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1巻
1-8
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言うと同時に、バルクスの全身が青い光に包まれる。わずか1秒ほどで光は消え、そこには青い軽鎧と籠手を装備したバルクスが立っていた。
軽鎧は動きやすさを重視しているようで、普通のものより装甲が薄いように見える。逆に籠手の方は重厚で、肘から手、さらに指までを青い装甲が覆っていた。
ゲーム時の仕様として、腕に装備するアイテムは見た目が和風なら手甲、洋風なら籠手と表示される。大きな違いがあるわけではないが、手甲はAGIに、籠手はVITに多少のボーナスが入る。
バルクスが籠手装備なのは、薄い装甲で防御力が低くなるのを補填するためだろうか。
【分析】によるとバルクスの職業は拳闘士だったので、装備は予想通りだった。だが、鎧や籠手を変身ヒーローのように装着したことにはさすがのシンも驚いた。
【THE NEW GATE】では武具を装備すると、鎧なら体、手甲なら手に光の線がまず浮かび上がり、その後実体化していた。これはアバターの体格を読み取って、最適な大きさに変化するためだ。なのでバルクスのように、少々派手ともいえる変身シーンにはならないのだ。
(…………あんなモーションあったか?)
「どうかしたかね」
「いえ、別に」
とはいえ、バルクスの装着シーンがこの世界では普通かもしれないので、何も言わないでおく。
一方のシンはとくに装備するものがなかった。
どの程度まで力加減すればいいのかだいたいわかっていたので、武器はなしだ。言ってはなんだが、下手に武器を使うとバルクスを殺しかねない。
「では、いくぞ!!」
言った瞬間バルクスの姿が霞み、シンに向かって一直線に突き進んでくる。彼我の距離は10メルほどだったが、瞬時に5メルほどを走破。
「装備がいいと、速いな」
本来なら転生ボーナスも得ていないヒューマンに、これほどの速度は出せない。バルクスの装備がそれを可能にしていることにシンは気づいていた。
「ふっ!」
「なんのっ!」
風を切る音とともに繰り出された拳を受け流し、シンは相手の装備の詳細を確認する。
軽鎧は【青水晶の軽鎧】、籠手は【蒼牙の籠手】と判断した。どちらも店で扱ったことがあるので間違いないだろう。
「いい装備持ってますねっ!」
「苦労してっ! 手にっ! 入れたからねっ!」
バルクスが繰り出す攻撃を、顔をしかめながらことごとく受け流すシン。
【青水晶の軽鎧】は、AGIに高い補正を付与してくれる希少防具。
【蒼牙の籠手】は攻撃力が高い特殊武器で、普通の武器にない能力も備えている。レベル600を誇るユニークモンスター、ブルーミッツハウンドという、近接戦では少々厄介なモンスターの牙が素材だ。主に、無手系武芸スキルを攻撃の主軸とする上級プレイヤーが買い求めることが多かった。
「さすがにそう易々と当たってはくれないか」
「大口叩きましたからね。当然です」
攻撃を受け流すばかりのシンを警戒してか、猛攻を止め一旦距離を取るバルクス。苦笑しながらしゃべっているが、目はシンの実力を見極めようと鋭いままだ。
シンが積極的に攻めないのは、【蒼牙の籠手】に備わる、とある能力を警戒してのことだ。
その能力とは、【相手の攻撃を籠手で防御した際に、防御なしで受けるはずだったダメージの10分の1を、攻撃した相手にはね返す】というものだ。
効果が発動する条件として、直接籠手に攻撃が当たった場合のみ、その攻撃が物理攻撃だった場合のみ、などの制約がある。実力が拮抗している相手と戦うときはじわじわと効いてくる装備だった。
ただ、攻撃した側のSTRが装備者より100以上高かった場合は発動しないため、今のシンにとっては単なる攻撃力を上げる籠手でしかない。
むしろシンが警戒しているのは、【蒼牙の籠手】の効果が発動しないとバルクスに知られることだ。
(さすがに自分の装備くらいは詳しく知ってるだろうしな。もし効果が発生しなかったら、STRの差が100以上だとばれる。それだとレベル以外の要素も絡んでくるし……また詮索されるのも面倒だから、どうにか1発で終わらせたいな)
シンとバルクスのレベルの差であれば、通常STRの差は100未満になる。だが【臨界者】の称号によって、1000以上の違いが生じていた。
ギルドマスターが相手といえど、何でもかんでも話す気はない。
実力者だというのはすでにバレているので、どうにか手を抜きつつ、腕の立つ人物くらいの評価にできないかと、猛攻をさばきながら思案するシン。
顔がしかめっ面になっているのは、そのせいである。
「なにを考えているのかな?」
「あなたが強いので、どう攻めたものかと」
「ふっ。さっきの戦い方から見るに、どうやら私の装備の能力も知っているようだね。あまり知っている者はいないのだが」
「さて、なんのことやら」
軽口を交わし合いながらも、シンは考えることをやめない。
先ほどの攻防でわかったことは、バルクスが手数で勝負するタイプだということだ。
拳闘士は射程距離こそ短いが、その分攻撃速度に秀でているので、バルクスの戦闘スタイルも当然と言える。
問題は【青水晶の軽鎧】による速度増加の影響で、さらに攻撃速度が上がっている点だ。手を抜きながら倒すのは少々難しいだろう。
(厄介なのは籠手だけだよな……ちょっと試してみるか)
現状で使えそうなスキルを確認し、身構える。
その動きにバルクスが反応するよりも早く、シンは踏み出した。
シンの姿が残像とともにバルクスに迫る。シンが立っていた場所では、踏み砕かれた地面の土片が宙を舞っていた。
「しっ!!」
一息で距離を詰め、右の拳を繰り出すシン。
フェイントなしの素直な攻撃だが、その速度はバルクスの反応できるぎりぎりだった。そのため、バルクスは反射的に籠手による防御態勢をとってしまう。
(かかった!)
確信とともにシンが仕掛ける。
バルクスに向けられた自分の拳を籠手に当たる寸前で停止させ、左足でバルクスの足を払う。
「ぐっ!」
とっさに左に跳んで避けようとするバルクスだが、意識がシンの拳に集中していたせいで反応が遅れた。
高速で繰り出された足払いによって、バルクスの体が宙に浮く。
【蒼牙の籠手】は、敵の攻撃が籠手に当たらなければ効果が出ないので、ダメージ反射が発動しなかったと疑われる心配はない。
シンは無防備となったバルクスの籠手をつかみ、間髪容れずに無手系武芸スキル【柳投げ】を発動した。
【柳投げ】はモンスター捕獲用なので、ごく低ダメージしか与えられない技だ。バルクスに致命傷を負わせる可能性はない。一時的に相手を麻痺もしくは気絶状態にする効果もあるが、今回はあらかじめ効果を切ってあるので、ためらうことなくスキルを使用する。
【柳投げ】によってシンに掴まれたバルクスの体が、空中できれいな円を描き、受け身をとる間もなく地面に激突した。シンはとどめに関節技を決める。
「ふう。とりあえずこんなもんでどうです?」
バルクスが動けないことを確認してからシンが問いかけた。【臨界者】の影響がなければ、ここまであっさりと勝負はつかなかっただろう。
「……まさか、こうも簡単に押さえ込まれるとは。不思議とダメージが少ないんだが、最後の技はスキルかい?」
「そこは秘密で。手の内を明かしすぎるのも考えものですんで」
「ははっ、それもそうだ。私の負けだよ。君の実力は見せてもらった。これなら心配なさそうだ」
ようやく解放され、立ち上がったバルクスは再び握手を求めてきた。
「?」
「先ほどのはギルドマスターとしての握手。そしてこれは、月の祠に認められた者同士としての握手だ」
「そういうことですか」
うなずいて握り返すシン。同じ握手のはずだが、前回とは何かが違うような気がした。
「何かあれば言ってくれ。ギルドとしても私個人としてもできる範囲で協力しよう」
「いいんですか? 個人を贔屓なんかして」
「問題ない。ギルドとしてはランクG冒険者に、個人としては友人に手を貸すというだけさ」
組織に属する以上、過剰な助力はできないと言外に伝えているようだ。ギルドの長ともなればそれは当然なので、十分だと返しておく。
訓練場からギルドに戻ると、転移ポイントがある部屋にセリカが待機しており、お疲れさまですと2人にポーションを差し出してくれた。
無傷だったので遠慮しようとしたシンだが、持っていて損はないとバルクスにも勧められたので、もらっておくことにした。
「君の冒険者としての活躍を期待しているよ。ではまた会おう」
バルクスと別れ、セリカとともにギルドのホールへ続く通路を歩く。
「バルクス様との勝負はいかがでしたか?」
無言で歩くのもどうかと思ったのか、セリカはバルクスとの勝負を話題に出してきた。戦っていた時間が思ったより短かったので、気になっているのかもしれない。
「やりにくかったですよ。2度目がないことを祈ります、切実に」
「そうそうあることではありませんから、大丈夫だと思いますが」
「なんかトレーニングの名目で、組み手とかに誘われそうな気がするんですよ……」
たとえ訓練でも、ギルドマスターと戦う事態などもう勘弁してほしい、とため息をつくシン。
一方セリカは、シンの姿に違和感を覚えていた。とてもレベルが200を超えた(実際は上限の255だが)強者には見えないのだ。
高レベルの冒険者は、一般人とは違う威圧的な雰囲気をまとっていることが多い。
仕事柄そういった人物に会う機会の多いセリカでも、未だに慣れず、無意識に体が緊張してしまうことは少なくなかった。
だというのに、若干肩を落としながらため息をつくシンからはそれをまったく感じない。むしろ不思議な安心感のようなものをセリカは抱いていた。
(不思議な人……)
そんなことをセリカが思っているうちに2人はホールに到着した。
「本日はお疲れ様でした。ギルドカードの方は、明日以降でしたら受け取りはいつでもかまいません。ゆっくりお休みになってからいらしてください」
「そうします。あ、もしよかったらお薦めの宿とか教えてもらえません? 今日この街に来たばかりでよくわからないんです」
ダメ元で聞いてみるシン。宿の良し悪しなどわからないが、初日から質の悪い宿になど泊まりたくなかった。
「でしたら住宅区にある宿屋・穴熊亭がよろしいかと。食事もおいしいので、きっと気に入っていただけると思います。ギルドの前の通りを右手側に道沿いにまっすぐ進めば、熊の手が描かれた看板が見えますので、それを目印にしてください」
「……わかりました。穴熊亭ですね。ありがとうございます」
穴熊という単語にふといやな予感がしたシンだが、セリカが紹介してくれるのだから大丈夫だろうと思い直した。
セリカにお礼を言ってギルドを出る。
熊が出ませんように、などと呑気なことを考えながら、宿屋に向けてシンは歩き出した。
†
ギルドを出て歩くこと25分。
シンの目の前には熊の手が描かれた看板があった。セリカの言っていた通りなので、ここが穴熊亭なのだろう。
閉められた扉の奥から、笑い声がひっきりなしに聞こえてくる。実に楽しそうだ。
「ここで間違いないな」
念のため、もう1度看板を確認してから扉に手をかける。ゆっくりと扉を開くと、中の喧噪が一段と大きくなった。
ホールにはカウンター席と多人数用のテーブルが7つあった。テーブルは5つが埋まっていて、どのテーブルも冒険者と思しき集団がジョッキ片手に騒いでいる。
シンが入り口でその様子を眺めていると、背後から差し込んでいた日光がさえぎられた。
はて、と思いつつ振り返る。
「ん?」
視界に入ってきたのは花の刺繍が施されたエプロンと、シンの3倍はあろうかという太さの腕だった。
「いらっしゃい! お1人様か?」
野太い声が頭上から聞こえてきたので、シンは視線を上げる。すると、巌のごときいかつい顔に、凶悪としか言えない笑みを浮かべた人物と目が合った。
「でけぇ……」
シンが思わずつぶやいたのはそんな一言。
シンの身長も180セメルを超えているため、背は高い方だ。しかし、シンの目の前にいる人物はおそらく230セメル近くある。もはや巨人だ。
「どうしたあんちゃん。元気がねえぞ」
「はっ! ええと、あなたは?」
男の言葉に我に返る。けして答えになってはいなかったが。
「俺か? 俺はこの穴熊亭の店主にして看板親父! ドウマ・ベアーだ!」
「……親父……だと?」
「そう! そいつ目当てに人が集まる人気親父! それこそ看板おや――」
「それは看板娘だ!」
耐えきれず、ついツッコミを入れてしまうシン。
「うむ。ナイスなツッコミだ!」
そしてなぜかサムズアップしてくる自称看板親父。
「入る店を間違ったか……」
「そう照れるな、青年」
「いや照れてねぇよ! どう見たらそうなるんだよ!」
いつの間にやら漫才のようになっていた。
「いいぞニイちゃん!!」
「もっとやれ!!」
酔っ払い集団の掛け声にシンはため息をついた。完全に酒の肴状態だ。
「はぁ、別の宿でも探そ――」
「ちょっと何やってるの!!」
そのとき、シンのつぶやきをかき消すように、女性の声が酒場に響いた。
声はドウマの後ろから聞こえたようだが、巨体が邪魔でシンからは声の主が全く見えない。
「父さん? 変なこと言わないでって、いつも頼んでるよね? 妙な噂が立ったらどうするの?」
その口調は穏やかだが、それが怒気をはらんでいることは明白だった。無関係なはずのシンですら、思わずこえぇっと口にしそうになったほどだ。
「いやこれはだな、ちょっとしたドッキリ……」
「うるさい」
言い訳すら一蹴されてしまっていた。さっきの発言から察するに、言葉の主はドウマの娘なのだろうが、説教する側とされる側の立場が逆な気がする。
「ここはあたしがするから、父さんは厨房で母さんの手伝い!」
「わ、わかった」
肩を落としながら厨房へと消えていくドウマ。その背中が一回り小さくなったようにシンが感じたのは、気のせいではないだろう。
「いきなり変な物を見せてごめんなさいね。今日は食事? それとも泊まりかしら?」
ドウマの存在がもはや物扱いである。
それはさておき、ドウマが去ったことで、隠れて見えなかった娘をやっと目にすることができた。
茶色の髪をショートにした少女だ。浮かべた笑みは営業スマイルなのだろうが、それでも十分魅力的だった。きれいよりかわいいという言葉が似合う。
先ほどの会話がなければ、シンはドウマと目の前にいる少女が親子だなどと、考えもしなかっただろう。
「あー、泊まりで、頼む。親父さんはいつもあんな感じなのか?」
「できれば忘れてほしいけど……ときどきね。冒険者は割とノリがいいから大丈夫だけど、商人相手だとフォローがつらいわ。泊まりは夕食と朝食つきでジュール銀貨2枚ね。浴場が使いたいときはその都度申し出て。料金はジュール銅貨4枚。朝食は9の鐘が鳴るまでならいつでも出せるわ」
「はいよ」
宿代のジュール銀貨2枚が高いのか安いのかはわからないが、今の手持ちなら問題ないので了承する。
「いつまでいるかわからないんだが、そういうときはどうすればいいんだ?」
「それなら1日ごとに支払ってもらうか、ある程度の日数分まとめて払ってもらって、足りなくなったら追加で支払ってもらうかのどちらかね。確認だけど、あなた冒険者よね?」
「ああ、今日登録してきたとこ。セリカさんにここを紹介してもらったんだ」
「セリカさんの紹介!? それを早く言ってよ。それならジュール銀貨1枚とジュール銅貨90枚でいいわよ。冒険者ならまとめて支払う方をお勧めするわ。依頼で何日も宿を空けるなんてことはよくあるでしょうし。料金未払いのまま出かけたら、中のものはこっちで処分しちゃうから注意してね」
冒険者にとって長期の依頼というのは珍しくないので、しばらく戻れなくなってしまう。そうなれば1日ごとの支払いなどできないだろう。
危険な依頼を受ける冒険者は死亡する可能性だってある。いつ帰ってくるかわからない冒険者の、しかも料金未払いのままの部屋をそのままにしておくというのは、宿屋から見れば大きなマイナスだ。
「ならまとめて払っておくか。とりあえずこれで」
そう言って懐(のように見せかけてアイテムボックス)から、ジュール金貨を1枚取り出して手渡す。
「50日分ね。あまりの分はどうする?」
「浴場を使うと思うから、そこから使用料を引いといてくれるか?」
「わかったわ。足りなくなったら言うわね。じゃあ宿帳に名前を書いて。もし代筆が必要ならジュール銅貨2枚よ」
「いや、大丈夫だ……これでいいか?」
記帳した宿帳を確認すると、少女は部屋の鍵を手渡してくる。
「……うん大丈夫。シンさんね。じゃあこれ、部屋は2階の201号室よ。貴重品を入れるボックスのことは知ってる?」
「ボックス? いや、初耳だが」
首をかしげるシン。
「なら知っておいて損はないわ。ボックス付きの宿は優良店の証拠なんだから。ボックスっていうのは、一言でいえば貴重品を預ける金庫みたいなものよ。入れた本人か管理者しか開けられなくて、物理攻撃や魔術といった、スキル・アーツから中の物を守ってくれるの。ボックス自体もマジックアイテムなんだけどね。とにかくそれに入れておけば、宿が全壊したって中身は無事って代物なのよ。どう? すごいでしょ! その辺の宿じゃなかなかお目にかかれないんだから」
ボックスの説明をしつつ店の宣伝を付け加えるあたり、たくましいなあとシンは思った。
少なくとも周囲の店よりは優良なのは間違いないだろう。看板親父がいなければ完璧だったのにな……とつい余計なことを考え、笑ってしまいそうになるが、何とかこらえる。
鍵を受け取ったシンはそのまま2階へ上がった。とくに置いておく荷物があるわけではないが、部屋の確認だけしておこうと思ったのだ。
シンの泊まる201号室は2階の一番端にあった。
10畳ほどの室内には、机と椅子、ベッドやクローゼットなどがあり、1人で泊まることを考えれば十分と言えた。
部屋の奥には例のボックスらしきものが見える。他にはそれらしきものもないので間違いないだろう。
そして驚くべきことに、部屋には備え付けトイレ――それも水洗トイレがあった。
そもそも、【THE NEW GATE】にはトイレというものが存在しなかったのだ。
いくらリアリティを追求したといっても、ゲームの中でまで排泄行為をしたいなどと考えた者は、製作者の中にもいなかったのだろう。
広いフィールドを駆け回っているときにもよおして、その最中にモンスターに襲われるなど、雰囲気ぶち壊し、興醒めもいいところである。
デスゲームとなってもそれは変わらなかったので、何気にシンがトイレを目にするのは1年ぶりくらいになる。
穴熊亭の宿としての質から考えれば、部屋ごとにトイレがあるというのは当たり前といえる。
ただ、トイレが必要ない生活を送っていたシンとしては、驚きと懐かしさが入り混じった妙な気分になった。
「まさか、トイレを見て懐かしさを覚える日が来るとは……」
1年振りのトイレ、何も問題なく使えるだろうか……などと、やや不安も覚えたシンだった。
部屋の中を一通り確認すると、しっかり鍵を閉めて階下に降りる。
食事をし、情報収集をするためだ。一応ギルドでも食事を取ったので、そこまでお腹は空いていない。しかし、せっかく料金に食事代が含まれているのだから、食べないのはもったいないという小市民的考えで、料理を頼む気満々のシン。
1階では先ほどと変わらず、冒険者の一団が騒いでいた。
ゲーム時代の癖でついレベルを確認してしまう。【分析・Ⅹ】によると、冒険者の平均レベルは120といったところだ。
そういえば……と、月の祠で見た騎士の集団を思い出す。
あまり詳しく見はしなかったが、彼らのレベルは100~110くらいだったはずだ。
最後に残ったアルディたちはもう少し高レベルだったようだが、この国において冒険者と騎士の力関係はどうなっているんだろうかと益体もないことを考えてしまう。
空いている席に着いて料理を注文し、運ばれてくるまで周囲の喧騒に耳を傾ける。
一定範囲内の声や音を鮮明に聞くことのできる【聞き耳】や、使用者の選択した音を聞こえなくする【ノイズ・キャンセル】といったスキルを使うことで、離れた席にいる相手のつぶやきまで聞き取れるのだ。
ゲームの仕様では、まずメニューが出て、そこに表示されるもの以外は選択できなかった。しかしこの世界に来てからは、選択は使用者、つまりはシンの考え1つで自由に決められるようになっている。
聞こえてくるのは、そのほとんどがどうということのない雑談だ。だが、こういった場所で手に入る情報というのもばかにはできない、とシンは考えた。
多くのゲームでもそうだが、思わぬ場所で思わぬ情報が手に入るというパターンは多いからだ。それが異世界で通用するかは不明だが、そもそもシンにはこの世界の常識すらわからないのだから、些細な話でも聞いておいて損はない。
軽鎧は動きやすさを重視しているようで、普通のものより装甲が薄いように見える。逆に籠手の方は重厚で、肘から手、さらに指までを青い装甲が覆っていた。
ゲーム時の仕様として、腕に装備するアイテムは見た目が和風なら手甲、洋風なら籠手と表示される。大きな違いがあるわけではないが、手甲はAGIに、籠手はVITに多少のボーナスが入る。
バルクスが籠手装備なのは、薄い装甲で防御力が低くなるのを補填するためだろうか。
【分析】によるとバルクスの職業は拳闘士だったので、装備は予想通りだった。だが、鎧や籠手を変身ヒーローのように装着したことにはさすがのシンも驚いた。
【THE NEW GATE】では武具を装備すると、鎧なら体、手甲なら手に光の線がまず浮かび上がり、その後実体化していた。これはアバターの体格を読み取って、最適な大きさに変化するためだ。なのでバルクスのように、少々派手ともいえる変身シーンにはならないのだ。
(…………あんなモーションあったか?)
「どうかしたかね」
「いえ、別に」
とはいえ、バルクスの装着シーンがこの世界では普通かもしれないので、何も言わないでおく。
一方のシンはとくに装備するものがなかった。
どの程度まで力加減すればいいのかだいたいわかっていたので、武器はなしだ。言ってはなんだが、下手に武器を使うとバルクスを殺しかねない。
「では、いくぞ!!」
言った瞬間バルクスの姿が霞み、シンに向かって一直線に突き進んでくる。彼我の距離は10メルほどだったが、瞬時に5メルほどを走破。
「装備がいいと、速いな」
本来なら転生ボーナスも得ていないヒューマンに、これほどの速度は出せない。バルクスの装備がそれを可能にしていることにシンは気づいていた。
「ふっ!」
「なんのっ!」
風を切る音とともに繰り出された拳を受け流し、シンは相手の装備の詳細を確認する。
軽鎧は【青水晶の軽鎧】、籠手は【蒼牙の籠手】と判断した。どちらも店で扱ったことがあるので間違いないだろう。
「いい装備持ってますねっ!」
「苦労してっ! 手にっ! 入れたからねっ!」
バルクスが繰り出す攻撃を、顔をしかめながらことごとく受け流すシン。
【青水晶の軽鎧】は、AGIに高い補正を付与してくれる希少防具。
【蒼牙の籠手】は攻撃力が高い特殊武器で、普通の武器にない能力も備えている。レベル600を誇るユニークモンスター、ブルーミッツハウンドという、近接戦では少々厄介なモンスターの牙が素材だ。主に、無手系武芸スキルを攻撃の主軸とする上級プレイヤーが買い求めることが多かった。
「さすがにそう易々と当たってはくれないか」
「大口叩きましたからね。当然です」
攻撃を受け流すばかりのシンを警戒してか、猛攻を止め一旦距離を取るバルクス。苦笑しながらしゃべっているが、目はシンの実力を見極めようと鋭いままだ。
シンが積極的に攻めないのは、【蒼牙の籠手】に備わる、とある能力を警戒してのことだ。
その能力とは、【相手の攻撃を籠手で防御した際に、防御なしで受けるはずだったダメージの10分の1を、攻撃した相手にはね返す】というものだ。
効果が発動する条件として、直接籠手に攻撃が当たった場合のみ、その攻撃が物理攻撃だった場合のみ、などの制約がある。実力が拮抗している相手と戦うときはじわじわと効いてくる装備だった。
ただ、攻撃した側のSTRが装備者より100以上高かった場合は発動しないため、今のシンにとっては単なる攻撃力を上げる籠手でしかない。
むしろシンが警戒しているのは、【蒼牙の籠手】の効果が発動しないとバルクスに知られることだ。
(さすがに自分の装備くらいは詳しく知ってるだろうしな。もし効果が発生しなかったら、STRの差が100以上だとばれる。それだとレベル以外の要素も絡んでくるし……また詮索されるのも面倒だから、どうにか1発で終わらせたいな)
シンとバルクスのレベルの差であれば、通常STRの差は100未満になる。だが【臨界者】の称号によって、1000以上の違いが生じていた。
ギルドマスターが相手といえど、何でもかんでも話す気はない。
実力者だというのはすでにバレているので、どうにか手を抜きつつ、腕の立つ人物くらいの評価にできないかと、猛攻をさばきながら思案するシン。
顔がしかめっ面になっているのは、そのせいである。
「なにを考えているのかな?」
「あなたが強いので、どう攻めたものかと」
「ふっ。さっきの戦い方から見るに、どうやら私の装備の能力も知っているようだね。あまり知っている者はいないのだが」
「さて、なんのことやら」
軽口を交わし合いながらも、シンは考えることをやめない。
先ほどの攻防でわかったことは、バルクスが手数で勝負するタイプだということだ。
拳闘士は射程距離こそ短いが、その分攻撃速度に秀でているので、バルクスの戦闘スタイルも当然と言える。
問題は【青水晶の軽鎧】による速度増加の影響で、さらに攻撃速度が上がっている点だ。手を抜きながら倒すのは少々難しいだろう。
(厄介なのは籠手だけだよな……ちょっと試してみるか)
現状で使えそうなスキルを確認し、身構える。
その動きにバルクスが反応するよりも早く、シンは踏み出した。
シンの姿が残像とともにバルクスに迫る。シンが立っていた場所では、踏み砕かれた地面の土片が宙を舞っていた。
「しっ!!」
一息で距離を詰め、右の拳を繰り出すシン。
フェイントなしの素直な攻撃だが、その速度はバルクスの反応できるぎりぎりだった。そのため、バルクスは反射的に籠手による防御態勢をとってしまう。
(かかった!)
確信とともにシンが仕掛ける。
バルクスに向けられた自分の拳を籠手に当たる寸前で停止させ、左足でバルクスの足を払う。
「ぐっ!」
とっさに左に跳んで避けようとするバルクスだが、意識がシンの拳に集中していたせいで反応が遅れた。
高速で繰り出された足払いによって、バルクスの体が宙に浮く。
【蒼牙の籠手】は、敵の攻撃が籠手に当たらなければ効果が出ないので、ダメージ反射が発動しなかったと疑われる心配はない。
シンは無防備となったバルクスの籠手をつかみ、間髪容れずに無手系武芸スキル【柳投げ】を発動した。
【柳投げ】はモンスター捕獲用なので、ごく低ダメージしか与えられない技だ。バルクスに致命傷を負わせる可能性はない。一時的に相手を麻痺もしくは気絶状態にする効果もあるが、今回はあらかじめ効果を切ってあるので、ためらうことなくスキルを使用する。
【柳投げ】によってシンに掴まれたバルクスの体が、空中できれいな円を描き、受け身をとる間もなく地面に激突した。シンはとどめに関節技を決める。
「ふう。とりあえずこんなもんでどうです?」
バルクスが動けないことを確認してからシンが問いかけた。【臨界者】の影響がなければ、ここまであっさりと勝負はつかなかっただろう。
「……まさか、こうも簡単に押さえ込まれるとは。不思議とダメージが少ないんだが、最後の技はスキルかい?」
「そこは秘密で。手の内を明かしすぎるのも考えものですんで」
「ははっ、それもそうだ。私の負けだよ。君の実力は見せてもらった。これなら心配なさそうだ」
ようやく解放され、立ち上がったバルクスは再び握手を求めてきた。
「?」
「先ほどのはギルドマスターとしての握手。そしてこれは、月の祠に認められた者同士としての握手だ」
「そういうことですか」
うなずいて握り返すシン。同じ握手のはずだが、前回とは何かが違うような気がした。
「何かあれば言ってくれ。ギルドとしても私個人としてもできる範囲で協力しよう」
「いいんですか? 個人を贔屓なんかして」
「問題ない。ギルドとしてはランクG冒険者に、個人としては友人に手を貸すというだけさ」
組織に属する以上、過剰な助力はできないと言外に伝えているようだ。ギルドの長ともなればそれは当然なので、十分だと返しておく。
訓練場からギルドに戻ると、転移ポイントがある部屋にセリカが待機しており、お疲れさまですと2人にポーションを差し出してくれた。
無傷だったので遠慮しようとしたシンだが、持っていて損はないとバルクスにも勧められたので、もらっておくことにした。
「君の冒険者としての活躍を期待しているよ。ではまた会おう」
バルクスと別れ、セリカとともにギルドのホールへ続く通路を歩く。
「バルクス様との勝負はいかがでしたか?」
無言で歩くのもどうかと思ったのか、セリカはバルクスとの勝負を話題に出してきた。戦っていた時間が思ったより短かったので、気になっているのかもしれない。
「やりにくかったですよ。2度目がないことを祈ります、切実に」
「そうそうあることではありませんから、大丈夫だと思いますが」
「なんかトレーニングの名目で、組み手とかに誘われそうな気がするんですよ……」
たとえ訓練でも、ギルドマスターと戦う事態などもう勘弁してほしい、とため息をつくシン。
一方セリカは、シンの姿に違和感を覚えていた。とてもレベルが200を超えた(実際は上限の255だが)強者には見えないのだ。
高レベルの冒険者は、一般人とは違う威圧的な雰囲気をまとっていることが多い。
仕事柄そういった人物に会う機会の多いセリカでも、未だに慣れず、無意識に体が緊張してしまうことは少なくなかった。
だというのに、若干肩を落としながらため息をつくシンからはそれをまったく感じない。むしろ不思議な安心感のようなものをセリカは抱いていた。
(不思議な人……)
そんなことをセリカが思っているうちに2人はホールに到着した。
「本日はお疲れ様でした。ギルドカードの方は、明日以降でしたら受け取りはいつでもかまいません。ゆっくりお休みになってからいらしてください」
「そうします。あ、もしよかったらお薦めの宿とか教えてもらえません? 今日この街に来たばかりでよくわからないんです」
ダメ元で聞いてみるシン。宿の良し悪しなどわからないが、初日から質の悪い宿になど泊まりたくなかった。
「でしたら住宅区にある宿屋・穴熊亭がよろしいかと。食事もおいしいので、きっと気に入っていただけると思います。ギルドの前の通りを右手側に道沿いにまっすぐ進めば、熊の手が描かれた看板が見えますので、それを目印にしてください」
「……わかりました。穴熊亭ですね。ありがとうございます」
穴熊という単語にふといやな予感がしたシンだが、セリカが紹介してくれるのだから大丈夫だろうと思い直した。
セリカにお礼を言ってギルドを出る。
熊が出ませんように、などと呑気なことを考えながら、宿屋に向けてシンは歩き出した。
†
ギルドを出て歩くこと25分。
シンの目の前には熊の手が描かれた看板があった。セリカの言っていた通りなので、ここが穴熊亭なのだろう。
閉められた扉の奥から、笑い声がひっきりなしに聞こえてくる。実に楽しそうだ。
「ここで間違いないな」
念のため、もう1度看板を確認してから扉に手をかける。ゆっくりと扉を開くと、中の喧噪が一段と大きくなった。
ホールにはカウンター席と多人数用のテーブルが7つあった。テーブルは5つが埋まっていて、どのテーブルも冒険者と思しき集団がジョッキ片手に騒いでいる。
シンが入り口でその様子を眺めていると、背後から差し込んでいた日光がさえぎられた。
はて、と思いつつ振り返る。
「ん?」
視界に入ってきたのは花の刺繍が施されたエプロンと、シンの3倍はあろうかという太さの腕だった。
「いらっしゃい! お1人様か?」
野太い声が頭上から聞こえてきたので、シンは視線を上げる。すると、巌のごときいかつい顔に、凶悪としか言えない笑みを浮かべた人物と目が合った。
「でけぇ……」
シンが思わずつぶやいたのはそんな一言。
シンの身長も180セメルを超えているため、背は高い方だ。しかし、シンの目の前にいる人物はおそらく230セメル近くある。もはや巨人だ。
「どうしたあんちゃん。元気がねえぞ」
「はっ! ええと、あなたは?」
男の言葉に我に返る。けして答えになってはいなかったが。
「俺か? 俺はこの穴熊亭の店主にして看板親父! ドウマ・ベアーだ!」
「……親父……だと?」
「そう! そいつ目当てに人が集まる人気親父! それこそ看板おや――」
「それは看板娘だ!」
耐えきれず、ついツッコミを入れてしまうシン。
「うむ。ナイスなツッコミだ!」
そしてなぜかサムズアップしてくる自称看板親父。
「入る店を間違ったか……」
「そう照れるな、青年」
「いや照れてねぇよ! どう見たらそうなるんだよ!」
いつの間にやら漫才のようになっていた。
「いいぞニイちゃん!!」
「もっとやれ!!」
酔っ払い集団の掛け声にシンはため息をついた。完全に酒の肴状態だ。
「はぁ、別の宿でも探そ――」
「ちょっと何やってるの!!」
そのとき、シンのつぶやきをかき消すように、女性の声が酒場に響いた。
声はドウマの後ろから聞こえたようだが、巨体が邪魔でシンからは声の主が全く見えない。
「父さん? 変なこと言わないでって、いつも頼んでるよね? 妙な噂が立ったらどうするの?」
その口調は穏やかだが、それが怒気をはらんでいることは明白だった。無関係なはずのシンですら、思わずこえぇっと口にしそうになったほどだ。
「いやこれはだな、ちょっとしたドッキリ……」
「うるさい」
言い訳すら一蹴されてしまっていた。さっきの発言から察するに、言葉の主はドウマの娘なのだろうが、説教する側とされる側の立場が逆な気がする。
「ここはあたしがするから、父さんは厨房で母さんの手伝い!」
「わ、わかった」
肩を落としながら厨房へと消えていくドウマ。その背中が一回り小さくなったようにシンが感じたのは、気のせいではないだろう。
「いきなり変な物を見せてごめんなさいね。今日は食事? それとも泊まりかしら?」
ドウマの存在がもはや物扱いである。
それはさておき、ドウマが去ったことで、隠れて見えなかった娘をやっと目にすることができた。
茶色の髪をショートにした少女だ。浮かべた笑みは営業スマイルなのだろうが、それでも十分魅力的だった。きれいよりかわいいという言葉が似合う。
先ほどの会話がなければ、シンはドウマと目の前にいる少女が親子だなどと、考えもしなかっただろう。
「あー、泊まりで、頼む。親父さんはいつもあんな感じなのか?」
「できれば忘れてほしいけど……ときどきね。冒険者は割とノリがいいから大丈夫だけど、商人相手だとフォローがつらいわ。泊まりは夕食と朝食つきでジュール銀貨2枚ね。浴場が使いたいときはその都度申し出て。料金はジュール銅貨4枚。朝食は9の鐘が鳴るまでならいつでも出せるわ」
「はいよ」
宿代のジュール銀貨2枚が高いのか安いのかはわからないが、今の手持ちなら問題ないので了承する。
「いつまでいるかわからないんだが、そういうときはどうすればいいんだ?」
「それなら1日ごとに支払ってもらうか、ある程度の日数分まとめて払ってもらって、足りなくなったら追加で支払ってもらうかのどちらかね。確認だけど、あなた冒険者よね?」
「ああ、今日登録してきたとこ。セリカさんにここを紹介してもらったんだ」
「セリカさんの紹介!? それを早く言ってよ。それならジュール銀貨1枚とジュール銅貨90枚でいいわよ。冒険者ならまとめて支払う方をお勧めするわ。依頼で何日も宿を空けるなんてことはよくあるでしょうし。料金未払いのまま出かけたら、中のものはこっちで処分しちゃうから注意してね」
冒険者にとって長期の依頼というのは珍しくないので、しばらく戻れなくなってしまう。そうなれば1日ごとの支払いなどできないだろう。
危険な依頼を受ける冒険者は死亡する可能性だってある。いつ帰ってくるかわからない冒険者の、しかも料金未払いのままの部屋をそのままにしておくというのは、宿屋から見れば大きなマイナスだ。
「ならまとめて払っておくか。とりあえずこれで」
そう言って懐(のように見せかけてアイテムボックス)から、ジュール金貨を1枚取り出して手渡す。
「50日分ね。あまりの分はどうする?」
「浴場を使うと思うから、そこから使用料を引いといてくれるか?」
「わかったわ。足りなくなったら言うわね。じゃあ宿帳に名前を書いて。もし代筆が必要ならジュール銅貨2枚よ」
「いや、大丈夫だ……これでいいか?」
記帳した宿帳を確認すると、少女は部屋の鍵を手渡してくる。
「……うん大丈夫。シンさんね。じゃあこれ、部屋は2階の201号室よ。貴重品を入れるボックスのことは知ってる?」
「ボックス? いや、初耳だが」
首をかしげるシン。
「なら知っておいて損はないわ。ボックス付きの宿は優良店の証拠なんだから。ボックスっていうのは、一言でいえば貴重品を預ける金庫みたいなものよ。入れた本人か管理者しか開けられなくて、物理攻撃や魔術といった、スキル・アーツから中の物を守ってくれるの。ボックス自体もマジックアイテムなんだけどね。とにかくそれに入れておけば、宿が全壊したって中身は無事って代物なのよ。どう? すごいでしょ! その辺の宿じゃなかなかお目にかかれないんだから」
ボックスの説明をしつつ店の宣伝を付け加えるあたり、たくましいなあとシンは思った。
少なくとも周囲の店よりは優良なのは間違いないだろう。看板親父がいなければ完璧だったのにな……とつい余計なことを考え、笑ってしまいそうになるが、何とかこらえる。
鍵を受け取ったシンはそのまま2階へ上がった。とくに置いておく荷物があるわけではないが、部屋の確認だけしておこうと思ったのだ。
シンの泊まる201号室は2階の一番端にあった。
10畳ほどの室内には、机と椅子、ベッドやクローゼットなどがあり、1人で泊まることを考えれば十分と言えた。
部屋の奥には例のボックスらしきものが見える。他にはそれらしきものもないので間違いないだろう。
そして驚くべきことに、部屋には備え付けトイレ――それも水洗トイレがあった。
そもそも、【THE NEW GATE】にはトイレというものが存在しなかったのだ。
いくらリアリティを追求したといっても、ゲームの中でまで排泄行為をしたいなどと考えた者は、製作者の中にもいなかったのだろう。
広いフィールドを駆け回っているときにもよおして、その最中にモンスターに襲われるなど、雰囲気ぶち壊し、興醒めもいいところである。
デスゲームとなってもそれは変わらなかったので、何気にシンがトイレを目にするのは1年ぶりくらいになる。
穴熊亭の宿としての質から考えれば、部屋ごとにトイレがあるというのは当たり前といえる。
ただ、トイレが必要ない生活を送っていたシンとしては、驚きと懐かしさが入り混じった妙な気分になった。
「まさか、トイレを見て懐かしさを覚える日が来るとは……」
1年振りのトイレ、何も問題なく使えるだろうか……などと、やや不安も覚えたシンだった。
部屋の中を一通り確認すると、しっかり鍵を閉めて階下に降りる。
食事をし、情報収集をするためだ。一応ギルドでも食事を取ったので、そこまでお腹は空いていない。しかし、せっかく料金に食事代が含まれているのだから、食べないのはもったいないという小市民的考えで、料理を頼む気満々のシン。
1階では先ほどと変わらず、冒険者の一団が騒いでいた。
ゲーム時代の癖でついレベルを確認してしまう。【分析・Ⅹ】によると、冒険者の平均レベルは120といったところだ。
そういえば……と、月の祠で見た騎士の集団を思い出す。
あまり詳しく見はしなかったが、彼らのレベルは100~110くらいだったはずだ。
最後に残ったアルディたちはもう少し高レベルだったようだが、この国において冒険者と騎士の力関係はどうなっているんだろうかと益体もないことを考えてしまう。
空いている席に着いて料理を注文し、運ばれてくるまで周囲の喧騒に耳を傾ける。
一定範囲内の声や音を鮮明に聞くことのできる【聞き耳】や、使用者の選択した音を聞こえなくする【ノイズ・キャンセル】といったスキルを使うことで、離れた席にいる相手のつぶやきまで聞き取れるのだ。
ゲームの仕様では、まずメニューが出て、そこに表示されるもの以外は選択できなかった。しかしこの世界に来てからは、選択は使用者、つまりはシンの考え1つで自由に決められるようになっている。
聞こえてくるのは、そのほとんどがどうということのない雑談だ。だが、こういった場所で手に入る情報というのもばかにはできない、とシンは考えた。
多くのゲームでもそうだが、思わぬ場所で思わぬ情報が手に入るというパターンは多いからだ。それが異世界で通用するかは不明だが、そもそもシンにはこの世界の常識すらわからないのだから、些細な話でも聞いておいて損はない。
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