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10巻
10-2
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「あ、シン……えっと、おかえり……」
シンが帰ってきたことに気づいた『お客様』の声が、キッチンから聞こえてきた。声の主は、シンの恋人である女性プレイヤー、マリノだ。
シンのほうへ振り返ったことで、背中まで届くツーテールが空中に茶色の弧を描く。蒼穹を思わせる青い瞳が、シンを躊躇いがちに見つめてきた。
その様子に多少の違和感を覚えたが、それよりもマリノの格好に目を奪われていた。
「……いい」
「シン? どうかしたの?」
シンのつぶやきは聞こえていないはずだが、マリノはなぜか頬をうっすらと染めて尋ねてきた。
白いブラウスと、群青色の生地に黄色のチェック柄が入ったスカート。そして、肩から背中までを覆う丈の短いマントがマリノの基本装備だ。しかし料理の途中だったがゆえに、いつものマントは外し、その上から赤いエプロンをしている。
「あ、ああ、悪い。ただいま。料理してたのか」
マリノのエプロン姿に見惚れていたシンは、慌てて返事をした。その様子にマリノはわずかに首をかしげる。
(エプロン一枚加わっただけなのに、なんでこんなに可愛いと思うのかね?)
女性のエプロン姿を見慣れていないからか、それともマリノだからか。たぶん後者だよな、と考えながら、シンが改めて声をかけようとすると、マリノが先に口を開いた。
「ぁ、ぅぅ……お、おかえりなさい」
「ん? あーっと、ただいま?」
ついさっき同じやり取りをしたよな、とシンが思ったところで、マリノの口から思いもよらない言葉が飛び出す。
「ぉ、おおおふろにする!? 食事にする!? そ、それ、それとも! わたし!?」
「…………」
意味を理解するのに、シンは数秒を要した。言った張本人も、よほど恥ずかしかったのか顔を真っ赤にしてフリーズしている。
その様子はいつもの快活な様子とは打って変わって、とても可愛らしく感じられた。そこでふと、マタタビの「きっといいことがある」という言葉を思い出す。
「……なぁ、今の、マリノを選ぶのは、ありなのか?」
気がつけば、シンはそんなことを口にしていた。
「…………ぅん」
返ってきたのは、ささやくような肯定の言葉。
それを聞いた瞬間、シンはマリノの顎に右手を添え、上を向かせると同時に唇を重ねた。
【THE NEW GATE】において、18禁に指定される行為は御法度だ。しかし、デスゲームとなってからはそれを取り締まる運営もGM(ゲームマスター)もいない。
システム上、本番を含め過剰な行為に至ることはできないが、その分、恋人や夫婦関係のプレイヤーにとって、キスは愛情を確かめ合うとても重要な行為だった。
「……はぁ」
息を止めていたのか、シンが唇を離すとマリノが大きく息を吸い込んだ。その顔は、言い訳のしようがないほど真っ赤に染まっている。
「で、なんでこんなことを? しっかり堪能させてもらっておいてなんだが、マリノってこんなに積極的だったっけ?」
「私だって恥ずかしかったわよ! ていうか顔見るな! み~る~な~!」
真っ赤な顔はそのままに、マリノはシンをぐいぐいと押して後ろを向かせた。背中に顔を押し付けて、シンが首だけ振り向いても顔を見せないようにしている。
第三者がいたなら、いちゃつきの延長にしか見えない光景だ。
「……落ち着いたか?」
「うん。でもシンが余裕ありすぎでちょっともやもやする」
5分ほどすると、シンの背に顔をうずめているせいで多少くぐもってはいたが、マリノの声はようやくいつもの調子を取り戻していた。
「じゃあ改めて聞くけど、何であんなことをしたんだ? 今日って何か特別な日だったっけ?」
「そういうわけじゃないわ。シンが帰ってくる少し前に、マタタビさんからシンが疲れてるみたいって連絡があったの。私も、最近のシンは元気ないから、何か元気づけてあげられないかって思ったのよ。そしたらマタタビさんが……お、男の人なら、あれで、間違いないって……」
そしたらの件から、マリノの顔がまた火照りはじめた。ゲームの演出で、マリノの頭からは湯気が出ている。
シンの脳裏で「ニャフフ」という声が聞こえた気がした。
「なるほど……マタタビさんのあの悪い笑顔はそういうことか」
もちろん、心の中でマタタビに感謝の念を送るのは忘れない。
「それで……あんなので、本当に元気でたの?」
「正直に言って、滅茶苦茶元気でた。これでマリノを抱きしめられたら完璧だな」
「な!? ぅ、ぅぅ……わかったわよ! こ、ここまできたら、やってやろうじゃない!!」
ちょっとした冗談のつもりで言ったのだが、マリノは予想以上の反応を返してきた。落ち着いたと思ったのは気のせいだったようだ。
マリノは、「いつでもこいや!」とばかりにがばっと両腕を広げていた。
(……このままいくのもいいけど、ここはあえて)
悪戯心がうずいたシンは、音を立てないようにマリノの背後に回り込む。両目をつぶっているせいで、マリノはシンが動いたことに気づいていない。
「……?」
いつまで待っても何もないことに疑問を感じたマリノが目を開いた瞬間、シンが背後からマリノを抱きすくめた。
「ひゃぅっ!?」
よほど驚いたのか、マリノは飛び上がらんばかりにビクついていた。
「驚いたか?」
「ぅぅ、いじわる……」
その体勢のまま、シンはちょうど背後にあった椅子に腰かける。マリノはシンの膝の上だ。
「これ、すごく恥ずかしいんだけど……」
「今日はマリノが甘えさせてくれるからな。この際だから、心行くまで堪能させていただきます」
「なんで丁寧口調なひぅ!? ちょ、耳に息が!」
「もちろん、わざとだ」
「なおさらわるふぁ!? だめ、そこ弱……ぉ、おぼえてなさいよ~!」
その後、30分ほど2人の距離はゼロのままだった。
「ええと、今日のメニューはなんでしょうか?」
「オックス・カウのハンバーグと、スープにサラダ。一応パンとライスを用意できるけど、どっちにするのよ?」
「じゃ、じゃあ、ライスで」
調子に乗りすぎてしまったようで、調理中の現在、シンを見るマリノの目は冷たい。手伝いを申し出たシンだったが、いらないの一言で撃沈した。
それでも作ってくれるあたり、心の底から怒っているわけではないのだろう。
あとは焼くだけのハンバーグを見て、シンはおとなしく待つことにした。
マリノの料理スキルはまだまだ低レベルだが、月の祠のキッチンは料理スキルへのプラス補正や調理時間短縮といった補助機能がある。そのため、マリノでも十分おいしい料理が作れるのだ。
「はい、おまたせ」
まだジューという音が聞こえるハンバーグの鉄板皿をトレーに載せて、マリノがキッチンから出てくる。他にも、ライスとスープが湯気を立てていた。
配膳を終え、エプロンを外したマリノが席に着いたのを見計らって、シンは合掌する。
「いただきます」
ハンバーグにナイフを入れる。あふれる肉汁と、一際強くなる肉の香り。ゲームとはいえなかなかの再現度だった。デスゲームとなってから、その再現度は幾分か増しているように思える。
「味覚が実装されててほんとによかった。ただ空腹値を回復するだけだったら病んでるところだ」
美味い食事は明日への活力。味もしない食料アイテムを口にするだけの日々では気力も尽きる。
「ん? どうした、マリノ。顔にソースでもついてるか?」
幸せそうに食事を続けるシンを、いつの間にか穏やかな表情になったマリノが眺めていた。その様子に、シンの緊張感が少しだけ薄れる。
「ううん、違うわ。シンって本当においしそうに食べるなぁって、そう思ってたの」
手料理を喜んで食べてくれるのが嬉しい。マリノの表情にはそんな感情も見え隠れしていた。
「美味いものを食ってれば、自然にそうなるんじゃないか?」
「他の人じゃ、こんなに幸せな気持ちにはならないわ」
その心情を、マリノは隠すことなくシンに伝えた。
シンとしては、じっと見つめられながら食事をするのは少しだけ食べにくかったが、ここでそれを言って再びマリノの機嫌を損ねるようなことは避けたかった。
もとより、マリノならそれほど苦にならないのも事実なのだ。
途中からはマリノも自分の食事に手をつけ始めた。シンがライスとスープを1回ずつお代わりして食事を終えると、2人でソファーに座ってのんびりする。
「やっと、いつものシンに戻ったわね」
ソファーの上で一息ついたところで、マリノがシンの肩に寄りかかりながら言った。
「……俺、そんなにひどい顔してたのか?」
いつもと変わらないつもりだったシンは、軽く驚いて尋ねる。
「シンはね。思い詰めたり、考えすぎたりしていると、段々顔が強張ってくるの。目つきも鋭くなるし。最近はまさにそれだったんだから」
あまり指摘しすぎると逆に負担になるのではないかと、マリノはマリノで悩んでいたらしい。
「根を詰めすぎちゃだめよ。見てるこっちまで元気をなくしちゃう」
「言ってくれていいんだぜ? 自分では気づけないだろうし、というか気づかなかったし」
「タイミングが難しいのよ。昔、それで失敗したことがあるから」
シンの左腕に自身の右腕を回しながら、マリノは言う。いつもなら女性のやわらかい感覚に意識が向くが、今回は俯き気味のマリノのことが気がかりだった。
「それは、リアルで?」
「うん。お前に何がわかるんだ! って怒鳴られちゃった」
「……そうか」
リアルのことについてあまり話さないマリノだが、少し口が軽くなっているようだ。
「わかった。攻略はもう少しゆっくりやることにするよ。そのほうがメリハリがつくだろうし、マリノにも心配をかけずにすみそうだしな」
気の利いた返事ができないことを悔やみつつ、努めて明るく、シンは言った。
肉体的な疲れはなくとも、精神的に参ってしまってはいざというときにへまをしてしまうかもしれない。本来なら起こらないことで心配をかけるのは、シンも本意ではなかった。
「現実世界に戻るのは遅れちまうけど、かんべんな」
「シンが無事でいてくれることのほうが大事よ」
そう言って、マリノは小さく笑った。
「なあ、マリノ。ボス攻略も一段落したし、明日は一緒に行っていいか?」
ステータスの高くないマリノは、初期のホームタウン『カルキア』にある教会で働いている。そこには孤児院が併設されており、年齢の低いプレイヤーを保護していた。マリノの働く孤児院ということで、シンが手を加えており、並の施設ではなくなっているが。
「構わないけど、シンには退屈かもしれないわよ?」
「いいよ。マリノが頑張ってるところを見たいだけだし」
にやりと笑みを浮かべて、シンがマリノを見る。からかうような口調とは裏腹に、シンの表情はとても穏やかだった。
「む~、そんな顔されたら、怒るに怒れないじゃない!」
シンの表情を見たマリノは、怒っていいのか安堵すればいいのか迷っているようだった。最近のシンが決して浮かべないような笑みだったからだ。
「ん? 俺そんな変な顔してたか?」
「はぁ、わかってないならいいわよ。それより、ついてくるって言うなら、子どもたちの相手もしてよね。ゲーム大好きっ子たちだから、話も合うでしょ?」
「男子なら任せろ、たぶん大丈夫だ。女子は任す。俺とはやりこみの方向が結構違うからな」
シンの経験上、マリノをはじめとした女性プレイヤーは、料理やテイムモンスターとのコミュニケーション、裁縫といった、シンがあまり鍛えていないスキルを重視していることが多かった。
そのため、話についていけなくなることもある。さすがのシンも、すべてのスキルやアイテムについて詳しいわけではないのだ。
「そのあたりは、まあ話してみてって感じね。じゃあ、明日に備えて早めに寝ましょう。食器は私が片付けておくから、シンはお風呂に入ってきたら?」
「そうさせてもらうよ。あ、マタタビさんのところでクッキーとマドレーヌ買ってきたんだけど、孤児院に持ってくか?」
「あら、それはいいわね。皆喜ぶわ」
後をマリノに任せ、シンは風呂場へ向かった。
お湯を張った浴槽に身を沈めると、なんとも言いがたい解放感が全身を駆け抜けていく。
「変にリアリティが上がって困ることも多いけど、この感覚を再現してくれたことだけはよかったな」
身も蓋もない言い方をしてしまえば、体が汚れていたところでペナルティなどないし、アバターのスペックが上がるわけでもない。それでもプレイヤー、とくに女性プレイヤーは風呂を求めた。
現実では、それこそ温泉でもなければ大きな効果を感じることはなかったが、この世界で命をかけて戦ったあとの風呂には、それ以上の効果があるように思えたのだ。
命の洗濯とはよく言ったものである。
風呂から上がると冷蔵庫で冷やしてあった牛乳を一気に飲み干し、マリノにお休みと告げて寝室に向かった。
思っていたよりも疲れが溜まっていたようで、布団に倒れ込むと同時に意識が途切れた。
「んぁ?」
どれくらい時間が経っただろうか。シンはふと右腕に違和感を覚えて目を覚ます。
視線を向けると、パジャマ姿になったマリノがいた。甘えるようにシンの右腕にしがみつき、幸せそうに寝息を立てている。
「あー……ん~……まあ、いいか」
寝ぼけた頭に、彼女を部屋に連れて行って寝かせるという選択肢はなかった。
デスゲーム前から恋人同士であり、今ではすでにシステム上の夫婦だ。一緒に寝て何が憚られるのかと、開き直るのは簡単だった。
この際だし、とマリノに抱かれた右腕を抜き、改めて両腕で彼女を抱きしめる。
胸のうちに生じる幸福を感じながら、シンは再び眠りに落ちていった。
†
翌日、シンは揺れを感じて目を覚ました。何か、自分の腕の中で動くものがある。
「……ん?」
昨晩と同じように視線を向けると、真っ赤になったマリノと目が合った。どうやら、シンが起きないうちに腕から抜け出そうとしていたようだ。
「ぁ、ぁぅぁぅ……」
「……おはよう」
恥ずかしさのあまり言葉が出てこないマリノに、シンはとりあえず朝の挨拶をした。
「お、おはよう。それで、にゃん……なんで私、シンに抱きしめられてるの?」
シンは緩い笑みを浮かべながら、可愛らしい噛み方をしたマリノに答える。
「昨日布団にもぐりこんできたから、抱き枕にした」
「わ、わたし、寝ぼけてなんてことを」
「システム上とはいえ一応夫婦なんだし、いいんじゃないか?」
「恥ずかしいの! ぅぅ、きっとだらしない寝顔を見られたんだ……」
よほど恥ずかしかったのか、シンのハグから解放されたマリノは、顔を両手で覆ってベッドの上で悶えていた。パジャマがはだけて、おへそが丸見えである。
「寝顔くらい、何度も見てるだろ? お互いにさ」
「昨日のはだめなの! あんな夢見てたんだもん。きっと、だらしない顔だったに違いないわ……」
シンの記憶に残っているのは幸せそうな寝顔だけだ。しかし、言ってもマリノは信じそうになかった。
「なるほどなるほど、あんな夢、か……それはどんな夢なのかな?」
シンは問い詰める。
「い……」
「い?」
「言えるかばかぁ!!」
「ぐはっ!?」
ニヤついていたシンに見事なアッパーを決め、マリノは部屋を出ていってしまった。
1人取り残されたシンは、やりすぎたかと痛くもない顎をさすった。
「申し訳ありませんでした。からかいすぎました」
「もう、丁寧に謝れば許してもらえると思って」
朝食の席で潔く頭を下げたシンに、マリノが呆れたように言う。マリノの場合、変に取り繕うよりも、素直に謝ったほうが許してくれる可能性が高いと、シンは経験で知っているのだ。
もちろん、シンの思惑など、マリノはとっくに見抜いている。
「はぁ、わかったわよ。その代わり、今日はしっかり働いてもらいますからね」
「は、頑張らせていただきます」
「もういいから! さっさとご飯食べちゃうわよ!」
マリノに急かされて、いつもより早く食事をすませる。
孤児院で何をするかは移動中に聞く予定だ。とくに持っていくべきものはないらしい。
「いってらっしゃいませ」
「あとよろしくな」
シュニーに一声かけて、シンとマリノはカルキアへ転移する。
人ごみを歩いていると、シンは複数の視線を感じた。装備が違うとはいえ、シンの顔を知っている者がいたのだろう。もはや気にはしないが、街に出ればこういうこともある。
「あ! ねーちゃんだ!」
2人が孤児院に着くと、男の子の声がした。孤児院横の広場から2人の少年が駆け寄ってくる。手にはダメージを受けないネタ装備、スポンジブレードが握られていた。
どちらも身長150セメルくらいで、小学校高学年か中学生くらいに見える。
あどけなさの残る顔立ちは、アバターの設定をいじっていないからだろう。アバターを自動設定モードにすると、年齢に即した外見が作られるのだ。
「こっちの人は誰?」
「まさか、ねーちゃんの彼氏か!?」
「この人はシンっていって、今日は私の手伝いをしてくれるの」
彼氏かという疑問をスルーして、マリノは少年たちにシンを紹介する。
シンも孤児院へは何度か訪れていたが、この2人と会うのは初めてだった。
「【分析】で見えてるとは思うけど、一応シンにも紹介しておくわね。こっちの黒髪の子がリョウヘイ、茶髪の子がテッペイよ」
「よろしく」
「よろしくな!」
リョウヘイは大人しく、テッペイは元気よく挨拶してきた。
マリノによると、高レベルプレイヤーが付き添って、レベルの低いモンスターが出る場所で狩りをすることもあるらしい。孤児院にいるときは持ち前の腕白さを発揮するため、問題児2人組として扱われているのだとか。
「エーミルさんは?」
「中にいる。ルカがまた泣いちゃったんだよ」
孤児院を運営するプレイヤーの所在を確認したマリノは、挨拶をしてくると言って、孤児院の中に入っていった。
「なあなあ兄ちゃん。兄ちゃんて攻略の前線とか行ったことある? エーミル姉ちゃんは危ないとこ行かせてくれないんだよ」
「行きたいなら、もう少しレベルを上げないとだめだな。パンチが掠っただけで死ぬぞ」
「テッペイは行かないほうがいい。突っ走ってすぐ死にそうだし」
シンの返答に合わせて、リョウヘイがやれやれといった風な仕草をした。
「なんだとー!」
「俺から一本取れないうちは、まだまだひよっこ」
孤児院内でのヒエラルキーは、リョウヘイのほうが上のようだ。
シンそっちのけでチャンバラを始める少年2人を前に、どうしたもんかと周囲を見回した。
「ん?」
そんなシンの視界の端を、小さな影が掠める。シンがそちらに視線を向けると、木の幹の後ろからそーっと顔を覗かせる幼女の姿が見えた。
シンと目が合った瞬間、幼女はさっと木の陰に隠れる。しかし悲しきかな。獣耳と猫科のものらしき細長い尻尾が、隠しきれていない。ぴくぴく動くそれは、シンの様子を窺っているようだ。
ふむ、と顎に手を当て、シンはゆっくりと近づいていく。幼女が顔を出したときは動きを止め、隠れるとまた進む。
(恐がられてるわけじゃないのか?)
シンが近づいているのはわかっているはずだが、幼女は逃げようとしていなかった。初対面のはずなので警戒されていると思っていたのだが、そうでもないらしい。
少しボーっとした顔で、チラッと顔を覗かせてはサッと隠れるを繰り返している。
そうこうしているうちに、シンは幼女が隠れている木のそばまで辿り着いた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
挨拶をしてみると、ささやくような音量で返事があった。隠れる気があるのかないのか、木の陰から顔だけを出してシンを見上げている。
体を傾けているので、肩あたりまである茶色の髪が垂れていた。
「えーと、初めましてだよな。俺はマリノの手伝いで来た、シンっていうんだ。君は?」
「……ルカ」
「ルカちゃんか。今日はよろしく」
「ん」
小さくうなずいて、ルカは木の後ろから出てきた。身長は110セメルあるかないかといったところ。髪と同じ色の獣耳が、時折ぴくぴく動いている。
ゲームの設定上、身長は現実世界とほぼ同じだ。この手のゲームをやる年頃にしてはいささか小柄すぎる、つまり幼すぎるようにシンには思えた。
「あ! ルカ! せんせーが探してたぞ!」
振り返ると、テッペイとリョウヘイ、その後ろにマリノともう1人、シスター服の女性がいた。
テッペイの声を聞いたルカは、ビクッと身をすくませてシンの後ろに回り込んだ。上着の裾を握る手が少し震えている。
「テッペイ、声が大きい。ルカが恐がるだろ」
「う、ご、ごめん」
驚かせるつもりはなかったようで、テッペイはすぐに謝った。
「ルカちゃん、こんなところにいたのね。心配したわよ」
「……ごめんなさい」
追いついてきたマリノが、ルカに視線を合わせて言う。
「ほれ、まずは孤児院に戻るぞ。とくにリョウヘイとテッペイ! お前らはガロッゾさんとこに行く準備してねぇだろ! ぼさっと突っ立ってねぇでとっとと準備しろ!」
「了解であります!」
大声で告げられた少年2人組は、全力ダッシュで孤児院に戻っていった。
指示を出したのは、孤児院の代表エーミルだ。背中まである色素の薄い青髪に、エメラルドを彷彿とさせる瞳を持つ美女である。
シスター服に身を包んだ姿は一見、敬虔な信徒を思わせる。しかしその口調と性格は、人の思い描くシスター像とはかけ離れていた。
口は悪く、手が出るのも早い。その反面なんだかんだで面倒見がよく、頼りがいがある。
孤児院で子どもの面倒を見ている姿は、シスターというより肝っ玉母さんだとシンは思っていた。
もちろん、本人にそれを言ったことはない。言えば、エーミルの基本装備である釘バットが血を求めるからだ。釘バットはダメージよりも、そのビジュアルが恐ろしいと評判だった。
「マリノはルカと一緒にいつもの内職の手伝いを頼む」
「まかせて」
「ルカもマリノの言うことをちゃんと聞けよ」
「ん、わかった」
内職とはNPCから出されるクエストのことだ。フィールドで狩りをして稼ぐことが難しいプレイヤーの多い孤児院では、貴重な収入源となっている。
マリノはすでに幾度となくこなしているので、手伝いに不安はないだろう。
ルカもエーミルの言葉にしっかりとうなずいていた。
シンが帰ってきたことに気づいた『お客様』の声が、キッチンから聞こえてきた。声の主は、シンの恋人である女性プレイヤー、マリノだ。
シンのほうへ振り返ったことで、背中まで届くツーテールが空中に茶色の弧を描く。蒼穹を思わせる青い瞳が、シンを躊躇いがちに見つめてきた。
その様子に多少の違和感を覚えたが、それよりもマリノの格好に目を奪われていた。
「……いい」
「シン? どうかしたの?」
シンのつぶやきは聞こえていないはずだが、マリノはなぜか頬をうっすらと染めて尋ねてきた。
白いブラウスと、群青色の生地に黄色のチェック柄が入ったスカート。そして、肩から背中までを覆う丈の短いマントがマリノの基本装備だ。しかし料理の途中だったがゆえに、いつものマントは外し、その上から赤いエプロンをしている。
「あ、ああ、悪い。ただいま。料理してたのか」
マリノのエプロン姿に見惚れていたシンは、慌てて返事をした。その様子にマリノはわずかに首をかしげる。
(エプロン一枚加わっただけなのに、なんでこんなに可愛いと思うのかね?)
女性のエプロン姿を見慣れていないからか、それともマリノだからか。たぶん後者だよな、と考えながら、シンが改めて声をかけようとすると、マリノが先に口を開いた。
「ぁ、ぅぅ……お、おかえりなさい」
「ん? あーっと、ただいま?」
ついさっき同じやり取りをしたよな、とシンが思ったところで、マリノの口から思いもよらない言葉が飛び出す。
「ぉ、おおおふろにする!? 食事にする!? そ、それ、それとも! わたし!?」
「…………」
意味を理解するのに、シンは数秒を要した。言った張本人も、よほど恥ずかしかったのか顔を真っ赤にしてフリーズしている。
その様子はいつもの快活な様子とは打って変わって、とても可愛らしく感じられた。そこでふと、マタタビの「きっといいことがある」という言葉を思い出す。
「……なぁ、今の、マリノを選ぶのは、ありなのか?」
気がつけば、シンはそんなことを口にしていた。
「…………ぅん」
返ってきたのは、ささやくような肯定の言葉。
それを聞いた瞬間、シンはマリノの顎に右手を添え、上を向かせると同時に唇を重ねた。
【THE NEW GATE】において、18禁に指定される行為は御法度だ。しかし、デスゲームとなってからはそれを取り締まる運営もGM(ゲームマスター)もいない。
システム上、本番を含め過剰な行為に至ることはできないが、その分、恋人や夫婦関係のプレイヤーにとって、キスは愛情を確かめ合うとても重要な行為だった。
「……はぁ」
息を止めていたのか、シンが唇を離すとマリノが大きく息を吸い込んだ。その顔は、言い訳のしようがないほど真っ赤に染まっている。
「で、なんでこんなことを? しっかり堪能させてもらっておいてなんだが、マリノってこんなに積極的だったっけ?」
「私だって恥ずかしかったわよ! ていうか顔見るな! み~る~な~!」
真っ赤な顔はそのままに、マリノはシンをぐいぐいと押して後ろを向かせた。背中に顔を押し付けて、シンが首だけ振り向いても顔を見せないようにしている。
第三者がいたなら、いちゃつきの延長にしか見えない光景だ。
「……落ち着いたか?」
「うん。でもシンが余裕ありすぎでちょっともやもやする」
5分ほどすると、シンの背に顔をうずめているせいで多少くぐもってはいたが、マリノの声はようやくいつもの調子を取り戻していた。
「じゃあ改めて聞くけど、何であんなことをしたんだ? 今日って何か特別な日だったっけ?」
「そういうわけじゃないわ。シンが帰ってくる少し前に、マタタビさんからシンが疲れてるみたいって連絡があったの。私も、最近のシンは元気ないから、何か元気づけてあげられないかって思ったのよ。そしたらマタタビさんが……お、男の人なら、あれで、間違いないって……」
そしたらの件から、マリノの顔がまた火照りはじめた。ゲームの演出で、マリノの頭からは湯気が出ている。
シンの脳裏で「ニャフフ」という声が聞こえた気がした。
「なるほど……マタタビさんのあの悪い笑顔はそういうことか」
もちろん、心の中でマタタビに感謝の念を送るのは忘れない。
「それで……あんなので、本当に元気でたの?」
「正直に言って、滅茶苦茶元気でた。これでマリノを抱きしめられたら完璧だな」
「な!? ぅ、ぅぅ……わかったわよ! こ、ここまできたら、やってやろうじゃない!!」
ちょっとした冗談のつもりで言ったのだが、マリノは予想以上の反応を返してきた。落ち着いたと思ったのは気のせいだったようだ。
マリノは、「いつでもこいや!」とばかりにがばっと両腕を広げていた。
(……このままいくのもいいけど、ここはあえて)
悪戯心がうずいたシンは、音を立てないようにマリノの背後に回り込む。両目をつぶっているせいで、マリノはシンが動いたことに気づいていない。
「……?」
いつまで待っても何もないことに疑問を感じたマリノが目を開いた瞬間、シンが背後からマリノを抱きすくめた。
「ひゃぅっ!?」
よほど驚いたのか、マリノは飛び上がらんばかりにビクついていた。
「驚いたか?」
「ぅぅ、いじわる……」
その体勢のまま、シンはちょうど背後にあった椅子に腰かける。マリノはシンの膝の上だ。
「これ、すごく恥ずかしいんだけど……」
「今日はマリノが甘えさせてくれるからな。この際だから、心行くまで堪能させていただきます」
「なんで丁寧口調なひぅ!? ちょ、耳に息が!」
「もちろん、わざとだ」
「なおさらわるふぁ!? だめ、そこ弱……ぉ、おぼえてなさいよ~!」
その後、30分ほど2人の距離はゼロのままだった。
「ええと、今日のメニューはなんでしょうか?」
「オックス・カウのハンバーグと、スープにサラダ。一応パンとライスを用意できるけど、どっちにするのよ?」
「じゃ、じゃあ、ライスで」
調子に乗りすぎてしまったようで、調理中の現在、シンを見るマリノの目は冷たい。手伝いを申し出たシンだったが、いらないの一言で撃沈した。
それでも作ってくれるあたり、心の底から怒っているわけではないのだろう。
あとは焼くだけのハンバーグを見て、シンはおとなしく待つことにした。
マリノの料理スキルはまだまだ低レベルだが、月の祠のキッチンは料理スキルへのプラス補正や調理時間短縮といった補助機能がある。そのため、マリノでも十分おいしい料理が作れるのだ。
「はい、おまたせ」
まだジューという音が聞こえるハンバーグの鉄板皿をトレーに載せて、マリノがキッチンから出てくる。他にも、ライスとスープが湯気を立てていた。
配膳を終え、エプロンを外したマリノが席に着いたのを見計らって、シンは合掌する。
「いただきます」
ハンバーグにナイフを入れる。あふれる肉汁と、一際強くなる肉の香り。ゲームとはいえなかなかの再現度だった。デスゲームとなってから、その再現度は幾分か増しているように思える。
「味覚が実装されててほんとによかった。ただ空腹値を回復するだけだったら病んでるところだ」
美味い食事は明日への活力。味もしない食料アイテムを口にするだけの日々では気力も尽きる。
「ん? どうした、マリノ。顔にソースでもついてるか?」
幸せそうに食事を続けるシンを、いつの間にか穏やかな表情になったマリノが眺めていた。その様子に、シンの緊張感が少しだけ薄れる。
「ううん、違うわ。シンって本当においしそうに食べるなぁって、そう思ってたの」
手料理を喜んで食べてくれるのが嬉しい。マリノの表情にはそんな感情も見え隠れしていた。
「美味いものを食ってれば、自然にそうなるんじゃないか?」
「他の人じゃ、こんなに幸せな気持ちにはならないわ」
その心情を、マリノは隠すことなくシンに伝えた。
シンとしては、じっと見つめられながら食事をするのは少しだけ食べにくかったが、ここでそれを言って再びマリノの機嫌を損ねるようなことは避けたかった。
もとより、マリノならそれほど苦にならないのも事実なのだ。
途中からはマリノも自分の食事に手をつけ始めた。シンがライスとスープを1回ずつお代わりして食事を終えると、2人でソファーに座ってのんびりする。
「やっと、いつものシンに戻ったわね」
ソファーの上で一息ついたところで、マリノがシンの肩に寄りかかりながら言った。
「……俺、そんなにひどい顔してたのか?」
いつもと変わらないつもりだったシンは、軽く驚いて尋ねる。
「シンはね。思い詰めたり、考えすぎたりしていると、段々顔が強張ってくるの。目つきも鋭くなるし。最近はまさにそれだったんだから」
あまり指摘しすぎると逆に負担になるのではないかと、マリノはマリノで悩んでいたらしい。
「根を詰めすぎちゃだめよ。見てるこっちまで元気をなくしちゃう」
「言ってくれていいんだぜ? 自分では気づけないだろうし、というか気づかなかったし」
「タイミングが難しいのよ。昔、それで失敗したことがあるから」
シンの左腕に自身の右腕を回しながら、マリノは言う。いつもなら女性のやわらかい感覚に意識が向くが、今回は俯き気味のマリノのことが気がかりだった。
「それは、リアルで?」
「うん。お前に何がわかるんだ! って怒鳴られちゃった」
「……そうか」
リアルのことについてあまり話さないマリノだが、少し口が軽くなっているようだ。
「わかった。攻略はもう少しゆっくりやることにするよ。そのほうがメリハリがつくだろうし、マリノにも心配をかけずにすみそうだしな」
気の利いた返事ができないことを悔やみつつ、努めて明るく、シンは言った。
肉体的な疲れはなくとも、精神的に参ってしまってはいざというときにへまをしてしまうかもしれない。本来なら起こらないことで心配をかけるのは、シンも本意ではなかった。
「現実世界に戻るのは遅れちまうけど、かんべんな」
「シンが無事でいてくれることのほうが大事よ」
そう言って、マリノは小さく笑った。
「なあ、マリノ。ボス攻略も一段落したし、明日は一緒に行っていいか?」
ステータスの高くないマリノは、初期のホームタウン『カルキア』にある教会で働いている。そこには孤児院が併設されており、年齢の低いプレイヤーを保護していた。マリノの働く孤児院ということで、シンが手を加えており、並の施設ではなくなっているが。
「構わないけど、シンには退屈かもしれないわよ?」
「いいよ。マリノが頑張ってるところを見たいだけだし」
にやりと笑みを浮かべて、シンがマリノを見る。からかうような口調とは裏腹に、シンの表情はとても穏やかだった。
「む~、そんな顔されたら、怒るに怒れないじゃない!」
シンの表情を見たマリノは、怒っていいのか安堵すればいいのか迷っているようだった。最近のシンが決して浮かべないような笑みだったからだ。
「ん? 俺そんな変な顔してたか?」
「はぁ、わかってないならいいわよ。それより、ついてくるって言うなら、子どもたちの相手もしてよね。ゲーム大好きっ子たちだから、話も合うでしょ?」
「男子なら任せろ、たぶん大丈夫だ。女子は任す。俺とはやりこみの方向が結構違うからな」
シンの経験上、マリノをはじめとした女性プレイヤーは、料理やテイムモンスターとのコミュニケーション、裁縫といった、シンがあまり鍛えていないスキルを重視していることが多かった。
そのため、話についていけなくなることもある。さすがのシンも、すべてのスキルやアイテムについて詳しいわけではないのだ。
「そのあたりは、まあ話してみてって感じね。じゃあ、明日に備えて早めに寝ましょう。食器は私が片付けておくから、シンはお風呂に入ってきたら?」
「そうさせてもらうよ。あ、マタタビさんのところでクッキーとマドレーヌ買ってきたんだけど、孤児院に持ってくか?」
「あら、それはいいわね。皆喜ぶわ」
後をマリノに任せ、シンは風呂場へ向かった。
お湯を張った浴槽に身を沈めると、なんとも言いがたい解放感が全身を駆け抜けていく。
「変にリアリティが上がって困ることも多いけど、この感覚を再現してくれたことだけはよかったな」
身も蓋もない言い方をしてしまえば、体が汚れていたところでペナルティなどないし、アバターのスペックが上がるわけでもない。それでもプレイヤー、とくに女性プレイヤーは風呂を求めた。
現実では、それこそ温泉でもなければ大きな効果を感じることはなかったが、この世界で命をかけて戦ったあとの風呂には、それ以上の効果があるように思えたのだ。
命の洗濯とはよく言ったものである。
風呂から上がると冷蔵庫で冷やしてあった牛乳を一気に飲み干し、マリノにお休みと告げて寝室に向かった。
思っていたよりも疲れが溜まっていたようで、布団に倒れ込むと同時に意識が途切れた。
「んぁ?」
どれくらい時間が経っただろうか。シンはふと右腕に違和感を覚えて目を覚ます。
視線を向けると、パジャマ姿になったマリノがいた。甘えるようにシンの右腕にしがみつき、幸せそうに寝息を立てている。
「あー……ん~……まあ、いいか」
寝ぼけた頭に、彼女を部屋に連れて行って寝かせるという選択肢はなかった。
デスゲーム前から恋人同士であり、今ではすでにシステム上の夫婦だ。一緒に寝て何が憚られるのかと、開き直るのは簡単だった。
この際だし、とマリノに抱かれた右腕を抜き、改めて両腕で彼女を抱きしめる。
胸のうちに生じる幸福を感じながら、シンは再び眠りに落ちていった。
†
翌日、シンは揺れを感じて目を覚ました。何か、自分の腕の中で動くものがある。
「……ん?」
昨晩と同じように視線を向けると、真っ赤になったマリノと目が合った。どうやら、シンが起きないうちに腕から抜け出そうとしていたようだ。
「ぁ、ぁぅぁぅ……」
「……おはよう」
恥ずかしさのあまり言葉が出てこないマリノに、シンはとりあえず朝の挨拶をした。
「お、おはよう。それで、にゃん……なんで私、シンに抱きしめられてるの?」
シンは緩い笑みを浮かべながら、可愛らしい噛み方をしたマリノに答える。
「昨日布団にもぐりこんできたから、抱き枕にした」
「わ、わたし、寝ぼけてなんてことを」
「システム上とはいえ一応夫婦なんだし、いいんじゃないか?」
「恥ずかしいの! ぅぅ、きっとだらしない寝顔を見られたんだ……」
よほど恥ずかしかったのか、シンのハグから解放されたマリノは、顔を両手で覆ってベッドの上で悶えていた。パジャマがはだけて、おへそが丸見えである。
「寝顔くらい、何度も見てるだろ? お互いにさ」
「昨日のはだめなの! あんな夢見てたんだもん。きっと、だらしない顔だったに違いないわ……」
シンの記憶に残っているのは幸せそうな寝顔だけだ。しかし、言ってもマリノは信じそうになかった。
「なるほどなるほど、あんな夢、か……それはどんな夢なのかな?」
シンは問い詰める。
「い……」
「い?」
「言えるかばかぁ!!」
「ぐはっ!?」
ニヤついていたシンに見事なアッパーを決め、マリノは部屋を出ていってしまった。
1人取り残されたシンは、やりすぎたかと痛くもない顎をさすった。
「申し訳ありませんでした。からかいすぎました」
「もう、丁寧に謝れば許してもらえると思って」
朝食の席で潔く頭を下げたシンに、マリノが呆れたように言う。マリノの場合、変に取り繕うよりも、素直に謝ったほうが許してくれる可能性が高いと、シンは経験で知っているのだ。
もちろん、シンの思惑など、マリノはとっくに見抜いている。
「はぁ、わかったわよ。その代わり、今日はしっかり働いてもらいますからね」
「は、頑張らせていただきます」
「もういいから! さっさとご飯食べちゃうわよ!」
マリノに急かされて、いつもより早く食事をすませる。
孤児院で何をするかは移動中に聞く予定だ。とくに持っていくべきものはないらしい。
「いってらっしゃいませ」
「あとよろしくな」
シュニーに一声かけて、シンとマリノはカルキアへ転移する。
人ごみを歩いていると、シンは複数の視線を感じた。装備が違うとはいえ、シンの顔を知っている者がいたのだろう。もはや気にはしないが、街に出ればこういうこともある。
「あ! ねーちゃんだ!」
2人が孤児院に着くと、男の子の声がした。孤児院横の広場から2人の少年が駆け寄ってくる。手にはダメージを受けないネタ装備、スポンジブレードが握られていた。
どちらも身長150セメルくらいで、小学校高学年か中学生くらいに見える。
あどけなさの残る顔立ちは、アバターの設定をいじっていないからだろう。アバターを自動設定モードにすると、年齢に即した外見が作られるのだ。
「こっちの人は誰?」
「まさか、ねーちゃんの彼氏か!?」
「この人はシンっていって、今日は私の手伝いをしてくれるの」
彼氏かという疑問をスルーして、マリノは少年たちにシンを紹介する。
シンも孤児院へは何度か訪れていたが、この2人と会うのは初めてだった。
「【分析】で見えてるとは思うけど、一応シンにも紹介しておくわね。こっちの黒髪の子がリョウヘイ、茶髪の子がテッペイよ」
「よろしく」
「よろしくな!」
リョウヘイは大人しく、テッペイは元気よく挨拶してきた。
マリノによると、高レベルプレイヤーが付き添って、レベルの低いモンスターが出る場所で狩りをすることもあるらしい。孤児院にいるときは持ち前の腕白さを発揮するため、問題児2人組として扱われているのだとか。
「エーミルさんは?」
「中にいる。ルカがまた泣いちゃったんだよ」
孤児院を運営するプレイヤーの所在を確認したマリノは、挨拶をしてくると言って、孤児院の中に入っていった。
「なあなあ兄ちゃん。兄ちゃんて攻略の前線とか行ったことある? エーミル姉ちゃんは危ないとこ行かせてくれないんだよ」
「行きたいなら、もう少しレベルを上げないとだめだな。パンチが掠っただけで死ぬぞ」
「テッペイは行かないほうがいい。突っ走ってすぐ死にそうだし」
シンの返答に合わせて、リョウヘイがやれやれといった風な仕草をした。
「なんだとー!」
「俺から一本取れないうちは、まだまだひよっこ」
孤児院内でのヒエラルキーは、リョウヘイのほうが上のようだ。
シンそっちのけでチャンバラを始める少年2人を前に、どうしたもんかと周囲を見回した。
「ん?」
そんなシンの視界の端を、小さな影が掠める。シンがそちらに視線を向けると、木の幹の後ろからそーっと顔を覗かせる幼女の姿が見えた。
シンと目が合った瞬間、幼女はさっと木の陰に隠れる。しかし悲しきかな。獣耳と猫科のものらしき細長い尻尾が、隠しきれていない。ぴくぴく動くそれは、シンの様子を窺っているようだ。
ふむ、と顎に手を当て、シンはゆっくりと近づいていく。幼女が顔を出したときは動きを止め、隠れるとまた進む。
(恐がられてるわけじゃないのか?)
シンが近づいているのはわかっているはずだが、幼女は逃げようとしていなかった。初対面のはずなので警戒されていると思っていたのだが、そうでもないらしい。
少しボーっとした顔で、チラッと顔を覗かせてはサッと隠れるを繰り返している。
そうこうしているうちに、シンは幼女が隠れている木のそばまで辿り着いた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
挨拶をしてみると、ささやくような音量で返事があった。隠れる気があるのかないのか、木の陰から顔だけを出してシンを見上げている。
体を傾けているので、肩あたりまである茶色の髪が垂れていた。
「えーと、初めましてだよな。俺はマリノの手伝いで来た、シンっていうんだ。君は?」
「……ルカ」
「ルカちゃんか。今日はよろしく」
「ん」
小さくうなずいて、ルカは木の後ろから出てきた。身長は110セメルあるかないかといったところ。髪と同じ色の獣耳が、時折ぴくぴく動いている。
ゲームの設定上、身長は現実世界とほぼ同じだ。この手のゲームをやる年頃にしてはいささか小柄すぎる、つまり幼すぎるようにシンには思えた。
「あ! ルカ! せんせーが探してたぞ!」
振り返ると、テッペイとリョウヘイ、その後ろにマリノともう1人、シスター服の女性がいた。
テッペイの声を聞いたルカは、ビクッと身をすくませてシンの後ろに回り込んだ。上着の裾を握る手が少し震えている。
「テッペイ、声が大きい。ルカが恐がるだろ」
「う、ご、ごめん」
驚かせるつもりはなかったようで、テッペイはすぐに謝った。
「ルカちゃん、こんなところにいたのね。心配したわよ」
「……ごめんなさい」
追いついてきたマリノが、ルカに視線を合わせて言う。
「ほれ、まずは孤児院に戻るぞ。とくにリョウヘイとテッペイ! お前らはガロッゾさんとこに行く準備してねぇだろ! ぼさっと突っ立ってねぇでとっとと準備しろ!」
「了解であります!」
大声で告げられた少年2人組は、全力ダッシュで孤児院に戻っていった。
指示を出したのは、孤児院の代表エーミルだ。背中まである色素の薄い青髪に、エメラルドを彷彿とさせる瞳を持つ美女である。
シスター服に身を包んだ姿は一見、敬虔な信徒を思わせる。しかしその口調と性格は、人の思い描くシスター像とはかけ離れていた。
口は悪く、手が出るのも早い。その反面なんだかんだで面倒見がよく、頼りがいがある。
孤児院で子どもの面倒を見ている姿は、シスターというより肝っ玉母さんだとシンは思っていた。
もちろん、本人にそれを言ったことはない。言えば、エーミルの基本装備である釘バットが血を求めるからだ。釘バットはダメージよりも、そのビジュアルが恐ろしいと評判だった。
「マリノはルカと一緒にいつもの内職の手伝いを頼む」
「まかせて」
「ルカもマリノの言うことをちゃんと聞けよ」
「ん、わかった」
内職とはNPCから出されるクエストのことだ。フィールドで狩りをして稼ぐことが難しいプレイヤーの多い孤児院では、貴重な収入源となっている。
マリノはすでに幾度となくこなしているので、手伝いに不安はないだろう。
ルカもエーミルの言葉にしっかりとうなずいていた。
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