エージェント・サイファー

黒陽 光

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Execute.02:巴里より愛を込めて -From Paris with Love-

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 愛の都、パリ。しめやかな雨が降りしきる早朝の街の中を、ノエルがコクピット・シートでステアリングを握るプジョー・308GTiが路面の雨水を弾きながら、ゆっくりとした速度で走っていた。
 空を天蓋のように覆い尽くすのは、暗く分厚い雨雲の絨毯。そんな雨雲から落ちてくる雨粒が、プジョーの蒼いルーフとフロントガラスを激しく打ち付ける。キコキコとワイパーが忙しなく動く中、時折ギアチェンジの音も混ざり。カーステレオから静かな音楽が流れる中、零士とノエルの二人はシャルル・ド・ゴール空港を出てから暫くの間、無言だった。話す切っ掛けが互いに掴めなかったといえば、そうなのかもしれない。
 プジョーのカーステレオから流れるのは「Shape of My Heart」。英国出身のミュージシャン・スティングの名曲で、米仏合作の名作映画「レオン」の主題歌でもあった、そんな静かで何処か切ないメロディだった。
「……レオンか」
「好きなんだ、あの映画」と、ノエル。「何だか、綺麗だけど切なくてね。独特で、好きなんだ」
「俺も、リュック・ベッソンの作品は好きだ。メガホンを取った奴も、そうでない奴も」
「へぇ、レイも結構分かるクチなんだ」
 話の切っ掛けが出来たからなのか、少しだけ嬉しげにはにかみながら言うノエルに、零士は「意外だったか?」と返す。するとノエルは「うん」と彼の方をチラリと横目で見て頷き、
「第一印象だと、そういうタイプには見えなかったから」
 一瞬だけ横目を向けてきた、そのアイオライトのような瞳の奥で、ほんの少しだけ微笑み。そうすればクラッチを切り、右手を走らせまたギアを切り替える。
「レイはさ、他にどんなのが好き?」
「……監督じゃあないが、リュック・ベッソンなら「トランスポーター」かな」
「じゃあ、その中だと、どれ?」
「強いて言うなら……俺は2だな」零士が言う。ノエルが「へぇ、僕もだよ」と、また横顔で微笑んで同意した。
「何だか、僕たちって気が合いそうだね」
 笑みを絶やさぬノエルの横顔を、零士もまたサイドシートから横目に見て。そんな彼女の楽しげな表情を眺めていれば、何だかこっちまで楽しくなってきてしまっていた。
 とまあ、こんな些細なことを切っ掛けにして。今まで延々と無言のままだった二人の間に、やっとこさ言葉のやり取りが交わされ始めた。
「……そういえば、訊いていなかったが」
「ん?」
「ノエル、歳は幾つだ?」
「んー、とりあえずは一六」と、ノエルが言う。「もうあと何ヶ月かで、一七になるけれどね」
「ってことは、俺と殆ど同じか」
 少し、意外だった。最初に出逢った時から、ノエルは何となく大人びたような雰囲気だったから、変な話一つか二つは上かなと零士は勘ぐっていたのだが。そんなノエルが同い年と聞いて、零士は少しだけ驚いていた。
「君も、僕と同い年なんだ」
 そうすれば、彼女の方もまた零士が同じ歳だったのが意外だったのか、やはり視線は殆どこちらに向けないままでそんなことを口走る。
「何だか、君を見ているとそうは見えないけれどね。少し、信じられないような気もする」
「悪かったな」と、零士。「自慢じゃないが、俺は老け顔だって評判なんだ」
「色々と、苦労が多かったんだね」
「否定はしないさ、言ってしまえばその通りだからな」
 本当に、ノエルの言う通りだ。この歳じゃあ経験しない、いや普通の人間なら永遠にするはずのないような肉体的、或いは精神的な苦労を負いすぎているのだ。零士も自覚はありすぎるほどあるし、老け顔になってしまったのも納得している。何せ小雪曰く「制服着てないと、同い年に見えないよ」だそうだから。外見年齢はおおよそ二十代前半ぐらいだと、前にシャーリィからも冗談交じりに言われた覚えがある。
「面白いね、レイって」
 零士が疲れ気味に肯定してみせた後、またノエルはクスッとおかしそうに笑う。それに零士は参った顔で「面白がられても困る」と辟易した風に返せば、
「……パリは、長いのか?」
 と、話題を切り替えるように、また別の話をノエルに振った。
「まあね。一応、僕は此処の生まれだから。でもさっき言った通り、最近まではフランスの外に離れてて、少し前にこっちに戻ってきたばっかりなんだ」
「そうか、そうだったな」
「レイは、日本の出身だっけ?」
 まあな、と零士が頷き、ノエルの問いかけを肯定する。それを聞いたノエルはまた嬉しそうに小さく微笑んで、言葉を続けた。
「僕もね、日本には何度か行ったことがあるよ。といっても、SIAの関係でだけれどね。何てたって僕は、君も知ってるシャーリィ……シャーロット・グリフィス。あの人に拾われたんだ」
「アイツが、か……」
 ――――それで、付けるコードネームもミラージュなら。本当に、シャーリィは意地が悪い。
 今は遠く離れてしまったシャーリィと、そして昔懐かしいもう一人の誰かの顔とを交互に思い出し。そして嘗てのことに、昔のことに想いを馳せれば、零士は知らず知らずの間に少しだけ表情を曇らせてしまう。自分でも、自覚のないままに。
 本当に、意地の悪いことをする。シャーリィのことだから、まず間違いなく意図的な采配だろう。でなければ、彼女に……ノエル・アジャーニに"ミラージュ"なんてコードネームをわざわざ選ぶような真似、するはずがない。一体全体どういうつもりかは知らないが、今更になって過去の傷跡をほじくり返すような真似は、出来ることならば勘弁して貰いたかった。尤も、それも今となっては叶わぬ願いなのだが……。
「…………」
 そんな思考が頭の中を巡り巡る、無意識の内に表情を曇らせている零士のそんな横顔を、チラリと横目で見たノエルは彼の内心を機敏に感じ取り。そうすれば自分もまた小さく俯いた後、ポツリ、と彼に向かってこんなことを言っていた。
「……レイはさ、雨って好き?」
「雨、か」
 その言葉で、ハッと我に返った零士が、しかし表情をまだ少しだけ曇らせたままで、ノエルの言葉を反芻するように呟く。
「別に、これといってどうこう思ったことはない。好きでもないし、かといって嫌いでもない」
 言った後、零士は「ただ」と間に言葉を置き、更に続ける。
「……ただ、嫌な思い出は多い。ロクでもないことが起きるのは、決まってこんな雨の日ばかりだ」
 そう、あの夜も。彼女を喪ったあの夜も、腕の中で彼女の生命いのちが消えていったあの日の夜も、確かこんな雨だった――――。
「嫌な思い出、か……」
「ジンクスじゃないが、さ」
 隣のノエルに向かってそう言うと、零士は小さな溜息とともにシートの背もたれに深く背中を預けさせた。ヘッドレストに預けた頭が、ひどく重く感じる。
「そっか、そうなんだね」
 そんな零士の言葉を受けて、ノエルは軽く瞳を伏せながらで頷くと。その後にこう続けた。
「僕は好きだよ、雨って」
「……折角だ、理由を訊いても?」
 頭の後ろ、ヘッドレストとの間に組んだ両手を枕にするようにしながら零士が言うと、「うん」と頷いたノエルはステアリングを握ったまま、プジョーを走らせながらで話し始める。
「僕もね、昔は雨って嫌いだった。ジメジメっとしてると、何だか気分が沈んじゃうような気がしてたし。それに外にも遊びに行けないから、子供の頃は雨って、あんまり好きじゃなかったな」
 ノエルは「それに」と、何処か湿っぽいような、しかし達観したような、そんな哀しい表情で言葉を続けて。
「……レイと同じで、僕にも雨の日には、嫌な思い出がある」
 その言葉に答える術を、零士は持ち合わせていなかった。いや、敢えて言葉を返そうとはしなかった。深く掘り返すことを、瞳の奥に垣間見えたノエル自身の心が、ひどく拒絶しているようにも見えてしまったせいで。
「でも、最近は好きになれてきたんだ。雨の音を聴いていると、何だか心が落ち着いてくる」
 その後でノエルは「それにね」とまた続け、
「…………こうして、レイ。君に出逢えたのだって、こんな雨の中だから」
 嬉しそうに、彼女は言った。一瞬だけ零士の方に向けた顔に、嘘偽りのない、そんな柔らかな微笑みを浮かべながら。
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