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「じゃ、行ってくるわ」
「はい…行ってらっしゃいませ」
夫人が馬車に乗り込むころには、古い傘が折れてしまいそうなほどに雨を受け、ところどころ破れたところからは、雫が伝っている。
馬車の扉を閉めようと、夫人がふとこちらを見やると、不意に噴き出して、クスクスと笑い始めた。
「やあねえ、まるで濡れネズミよ。お似合いだわ」
上機嫌に嘲笑した夫人は、ゆっくりと馬車の扉を閉め、発進するように、御者に言いつけた。
馬のいななきと共に進んでいく馬車を、見るともなく見つめている。
暗い気持ちが渦巻いて、急に何だか泣きたくなって仕方がなかった。
もう傘をさすのも億劫になってしまい、ボロボロになったそれを勢いよく投げ捨てた。
冷たい雫を全身に受けて、うつむいて下を向いた鼻先からぽたぽたと垂れる。
服が濡れることも、今は気にならなかった。ただ、今は。
(寒い…)
すると不意に、服の隅を引っ張られた。
「ねえ、そんなところにいては、風邪を引いてしまうよ」
聞き慣れた声。急に胸が押し付けられて、呼吸さえもままならない程に苦しい。
振り返って、恐る恐る顔をあげると、外套をまとったラムールがそこにいた。
だが、彼女の表情を見ると、ハッとして、思いつめた顔になる。
「どうしたんだい、そんな悲しい顔をして…」
「…こんなところにいては、警備員に見つかってしまいますわ」
彼女は自らの顔を隠すようにうつむいて言った。
「そんなことはどうだっていいんだよ。ああ、こんなに濡れて…。ほら、雨をしのげるところに行こう」
彼は羽織っていた外套を脱ぐと、彼女に覆いかぶせる。
そして彼は虚ろな目をするマシェリーの手を引いて屋根のある扉の前まで進んだ。
ラムールは彼女の服に着いた露を払い、自分の青いハンカチで軽く撫でる。
光をたたえない彼女を見て、眉をひそめた。
「…なにかあったのかい?」
「……」
しかし彼女は何も言わず、うつむいているばかりだ。
「話したくない事なのかい?」
「…大丈夫ですわ。少し、元気がないだけで…。お手紙は受け取りますから、今日のところはお帰りください」
口角をあげて見せるが、その表情は明らかに無理をしていることがうかがえた。
「いや、帰れるわけがないよ」
「本当に大丈夫ですから…」
彼女はラムールを弱弱しく押しのける。しかし、彼にはマシェリーを見捨てて帰ることなどできるはずがなかった。
「マシェリー、聞いて」
ラムールは彼女の肩に手を当てて、少しかがんで、彼女に視点を合わせるようにして言った。
「今、もしも僕が君を置いて帰ってしまったら、きっと僕は後悔する。絶対にね。僕はもう後悔したくない。何も話したくないなら、話さなくていいから。…そばにいさせてくれないかい?」
聞いたこともないような優しい声色で言われ、マシェリーの瞳が揺れ動く。そして唇を噛んで、小さくうなずいた。
土砂降りの雨は辺りを静め、人も少なく、太陽ですらも目を向けていない。
まるで世界に二人しかいないかのような錯覚を呼んで、雨音だけが時間に呼応するように鳴っていた。
小さな屋根の下、マシェリーの隣で、ラムールはただ、隣で黙って立っている。
二人が目を合わせることもない。しかし、ずっと隣にいる。
しかしそれが、さらにマシェリーの胸を優しく締め付けるのだった。
「……ラムール様は、仕事仲間に命令されたことはありますか」
耐えかねたように、彼女は言った。
「嘲笑されて、本当の名前で呼ばれずに、粗雑に扱われたことはありますか」
彼女の声が震える。
しかし、ラムールはあえて、ただそこに立っているだけにとどめておいた。
彼は、今、自らの心のままに動いてしまってはいけないということが分かっていたのである。
それをしては、彼女が迷惑をするかもしれない。そのことが彼の内面に前提として存在していた。
それゆえに、ギュウと拳を握って、その隣に並んでいることを選んだのである。
「…ないよ」
ラムールは静かに答えた。
彼女はうつむいて、息を詰まらせている。
「…私は、自分が大嫌いです。何にもできない。鈍くさい。もしも私が強かったなら。…貴方のようになれたなら」
「……」
「私は、私以外の誰かになりたいんです。…私には何もできやしないから」
そんなことない、なんて無責任な言葉は、言えなかった。
「…もしもその願いが叶うなら、僕もそう願いたいね」
「…え」
マシェリーは、ラムールの悲し気な感情を含めた声に、思わず顔を上げた。
「僕は器用でいるように教えられているから、なんでもできるように見える。僕はお屋敷の給仕長だから、大事な晩餐で楽しませるためにね。でも、僕は大事な時に限って、何もできなくなるんだ。おかしいよね」
彼は苦笑した。
「本当に守りたい物を守れない。今だって、僕は君の横に立っていることしかできない」
「……」
「きっと、僕には君の気持ちが分からないだろう。でも僕は、君が君でいてほしいと思うよ」
これはただの、僕の勝手な願いなんだけどね。そう言って笑う。
「私が、私のままでいていいのですか?」
「もちろんさ! 僕が今こうして話しているのは、正真正銘、君なのだから」
その言葉に、彼女は小さく微笑んだ。
依然として雨は止まない。彼女たちの周りを、静寂が囲っていた。
「はい…行ってらっしゃいませ」
夫人が馬車に乗り込むころには、古い傘が折れてしまいそうなほどに雨を受け、ところどころ破れたところからは、雫が伝っている。
馬車の扉を閉めようと、夫人がふとこちらを見やると、不意に噴き出して、クスクスと笑い始めた。
「やあねえ、まるで濡れネズミよ。お似合いだわ」
上機嫌に嘲笑した夫人は、ゆっくりと馬車の扉を閉め、発進するように、御者に言いつけた。
馬のいななきと共に進んでいく馬車を、見るともなく見つめている。
暗い気持ちが渦巻いて、急に何だか泣きたくなって仕方がなかった。
もう傘をさすのも億劫になってしまい、ボロボロになったそれを勢いよく投げ捨てた。
冷たい雫を全身に受けて、うつむいて下を向いた鼻先からぽたぽたと垂れる。
服が濡れることも、今は気にならなかった。ただ、今は。
(寒い…)
すると不意に、服の隅を引っ張られた。
「ねえ、そんなところにいては、風邪を引いてしまうよ」
聞き慣れた声。急に胸が押し付けられて、呼吸さえもままならない程に苦しい。
振り返って、恐る恐る顔をあげると、外套をまとったラムールがそこにいた。
だが、彼女の表情を見ると、ハッとして、思いつめた顔になる。
「どうしたんだい、そんな悲しい顔をして…」
「…こんなところにいては、警備員に見つかってしまいますわ」
彼女は自らの顔を隠すようにうつむいて言った。
「そんなことはどうだっていいんだよ。ああ、こんなに濡れて…。ほら、雨をしのげるところに行こう」
彼は羽織っていた外套を脱ぐと、彼女に覆いかぶせる。
そして彼は虚ろな目をするマシェリーの手を引いて屋根のある扉の前まで進んだ。
ラムールは彼女の服に着いた露を払い、自分の青いハンカチで軽く撫でる。
光をたたえない彼女を見て、眉をひそめた。
「…なにかあったのかい?」
「……」
しかし彼女は何も言わず、うつむいているばかりだ。
「話したくない事なのかい?」
「…大丈夫ですわ。少し、元気がないだけで…。お手紙は受け取りますから、今日のところはお帰りください」
口角をあげて見せるが、その表情は明らかに無理をしていることがうかがえた。
「いや、帰れるわけがないよ」
「本当に大丈夫ですから…」
彼女はラムールを弱弱しく押しのける。しかし、彼にはマシェリーを見捨てて帰ることなどできるはずがなかった。
「マシェリー、聞いて」
ラムールは彼女の肩に手を当てて、少しかがんで、彼女に視点を合わせるようにして言った。
「今、もしも僕が君を置いて帰ってしまったら、きっと僕は後悔する。絶対にね。僕はもう後悔したくない。何も話したくないなら、話さなくていいから。…そばにいさせてくれないかい?」
聞いたこともないような優しい声色で言われ、マシェリーの瞳が揺れ動く。そして唇を噛んで、小さくうなずいた。
土砂降りの雨は辺りを静め、人も少なく、太陽ですらも目を向けていない。
まるで世界に二人しかいないかのような錯覚を呼んで、雨音だけが時間に呼応するように鳴っていた。
小さな屋根の下、マシェリーの隣で、ラムールはただ、隣で黙って立っている。
二人が目を合わせることもない。しかし、ずっと隣にいる。
しかしそれが、さらにマシェリーの胸を優しく締め付けるのだった。
「……ラムール様は、仕事仲間に命令されたことはありますか」
耐えかねたように、彼女は言った。
「嘲笑されて、本当の名前で呼ばれずに、粗雑に扱われたことはありますか」
彼女の声が震える。
しかし、ラムールはあえて、ただそこに立っているだけにとどめておいた。
彼は、今、自らの心のままに動いてしまってはいけないということが分かっていたのである。
それをしては、彼女が迷惑をするかもしれない。そのことが彼の内面に前提として存在していた。
それゆえに、ギュウと拳を握って、その隣に並んでいることを選んだのである。
「…ないよ」
ラムールは静かに答えた。
彼女はうつむいて、息を詰まらせている。
「…私は、自分が大嫌いです。何にもできない。鈍くさい。もしも私が強かったなら。…貴方のようになれたなら」
「……」
「私は、私以外の誰かになりたいんです。…私には何もできやしないから」
そんなことない、なんて無責任な言葉は、言えなかった。
「…もしもその願いが叶うなら、僕もそう願いたいね」
「…え」
マシェリーは、ラムールの悲し気な感情を含めた声に、思わず顔を上げた。
「僕は器用でいるように教えられているから、なんでもできるように見える。僕はお屋敷の給仕長だから、大事な晩餐で楽しませるためにね。でも、僕は大事な時に限って、何もできなくなるんだ。おかしいよね」
彼は苦笑した。
「本当に守りたい物を守れない。今だって、僕は君の横に立っていることしかできない」
「……」
「きっと、僕には君の気持ちが分からないだろう。でも僕は、君が君でいてほしいと思うよ」
これはただの、僕の勝手な願いなんだけどね。そう言って笑う。
「私が、私のままでいていいのですか?」
「もちろんさ! 僕が今こうして話しているのは、正真正銘、君なのだから」
その言葉に、彼女は小さく微笑んだ。
依然として雨は止まない。彼女たちの周りを、静寂が囲っていた。
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