モナムール

葵樹 楓

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花壇の中

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「遅かったじゃない。無駄話が弾んだのね」
 
 マシェリーが戻るや否や、夫人は鏡に向かいながら、そんな嫌味を言った。

「で、何だったのよ」

 夫人はパタパタと化粧をしながら、髪をいじったり、服の袖をいじったりと、一度も彼女のことを見ることはない。

「フランツブルグ様が奥様とお会いになりたいそうで…」
「はあ? まだ言ってるの?」
「はい…。それと、これを…」

 マシェリーは夫人のそばのテーブルに、渡された一輪のガーベラを置いた。

 夫人はそれを見、不機嫌そうに眉をひそめる。

「何よ、これ」
「フランツブルグ様から、奥様にと…」
「はあ? ふざけているの?」

 夫人は呆れると同時に、嘲笑した。

「女性に花を贈るのに一輪だけって、なんて常識知らずなの! もう、これだから分かっていない男は嫌なのよ」

 まるで汚らしい物を払いのけるように花を落とすと、ため息をつきながら化粧を続けるのだった。

「もういいわ、これ以上無視しても鬱陶しいだけね。一度だけ会ってあげるわ。その時に別れをほのめかせば、流石に馬鹿でもなきゃ分からないはずないわよね。手紙を出しておいて頂戴」 
「承知しました…」

 マシェリーは花を拾い、うつむいていた。

 こんなにも想いが伝わるものだというのに、なんて残酷な。夫人のその無慈悲さに、悲嘆していたのであった。

 しかし、そんなことを微塵も思わない、この冷血無比な夫人は、リップを塗った後、小さな鞄を手に持って、今一度身だしなみを確認していた。

「これからサヘラベートの家に行ってくるから。晩餐はいらないわ」
「いつお戻りになりますか…?」
「さあね。馬車を用意しなさい、さっさとしてよね」

 気取ったように言うと、部屋のドアを開け、コツコツを歩いて行く。

 その時、彼女は、少しだけ大きな声で言った。

「お花はどういたしましょうか」

 夫人は、振り返りもせずに、一言。

「アナタ、馬鹿なの?」

 赤く彩られた哀れな花は、花壇の隅の方に置いておかれることになった。


 マシェリーは、伯爵夫人から言いつけられた通り、一筆したためて、フランツブルグへと送った。返事が早かったのは、言うまでもない。

 しかしながら、その手紙の届き方というのは、今までとは変わったものであった。

 その日の朝、マシェリーがいつものようにポストを開けても、赤い狼の紋章は見えなかったのである。

 どうしたのかと、少し心配にもなったが、もしかしたら配達が遅れているだけかもしれない。

 夫人が目を通すわけでもない。そう思って、気にしないことにしておいた。


 今日はいつものことながら、昼間から夫人が外出している。

 そういう時、メイドはたいてい、夫人の部屋を掃除することになっているのだ。
 マシェリーはその習慣に従って、広く、装飾の溢れる部屋を掃除していた。

 床掃除、整理整頓と、一通りの仕事を済ませ、彼女が窓を拭いている時のこと。

 ふと、窓の外に何かがぶつかって、コツン、と音が鳴った。

 彼女は小首をかしげながら、そっと窓を開けてみる。

 すると。

「こっち!」

 と、辺りをはばかるような声が聞こえてきた。どうやら、その声は下の方から聞こえるらしい。

 彼女がその声のする方向に目を向けると、驚くべきことに、先日使者としてやって来た男、ラムールが、花壇の影に身をひそめながら、彼女の方に手を振っていた。

「すまないのだけれど、こちらまで来てくれないだろうか。私はここまでしか入れなくてね」
「ど、どうやってそこに、」

 彼女が窓から言いかけるが、ラムールは、口の前に指を立てて静止した。
 そして手招きして、マシェリーを呼んでいる。

 仕方がなく、少しの迷いを残しながらも、雑巾を置いて部屋を飛び出した。

 廊下を走っている間、少しばかり胸の辺りが高揚していたのに、彼女自身は気づいていないようであるが。


 ラムールは、小走りで向かってきた彼女を見ると、にこやかな笑顔で出迎えた。

「すまない、疲れたろう?」
「いいえ。それよりも、どうしてこんなところに…」

 彼女が息を弾ませて訪ねると、ラムールは楽しそうに答えた。

「門番が通らせてくれなかったからさ! 私が名乗ると、途端に、いっぱしの兵士のような誇った顔をして、追い返してくるんだよ。おかしいだろう? 彼ら、私が来るまではとても眠そうにしていたのに!」
「だ、だからって、他のところから入ったのですか?」

 心底驚いたように彼女が言うが、ラムールはさも当然かのように平然と頷いた。

「そりゃあ、私だって黙って帰ってしまっては、主人に怒られてしまうからね。…ほら、君もこっちに隠れて」

 誰かの足音が聞こえてくるとともに、彼はそう言って、花壇の影にマシェリーを引き込んだ。

 丁度、庭を警備員の男が、巡回してきたところであった。警備員は花壇の前を素通りした後、何事もなく立ち去って行く。

「…しかし、なんとも厳重な警備だね」
「当然ですわ。伯爵という高い地位にいるのですから」
「やっぱり、こうも違うものなんだなあ」

 ラムールは庭を見渡すと、どこか遠い目をして呟いた。

 しかし、すぐにマシェリーに目を向けて、いつもの笑顔で言う。

「しかし、私は幸運だったよ。君が偶然にも、庭が見える窓を掃除していたのだからね。もしも君がいなかったら、私はこんな草だらけのところで、途方に暮れるところだった!」

 危険な行為にも関わらず、その言い方は、危険とは思わせないほど楽しそうだ。

 楽観的、とはまた違う。何か特別な喜びを得ているようであった。

 その雰囲気に釣られて、彼女も頬を緩ませた。

「それは分かりましたわ。それで、そんな危険を冒してまで、どういったご用件でしたの?」
「ああ! 忘れていたよ。これを届けに来たんだ」

 そう言ってラムールが懐から取り出したのは、見慣れた赤い狼の紋章の付いた封筒だった。

 彼女が首をかしげる。

「どうして貴方が?」

 ラムールは少し言いづらそうに眼をそらした後、静かに言った。

「じつは、配達の者は解雇されたんだ。ほら、送った手紙が届いていなかったから」
「え、いや、それは…」

 彼女は躊躇いがちに言いかけるが、ラムールの言葉が遮る。

「だから、私は主人に命ぜられて、届けに来たというわけさ」
「そうなのですか…」

 彼女は自責の念に駆られた。自分の嘘のせいで職を失った人がいたとは、とても申し訳がないことをしてしまったと、後悔していた。

 うつむく彼女に、「君のせいじゃないよ」と、ラムールは小さく言う。

 ラムールは彼女に封筒を手渡すと、その手に、もう一つの物を添えた。

 一輪の赤いカーネーションである。

 以前のものと同じように赤いリボンが結ばれており、眩しくなるような赤色を誇って咲いていた。

「これも一緒に、渡してくれるかな」
「…でも」
「もし受け取られなかったとしても。…主人の想いは無下にしたくないんだ」

 ラムールに真剣に言われ、マシェリーは、ためらいながらも頷いた。

「ありがとう」

 ラムールは彼女の目を見て微笑む。

 その一言を残して、彼は目にも留まらぬ速さで柵を飛び越えては、屋敷から立ち去って行った。


 彼女の手の中で、赤い色を誇ったカーネーションが燃えている。
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