エージェント・サイファー

黒陽 光

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Execute.04:陰謀、そんなものは関係ない -Secret Intelligence Agency-

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 零士が受け取った資料を捲り、椅子をすぐ傍らにまで近づけてきたノエルが、それを一緒になって覗き込む。シャーリィがぼうっとしながら無言で煙草を吹かし、待っている間、二人はやはり言葉を紡がぬままでその資料に眼を通していた。
 ――――『サイプレス』。日本人科学者・芙蓉誠一が都内の城南大学に教授職として在籍中に完成させた、史上類を見ない性質を持つ新型の殺人ウィルスの名だ。
 その『サイプレス』が持つ最も特異な性質は、殺害対象に一定の指向性を持つこと。即ち既存のBC兵器、即ち生物・化学兵器と異なり、散布地域の人間を丸ごと無差別に殺傷するのでなく。ある特定の人物のみを殺害することが可能ということだ。
 これは、兵器としては極めて優れた性質でもある。通常、BC兵器を用いればその被害の甚大さや人道観念から、往々にして世界的な非難を浴びかねない。破れかぶれのテロ・グループならまだしも、スマートな暗殺に用いるのなら、脅しや見せしめの域を出ないだろう。
 だが、この『サイプレス』は違う。散布したところである特定の一人にのみ致命傷を与え、他の大多数の人間には無害という奇々怪々な性質を持っているのだ。言ってしまえば、通常の毒殺と変わらない。変わらないが、しかし実行の容易さと手軽さで言えば、従来の毒殺手法とは比べものにならない。
 つまり、兵器として最も有用なウィルスなのだ。派手さや見せしめを求めたがる第三世界のテロ・グループに対する受けは悪いだろうが、国家規模やフリーの暗殺用途としては凄まじいシェアが狙える。それこそ、世界の暗殺事情を塗り替えるほどだ。変な話、合衆国大統領を大多数の衆目の中、演説中に……なんてことだって、あまりに容易に行えてしまう。
 兵器としてはあまりにも完成度が高すぎる。それ故に、この『サイプレス』を求める声は多いのだろう。もしこの『サイプレス』のシェアを独占できれば、生み出す利益は天文学的な数値になる。それこそ、比喩抜きで青天井だ。東や西、先進国に発展途上国、中小の弱小国家にだって商機は狙える。恐らくリシアンサス・インターナショナル社、及び社長ケネス・ボートマンが芙蓉博士を囲い入れたのは、それが目的だろう。
 脅威というより、最早危機に近い。ただ一つだけ救われることがあるとすれば、この『サイプレス』が未完成、実験中の領域を得ないことだ。
 だが、もしこれが、この指向性ウィルス兵器『サイプレス』が完成し、あまつさえ世界市場に流通などしてしまえば。世界中でどのような混乱が起こり得るかなど、想像に難くない。……いや、途方もなさすぎて想像が追いつかないほどだ。変な言い方ではあるが、SIAは間違いなく廃業に追い込まれてしまう。
 恐ろしい生物兵器だ、と零士は元より、横から資料を覗き見ていたノエルですら思い、戦慄し。互いに整ったその顔に、ひどく渋いような表情を浮かべていた。
 それと同時に、義憤にすら駆られる。このウィルス兵器に、『サイプレス』に日の目が当たることは絶対に阻まねばならないと。これの完成はなんとしてでも阻止せねばならないと。そして、この『サイプレス』の存在自体を、世界の記憶から完全に消し去ってしまわねばならないと…………。
 世界の命運を賭けた戦いになる。ならば、コードネーム・サイファー、そしてミラージュを駆り出す選択はベストかもしれない。世界の裏で暗躍する秘密組織・SIAの中でも最強と名高いサイファーにならば、今回だって任務の遂行は可能なはずだ。椿零士とノエル・アジャーニ、この二人を置いて最適な人材など、少なくともシャーリィは、他にそんな人物に思い当たる節などなかった。
 だからこそ、この任務を二人に託した。困難な戦いになることを承知の上で、それでも二人ならば可能だと確信し。二人の実力を信じた上で、上級担当官シャーロット・グリフィスは己の責任の上で、二人をこの任務に差し向けることを承諾したのだ。
(二人なら、出来るはずだ)
 サイファーとミラージュ、椿零士とノエル・アジャーニ。二人ならば必ず成し遂げられると信じ、シャーリィは敢えて言葉を発さぬまま、ただただ独り煙草を吹かし続けていた。細める双眸で、二人を少しだけ遠巻きに眺めながら。
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