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18巻
18-3
「あの、シンさん?」
「自分じゃわかってないみたいだから言う。お前、泣いてるぞ」
ぽかんとした表情を浮かべるミルトの目からは、涙が溢れていた。頬を伝って床に落ちるそれを、シンは優しくハンカチでぬぐう。
「え、うそ……あ、あはは、おかしいな……なんで、なんで……」
本人が自覚してからも、涙は止まらなかった。他の誰かに見られたくはないだろうと、シンはミルトの背を押して鍛冶場に入る。
扉を閉めて振り返ると、軽い衝撃があった。抱きついているのはミルトだ。その肩はまだ震えている。
「ごめん、ちょっとだけでいいから」
声も少し震えていた。突然のことに、シンもどう対処すればいいのかわからない。
10分ほどそうしていると、落ち着いてきたのかミルトがゆっくりとシンから離れた。
動揺と気恥ずかしさからか、ミルトの顔は真っ赤だ。シンは鍛冶場の奥にあった椅子を引っ張り出し、座るよう促す。
「落ち着いたか?」
「ええと、その、なんかごめんね。突然泣き出しちゃって」
「ちょっと驚いたけど、謝る必要はない。ここに来る途中から少し様子が変だとは思ってたけどな」
「あー……、うん。そう、だね」
事情を聞いていいものか、シンは判断に迷う。ゲーム時代からの知り合いとはいえ、ミルトのことは、詳しくは知らないのだ。
馬鹿な話で盛り上がったり、別のゲームやら漫画やらの話題で語り合うことはあっても、リアルの話はほとんどしなかった。
今ではその理由もわかるし理解できるが、それでも突然泣き出す理由には見当がつかない。
「なんかさ、思い出しちゃったんだ」
しばらく黙っていたミルトが、ぽつりと言った。
「何を思い出したんだ?」
「まだ僕たちが、【THE NEW GATE】をゲームとして楽しんでたころのこと」
デスゲームになる前の、ただのVRMMO‐RPGだったころのことを思い出した、とミルトは言った。シンと同じ思いを、ミルトも感じていたようだ。
「こっちにきてからさ。結構いろんなところを旅したんだ。シンさんに助けられて神殿に奉仕することになってからも、あちこち飛び回ったよ」
ぽつぽつと話すミルトに、シンは相槌を打つにとどめる。話の流れを止めてはいけない気がした。
「元プレイヤーって人にも会ったけど、名前を知ってることはあっても、僕自身を知ってる人はいなかった。知り合いもね。いや、もちろんいないほうがいいんだけど」
【THE NEW GATE】のプレイ人口は数万単位だと言われていた。デスゲームに巻き込まれたのがどのくらいなのかは不明だ。
ゲームでのフレンドが100人を超えていようと、ゲーム全体から見ればほんの一握り。こちらの世界で再会できる確率となれば、いったいどれほど低いかわからない。
再会して夫婦になっているシャドゥとホーリーや、その近くで店をやっているひびねこなどはちょっとした奇跡といっていい。
「前にも言ったけどさ。シンさんほどじゃないけど、僕もこの世界じゃ強い部類に入る。その関係でいろんな話が来るし、それなりの人付き合いもあるよ。でもさ、こういう話ができる人って、いないんだ」
強さに対する尊敬もあれば、力に対する畏怖もある。上位種族というのもあってか、同じピクシーにすら距離をとられることもあるという。
「あの時シンさんに頼んだのは間違いだと思ってないし、こっちでこうして生きていられるのも幸運なことだと思ってる。でも、いや、だからかな。時々ふっと思い出すんだ。ただの1プレイヤーとしてゲームを楽しんでたころのことを」
病院のベッドから出られない自分を誰も哀れまない。普通の人として会話し、笑い合える。
あの場所では誰もが平等だった。
心配してくれる家族がいても消えることのない孤独感を忘れられた、とミルトは語った。
「あのときみたいに身分とか立場とか種族とか、そういうのを全部放り出して馬鹿みたいな話ができる人が欲しかった。元プレイヤーならそれができるんじゃないかと思ったけど、なかなかうまくいかなくて。もう仕方ないかなとも思ってたんだ。ここが元の世界とは違うのは、はじめからわかってたことだし」
割り切った。自分ではそう思っていた。
しかしシンと話していて、それを思い出してしまった。
「楽しいなって思った。あのころみたいだって思った。そう思っていたら、言葉が出なくなっちゃった」
「……そうか」
自分を色眼鏡で見ない誰かを欲する気持ち。それはシンも理解できた。
シンもまたこの世界では特別な存在だ。本来なら、ミルトと同じような立場になっていてもおかしくない。
そうなっていないのは、シュニーをはじめとしてシンのことを必要以上に特別視しない相手に出会い、また再会することができたから。
そうでなければ、きっと自分も同じことを考えていただろうとシンは思った。
「本当に辛くなったら、いつでも呼べよ。愚痴くらいなら聞くぞ」
「えー、そこは俺が一緒にいてやるよって言うところじゃない?」
少し不満げにミルトは言う。ただし、本気でないのは雰囲気でわかった。思い切り泣いて、冗談を言えるくらいには回復したようだ。
「そんなきざな台詞が俺の口から出るとでも?」
「ちょっとは期待させてくれてもいいじゃんかー」
空気を読んであえて茶化して応えるシンに、ぶーぶーと文句を言うミルト。そこにはもう、暗い気配はない。
「これはやっぱり、シュニーさんを説得するしかないか。いや、むしろシンさんがそばにいろって言ったというのはどうだろう? 僕、口説かれちゃいました的な」
「それはしゃれになってないから、マジでやめろ」
恐ろしく冷たい笑顔が返ってくるのが容易に想像できて、シンは背筋を震わせながらミルトを止める。
「いやあ、シンさんをからかうのは楽しいなぁ」
「まったくこいつは。――あんまり溜め込むなよ。さっきも言ったけど、本当にきつかったら連絡してこい」
「……うん。ありがとう」
控えめに笑うミルトに、どうにかできないかとシンは思う。
これが生産職ならまた違ったのだが、戦闘職となるとこの世界ではどうしてもミルトが言ったような反応が返ってきがちだ。
生産職なら違うとシンが思ったのは、エルクントで出会ったヴァルガンのように技術談義に花を咲かせるなんてことがあるからだ。
貴重な技術は秘匿するのが普通ではあるとヴァルガンは言っていたが、それでも同じ分野を修めるもの同士、気が合うのである。
戦闘職も互いに力比べをして認め合うなんてことがありそうなものだが、ミルトはこちらでいう上級選定者クラス。なかなかそうはいかないようだ。
「にしても、気兼ねなく話せる相手か。ミルトの知り合いって、たとえばどんなやつがいるんだ? 伝手があるから、探してもらうのもありだと思うぞ」
「親しいフレンドっていっても、心を許せるっていうのかな、そういうほんとに何でも話してたのってマリちゃんくらいだし。シンさんも僕のリアルのことは知ってるでしょ?」
「あー……それは無理だな」
マリノはもういない。さすがに死人を呼び出すのは不可能だ。
シンとてミルトがリアルでは病院でほとんど寝たきり生活だったのを知ったのは、デスゲームが始まってから。ただのゲームだったころに、そんな踏み込んだ話はなかなかしないだろう。
「そうでなくても、ほら、僕けっこう人見知りだし」
「どの口が言うか」
そんなことないだろとシンはミルトを小突く。
「シンさんのおかげでだいぶすっきりしたし、しばらく大丈夫だよ。それに、この話題を口実に距離を詰めていく予定なので」
「ぜんぜん安心できない発言ありがとよ」
「あいた!」
まだ言うかと、シンはミルトに強めのでこぴんを食らわせる。大げさに痛がるミルトだが、そんなやりとりも嬉しそうだった。
「さてと、元気も分けてもらったし、そろそろシンさんも自分の作業に戻ってよ」
「なんだ。もういいのか?」
夕食までまだかなり時間がある。ミルトが泣き出してしまった件は別として、気兼ねないやり取りはいい気分転換になるので気にする必要はないとシンは伝える。
「シンさんがそう言ってくれるのは嬉しいけど、まったく作業が進んでないのは僕が気兼ねしちゃうっていうかさ」
「なら、さっさと済ますかね」
シンはミルトに、作業を見るにしてもあまり近づかないようにと注意して、アイテムカードを取り出す。
シュニーたちの装備だ。万全を期すために具現化して細部までチェックしていく。
「武器や鎧はなんとなくわかるけど、シュニーさんのメイド服もわかるんだ」
「鍛冶とは分野が違うんだけどな。装備を作る関係上、布とかモンスターの素材そのものを加工することは珍しくないから、そっちも習得したんだよ。いろいろ組み合わせるのは面白いぞ」
と言いつつも、一番面白いのはやっぱり鍛冶なんだよなと思うシンである。
「消耗はほぼなし。気持ち程度の補修をして終わりっと」
防具はほぼ無傷で、メンテナンスらしいメンテナンスはほとんどなかった。
モンスターの外皮や牙などと接触する武器も消耗度合いはさほど変わらず、1時間程度でシンのパーティ分はほぼ終了した。
「あとはミルトの装備だな。ほれ、ちゃっちゃと出す」
「バージョンアップしたばかりだし、消耗してるかな?」
「ダイルオビオンとやり合ってるからな。切れ味は……少し落ちてるな」
シンはミルトから『オルドガンド』と『流艶華装』を受け取り、状態を見ながら言う。
切れ味が落ちていると言ったが、気にしなくてもいいレベルの些細なもの。補修など数秒で終わる。
『流艶華装』は金属の部分はすぐだが、布の部分は少し気をつけて検分する。ジョブか、はたまた技術的な何かが影響しているのか、金属よりも多少時間がかかるのだ。
「こうしてみると、なんだかシンさんに体を隅々まで見られてるみたいでけっこう恥ずかしいね」
「変な言い方をするなよ……」
自分の体を抱くようにしながら顔を赤くするミルトに顔をしかめながら返しつつ、シュニーも恥ずかしがっていたことを思い出す。
「やっぱり気になるもんか?」
「鎧ならともかく、僕やシュニーさんのは服って意識があるからね。サイズ自動調整機能がついてるから、いろいろとサイズがわかっちゃうのは気になるよ。お腹周りとか二の腕とかとくにね」
胸のサイズなどよりよっぽど気になるとミルトは言う。
男とは気にするところが違うらしい。とはいえ、見ないことにはメンテナンスもできないので我慢してもらう。
「よし、終わりだ。あとはサブウェポンだな。この際だからあれもバージョンアップしておこう」
もともとミルトは『ミーバル』という短剣をサブウェポンとして携帯している。あまり使われていないこともあり、前回の装備更新の際はシンもすっかり忘れていたのだ。
ものの数分で古代級下位の武器『マークスタ』へと姿を変えた短剣を見て、ミルトは呆れ混じりに笑った。
「こっちの世界の鍛冶師が見たらあごが外れるくらい驚くだろうね」
「いろいろ制限があるからな。さて、作業はこれで終わりだ。さっさと休んで明日に備えるぞ」
手早く道具を片付け、ミルトの背を押して鍛冶場を出る。これからしばらくゆっくりはできないだろうとわかっているので、しっかり休むつもりだった。
「あ、忘れるところだった。下着に自動調整機能よろしく」
「へいへい」
すっかり忘れていたそれを思い出し、シンはささっと付与する。
「これでやっと窮屈さから解放されるよ」
「こっちじゃ、あまり普及してないんだったか。女性ものの下着って需要ないのか?」
かつてシュニーの下着を選ばされるという予想外の事態に陥ったことがあるシンとしては、ミルトの話に少し納得できない部分があった。
「あるところにはあるって感じ。大きな街ならなくはないかな。でも、リアルに近いものってなるとほんとに一握りだよ。これだって、頑張って探したんだ。でもデザインがさぁ。もうちょっと可愛くできると思わない?」
ミルトはブラジャーをカード化したそれを見せ付けるようにシンに向けてくる。しかし、シンにブラジャーのデザインの良し悪しなどわからない。
これは口を出さないほうがいいと悟り、曖昧に返事をするにとどめる。
「……シンさん。布が扱えるなら」
「作らんぞ」
ふと考え込むように頬に手を当てたミルトが最後まで言う前に、シンは断った。ミルトなら絶対考えるだろうと思っていたのだ。
「えー、いいじゃんかよー。試着したところ見せてあげるからさぁ」
「絶対に断る!」
既製品にサイズ自動調整機能を付与するだけならともかく、本体の作製までする気はシンにはなかった。
「とにかく、付与ならしてやるし、材料も少しくらいなら分けてやるから作るのは別のやつに頼め」
「ちぇー」
これもまた気心が知れているからこその軽口なのだろう。シンはそう思うことにしてミルトを客室に押し込んだ。
†
翌日。朝食を終えたシンたちは、装備やアイテムの確認を済ませてから転移でゲルゲンガーの待つ場所へ跳んだ。
「時間にはまだ早いようですが、何かございましたか?」
「いや、こっちの準備が思ったより早く終わったんだ。問題がないなら、すぐに移動を始めてもらいたい」
「承知しました。こちらは万事整えてございます。早速移動しましょう」
戦闘後の後始末は任せてくれていいと言っていた通り、散乱していたモンスターの死骸は綺麗さっぱりなくなっていた。数に物を言わせて、すべて呑み込んでしまったのだろう。
ゲルゲンガーはその場で変身を解くと、元の不定形状態に戻る。そこからさらに変化し、2対の翼をもつドラゴンのような形になった。
周りにいる不定形モンスターたちも数体、場合によっては数十体規模で合体し、ゲルゲンガーと同じように翼を持つ生き物の形をとる。その姿は鳥のようだったり、虫のようだったりと様々だ。
「お乗りください」
形状を見てシンもなんとなく察していたが、ゲルゲンガー自身が乗り物になるらしい。発声器官は見当たらないが、乗れというので大人しく乗ることにした。
大きさが大きさなのでジャンプして乗るしかないかとシンが考えていると、胴体の一部がへこみ、階段になった。便利なもんだと思いながら上る。
『形が決まってないっていうのも、こうなると便利だね』
『大きさまで変えられるみたいだしな』
同じことを考えていたようで、形が変わる様を見ていたミルトにシンもうなずく。不定形モンスター、スライムと一般に呼称されるモンスターは丸い水風船のような形状がデフォルトで、戦闘中に形が変わることもあったがここまでの自由度はなかった。
「空をいきますので、椅子におかけください。落ちないよう体を固定いたします」
旅客機の一部を切り取ってきたかのようにゲルゲンガーの背は人が歩きやすいように平たくなり、さらに椅子のように変化までしていた。
体を固定されるのは少し不安があったが、もし攻撃してきても防具を貫くことはできないし、引きちぎることはたやすい。シンたちはうなずきあい、大人しく座ることにした。
「では、出発いたします」
ゲルゲンガーが大きく羽ばたく。魔術か何かで補助をしているのだろう。一度の羽ばたきで目に見えて高度が上がる。
数回の羽ばたきで十分な高度をとると、今度は体を押し出すように前へと羽ばたく。一度加速したゲルゲンガーはそれ以降羽ばたくことなく空を飛び続けた。
生き物の飛び方としては、ファンタジーでなければありえないやり方だ。
他のモンスターたちも同じような飛び方をしている。出せる速度は体の大きさに比例しているようで、大きいものほど速い。
ついてこられないものたちは同じくらいの個体が集団を作り、ゲルゲンガーの進路をなぞるように飛んでいる。
これならば皇国が長年にわたって準備し設置した壁も越えられるだろうとシンは思った。
空から襲来する高レベルモンスターというのは、十分な迎撃設備や人員がいないと被害が大きくなるのは経験上よく知っている。
ゲルゲンガーたちは単純に速く移動するためにこういう方法を取ったのかもしれないが、シンからすると、交渉に応じたほうがいいかもしれないと思わせる要因のひとつとなっていた。
『ティエラとミルトは寒くないか?』
高度は高く、風は冷たい。シンたちはなんともないが、2人はシンたちほど耐寒能力が高くない。
ゲルゲンガーの飛行能力はシンが借り受けたワイバーンよりも高かったが、移動時間が極端に短くなると言うほどでもない。
しばらくは空の上だ。装備によって吹き付ける風はある程度防げているが、完全ではない。冷気もまた然りで、寒いようなら何か羽織るものを渡すつもりだった。
『前に借りてたのがあるから、私は大丈夫よ』
何か貸していただろうかとシンが振り向くと、ティエラは毛皮のついたローブを羽織っていた。それを見て、そういえば以前渡したままだったなと思い出す。
『僕も大丈夫だよ!』
ミルトは自前のコートを着ていた。ゲーム時代は寒冷エリアでの活動も珍しくなかったので、ミルトくらいのプレイヤーならばこの手の装備はほとんどそろっている。
『それにしても、ちょっとこれ万能すぎない? ゲルゲンガーって防御重視のモンスターで、こんな変身能力もってなかったよね?』
地面に降りれば複数の足を作って高速で駆け、空に上がればワイバーンもかくやという速度で飛ぶ。
ミルトでなくとも、ゲーム時代のゲルゲンガーを知っていれば当然の疑問だろう。シンもそうである。
『そうは言っても、人に変化した時点で普通じゃないからな。特殊個体なのは間違いないし、モンスター同士の戦いでも他のやつを倒してレベルを上げられるだけの戦闘力があるのも間違いない』
カゲロウもそうだが、特殊個体というのはかなりのレアモンスターであり、シンたちでもすべての情報を網羅しているわけではない。
元のモンスターは知っているが特殊個体の能力は知らないなんてことも珍しくなく、イヴルと名のつくゲルゲンガーはシンにとっても未知の相手だ。
『そう考えると、こうやって座ってるのもちょっと怖いわね』
今のシンたちは風で吹き飛ばないようにシートベルトのように簡単にではあるが体を固定されている。
座っている椅子もゲルゲンガーの体が変化したものなので、この状態でも攻撃は可能だ。椅子の背から突然針状の触手が飛び出してきても、なんら不思議はない。
身動きが取れないというわけではないが、動きに支障が出るくらいには固定されている。
ティエラの言うように、やろうと思えばかなり有利に攻撃できる。もしもを考えると、あまりいい気分ではないだろう。
『普通なら、このまま反転して空に放り出すだけでアウトよね』
『それは本当に怖いです!』
フィルマの発言に、眼下に流れるようにすぎていく景色を見てティエラが身をすくませる。
ちょっとした飛行機並みの速度があるので、そのまま放り出されるだけで大抵の人は墜落死するだろう。パラシュートもなく身ひとつで大空に投げ出されれば、普通は為す術がない。
『俺たちには効果がないだろ。それに、わざわざ迎えに来てる状況でやる意味もない』
シンたちは魔術やアイテムで安全に着地する能力を持っている。
ティエラも『弓姫』シリーズの浮遊盾を足場にすれば、落下速度を緩めて着地することは可能だ。
『そうなんだけどね。ティエラちゃんの反応が面白くて』
『うう、やめてくださいよ……』
この世界では空を飛ぶという体験をする機会はほとんどない。そして、空に放り出されるという体験をすることはさらに少ない。というよりも、そうなったらほぼ死ぬ。
わずか数回とはいえ、エルダードラゴンやツァオバトなど飛行できる生き物に乗る機会があったティエラは、落ちたらどうなるかが想像できてしまうようだ。
『空中に放り出される感覚は高い建物や崖から飛び降りるのとは感じる恐怖も違うだろう。慣れてしまえばそうでもないのだがな』
『いえ、その、慣れたくないんですけど』
スカイダイビングのようなスポーツは存在しない世界だ。シュバイドの発言にティエラがそう言ってしまうのも仕方のないことだった。
『実際にそうなったときはシンがどうにかするだろう。【飛影】の回数制限がなくなったと聞いている。あれならば、ティエラ殿を抱えていても安全に着地できるだろう』
ラナパシアの里でなぜか可能になった、空中に擬似的な足場を作って飛び回るスキル【飛影】の変化について、すでにこの場にいるメンバーには伝えてあった。
シュバイドの言うとおり、空中での機動力が格段に増しているのでティエラを抱えてゆっくり着地することも可能だ。
「自分じゃわかってないみたいだから言う。お前、泣いてるぞ」
ぽかんとした表情を浮かべるミルトの目からは、涙が溢れていた。頬を伝って床に落ちるそれを、シンは優しくハンカチでぬぐう。
「え、うそ……あ、あはは、おかしいな……なんで、なんで……」
本人が自覚してからも、涙は止まらなかった。他の誰かに見られたくはないだろうと、シンはミルトの背を押して鍛冶場に入る。
扉を閉めて振り返ると、軽い衝撃があった。抱きついているのはミルトだ。その肩はまだ震えている。
「ごめん、ちょっとだけでいいから」
声も少し震えていた。突然のことに、シンもどう対処すればいいのかわからない。
10分ほどそうしていると、落ち着いてきたのかミルトがゆっくりとシンから離れた。
動揺と気恥ずかしさからか、ミルトの顔は真っ赤だ。シンは鍛冶場の奥にあった椅子を引っ張り出し、座るよう促す。
「落ち着いたか?」
「ええと、その、なんかごめんね。突然泣き出しちゃって」
「ちょっと驚いたけど、謝る必要はない。ここに来る途中から少し様子が変だとは思ってたけどな」
「あー……、うん。そう、だね」
事情を聞いていいものか、シンは判断に迷う。ゲーム時代からの知り合いとはいえ、ミルトのことは、詳しくは知らないのだ。
馬鹿な話で盛り上がったり、別のゲームやら漫画やらの話題で語り合うことはあっても、リアルの話はほとんどしなかった。
今ではその理由もわかるし理解できるが、それでも突然泣き出す理由には見当がつかない。
「なんかさ、思い出しちゃったんだ」
しばらく黙っていたミルトが、ぽつりと言った。
「何を思い出したんだ?」
「まだ僕たちが、【THE NEW GATE】をゲームとして楽しんでたころのこと」
デスゲームになる前の、ただのVRMMO‐RPGだったころのことを思い出した、とミルトは言った。シンと同じ思いを、ミルトも感じていたようだ。
「こっちにきてからさ。結構いろんなところを旅したんだ。シンさんに助けられて神殿に奉仕することになってからも、あちこち飛び回ったよ」
ぽつぽつと話すミルトに、シンは相槌を打つにとどめる。話の流れを止めてはいけない気がした。
「元プレイヤーって人にも会ったけど、名前を知ってることはあっても、僕自身を知ってる人はいなかった。知り合いもね。いや、もちろんいないほうがいいんだけど」
【THE NEW GATE】のプレイ人口は数万単位だと言われていた。デスゲームに巻き込まれたのがどのくらいなのかは不明だ。
ゲームでのフレンドが100人を超えていようと、ゲーム全体から見ればほんの一握り。こちらの世界で再会できる確率となれば、いったいどれほど低いかわからない。
再会して夫婦になっているシャドゥとホーリーや、その近くで店をやっているひびねこなどはちょっとした奇跡といっていい。
「前にも言ったけどさ。シンさんほどじゃないけど、僕もこの世界じゃ強い部類に入る。その関係でいろんな話が来るし、それなりの人付き合いもあるよ。でもさ、こういう話ができる人って、いないんだ」
強さに対する尊敬もあれば、力に対する畏怖もある。上位種族というのもあってか、同じピクシーにすら距離をとられることもあるという。
「あの時シンさんに頼んだのは間違いだと思ってないし、こっちでこうして生きていられるのも幸運なことだと思ってる。でも、いや、だからかな。時々ふっと思い出すんだ。ただの1プレイヤーとしてゲームを楽しんでたころのことを」
病院のベッドから出られない自分を誰も哀れまない。普通の人として会話し、笑い合える。
あの場所では誰もが平等だった。
心配してくれる家族がいても消えることのない孤独感を忘れられた、とミルトは語った。
「あのときみたいに身分とか立場とか種族とか、そういうのを全部放り出して馬鹿みたいな話ができる人が欲しかった。元プレイヤーならそれができるんじゃないかと思ったけど、なかなかうまくいかなくて。もう仕方ないかなとも思ってたんだ。ここが元の世界とは違うのは、はじめからわかってたことだし」
割り切った。自分ではそう思っていた。
しかしシンと話していて、それを思い出してしまった。
「楽しいなって思った。あのころみたいだって思った。そう思っていたら、言葉が出なくなっちゃった」
「……そうか」
自分を色眼鏡で見ない誰かを欲する気持ち。それはシンも理解できた。
シンもまたこの世界では特別な存在だ。本来なら、ミルトと同じような立場になっていてもおかしくない。
そうなっていないのは、シュニーをはじめとしてシンのことを必要以上に特別視しない相手に出会い、また再会することができたから。
そうでなければ、きっと自分も同じことを考えていただろうとシンは思った。
「本当に辛くなったら、いつでも呼べよ。愚痴くらいなら聞くぞ」
「えー、そこは俺が一緒にいてやるよって言うところじゃない?」
少し不満げにミルトは言う。ただし、本気でないのは雰囲気でわかった。思い切り泣いて、冗談を言えるくらいには回復したようだ。
「そんなきざな台詞が俺の口から出るとでも?」
「ちょっとは期待させてくれてもいいじゃんかー」
空気を読んであえて茶化して応えるシンに、ぶーぶーと文句を言うミルト。そこにはもう、暗い気配はない。
「これはやっぱり、シュニーさんを説得するしかないか。いや、むしろシンさんがそばにいろって言ったというのはどうだろう? 僕、口説かれちゃいました的な」
「それはしゃれになってないから、マジでやめろ」
恐ろしく冷たい笑顔が返ってくるのが容易に想像できて、シンは背筋を震わせながらミルトを止める。
「いやあ、シンさんをからかうのは楽しいなぁ」
「まったくこいつは。――あんまり溜め込むなよ。さっきも言ったけど、本当にきつかったら連絡してこい」
「……うん。ありがとう」
控えめに笑うミルトに、どうにかできないかとシンは思う。
これが生産職ならまた違ったのだが、戦闘職となるとこの世界ではどうしてもミルトが言ったような反応が返ってきがちだ。
生産職なら違うとシンが思ったのは、エルクントで出会ったヴァルガンのように技術談義に花を咲かせるなんてことがあるからだ。
貴重な技術は秘匿するのが普通ではあるとヴァルガンは言っていたが、それでも同じ分野を修めるもの同士、気が合うのである。
戦闘職も互いに力比べをして認め合うなんてことがありそうなものだが、ミルトはこちらでいう上級選定者クラス。なかなかそうはいかないようだ。
「にしても、気兼ねなく話せる相手か。ミルトの知り合いって、たとえばどんなやつがいるんだ? 伝手があるから、探してもらうのもありだと思うぞ」
「親しいフレンドっていっても、心を許せるっていうのかな、そういうほんとに何でも話してたのってマリちゃんくらいだし。シンさんも僕のリアルのことは知ってるでしょ?」
「あー……それは無理だな」
マリノはもういない。さすがに死人を呼び出すのは不可能だ。
シンとてミルトがリアルでは病院でほとんど寝たきり生活だったのを知ったのは、デスゲームが始まってから。ただのゲームだったころに、そんな踏み込んだ話はなかなかしないだろう。
「そうでなくても、ほら、僕けっこう人見知りだし」
「どの口が言うか」
そんなことないだろとシンはミルトを小突く。
「シンさんのおかげでだいぶすっきりしたし、しばらく大丈夫だよ。それに、この話題を口実に距離を詰めていく予定なので」
「ぜんぜん安心できない発言ありがとよ」
「あいた!」
まだ言うかと、シンはミルトに強めのでこぴんを食らわせる。大げさに痛がるミルトだが、そんなやりとりも嬉しそうだった。
「さてと、元気も分けてもらったし、そろそろシンさんも自分の作業に戻ってよ」
「なんだ。もういいのか?」
夕食までまだかなり時間がある。ミルトが泣き出してしまった件は別として、気兼ねないやり取りはいい気分転換になるので気にする必要はないとシンは伝える。
「シンさんがそう言ってくれるのは嬉しいけど、まったく作業が進んでないのは僕が気兼ねしちゃうっていうかさ」
「なら、さっさと済ますかね」
シンはミルトに、作業を見るにしてもあまり近づかないようにと注意して、アイテムカードを取り出す。
シュニーたちの装備だ。万全を期すために具現化して細部までチェックしていく。
「武器や鎧はなんとなくわかるけど、シュニーさんのメイド服もわかるんだ」
「鍛冶とは分野が違うんだけどな。装備を作る関係上、布とかモンスターの素材そのものを加工することは珍しくないから、そっちも習得したんだよ。いろいろ組み合わせるのは面白いぞ」
と言いつつも、一番面白いのはやっぱり鍛冶なんだよなと思うシンである。
「消耗はほぼなし。気持ち程度の補修をして終わりっと」
防具はほぼ無傷で、メンテナンスらしいメンテナンスはほとんどなかった。
モンスターの外皮や牙などと接触する武器も消耗度合いはさほど変わらず、1時間程度でシンのパーティ分はほぼ終了した。
「あとはミルトの装備だな。ほれ、ちゃっちゃと出す」
「バージョンアップしたばかりだし、消耗してるかな?」
「ダイルオビオンとやり合ってるからな。切れ味は……少し落ちてるな」
シンはミルトから『オルドガンド』と『流艶華装』を受け取り、状態を見ながら言う。
切れ味が落ちていると言ったが、気にしなくてもいいレベルの些細なもの。補修など数秒で終わる。
『流艶華装』は金属の部分はすぐだが、布の部分は少し気をつけて検分する。ジョブか、はたまた技術的な何かが影響しているのか、金属よりも多少時間がかかるのだ。
「こうしてみると、なんだかシンさんに体を隅々まで見られてるみたいでけっこう恥ずかしいね」
「変な言い方をするなよ……」
自分の体を抱くようにしながら顔を赤くするミルトに顔をしかめながら返しつつ、シュニーも恥ずかしがっていたことを思い出す。
「やっぱり気になるもんか?」
「鎧ならともかく、僕やシュニーさんのは服って意識があるからね。サイズ自動調整機能がついてるから、いろいろとサイズがわかっちゃうのは気になるよ。お腹周りとか二の腕とかとくにね」
胸のサイズなどよりよっぽど気になるとミルトは言う。
男とは気にするところが違うらしい。とはいえ、見ないことにはメンテナンスもできないので我慢してもらう。
「よし、終わりだ。あとはサブウェポンだな。この際だからあれもバージョンアップしておこう」
もともとミルトは『ミーバル』という短剣をサブウェポンとして携帯している。あまり使われていないこともあり、前回の装備更新の際はシンもすっかり忘れていたのだ。
ものの数分で古代級下位の武器『マークスタ』へと姿を変えた短剣を見て、ミルトは呆れ混じりに笑った。
「こっちの世界の鍛冶師が見たらあごが外れるくらい驚くだろうね」
「いろいろ制限があるからな。さて、作業はこれで終わりだ。さっさと休んで明日に備えるぞ」
手早く道具を片付け、ミルトの背を押して鍛冶場を出る。これからしばらくゆっくりはできないだろうとわかっているので、しっかり休むつもりだった。
「あ、忘れるところだった。下着に自動調整機能よろしく」
「へいへい」
すっかり忘れていたそれを思い出し、シンはささっと付与する。
「これでやっと窮屈さから解放されるよ」
「こっちじゃ、あまり普及してないんだったか。女性ものの下着って需要ないのか?」
かつてシュニーの下着を選ばされるという予想外の事態に陥ったことがあるシンとしては、ミルトの話に少し納得できない部分があった。
「あるところにはあるって感じ。大きな街ならなくはないかな。でも、リアルに近いものってなるとほんとに一握りだよ。これだって、頑張って探したんだ。でもデザインがさぁ。もうちょっと可愛くできると思わない?」
ミルトはブラジャーをカード化したそれを見せ付けるようにシンに向けてくる。しかし、シンにブラジャーのデザインの良し悪しなどわからない。
これは口を出さないほうがいいと悟り、曖昧に返事をするにとどめる。
「……シンさん。布が扱えるなら」
「作らんぞ」
ふと考え込むように頬に手を当てたミルトが最後まで言う前に、シンは断った。ミルトなら絶対考えるだろうと思っていたのだ。
「えー、いいじゃんかよー。試着したところ見せてあげるからさぁ」
「絶対に断る!」
既製品にサイズ自動調整機能を付与するだけならともかく、本体の作製までする気はシンにはなかった。
「とにかく、付与ならしてやるし、材料も少しくらいなら分けてやるから作るのは別のやつに頼め」
「ちぇー」
これもまた気心が知れているからこその軽口なのだろう。シンはそう思うことにしてミルトを客室に押し込んだ。
†
翌日。朝食を終えたシンたちは、装備やアイテムの確認を済ませてから転移でゲルゲンガーの待つ場所へ跳んだ。
「時間にはまだ早いようですが、何かございましたか?」
「いや、こっちの準備が思ったより早く終わったんだ。問題がないなら、すぐに移動を始めてもらいたい」
「承知しました。こちらは万事整えてございます。早速移動しましょう」
戦闘後の後始末は任せてくれていいと言っていた通り、散乱していたモンスターの死骸は綺麗さっぱりなくなっていた。数に物を言わせて、すべて呑み込んでしまったのだろう。
ゲルゲンガーはその場で変身を解くと、元の不定形状態に戻る。そこからさらに変化し、2対の翼をもつドラゴンのような形になった。
周りにいる不定形モンスターたちも数体、場合によっては数十体規模で合体し、ゲルゲンガーと同じように翼を持つ生き物の形をとる。その姿は鳥のようだったり、虫のようだったりと様々だ。
「お乗りください」
形状を見てシンもなんとなく察していたが、ゲルゲンガー自身が乗り物になるらしい。発声器官は見当たらないが、乗れというので大人しく乗ることにした。
大きさが大きさなのでジャンプして乗るしかないかとシンが考えていると、胴体の一部がへこみ、階段になった。便利なもんだと思いながら上る。
『形が決まってないっていうのも、こうなると便利だね』
『大きさまで変えられるみたいだしな』
同じことを考えていたようで、形が変わる様を見ていたミルトにシンもうなずく。不定形モンスター、スライムと一般に呼称されるモンスターは丸い水風船のような形状がデフォルトで、戦闘中に形が変わることもあったがここまでの自由度はなかった。
「空をいきますので、椅子におかけください。落ちないよう体を固定いたします」
旅客機の一部を切り取ってきたかのようにゲルゲンガーの背は人が歩きやすいように平たくなり、さらに椅子のように変化までしていた。
体を固定されるのは少し不安があったが、もし攻撃してきても防具を貫くことはできないし、引きちぎることはたやすい。シンたちはうなずきあい、大人しく座ることにした。
「では、出発いたします」
ゲルゲンガーが大きく羽ばたく。魔術か何かで補助をしているのだろう。一度の羽ばたきで目に見えて高度が上がる。
数回の羽ばたきで十分な高度をとると、今度は体を押し出すように前へと羽ばたく。一度加速したゲルゲンガーはそれ以降羽ばたくことなく空を飛び続けた。
生き物の飛び方としては、ファンタジーでなければありえないやり方だ。
他のモンスターたちも同じような飛び方をしている。出せる速度は体の大きさに比例しているようで、大きいものほど速い。
ついてこられないものたちは同じくらいの個体が集団を作り、ゲルゲンガーの進路をなぞるように飛んでいる。
これならば皇国が長年にわたって準備し設置した壁も越えられるだろうとシンは思った。
空から襲来する高レベルモンスターというのは、十分な迎撃設備や人員がいないと被害が大きくなるのは経験上よく知っている。
ゲルゲンガーたちは単純に速く移動するためにこういう方法を取ったのかもしれないが、シンからすると、交渉に応じたほうがいいかもしれないと思わせる要因のひとつとなっていた。
『ティエラとミルトは寒くないか?』
高度は高く、風は冷たい。シンたちはなんともないが、2人はシンたちほど耐寒能力が高くない。
ゲルゲンガーの飛行能力はシンが借り受けたワイバーンよりも高かったが、移動時間が極端に短くなると言うほどでもない。
しばらくは空の上だ。装備によって吹き付ける風はある程度防げているが、完全ではない。冷気もまた然りで、寒いようなら何か羽織るものを渡すつもりだった。
『前に借りてたのがあるから、私は大丈夫よ』
何か貸していただろうかとシンが振り向くと、ティエラは毛皮のついたローブを羽織っていた。それを見て、そういえば以前渡したままだったなと思い出す。
『僕も大丈夫だよ!』
ミルトは自前のコートを着ていた。ゲーム時代は寒冷エリアでの活動も珍しくなかったので、ミルトくらいのプレイヤーならばこの手の装備はほとんどそろっている。
『それにしても、ちょっとこれ万能すぎない? ゲルゲンガーって防御重視のモンスターで、こんな変身能力もってなかったよね?』
地面に降りれば複数の足を作って高速で駆け、空に上がればワイバーンもかくやという速度で飛ぶ。
ミルトでなくとも、ゲーム時代のゲルゲンガーを知っていれば当然の疑問だろう。シンもそうである。
『そうは言っても、人に変化した時点で普通じゃないからな。特殊個体なのは間違いないし、モンスター同士の戦いでも他のやつを倒してレベルを上げられるだけの戦闘力があるのも間違いない』
カゲロウもそうだが、特殊個体というのはかなりのレアモンスターであり、シンたちでもすべての情報を網羅しているわけではない。
元のモンスターは知っているが特殊個体の能力は知らないなんてことも珍しくなく、イヴルと名のつくゲルゲンガーはシンにとっても未知の相手だ。
『そう考えると、こうやって座ってるのもちょっと怖いわね』
今のシンたちは風で吹き飛ばないようにシートベルトのように簡単にではあるが体を固定されている。
座っている椅子もゲルゲンガーの体が変化したものなので、この状態でも攻撃は可能だ。椅子の背から突然針状の触手が飛び出してきても、なんら不思議はない。
身動きが取れないというわけではないが、動きに支障が出るくらいには固定されている。
ティエラの言うように、やろうと思えばかなり有利に攻撃できる。もしもを考えると、あまりいい気分ではないだろう。
『普通なら、このまま反転して空に放り出すだけでアウトよね』
『それは本当に怖いです!』
フィルマの発言に、眼下に流れるようにすぎていく景色を見てティエラが身をすくませる。
ちょっとした飛行機並みの速度があるので、そのまま放り出されるだけで大抵の人は墜落死するだろう。パラシュートもなく身ひとつで大空に投げ出されれば、普通は為す術がない。
『俺たちには効果がないだろ。それに、わざわざ迎えに来てる状況でやる意味もない』
シンたちは魔術やアイテムで安全に着地する能力を持っている。
ティエラも『弓姫』シリーズの浮遊盾を足場にすれば、落下速度を緩めて着地することは可能だ。
『そうなんだけどね。ティエラちゃんの反応が面白くて』
『うう、やめてくださいよ……』
この世界では空を飛ぶという体験をする機会はほとんどない。そして、空に放り出されるという体験をすることはさらに少ない。というよりも、そうなったらほぼ死ぬ。
わずか数回とはいえ、エルダードラゴンやツァオバトなど飛行できる生き物に乗る機会があったティエラは、落ちたらどうなるかが想像できてしまうようだ。
『空中に放り出される感覚は高い建物や崖から飛び降りるのとは感じる恐怖も違うだろう。慣れてしまえばそうでもないのだがな』
『いえ、その、慣れたくないんですけど』
スカイダイビングのようなスポーツは存在しない世界だ。シュバイドの発言にティエラがそう言ってしまうのも仕方のないことだった。
『実際にそうなったときはシンがどうにかするだろう。【飛影】の回数制限がなくなったと聞いている。あれならば、ティエラ殿を抱えていても安全に着地できるだろう』
ラナパシアの里でなぜか可能になった、空中に擬似的な足場を作って飛び回るスキル【飛影】の変化について、すでにこの場にいるメンバーには伝えてあった。
シュバイドの言うとおり、空中での機動力が格段に増しているのでティエラを抱えてゆっくり着地することも可能だ。
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