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12巻
12-3
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「あと最後に別件がひとつ。クウェイン海域の件とは別に、船大工のジグマ氏から指名依頼が入っています」
「指名依頼ですか?」
わざわざ依頼を出すようなことがあったのかと、シンは手渡された依頼書に目を通す。
内容を要約すると、新しい船の建造に協力してほしいということだった。
一応というべきか、魔導船舶に関することは書かれていない。事情を知らなければ、冒険者に足りない素材を取ってきてもらうという類の依頼だと、ギルドも判断するだろう。
しかし、ジグマのことを知っているシンからすれば、要求されているのが別のものだということはすぐにわかった。
「シン様が来た際は必ず渡すようにと、担当した受付にすごい剣幕で迫っていたらしいです。何かあったんでしょうか」
「ジグマさん……」
何やってんだと、シンは心の中でツッコミを入れた。
「とりあえず、後で伺うつもりだったので、そのときにでも聞いておきますよ。受けるかどうかはそれから決めようと思います」
「わかりました。シン様にお渡しするものは、これですべてです。お疲れ様でした」
「では、俺はこれで」
軽く会釈して、シンはギルドを出る。
シュニーがまだいるかもしれないと、軽く市場でも見ながら帰ることにした。
†
シンがギルドで話をしているころ、シュニーは1人、市場を歩いていた。
自前の幻影スキルで変装しているので正体がばれることはないが、やはりというべきか、かなりの頻度ですれ違う人が視線を向けてくる。
姿を変えても美人だからな、とシンに言われたのを思い出し、口元に小さな笑みが浮かぶ。
しかし、その笑みも長くは続かなかった。
「……はぁ」
つい、ため息が出てしまう。
シンの前では表情に出さないように努めていた。その反動か、気が緩むと気分が沈む。
今までも、極まれにだが、そういうことはあった。最近は、というよりほんの1日前からは、それが頻繁にある。
『深海古城』でイシュカーと戦ったときの、壁に阻まれたことが原因なのは明白だ。
ティエラがユズハ、カゲロウとともにシンを手助けし、イシュカーが倒されるまで、シュニーは壁を突破することができなかった。
まるで不動の大地に向けて攻撃をしているような、けっして貫けないと思わざるを得ないほどの堅牢さに、手も足も出なかったのだ。
至伝クラスの武芸スキルさえ跳ね返したあの壁を、今のシュニーに突破する術はない。
だがこれから先、同じようにシンと自分を分断する敵が現れる可能性は十分にあった。
そうなったとき、シンを助けられるメンバーの中に、シュニーは入ることができない。
「…………」
もくもくと食材を選び、購入し、人目に付かないようにアイテムボックスへしまう。その間も、シュニーは考え続けていた。
しかしその思考は違う方向へ逸れ始める。シュニーにとって、気にせずにはいられないことが他にもあるからだ。
イシュカーの言った、望まぬ帰還という言葉。あれは、シンが元の世界に戻れるということを示しているのではないか。
その可能性については、当然シンも気づいているだろう。
亡霊平原で再会したとき、シンはシュニーの「元の世界に戻れるとしたら戻るのか?」という問いを肯定した。
今回はイシュカーの言葉に乗ることはなかったが、もし安全に元の世界に戻る手段が見つかったとしたら、シンはどちらを選択するのだろうか。
「シンには、戻る、理由がある」
マリノの遺言がある。残してきた家族や友人、他にも関わりを持った人がいるだろう。
向こうはシンの故郷で、本来いるべき場所。今この世界にいることこそが、イレギュラーだとシュニーも理解している。
「ここに残る理由は……」
――ある。
そう、言葉に出して言おうとした。
この世界にも、シンが残るべき理由がある。向こうと天秤にかけられるだけのものがある。
自分がその理由になる。そう、言いたかった。
しかし、シュニーの口から、その言葉が出ることはない。
わずかに開いた口からは、吐息だけが漏れる。
「私は、シンのことが――」
好き。大好き。
愛していると胸を張って言える。
だが、その逆はどうだろうか?
シンは、自分のことをどう思っているのだろうか。
明確に意思表示しているシュニーと違って、シンはそういうことをほとんど口にしない。困ったように、申し訳なさそうに笑うことが多い。
――帰ろうと思わなくなるくらい、あなたに釘付けにするしかないわ。
フィルマに言われた言葉がシュニーを悩ませる。
自分の外見は、シンが設定したものだ。設定当初の反応を見る限り、シンの好みを突き詰めているのは間違いない。
胸元に感じる視線は勘違いではないはずだし、自分から好意を向けられて悪い気はしていないはずだ。
フィルマが冗談半分に言っていた、抱いてと迫るやり方も、もしかすると成功するかもしれない。
しかし、それが成功したとして、本当にシンをつなぎとめていられるのだろうか?
ゲーム時代、恋人だったマリノとは、システム上の制約もあって肉体的接触を制限されていた。それでも、シュニーから見た2人は、本当に愛し合っていたと断言できる。
アバターと呼ばれる肉体は、外見を作り変えることもできたという。
つまり、胸襟を開くのに見た目は当てにならない。
ならば2人をつないでいたのは、体ではなく心。安易に触れることのできない深い部分で、互いを求めていたのだ。
顔が好みだから、スタイルで勝っているからと自分の体を差し出したところで、シンを引き留めておけるとはシュニーには思えなかった。
「私は……」
どうしたいのだろうか。
シンにどうしてほしいのだろうか。
願いだけならいくらでも出てくる。
幸せになってほしい。
笑顔を見せてほしい。
抱きしめてほしい。
キスをしてほしい。
自分だけを見てほしい。
自分だけを求めてほしい。
願いというよりは、欲といったほうがいいだろう。しかし、それはシュニーの本心だった。
気持ちが乱れているからか、好きな人を一人占めにしたいという独占欲が顔を覗かせてくる。同時に、シンの恋人だったマリノのことも思い出す。
自分もあのようになりたい。そう思える存在。
恋人になり、愛し合うに至ったマリノを参考に、考え、考え、考えて、気づく。
マリノにもっとも近いところにいるのが、ティエラだということに。
「…………」
シンも気づいているのかもしれないが、ティエラの中か、近いところに、マリノの影がちらついている。
『黒巫女神社』での口付け、イシュカーとの戦闘で見せた壁抜け。おそらく、シュニーの知らないところでも、何かある、あったはずだ。
もし、マリノがティエラに協力したのなら、シンの心は、ティエラに向かうかもしれない。
ティエラの様子を見ていれば、マリノのことがなくとも、シンを憎からず思っているのは明白だ。
自覚しているのか、いないのか。ティエラの視線は、シュニーに負けない頻度でシンに向いている。
それがわかるくらいには、自分も周囲に気を配っているのだ。
「……何を考えているんでしょうか。私は」
おかしな方向に思考が飛んでいる。考えが纏まっていない。
それを自覚して、シュニーはもう一度ため息をついた。
考え事をしながら歩いていたからだろう。気がつけば、シュニーはバルバトスの街を見下ろせる丘の上にいた。
眺めのいいスポットとして整備されているようで、ちょっとした遊具やベンチが設置されている。
「思ったより人気がないですね」
これだけ眺めのいい場所だ。昼時にはまだ早い時間帯。
初めて来る場所なので断言はできないが、それでもまったく人の気配がしないのは違和感があった。
シュニーが訝しんでいると、丘の上に向かって進んでくる人の気配を捉える。ゆっくりと歩いてくる誰か。その誰かがいる方向に、シュニーは視線を向けた。
「見られている?」
【透視】を使っているのだろう。姿の見えない相手の視線を、シュニーは確かに感じていた。
シュニーも【透視】を使い、相手の姿を確認する。
「まさか!?」
向かってくる相手の姿を見て、シュニーは驚いた。
煌びやかな装飾の紳士服を着込み、真っ白な頭髪の上には金の縁取りがされたシルクハット。
白い手袋をした手にはステッキが握られ、紳士然とした外見だ。
甘いマスクには少年のような無邪気な笑みが浮かんでいる。だが、細められた薄茶色の目がまったく笑っていないことに、シュニーは気づいていた。
変装せず、周囲を警戒する素振りも見せず、大陸中で指名手配されている凶悪犯ハーメルンが、まっすぐに丘の上へと歩を進めてくる。
それを見たシュニーは、すぐにシンたちに心話をつなげた。
『ハーメルンを見つけました。もうすぐ接触します』
驚くシンたちに、手早く場所を伝える。見た限りモンスターは出現していない。可能なら、この場で倒したいところだ。
しかし気になるのは、なぜこんな白昼堂々シュニーの前に現れたのかということ。
『狩人』や『忍』などの斥候職は、視覚に関係するスキルを感知する能力が高いとされていた。
実際、職業や種族ごとの隠しステータスではないかと、プレイヤー間で検証された経緯がある。
『忍』の女性バージョン『くノ一』であるシュニー相手に【透視】を何の対策もなく使うことは、自分の居場所を教えているようなもの。
ハーメルンはそれを知っているはずなので、何か企んでいると考えるのも当然だった。
「おや、待っていてくれるとは驚きです。奇襲でもしてくるかと思っていましたが」
体全体で驚きを表現するハーメルン。
変装中にもかかわらずシュニーだと見破ってくるあたり、さすがはシンと同じ元プレイヤーといったところか。
「完全に捕捉されている状況では、あまり意味がないことは知っているでしょう。一応聞いておきます。狙いは何ですか?」
シンたちが来るまでの時間稼ぎに、シュニーはハーメルンの会話に付き合う。シュバイドやフィルマは多少時間がかかるだろうが、シンの足なら数分で着くはずだ。
「狙いですか。強いて言うなら、あなたですね」
「私?」
「ええ、せっかくシン君がこの世界に来たのですから。気になっていたことを、試してみようかと思いましてね」
ステッキを持った左手の反対側、何も持っていなかったはずの右手に、1枚のカードが出現する。
それを見たシュニーは、瞬時に『蒼月』を構えて距離を取った。
アイテムカード以外にも、魔術スキルを封じた攻撃用のカードがある。
「警戒させてしまいましたか。安心してください。ただの手品ですよ。私はあなたに危害を加える気はありません。それでは意味がありませんから」
訝しむシュニーに、ハーメルンは笑みを深めた。ハーメルンがその手の中にあったカードをシュニーに向ける。すると、カードが消滅しシュニーの体が光り出した。
「!?」
突然発光し出した体を見たシュニーは、考えるより先に動いていた。ハーメルンとの距離を一息で詰め、躊躇いなく『蒼月』を振るう。
「いや、はや、以前とは別物の速さですね。武器も強化されている」
シュニーの一閃から逃れたハーメルンが、肘から先のなくなった左腕を押さえながら数歩下がる。防御のために使ったステッキは、真っ二つになって転がっていた。
「アイテムの効果が出ていなければ、やられているところです。甘く見すぎましたね。今後の課題にさせてもらいますよ」
片腕を失ったとは思えない口調で、ハーメルンは言う。
ゲームだった頃は、動きの自由度やAIの性能もあり、ハーメルンのほうに軍配が上がっただろう。
しかし今の攻防を見れば、シュニーでもハーメルンを倒すことは可能に思えた。
だが、今のシュニーにその余裕はなかった。
「何を……した……!」
体から力が抜ける。
それだけではない。何か、かけがえのないものが消えていく感覚がある。
明確な言葉にはできない。
しかし、無視することなど不可能。
目の前にいるハーメルンよりも、全身を覆う未知の感覚のほうが恐ろしかった。
「プレイヤーでなければ、これが何なのか知ることはほぼないでしょうね。まあ、隠す必要もないので教えて差し上げましょう。もしかするとあなたも一度経験しているかもしれませんが、これはサポートキャラクターの好感度をリセットするアイテムです。ゲームでは自分のサポートキャラクターにしか効果はなかったのですが、この世界ではそういうわけでもないようでして」
ハーメルンの言うアイテムに、シュニーは聞き覚えがない。しかし、それが自分にとって致命的に相性が悪いことだけは、直感的に理解していた。
「く……ぁ……」
体が光り出してまだ数秒。だというのに、もう話すこともできない。
シュニーの手から、『蒼月』が落ちる。
小石に当たってかつんと音を立てるそれに目を向けるより先に、頭部に衝撃を感じた。そして、シュニーは自分が地面に倒れていることに気づいた。
「さて、目的は果たしましたし、そろそ――――しましょう。他のサポ――――――――も試したい――手もちもあり――――結果を楽しみ――――もらいます。できるこ――――トキャラクターと同じ結果には――」
ハーメルンの言葉が、途切れ途切れに聞こえた。
意識が霞んでいく。
目を開けていられない。
「シュニィィイイイイッ!!」
意識を失う寸前、誰かの声が、聞こえた気がした。
†
時は少し遡る。
ギルドでの用事を終えたシンとユズハは、その足で市場に向かっていた。
店員相手に値切り交渉をしているヒューマンの女性、屋台を物色している魚人の男性、通りを歩く人々に呼び込みをしている人魚の女性、魚の臭いが気になるのか顔をしかめているビーストの男性など、さまざまな人々でごった返す市場はとても活気に溢れている。
シンが何とはなしに適当な店を覗いてみると、食材としてよく知っている魚から、ゲーム時代には見たこともない魚まで、これまた多種多様な品々が並んでいた。
魚以外にも貝類や海草、干物など、海に面した都市ならではの商品が所狭しと並べられ、目を楽しませてくれる。
『どれも、おいしそう』
『見た目すごいのがいるな。あれ食えるのか?』
この世界にも見た目と味が一致していない生き物は多い。とりわけ海の生き物はその傾向が強かった。店頭に並んでいる以上、少なくとも食べられるのは間違いないはずだ。
『空腹』
『昼までもう少しある。我慢だ』
『くぅ……』
頭の上でくてっと脱力するユズハ。前脚と頭で前が見えなくなったので、胴に手を回してシンの左肩に移す。
「ちょっと時間くったし、さすがにシュニーはいないか?」
市場の中心に近い通りを歩きながら、シンはマップに意識を向ける。シュニーがいたなら、マーカーの上に名前が表示されるはずだ。
しかし、移動するマーカーはどれも中立を示す緑だけ。シュニーの影も形もない。
マップの範囲を広げれば見つかるだろうが、市場にいないなら時雨屋に戻っているのだろうと思い、そこまではしなかった。
ただ時折、「金髪のとんでもない美人を見た」とか「あの体つきはやばい」とか、主に男たちの会話がシンの耳に入ってくる。
確証はないが、シュニーの変装した姿のことに違いない、とシンは思った。
なるべく気をつけてはいるが、シンでもついシュニーの胸元に視線がいってしまうことがある。
フィルマの情報によると、ゲーム時代よりさらに育っているとかいないとか。聞き捨てならない話である。
「っていかんいかん。真昼間から何考えてんだ」
男連中の思考に毒されている。シンは勢いよく頭を振って不埒な妄想を掻き消した。
『黒巫女神社』での抱擁、フジでの口付け、さらに『深海古城』で見せた水着姿。
シンも男だ。女性の持つ柔らかな感触と艶やかな水着姿を同時に思い出してしまうと、平常心ではいられない。
『くぅ、シン、スケベ』
「な!? ユ、ユズハ、いったい何を!」
まるでシンの考えを読んだかのようなユズハのセリフに、シンは心話も忘れて言葉を発していた。
『シュニー、美人。抱けばいい』
「そこは……いろいろあるんだよ」
シュニーに不満などない。かといって、元の世界に戻ることを目標としている手前、おいそれと手を出すことは憚られた。
半端に希望を持たせるのは残酷なことだとわかっている。それでも、ストレートに好意をぶつけてくるシュニーを拒めなかった。
いっそ元の世界に帰ることなど諦めて、この世界で生きると決められれば、シュニーとの問題は解決する。
だが、こちらに来た理由も定かではない状況だ。諦めた瞬間に元の世界に戻った、なんてことがあってはたまらない。
『シンはシュニーのこと、好き?』
「当ぜ……」
当然と言いかけて、周囲から奇異の視線を向けられていることに気づく。
端から見れば、シンは独り言をぶつぶつしゃべりながら歩いているようにしか見えないのだ。
『……当然だろ。ただまあ、ゲームだったころには好感度っていうものがあったからな。もしそれがシュニーの心に作用しているなら、俺がマインドコントロールしてるって見方もできるわけで』
会話を心話に切り替えて、シンは言った。
それは、フィルマやシュバイドといった他のサポートキャラにも言えることだ。
サポートキャラクターは、作製したばかりのころは最低限の忠誠心しか持っていない。
ただ店番させるだけ、といった目的ならそれでも構わないが、シンのサポートキャラクターのように戦闘もさせるとなれば話は別。
好感度が低いと、出せる指示に制限がかかるのだ。
行動をともにしたり好感度を上昇させるアイテムを使用したりして、一定以上の好感度に達するとその制限が解除されていく。
好感度がMAXになると、絆の証として『界の雫』の欠片が手に入る。サポートキャラクター1人につきひとつで、もらえるのは最大で5つ、5人分までだ。
すべて合わせても古代級の武具を打つにはとても足りないが、それでもレアアイテムには変わりない。
プレイヤーによっては、指輪やイヤリングなどにしてサポートキャラクターに渡す者もいた。
『シュニーの心を捻じ曲げてるんじゃないか。そう思うことが、あるんだよ』
好感度上昇アイテムを大量に渡して、一気に好感度を上げたこともある。
ゲームなら、ただ数値の上昇だけを気にしていればいい。指示の制限を解除するため、アイテムを手に入れるため。すべては自分のためだ。
しかしこの世界は現実で、ゲームの影響をシュニーが受けているとしたら――。
シュニーを見ていて、シンの中にそんな思いが生じ始めていた。
「指名依頼ですか?」
わざわざ依頼を出すようなことがあったのかと、シンは手渡された依頼書に目を通す。
内容を要約すると、新しい船の建造に協力してほしいということだった。
一応というべきか、魔導船舶に関することは書かれていない。事情を知らなければ、冒険者に足りない素材を取ってきてもらうという類の依頼だと、ギルドも判断するだろう。
しかし、ジグマのことを知っているシンからすれば、要求されているのが別のものだということはすぐにわかった。
「シン様が来た際は必ず渡すようにと、担当した受付にすごい剣幕で迫っていたらしいです。何かあったんでしょうか」
「ジグマさん……」
何やってんだと、シンは心の中でツッコミを入れた。
「とりあえず、後で伺うつもりだったので、そのときにでも聞いておきますよ。受けるかどうかはそれから決めようと思います」
「わかりました。シン様にお渡しするものは、これですべてです。お疲れ様でした」
「では、俺はこれで」
軽く会釈して、シンはギルドを出る。
シュニーがまだいるかもしれないと、軽く市場でも見ながら帰ることにした。
†
シンがギルドで話をしているころ、シュニーは1人、市場を歩いていた。
自前の幻影スキルで変装しているので正体がばれることはないが、やはりというべきか、かなりの頻度ですれ違う人が視線を向けてくる。
姿を変えても美人だからな、とシンに言われたのを思い出し、口元に小さな笑みが浮かぶ。
しかし、その笑みも長くは続かなかった。
「……はぁ」
つい、ため息が出てしまう。
シンの前では表情に出さないように努めていた。その反動か、気が緩むと気分が沈む。
今までも、極まれにだが、そういうことはあった。最近は、というよりほんの1日前からは、それが頻繁にある。
『深海古城』でイシュカーと戦ったときの、壁に阻まれたことが原因なのは明白だ。
ティエラがユズハ、カゲロウとともにシンを手助けし、イシュカーが倒されるまで、シュニーは壁を突破することができなかった。
まるで不動の大地に向けて攻撃をしているような、けっして貫けないと思わざるを得ないほどの堅牢さに、手も足も出なかったのだ。
至伝クラスの武芸スキルさえ跳ね返したあの壁を、今のシュニーに突破する術はない。
だがこれから先、同じようにシンと自分を分断する敵が現れる可能性は十分にあった。
そうなったとき、シンを助けられるメンバーの中に、シュニーは入ることができない。
「…………」
もくもくと食材を選び、購入し、人目に付かないようにアイテムボックスへしまう。その間も、シュニーは考え続けていた。
しかしその思考は違う方向へ逸れ始める。シュニーにとって、気にせずにはいられないことが他にもあるからだ。
イシュカーの言った、望まぬ帰還という言葉。あれは、シンが元の世界に戻れるということを示しているのではないか。
その可能性については、当然シンも気づいているだろう。
亡霊平原で再会したとき、シンはシュニーの「元の世界に戻れるとしたら戻るのか?」という問いを肯定した。
今回はイシュカーの言葉に乗ることはなかったが、もし安全に元の世界に戻る手段が見つかったとしたら、シンはどちらを選択するのだろうか。
「シンには、戻る、理由がある」
マリノの遺言がある。残してきた家族や友人、他にも関わりを持った人がいるだろう。
向こうはシンの故郷で、本来いるべき場所。今この世界にいることこそが、イレギュラーだとシュニーも理解している。
「ここに残る理由は……」
――ある。
そう、言葉に出して言おうとした。
この世界にも、シンが残るべき理由がある。向こうと天秤にかけられるだけのものがある。
自分がその理由になる。そう、言いたかった。
しかし、シュニーの口から、その言葉が出ることはない。
わずかに開いた口からは、吐息だけが漏れる。
「私は、シンのことが――」
好き。大好き。
愛していると胸を張って言える。
だが、その逆はどうだろうか?
シンは、自分のことをどう思っているのだろうか。
明確に意思表示しているシュニーと違って、シンはそういうことをほとんど口にしない。困ったように、申し訳なさそうに笑うことが多い。
――帰ろうと思わなくなるくらい、あなたに釘付けにするしかないわ。
フィルマに言われた言葉がシュニーを悩ませる。
自分の外見は、シンが設定したものだ。設定当初の反応を見る限り、シンの好みを突き詰めているのは間違いない。
胸元に感じる視線は勘違いではないはずだし、自分から好意を向けられて悪い気はしていないはずだ。
フィルマが冗談半分に言っていた、抱いてと迫るやり方も、もしかすると成功するかもしれない。
しかし、それが成功したとして、本当にシンをつなぎとめていられるのだろうか?
ゲーム時代、恋人だったマリノとは、システム上の制約もあって肉体的接触を制限されていた。それでも、シュニーから見た2人は、本当に愛し合っていたと断言できる。
アバターと呼ばれる肉体は、外見を作り変えることもできたという。
つまり、胸襟を開くのに見た目は当てにならない。
ならば2人をつないでいたのは、体ではなく心。安易に触れることのできない深い部分で、互いを求めていたのだ。
顔が好みだから、スタイルで勝っているからと自分の体を差し出したところで、シンを引き留めておけるとはシュニーには思えなかった。
「私は……」
どうしたいのだろうか。
シンにどうしてほしいのだろうか。
願いだけならいくらでも出てくる。
幸せになってほしい。
笑顔を見せてほしい。
抱きしめてほしい。
キスをしてほしい。
自分だけを見てほしい。
自分だけを求めてほしい。
願いというよりは、欲といったほうがいいだろう。しかし、それはシュニーの本心だった。
気持ちが乱れているからか、好きな人を一人占めにしたいという独占欲が顔を覗かせてくる。同時に、シンの恋人だったマリノのことも思い出す。
自分もあのようになりたい。そう思える存在。
恋人になり、愛し合うに至ったマリノを参考に、考え、考え、考えて、気づく。
マリノにもっとも近いところにいるのが、ティエラだということに。
「…………」
シンも気づいているのかもしれないが、ティエラの中か、近いところに、マリノの影がちらついている。
『黒巫女神社』での口付け、イシュカーとの戦闘で見せた壁抜け。おそらく、シュニーの知らないところでも、何かある、あったはずだ。
もし、マリノがティエラに協力したのなら、シンの心は、ティエラに向かうかもしれない。
ティエラの様子を見ていれば、マリノのことがなくとも、シンを憎からず思っているのは明白だ。
自覚しているのか、いないのか。ティエラの視線は、シュニーに負けない頻度でシンに向いている。
それがわかるくらいには、自分も周囲に気を配っているのだ。
「……何を考えているんでしょうか。私は」
おかしな方向に思考が飛んでいる。考えが纏まっていない。
それを自覚して、シュニーはもう一度ため息をついた。
考え事をしながら歩いていたからだろう。気がつけば、シュニーはバルバトスの街を見下ろせる丘の上にいた。
眺めのいいスポットとして整備されているようで、ちょっとした遊具やベンチが設置されている。
「思ったより人気がないですね」
これだけ眺めのいい場所だ。昼時にはまだ早い時間帯。
初めて来る場所なので断言はできないが、それでもまったく人の気配がしないのは違和感があった。
シュニーが訝しんでいると、丘の上に向かって進んでくる人の気配を捉える。ゆっくりと歩いてくる誰か。その誰かがいる方向に、シュニーは視線を向けた。
「見られている?」
【透視】を使っているのだろう。姿の見えない相手の視線を、シュニーは確かに感じていた。
シュニーも【透視】を使い、相手の姿を確認する。
「まさか!?」
向かってくる相手の姿を見て、シュニーは驚いた。
煌びやかな装飾の紳士服を着込み、真っ白な頭髪の上には金の縁取りがされたシルクハット。
白い手袋をした手にはステッキが握られ、紳士然とした外見だ。
甘いマスクには少年のような無邪気な笑みが浮かんでいる。だが、細められた薄茶色の目がまったく笑っていないことに、シュニーは気づいていた。
変装せず、周囲を警戒する素振りも見せず、大陸中で指名手配されている凶悪犯ハーメルンが、まっすぐに丘の上へと歩を進めてくる。
それを見たシュニーは、すぐにシンたちに心話をつなげた。
『ハーメルンを見つけました。もうすぐ接触します』
驚くシンたちに、手早く場所を伝える。見た限りモンスターは出現していない。可能なら、この場で倒したいところだ。
しかし気になるのは、なぜこんな白昼堂々シュニーの前に現れたのかということ。
『狩人』や『忍』などの斥候職は、視覚に関係するスキルを感知する能力が高いとされていた。
実際、職業や種族ごとの隠しステータスではないかと、プレイヤー間で検証された経緯がある。
『忍』の女性バージョン『くノ一』であるシュニー相手に【透視】を何の対策もなく使うことは、自分の居場所を教えているようなもの。
ハーメルンはそれを知っているはずなので、何か企んでいると考えるのも当然だった。
「おや、待っていてくれるとは驚きです。奇襲でもしてくるかと思っていましたが」
体全体で驚きを表現するハーメルン。
変装中にもかかわらずシュニーだと見破ってくるあたり、さすがはシンと同じ元プレイヤーといったところか。
「完全に捕捉されている状況では、あまり意味がないことは知っているでしょう。一応聞いておきます。狙いは何ですか?」
シンたちが来るまでの時間稼ぎに、シュニーはハーメルンの会話に付き合う。シュバイドやフィルマは多少時間がかかるだろうが、シンの足なら数分で着くはずだ。
「狙いですか。強いて言うなら、あなたですね」
「私?」
「ええ、せっかくシン君がこの世界に来たのですから。気になっていたことを、試してみようかと思いましてね」
ステッキを持った左手の反対側、何も持っていなかったはずの右手に、1枚のカードが出現する。
それを見たシュニーは、瞬時に『蒼月』を構えて距離を取った。
アイテムカード以外にも、魔術スキルを封じた攻撃用のカードがある。
「警戒させてしまいましたか。安心してください。ただの手品ですよ。私はあなたに危害を加える気はありません。それでは意味がありませんから」
訝しむシュニーに、ハーメルンは笑みを深めた。ハーメルンがその手の中にあったカードをシュニーに向ける。すると、カードが消滅しシュニーの体が光り出した。
「!?」
突然発光し出した体を見たシュニーは、考えるより先に動いていた。ハーメルンとの距離を一息で詰め、躊躇いなく『蒼月』を振るう。
「いや、はや、以前とは別物の速さですね。武器も強化されている」
シュニーの一閃から逃れたハーメルンが、肘から先のなくなった左腕を押さえながら数歩下がる。防御のために使ったステッキは、真っ二つになって転がっていた。
「アイテムの効果が出ていなければ、やられているところです。甘く見すぎましたね。今後の課題にさせてもらいますよ」
片腕を失ったとは思えない口調で、ハーメルンは言う。
ゲームだった頃は、動きの自由度やAIの性能もあり、ハーメルンのほうに軍配が上がっただろう。
しかし今の攻防を見れば、シュニーでもハーメルンを倒すことは可能に思えた。
だが、今のシュニーにその余裕はなかった。
「何を……した……!」
体から力が抜ける。
それだけではない。何か、かけがえのないものが消えていく感覚がある。
明確な言葉にはできない。
しかし、無視することなど不可能。
目の前にいるハーメルンよりも、全身を覆う未知の感覚のほうが恐ろしかった。
「プレイヤーでなければ、これが何なのか知ることはほぼないでしょうね。まあ、隠す必要もないので教えて差し上げましょう。もしかするとあなたも一度経験しているかもしれませんが、これはサポートキャラクターの好感度をリセットするアイテムです。ゲームでは自分のサポートキャラクターにしか効果はなかったのですが、この世界ではそういうわけでもないようでして」
ハーメルンの言うアイテムに、シュニーは聞き覚えがない。しかし、それが自分にとって致命的に相性が悪いことだけは、直感的に理解していた。
「く……ぁ……」
体が光り出してまだ数秒。だというのに、もう話すこともできない。
シュニーの手から、『蒼月』が落ちる。
小石に当たってかつんと音を立てるそれに目を向けるより先に、頭部に衝撃を感じた。そして、シュニーは自分が地面に倒れていることに気づいた。
「さて、目的は果たしましたし、そろそ――――しましょう。他のサポ――――――――も試したい――手もちもあり――――結果を楽しみ――――もらいます。できるこ――――トキャラクターと同じ結果には――」
ハーメルンの言葉が、途切れ途切れに聞こえた。
意識が霞んでいく。
目を開けていられない。
「シュニィィイイイイッ!!」
意識を失う寸前、誰かの声が、聞こえた気がした。
†
時は少し遡る。
ギルドでの用事を終えたシンとユズハは、その足で市場に向かっていた。
店員相手に値切り交渉をしているヒューマンの女性、屋台を物色している魚人の男性、通りを歩く人々に呼び込みをしている人魚の女性、魚の臭いが気になるのか顔をしかめているビーストの男性など、さまざまな人々でごった返す市場はとても活気に溢れている。
シンが何とはなしに適当な店を覗いてみると、食材としてよく知っている魚から、ゲーム時代には見たこともない魚まで、これまた多種多様な品々が並んでいた。
魚以外にも貝類や海草、干物など、海に面した都市ならではの商品が所狭しと並べられ、目を楽しませてくれる。
『どれも、おいしそう』
『見た目すごいのがいるな。あれ食えるのか?』
この世界にも見た目と味が一致していない生き物は多い。とりわけ海の生き物はその傾向が強かった。店頭に並んでいる以上、少なくとも食べられるのは間違いないはずだ。
『空腹』
『昼までもう少しある。我慢だ』
『くぅ……』
頭の上でくてっと脱力するユズハ。前脚と頭で前が見えなくなったので、胴に手を回してシンの左肩に移す。
「ちょっと時間くったし、さすがにシュニーはいないか?」
市場の中心に近い通りを歩きながら、シンはマップに意識を向ける。シュニーがいたなら、マーカーの上に名前が表示されるはずだ。
しかし、移動するマーカーはどれも中立を示す緑だけ。シュニーの影も形もない。
マップの範囲を広げれば見つかるだろうが、市場にいないなら時雨屋に戻っているのだろうと思い、そこまではしなかった。
ただ時折、「金髪のとんでもない美人を見た」とか「あの体つきはやばい」とか、主に男たちの会話がシンの耳に入ってくる。
確証はないが、シュニーの変装した姿のことに違いない、とシンは思った。
なるべく気をつけてはいるが、シンでもついシュニーの胸元に視線がいってしまうことがある。
フィルマの情報によると、ゲーム時代よりさらに育っているとかいないとか。聞き捨てならない話である。
「っていかんいかん。真昼間から何考えてんだ」
男連中の思考に毒されている。シンは勢いよく頭を振って不埒な妄想を掻き消した。
『黒巫女神社』での抱擁、フジでの口付け、さらに『深海古城』で見せた水着姿。
シンも男だ。女性の持つ柔らかな感触と艶やかな水着姿を同時に思い出してしまうと、平常心ではいられない。
『くぅ、シン、スケベ』
「な!? ユ、ユズハ、いったい何を!」
まるでシンの考えを読んだかのようなユズハのセリフに、シンは心話も忘れて言葉を発していた。
『シュニー、美人。抱けばいい』
「そこは……いろいろあるんだよ」
シュニーに不満などない。かといって、元の世界に戻ることを目標としている手前、おいそれと手を出すことは憚られた。
半端に希望を持たせるのは残酷なことだとわかっている。それでも、ストレートに好意をぶつけてくるシュニーを拒めなかった。
いっそ元の世界に帰ることなど諦めて、この世界で生きると決められれば、シュニーとの問題は解決する。
だが、こちらに来た理由も定かではない状況だ。諦めた瞬間に元の世界に戻った、なんてことがあってはたまらない。
『シンはシュニーのこと、好き?』
「当ぜ……」
当然と言いかけて、周囲から奇異の視線を向けられていることに気づく。
端から見れば、シンは独り言をぶつぶつしゃべりながら歩いているようにしか見えないのだ。
『……当然だろ。ただまあ、ゲームだったころには好感度っていうものがあったからな。もしそれがシュニーの心に作用しているなら、俺がマインドコントロールしてるって見方もできるわけで』
会話を心話に切り替えて、シンは言った。
それは、フィルマやシュバイドといった他のサポートキャラにも言えることだ。
サポートキャラクターは、作製したばかりのころは最低限の忠誠心しか持っていない。
ただ店番させるだけ、といった目的ならそれでも構わないが、シンのサポートキャラクターのように戦闘もさせるとなれば話は別。
好感度が低いと、出せる指示に制限がかかるのだ。
行動をともにしたり好感度を上昇させるアイテムを使用したりして、一定以上の好感度に達するとその制限が解除されていく。
好感度がMAXになると、絆の証として『界の雫』の欠片が手に入る。サポートキャラクター1人につきひとつで、もらえるのは最大で5つ、5人分までだ。
すべて合わせても古代級の武具を打つにはとても足りないが、それでもレアアイテムには変わりない。
プレイヤーによっては、指輪やイヤリングなどにしてサポートキャラクターに渡す者もいた。
『シュニーの心を捻じ曲げてるんじゃないか。そう思うことが、あるんだよ』
好感度上昇アイテムを大量に渡して、一気に好感度を上げたこともある。
ゲームなら、ただ数値の上昇だけを気にしていればいい。指示の制限を解除するため、アイテムを手に入れるため。すべては自分のためだ。
しかしこの世界は現実で、ゲームの影響をシュニーが受けているとしたら――。
シュニーを見ていて、シンの中にそんな思いが生じ始めていた。
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