくれない。
 だから余計に疲れるのだろう。

 額に腕を置き目を瞑って、息を長く大量に吐き出した。そして深く息を吸う。
 頭を空っぽにするように呼吸していたら、いつの間にか寝ていた。



 小一時間ほど寝ていたようだ。
 目が覚めると、すっかり日が暮れていた。

 ごそごそと千紘は起き出すと、冷蔵庫を覗く。
 食欲は湧かなかったが、何も食べないと身体に支障が出るので、チューブのゼリー飲料を取り出して無理やり口に流し込んだ。 

 そして重い身体を引きずって風呂場へ行き、シャワーを浴びる。
 昨日の、風呂で浮かれていた自分が嘘みたいだ。
 鏡は見ないように徹底した。一之瀬がつけた身体の刻印を見れば、苦しくなるのが目に見えてわかっていたからだ。



 そして夜、悶々として机に向かっていると、かたわらのスマホのバイブが振動した。

 一之瀬だ。

 待ちわびた相手からの着信に反射的に一瞬表情が緩みかけ、慌てて千紘は喝を入れる。
 辛くても、"一之瀬"という文字を見ただけで自分はこうなるのかと自分で驚いた。
 まずは聞きたいことがあるのだった。

「先生!」
「水樹、だろ?」

 息せき切らして通話ボタンを押し叫ぶと、すかさず訂正された。

「……水樹…さん」
「うん。どうだ? 順調か?」
「ええ。まぁ……」
「歯切れが悪いな。順調じやないんだな。なにか言いたいことでもあるのか?」

 言い当てられて、おずおずと千紘は聞いた。

「あの、噂が……」
「ああ…。クビになるんじゃないかって?」
「はい。あの人たちの嫌がらせですか」
「そうだろうなぁ。他に心当たりはないからな」

 やっぱり、そうだ。信じていて良かった。

「辞めないですよね?」
「当たり前だろ。そんな根も葉もない噂を誰が信じる?」
「そうですよね、安心しました。でも、アイツ等は大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫。千紘は心配することない。こういうことは慣れてるから。弁護士会に懲戒請求されたこともあるしな」
「ええっ?!」
「だから心配ないって」

(ああ、そうか。そういう世界にこの人は生きているんだ)

「強いんですね、水樹さんは」
「慣れだよ。千紘もそうなる」
「俺も?」

(こんなぐるぐるしているのに?)

「ああ。俺が見込んだんだ。きっと大丈夫」

「……はい」

 勇気を、もらった気がした。
 何ものにも変えがたく、何より必要なもの。

「自信を持てよ。大丈夫だ」
「………は、い」
「ん? …どうした? まだなにかあるのか?」
「………」

(気づくんだ…。返事の仕方だけで)

 胸がぎゅっと締め付けられ、気持ちがとめどなく溢れ出す。これが、一之瀬だ。俺の好きになった人だ。

「どうした? なにか、あった?」
「…あの…安達さんとのこと、聞きました」
 
 思い切って聞いた。

「本心は、それだな」
「…はい」
「付き合ってもいないし、結婚する気もない。お見合いもしたことないぞ。ただの同僚だ。安達教授には打診されたことはあるが、断った」 
「そう…ですか…」
「なんだ? 信用ないんだな、俺」
「っ! いや! …そんなこと…」
「あのな、土曜の夜のこと、忘れたのか」
「覚えて…ます」
「もっと、身体の隅々まで…わからせないと駄目かな」

 妖艶なトーンで言われた。

「首すじも、鎖骨も胸も身体も、よく見ろ。何がある?」
「キス…マーク」
「誰が付けた?」 
「水樹さん…」
「自分で"気持ちがいい"って、言ったところはわかったか?」
「…わかり…ません…」
「今度はキスしたところ全部、気持ちいいって言わせる」
「ん…!」
「全身に、嫌っていうほどマーキングしてやる」
「なっ…! 洋服で隠れないところはダメです」 
「他はいいんだな?」
「っ…!」

 やられた。

「ははっ! また、連絡するから。覚悟しとけよ。千紘も遠慮せず掛けて来てくれ」
「あの、時間帯とかは?」
「千紘の思うがままに」
「またっ!」
「はは! そろそろ行かないと」
「はい。お仕事、頑張って下さい」
「何よりの応援だな」
「……」
「もう怒らないのか」
「慣れました」
「それは学習能力が高くて結構」
「お褒めにあずかり光栄です」
「千紘もな」
「はい?」
「頑張れよ、勉強。なんか色々考えてるだろ。忘れろ、今は」
「……どうして」

(どうして、知って?)

「見てたって、言ったろ?」
「水樹さん……」

 また一之瀬への想いが溢れてくるのがわかった。

「お礼は次回に会った時に、倍返しで」
「…こんなユニークな人だとは知りませんでした」
「見た目で人を判断しないことだ。一つ勉強になったな」
「そうですね」

 敵わない。この人には。

「じゃあ、また」
「はい、また」

 千紘はツーツーと切れた音を聞き、耳から離すとそっとスマホを見た。

(この人に近づきたい)

 もっと、もっと。
 今はそれが、俺の真実だ。

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